第12話 「雨の降る日/部誌のゆく先」1
□ 文村冬湖
私にとって、「知る」という行為にはいつも、「怖れ」に似た感情が付きまとっていた。「知る」ことは「変わる」こと。「変わる」のは「自分」。この世界の見方が変わってしまうなら、どうしたって変わらずにはいられない。自分自身ですらあてにならない。今日大切なものが明日にはそうでなくなる。そんな可能性が存在するだけで、私は怖かった。できるなら、知りたくない。でも、知らないままいることはできない。時間が流れていくから。時間が流れることは、知ってしまうことだから。
ずっと。ずっと姉さんが私の手を引いていってくれればいいのに。色んなものが姉さんの手を経て私の中へと入ってくるなら、私はそれを受け入れられる。姉さんは私に与えられた「必然」だから。姉さんの紡ぐ運命が私の世界の全てだから。
だから、私は願っていた。姉さんが変わらず私のそばにいてくれることを。
朝起きると、さらさらと雨の音がしていた。カーテンを開けると、雨を降らせる灰色の雲が目に入った。家々の屋根の色がにじんで、遠くに見える一棟のマンションが雨の中にぼんやりと立っている。そんな光景を見ながら、私は昨日の夜のことを思い出していた。
昨日、家に帰ってから、私は姉さんに部誌を見せるタイミングをうかがっていた。でも、姉さんが帰ってきたときも、夕飯のときも、なんとなく踏ん切りがつかなくて言い出せなかった。
夕飯のあと、いったん部屋に戻って部屋の中をうろうろした。部誌を両手に持って見てみる。「詩と物語」という題字、その下にはひなた先輩が書いた私たち5人の似顔絵があった。それを見ていると、今更ながら気恥ずかしくなってくる。でも、このまま、見せないまま明日になってしまうのは嫌だった。
意を決して階下へと下り、居間へと行くと、姉さんはテーブルで家計簿をつけていた。広げられた家計簿のまわりには、食費、雑費、光熱費などと書かれた封筒が置いてあって、その封筒の口からはお札が見えていた。それを見て、私はなんだか気後れを感じた。
「どうしたの? とーこ?」
「ん……なんでもない」
部誌を後ろ手に隠して、私はそう答えた。
私はお金のことはほとんど何も知らなかった。姉さんからお小遣いとしてもらったものを使うだけ。足りなくなったら、またおねだりするだけ。それ以外のことは何も知らなくて、知らなくても別に困ったりなんてしなかった。
でも、姉さんは違った。時々、こんなふうにお金の計算をしていた。お父さんのお給料と自分のバイト代をやりくりして、毎日ご飯を作ってくれて、私の欲しいものを買ってきてくれる。おしゃれな柄の食器や、氷を入れるとからからと涼しい音の鳴るコップを買ってきてくれる。気分が変わるからと新しいカーペットを買ってきてくれる。
「とーこ。しあわせになるにはね、お金のことをちゃんとするのも、大切なことなんだよ」
姉さんはそう言っていた。姉さんはもう大人で、姉さんは私をしあわせにする。だから、そんな姉さんの前に、私は自分の書いた短い詩をひどくたよりないものに感じるんだと思った。
「とーこ? 後ろに何を持ってるの?」
姉さんにそう言われて、私はそれをゆっくりと体の前に回して表紙を見せた。
「あっ、部誌? できたんだ!?」
「うん」
「見せて!」
微笑んで、姉さんが両手を伸ばす。
「……うん」
部誌を姉さんに手渡す。すぐに開こうとする姉さんの手を押しとどめて、
「あとで、読んで」
私はそれだけ言って、また二階の自分の部屋に戻った。
「しあわせになるにはお金のことも大切」
姉さんがそう言ったとき、こうも言っていた。
「とーこもいつかお嫁さんになるんだから、家計簿の付け方を覚えておくといいと思うよ。いつでも言ってね。教えてあげるから」
お嫁さん。私には自分がそういうものになっているところを想像できなかった。結婚も恋愛も、いつも私の外側にあった。結婚はお父さんとお母さんがしたもの。恋愛は他の人がするもの。だから、私には関係がないと思っていた。でも……。
今、姉さんにはお付き合いをしている人がいる。相手の名前を遠山さんと言った。
姉さんと遠山さんがどこでどんなふうにして出会って、それからどんな経緯を経てお付き合いするようになったのか、私は知らない。ただ、姉さんの友達の千佳さんが、二人が付き合い始めたことをこっそりと教えてくれた。そのとき千佳さんは携帯電話で何か操作をして、それから画面を私の方に向けた。そこにはあわててカメラの方に手をのばそうとする姉さんと、その後ろで、きょとんとしている男の人が写っていた。
「こっちが遠山くんね」
その人を指差して、千佳さんはそう言った。
遠山さんと付き合いだしてからも、姉さんはそのことを私に言わなかった。テレビのドラマでは、付き合ってる二人は抱き合ったり、キスしたりすることになっていた。私には、姉さんが誰かとそんなことをしているところを想像することができなかった。でも、ふとした瞬間の放心や、思い出し笑い、台所に立っているときのしあわせそうな笑みの浮かぶ口もとを見て、誰かが少しずつ、姉さんを変えていってることに気付かずにはいられなかった。
そして、私が初めて遠山さんに会ったのは、二人が付き合いだして半年くらいしてからだった。私の家の前で姉さんと写真の男の人が話していた。話している内容までは聞こえなかった。でも、私に向けたものではない姉さんの笑顔が目の内に残った。私はとっさに曲がり角に身を隠そうとしたけれど、男の人のほうが私に気づいて、続いて姉さんも私に気づいた。いまさらどうにもできなくて、私は二人の方へと歩いた。男の人のほうがひざを折って、私より目線を低くして自己紹介をしたように思う。そのとき私は、自分がどんな態度をとったのか、よく覚えていない。
「あの人がお姉ちゃんの彼氏なの?」
その人が帰って二人きりになったあと、私は姉さんにそう聞いた。
「うん、そう。隠しててごめんね」
姉さんはそう答えた。そしてそれからは、私に対して前よりもっとやさしくなってくれた。私にはそれがうれしかった。
一度だけ、姉さんが私のそばにいてくれなくなるかもしれないという不安にかられたことがある。それは姉さんが「A大に進学したい」と言ったときだった。A大は隣の県にある有名な大学だった。お父さんは自分の母校だからと姉さんの希望を喜んだ。私も喜びたかった。でも、「姉さんならそこに受かってしまうかもしれない」と思ってしまった。姉さんが私を置いていってしまうはずがない。行かないでほしい。そう思ったけれど、それはただのわがままで、姉さんを困らせてしまうだけだと思うと、何も言えなかった。
でも、受験の3ヶ月前になって、姉さんは突然、志望校を変更した。新しい志望校は地元の国立大学と短大だった。そして結局、姉さんはどちらにも受かって、国立大学のほうへ行くことになった。そのとき、私はとてもうれしかった。気付いてくれたんだと思った。私がまだ姉さんを必要としていることに。だから姉さんは私のそばにいてくれるんだと思った。
そのときは、はっきりとその感情を意識していなかった。でも、後で千佳さんと智子さんから、遠山さんがA大に行くことになったと聞いたとき、私のうれしい気持ちの中に不安が混じった。少し怖くなった。何か取り返しのつかないことが起こったような気がした。私という存在が、姉さんに何かとても大切なものをあきらめさせてしまったような気がした。
でも、私はそんな気持ちをすぐに打ち消した。私は姉さんの家族。私は姉さんの妹。私の体は姉さんと同じ血と肉で出来ている。姉さんだって一番大切なのは私。だから気にすることなんて何もない。逆の立場だったら、私は必ず姉さんを選ぶ。そう考えたら、とても気が楽になった。そして、それきり、私はそのことを考えようとしなかった。
ふと我に返った。雨に細かくふるえる庭木の葉が目に入った。窓を閉めているから、雨の音は少しくぐもって聞こえている。そんな薄暗い部屋の中で、私には一つの結論だけが残った。
『姉さんは私を選んだ』
私には、それで十分だった。
私が階下に下りると、姉さんは台所にいた。朝ごはんのいいにおいがする。キッチンカウンターごしに私を見て、姉さんはにっこり笑った。
「読んだよ」
おはようの代わりに姉さんはそう言った。そして私のことをいっぱい褒めてくれた。




