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新百合ヶ丘高校文芸部☆  作者: m8eht
はじめての物語編
38/67

第11話 「はじめての物語」3

 「水の庭」 宮守美夜子


 その村にはこんな言い伝えがありました。

 山のふもとに広がる森の中には湖があって、そこに住む水の精は、訪れた人を水の底へと連れ去っていくというのです。

 どうしてこんな言い伝えが出来たのか、この言い伝えはいつからあるのか、それを知っている人は、もう誰もいませんでした。


 少女は走っていました。悔しくて悲しくて走っていました。

 誰にも見せられない心を抱いて走っていました。

 道が途切れて暗い森の中に迷い込んでも、少女は足を止めません。

 はやく誰も居ない場所に行きたかったのです。

 零れる涙を腕でぬぐいながら歩いて、暗い森の奥へ奥へと進みました。

 もう帰れなくなってもいいと思っていました。

 どうしてそんなことを思ったのでしょう?

 それは少女自身にもわかりませんでした。

 ふいに目の前が開けました。

 そこには大きな湖がありました。

 湖のほとりの倒れた老木に腰掛けて少女は一人で泣きました。

 そうして、どのくらい時間が経ったでしょう?


 ひたり。

 誰かの足音に、少女ははっと顔をあげました。目の前に知らない女の子が立っていました。

 水面に映るお日様のような金色の瞳が少女を見ています。

 この湖に住む、水の精でした。

「あなたは、だあれ?」

「私はこの湖に住んでいる者ですよ。ようこそ、私の庭へ」

 水の精が両手を広げて微笑めば、その後ろには風にさざめく湖が広がっていました。

 月の光を溶かし込んだかのような銀色の髪が風になびいて、水のように透き通った白い肌がひどく寒そうに見えました。

 少女は、湖に住んでるなんて何か変とは思いましたが、初対面の相手にそれを言うのは失礼だと思って口をつぐみました。

「私もそこに座ってよいですか?」

「え、ええ、もちろん」

 二人は倒れた老木の上に並んで座りました。

 お互いに何も話さないまま、時間が過ぎていきます。少女は何を話せばいいのか分からなかったからですし、水の精は足をぱたぱたとさせて、まるでとなりに誰かがいることがうれしいみたいでした。

「あ、あの!」

「なんでしょうか?」

「か、変わった瞳の色ね?」

「そうでしょうか?」

 水の精が目をぱちくりさせると、瞳の金色がゆらめきます。湖のさざなみに揺れるお日様のように。


 会話が途切れて、二人は流れる雲を見ていました。その雲はいつしか赤く染まって、もう夕方でした。

 少女が振り返ってみると、暗い森がシンとたたずんでいます。

「大丈夫ですよ」

 水の精が笑いました。

「まっすぐお帰りなさい。きっと森を抜けられるはすですから」

「また、会いにきていい?」

「いいですよ、もちろん!」


 まっすぐ歩いて、少女は森を抜けることができました。

 自分の部屋に戻って少女は考えました。あの不思議な女の子のこと。

 目をつむると金色の瞳が自分を見つめているような気がしたのです。

「また、会いにいくよ」

 少女はそう声に出してつぶやきました。


 少女の家は貴族でした。そしてお金持ちでした。この緑あふれる領地に建つお屋敷に少女は召使いたちと一緒に住んでいたのです。

 でも、少女は一人ぼっちでした。少女の両親は王様の都に住んでいて、年に何度も帰ってきません。少女はずっとお留守番をしていたのです。

 少女が水の精と出会った日。それは彼女の誕生日でした。

 でも、両親からは何の便りもありませんでした。

 召使い達が懸命に彼女をなぐさめようとしましたが、だめでした。彼女は泣きながら家を飛び出していってしまったのです。

 だから彼女が無事に帰ってきて、召使い達はとても安心しました。


 次の日の朝。

 窓の向こう側には、晴れ渡った空が広がっていました。

「今日も、会いに行こう」

 少女は思いました。お出かけの支度をして、森へと向かいます。


 森の中へ入ると、木漏れ日がまるで道のように続いていました。足元の草をくしゃくしゃと踏んで、少女は歩きました。

 鳥の鳴く声も聞こえます。ぴぃぴぃというその細い声は、森の静けさの中にゆっくりと消えてゆくようでした。

 そして目の前が開けて、昨日と同じ湖があらわれました。


 さっと水気をふくんだ風が吹き抜けて、少女から、一瞬視界を奪いました。

「ほんとうに、また来てくれたんですね」

 声がして、それは水の精でした。

 青空の下に、きらきらと銀の髪が揺れています。

 金色の目が、少女のことを見つめています。

 水の精が手を伸ばしました。少女はそれに導かれるようにして、水の精のところへと歩み寄りました。


「ほら、きょうはお昼ごはんを持ってきたのよ」

 少女はパンや果物の入ったバスケットを水の精に見せました。

 水の精は、ちょっと首をかしげます。

「一緒に食べましょう」

 少女が昨日の老木に腰掛けると、水の精も彼女の隣に座りました。

「はい、どうぞっ」

 少女がサンドイッチを差し出すと、水の精は三角形の端っこをちょっとかじりました。それから、ちょっとずつはむはむと食べ進めていきます。

 そんな水の精を見ながら、少女もパンにはちみつを塗って食べました。


「ちょっとまってて」

 デザートを食べたあとで、水の精が立ちあがって、どこかへ行きました。

 しばらくして戻ってきた水の精の手には、茶色い木の実がにぎられていました。

「はいこれ。お返しです」

 水の精は木の実を一つ、少女の手に落としました。

「ありがとう」

 少女は木の実をためつすがめつして、口の中に入れました。

「む……」

 噛むほど口の中でもくもくとして唾を吸い取っていくようでした。味はまったくしません。

「どうですか?」

「と……とってもおいしいわ」

 少女はそれだけ言って、あわててお茶を飲み干しました。

「そうですか、よかったです」

 水の精が笑いました。


 蒼い空に白い雲が流れるのを見ていると、急に雨が降り始めました。

 それは天気雨でした。

 少女が目を凝らすと、光の粒がいく筋もの軌跡を描いて、落ちてゆきます。

 肌にさーっと冷たい感触が当たっていきました。とたんに風が涼しくなるのを感じます。

 耳を澄ますと、雨粒が水面を打つ音が、まるで何かの音楽のように聞こえました。


 雨はすぐに止みました。

 虹が空にかかっています。

「綺麗……」

 少女は思わずつぶやきました。

「私のお母さんがあそこにいるんです」

 水の精は虹を指差して言いました。

「あそこに腰掛けて、竪琴をひいているんです。聞こえますか?」

 少女の耳には何も聞こえませんでした。

 でも、きらきらと光る湖、その向こうに見える山の木々も雨に触れて、つやつやとあざやかに輝くよう。そんな光景は確かに音楽のように見えて。

 だから少女は答えました。

「うん。聞こえるような気がする!」

 そして、水の精の方を向いて言いました。

「ねえ、もっとそうゆうお話、聞かせて!」

 水の精は不思議そうに顔を傾げて、それからにっこり笑いました。


「ねえ、ばあや」

 自分の部屋で眠る支度をととのえた少女は、ベッドのふちに腰掛けて、明かりを消しに来たばあやに呼びかけました。

「はいはい、なんでございましょ?」

「今日のお昼、虹が出ていたでしょう? 見た?」

「いいえ、あいにく。お屋敷に中におりましたもので」

「そうなの。ねえ、知ってる? あの虹のところに……」

 そこまで言って少女は考え込みました。あの女の子のお母さんって誰なんでしょう? 本当に女神様なのでしょうか? 少女はまだわからないことがたくさんありました。

 それに、まだ少女は水の精のことを誰にも言ってなかったのです。

「ううん、なんでもないわ。おやすみ」

「はい。おやすみなさいませ」

 水の精のことは、まだ少しだけ自分だけの秘密にしておきたいと少女は思ったのです。

 そして、明かりの消えた部屋で少女は水の精のことを思いました。

 あの金色の瞳と、さっと輝くような笑顔に惹かれている自分に気付いて、寝返りを打ちました。

 そういえば、まだあの銀色のつややかな髪に、まだ触れていませんでした。

 それに、あのひんやり冷たそうな手にも。

 今度会ったら、さわらせてもらおう。

 少女はそんなことを考えたのです。


 不意に、少女は彼女の両親のことを思いました。

 もう半年も会っていない両親のこと。

 この前に帰ってきたときも、たくさんのお客様といっしょでした。

 客間で、たくさんのお客様に囲まれて、快活に笑う父親と、上品に微笑んでいる母親。

 少女はお客様にも両親にも、礼儀正しく振舞って、たくさん褒められました。

 でも、お客様があてがわれた部屋へ引き取っていって、両親と少女が残ったとき。

 その寒々とした雰囲気は、いつも少女をおどおどとさせました。

 父親はそっけなく、少女はとうに就寝する時間だと言って、パイプをくわえました。

 少女のお休みの挨拶に、両親は冷たく答えました。

 抱きしめられることなんか、ありませんでした。

 本当に自分は愛されているの?

 不安な気持ちを抱えて、ベッドにもぐっていた幾つもの夜を思い出し、つらい気持ちになって、少女はまた寝返りを打ちました。

 目をつむると、彼女の金色の瞳が見えたような気がしました。


 その日も、少女は湖の方へと足を向けました。

 湖に行こうと思っていると、森の中をどんなにでたらめに歩いても、必ず湖へとたどり着いてしまうのです。

 湖に着いたとき、少女は、水の精の銀の髪が揺れる後ろ姿を見つけました。

 水の精は、風の起こした小さな波に、ちゃぷちゃぷと両足をひたしていました。

 少女の足音に気付いて、水の精は振り返りました。

 森の中にぽっかり空いた広い場所に、水の精が一人で立っている、そんな光景に。

「ねえ、あなたは、さみしくないの?」

 少女の口から、そんな問いかけが零れていました。

「……ここは私の庭ですから」

 水の精が両手を広げて微笑めば、その後ろには、あの日と同じ、日の光にきらめく湖が広がっていました。


 不意に降りだした雨が、少女の足を止めました。

「雨宿り、していきませんか?」

 水の精が一本の木を指差して言いました。

 雨足は強くなって、まるで水のカーテンのよう。

 ざあざあ降る雨と、ぽつぽつと枝から落ちる水滴。

 それらの音に、二人は包まれていました。

「ねえ、まるでこの世界に二人だけみたい」

「そう、ですね」

 短い会話が二人の心の距離を近づけて、長い間、二人は並んで座っていました。


 雨が上がって、雲の切れ間から星がのぞきました。

 朝にカーテンを開くと、日の光に照らされた世界があるように、雲のカーテンが開くと、そこには星の世界がありました。

 少女はうっとりとそれを見ました。

「まるで黒檀のテーブルに銀の砂をまいたみたいね。いいえ、それよりずっと綺麗」

「ええ」

 二人は木陰から出て、星空の下に立ちました。

 水の精が東の空の星を指差して言いました。

「見てください。あれが双子の笛吹きの星です。あそこで笛を吹いて、お日様を呼んでるんです」

 今度は南の空の蒼い星を指差しました。

「あれが青い馬の星。この星空を走り回っているんです。とても人懐こいそうですよ」

 水の精は、次々に星を指差して、それがどんな星なのか、少女に教えてくれました。

「そしてあのずっと動かない星が、私たちの王様が住んでいる王宮です。ずっと、ずっと遠くにあるんです」

 水の精は王宮の星を見ながら、口をつぐみました。

「あなたのお父さんとお母さんはどこにいるの?」

 ふいに、少女はそう聞きました。

「お母さんは雲に乗って、風と旅してるんです。お父さんとは、会ったことはありません」

「そうなの……」

 風が二人のあいだを吹きぬけていきました。

「私たち、同じだね」

 水の精が少女を見ました。

「私も、お父さんとお母さんはずっと遠い街にいて、あんまり会えないの」

「そう、なんですか……」

「さみしく、ない?」

 少女は昼にしたのと同じ問いを、水の精にしました。

「さみしく、ないですよ」

 水の精は、少女の事を見て、言いました。


 遠くから、声が聞こえました。

 おうい、おういと、大勢が誰かを探しているような。

 その声を少女はよく知っていました。

「……だれでしょうか?」

「私の家の、召使いたちだわ。私のことを探しにきたのね」

 そう言って、少女は声の方へ二、三歩、歩きました。

「心配してくれる人が、いるんですね」

 いつもと違う声の調子に、少女は思わず振り向きました。

 でも、水の精の姿はもうどこにも見えませんでした。


「本当に心配したんですよ、お嬢様。本当に、心臓が止まるかと思いました」

 お屋敷に戻ってから、少女はばあやからお小言を言われていました。

「おおげさなのよ、ばあやは」

「それにしても、きょうはどちらにいらしてたんです?」

「友だちとね、一緒にいたの!」

 少女は、水の精のことを友だちだということになんのためらいも持ちませんでした。少女は水の精のことを本当に親友だと思うようになっていたのです。

「お友だち? 森の中ででございますか?」

「そう」

 少女はもう水の精のことを話してもいいだろうと思って、水の精のことをばあやにはなしました。

「あら、まあ、それは水の精霊ですわね」

「水の精霊?」

 少女は水の精のことを「ちょっと変わった女の子で私の親友」だと思っていました。でも、水の精が水の精だと知ったのはこのときがはじめてでした。

「さよでございます。水の精はあの湖に住んでいて、訪れる人の願い事を叶えるといわれておりますよ」

「そうなの?」

「そうですよ。例えば……」

 それからばあやは、20年くらい前に水の精に会った男の人が大金持ちになって王様の都に大きなお屋敷を建てた話や、10年くらい前に隣村の女の人が有名な貴族に見初められて結婚した話を、少女に聞かせました。

「お嬢様も、何か願いことを叶えていただけるとよろしいですねえ」

 ばあやは、その話をそんなふうに締めました。

「とにかく、今度からお出かけになるときは、行き先を誰かにお言付けくださいまし」

「わかったわ」

 少女はうなずきました。


 次の日も、少女は湖へと出かけました。

 水の精はそこにいました。

 少女のことを振り返ったその表情は、いつもと変わらないように見えました。

 少女は靴を脱いで、湖の水に足を浸しました。

 そして、水面を蹴り上げました。

 キラキラとした水の飛沫が、ぱたぱたと水面に落ちて、幾重にも波紋を作っていきました。

 少女が水の精のことを見ると、水の精も同じことをしました。

 そうやって二人でしばらく遊んでいました。


「ねえ、聞いてもいいかしら?」

 遊びつかれて、二人で並んで老木に腰掛けているとき、少女が言いました。

「なんでしょうか?」

「うちのばあやが言ってたんだけどね、あなたは水の精なの?」

「そうですよ」

「そうだったの」

 あらためて少女は、水の精の事をしげしげとみました。

 その金色の瞳をのぞきこみました。

 水の精は少し面映ゆそうにしました。

「ねえ、これもばあやが言っていたのだけど、あなたには人の願いごとを叶える力があるの?」

 少女にそう聞かれたとき、水の精は少し悲しそうな顔をしました。

 少女は思い及ばなかったのです。

 水の精が誰かと親しくなるたび、その人の願いを叶えて、また一人ぼっちになっていたことに。

 水の精はすぐに笑顔をつくりました。

「いいですよ。あなたの願いはなんですか?」

「ちがうわ。そんなつもりで言ったんじゃないの」

 少女はあわてて言いました。

 両親に愛されたい。

 その願いは誰かに叶えてもらうようなものではないことを、少女は知っていました。

 もしかしたら、誰にも叶えられない願いかもしれないことも。


「そうだわ!」

 少女はぱちんと両手を打ち鳴らしました。

 水の精はそんな少女を不思議そうに見ました。

「どうしたんですか?」

「やっぱり願いごと、叶えてもらおうかしら? いいでしょう?」

「ええ」

「私の願いごとはね、『あなたの願いを叶える』ことよ」

「私の?」

「そう!」

 水の精は難しい顔をして考え込みました。

 でも、今まで誰かの願いごとを叶えてきた自分の願いを思い付くことはできませんでした。

「いいわ。思い付いたらいつでもいいなさいね。あ、もちろん、私にできるようなことじゃないとだめよ?」

「はい」

「約束、ね!」

「約束……」

 少女は自分の思いつきに、うきうきとしていました。


 それから、秋が来て、冬が来ました。

 それでも二人はずっと一緒でした。

 秋には、紅葉狩りをしたり、森の動物を探して遊んだり、二人で黙って空を見上げたり。

 少女は水の精のために本を読み聞かせました。

 冬、凍った湖の上のすべり方を少女に教えてくれたのは水の精でした。

 そんなふうにして、二人の時間は過ぎていきました。


 その便りが届いたのは、冬も深まったある日のことでした。

 それは、少女の両親が少女にあてたもので、春になったらこちらに来るよう言うものでした。

 少女を社交界にデビューさせるというのです。

 今までずっと自分を見てくれなかった両親に、少女は心の中で反発しました。

 でも、それとは別に、王様の都に行くということが、少女の心をいやおうなくとらえていました。

 王様の都ってどんなところ? どんな人がいるの? どんなものがあるの? 社交界って?

 いろんな想像をして、少女はその日、なかなか寝付かれませんでした。


 次の日、少女はさっそく、昨日、自分が想像したことを水の精に話して聞かせました。

 少女の、もう隠しようがない新しい生活への期待に満ちた言葉に、水の精はうれしそうににこにこと笑っていました。

「ええ、きっと。たぶん、本当に素敵なところだと思います」

 水の精は言いました。

「夜になったら、星空ではお星様方が舞踏会を催すんです。それは本当に美しくて、優雅なものらしいですよ」

 水の精の言葉が、少女の想像をさらにかきたてていって、少女の胸はドキドキと高鳴りました。

 でも、少女はふと気付きました。

 もし自分が王様の都に行ってしまったら、水の精とはもう遊べなくなってしまうということに。

「でも、もし、私が王様の都に行ってしまったら……」

 少女は言いました。

「もう会えなくなってしまうのかしら?」

「いいえ、大丈夫ですよ」

 水の精はなんでもないふうに笑いました。

「ここは私の庭。私はずっとここにいますから。また会いに来て下さい」

「ええ、きっと! ううん、ぜったいに!」

 少女は水の精の金色の瞳を見つめながら言いました。


 少女が王様の都に出発する前の日には、二人でささやかなお祝いをしました。

 そのとき、水の精は自分で編んだ花の冠を少女に贈りました。


 出発の日の朝、雨の音に少女は目を覚ましました。

 まだ誰も起きていないのでしょう、屋敷の中は静まり返っていました。

 机の上に置いていた花の冠はもうしおれていました。

 そのとき、少女の頭をよぎったのは、金色の瞳をもつ自分の親友の後ろ姿。

 水の精との長い別れを意識したとき、少女は矢も楯もたまらず、まだ暗い外へと飛び出していきました。


 ひたひたと顔にあたる霧雨の中を少女は湖へと歩いて、やがて湖へと着きました。

 そこには水の精がいました。

 朝もやのただよう、冷え冷えとした空気の中、彼女は少女に背を向けていました。


「ねえ」

 少女の呼びかけに振り返った水の精は表情を失くしていて。

 ただ金色の瞳が冷たく少女を見据えていました。

「どうして昨日のままで行ってくれなかったんですか?」

 水の精は言いました。

「私、もう、笑っていられないのに」

「ごめんなさいっ!」

 少女は駆け寄って水の精を抱きしめました。

「あなたの気持ちをちゃんと考えようとしてなかったの! ゆるして!」

 少女は泣きながら謝りました。

 自分ひとりのことに浮かれて、水の精の本当の気持ちを考えようとしなかったことを。


「ねえ、覚えていますか?」

 水の精は言いました。

「私の願いを叶えてくれるって……約束してくれましたよね?」

「ええ」

「私の願いは『どこにも行かないで。私と一緒にいて』……です。もう一人は嫌です」

 少女はその手をぐっと引かれました。

 恐怖はほんの一瞬、彼女の心をよぎっただけでした。

 大切な親友に嘘つきと思われるのは嫌でした。

 それに、水の精がこんなふうに自分を求めてくれたのが、うれしかったのです。

 そして思い描いた新しい生活も、握られた手に伝わるかすかなふるえが静かにあきらめさせてくれました。

「いいわ、連れていって」

 水の精は笑ったようにも、泣きそうに顔をゆがめたようにも見えました。

 少女の手を引いてゆっくりと湖面の方へと誘い、少女の足は水にひたされて、一歩あるくごとに水の中へと下りていきました。

「怖くない?」

 水の精がそう視線で問えば、少女はにっこりと笑ってそれに答えました。

 水が顔を覆っていくように、少女は水の中へと潜りました。

 何も見えない、何も聞こえない。

 真っ暗な水の底を見て、少女は水の精の孤独を見たような気がしました。


 そうして二人は、水の底へと深く深く沈んでいきました。

 水面にはただ波紋が残りました。

 波紋は幾重にも広がって、やがてそれは消えてゆきました。

 そして少女も水の精も二度と浮かび上がってはきませんでした。


 その村にはこんな言い伝えがありました。

 山のふもとに広がる森の中には湖があって、そこに住む水の精は、訪れた人を水の底へと連れ去っていくというのです。

 どうしてこんな言い伝えが出来たのか、この言い伝えはいつからあるのか、それを知っている人は、もう誰もいませんでした。



【おくづけ】


詩と物語・平成2Y年 春と夏の間号

 発行 平成2Y年 6月3日

 著者 新百合ヶ丘高校文芸部


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