第10話 「お話作りの途中で」8
□ 文村冬湖
両手を広げて後ろからしらゆきを抱きしめた。しらゆきの体がびくっとして固まった。
「えっ……な、なに……?」
「しらゆき」
しらゆきの耳もとでしらゆきの名前を呼ぶ。
「え、とーこ?」
「うん」
抱きしめた腕をゆるめると、私の腕の中でしらゆきが私の方を向いた。
「とーこ……」
「うん」
「ど、どーしたの?」
そう聞かれたとき、私は自分の中に言葉を見つけた。そうだ、私はしらゆきが心配になったんだ。しらゆきは明るく笑っているのに、こんなにも私の胸を騒がせる。だから私は、しらゆきのことが心配になったんだって。
「ねえ……明るく振舞ってれば、心配かけずにすむなんて思わないで……」
「どっ、どういう意味……?」
しらゆきが私を見つめている。私は何も言えなかった。そのままの意味だったから。
「……っ」
びっくりしたように見開いていたしらゆきの目に、みるみる涙がたまっていった。
「わ、わかんないよっ……わけ、わかんない、しっ……!」
泣きながらしらゆきが私を抱きしめて、そうして私はしらゆきを抱きしめた。
しらゆきの体を抱きしめて思ったことは、しらゆきの体がこんなにも熱いということ。今、はじめて私は「神山しらゆき」という一人の女の子に出会えた気がした。うなじのあたりにシャンプーの残り香と汗の匂いをかいで、嗚咽に揺さぶられるやわらかい体が、今、私の腕の中にある。抱きしめたその心地よさは、姉さんに抱きしめられたときのそれによく似ていて、私はどこか戸惑っていた。
(とーこ、とーこ、泣かないで……)
姉さんの声がする。遠い記憶の中の姉さんの声。どうして私は泣いていたんだろう? 姉さんが私を抱きしめて、私の背中をやさしく撫でさすってくれる。何度も何度も私の名前を呼んでくれる。そのときのことを思い出す。
(しらゆき、しらゆき、泣かないで……)
少しだけ強くしらゆきを抱きしめて、心の中でそうつぶやいてみる。胸の奥から私のよく知らない感情がじんわりと染み出してきて、少し気が遠くなる。
(私のとーこ、大切なとーこ……)
また姉さんの声がした。姉さんが私の耳もとでささやいてくれた言葉。この言葉を聴いたときの、とても安心できる感じと、姉さんの腕の中で体が溶けてしまいそうになる感じを思い出した。
「うっ……ひっく……」
またしゃくりあげるしらゆき。姉さんが私にしてくれたことを、私もしらゆきにしたい。
(私のしらゆき、大切なしらゆき……)
恥ずかしくて口には出せなかったけれど、何度も何度も心の中でそうつぶやきながら、私はしらゆきの背中を撫でていた。そうして少しずつしらゆきの体のふるえが治まっていく。すんすんと息を整えてから、しらゆきは私から少し体を離した。
「……ありがと。もう大丈夫だよ」
私の口もとにしらゆきの吐息がかかる。
「えへへ……」
照れ笑いをするしらゆきの目は涙に濡れていた。そして、笑ったその声はちょっと鼻声になっていた。
しらゆき、どうして泣いたの? そう聞こうと思った。美夜子先輩が私にそう聞いたように。でも、ちょっとその前にしらゆきの鼻水が気になった。ポケットティッシュを取り出して、二つ折りにしてしらゆきの鼻にあてがう。昔、私が風邪をひいたときに、姉さんがそうしてくれたように。
「ふぇ?」
「鼻、かんでいいよ」
「え……」
しらゆきは一瞬戸惑ったみたいだったけど、軽く息を吸って、そして鼻をかんだ。
「……もう一度?」
四つ折にしてもう一度あてがう。右、左と鼻をかませてから、私はしらゆきの鼻の先と鼻の下をちょんちょんとぬぐった。それからしらゆきの顔をじっと見てみる。
「な、なに?」
しらゆきは恥ずかしそうに笑った。校舎の影になった場所、小さな暗がりの中で私たちは二人っきりだった。
「ねえ、とーこ……聞いてもいいかな?」
しらゆきの声が小さく聞こえる。
「えっと……その、さ……」
目を伏せて、なんだか思いつめたような表情でしらゆきは聞いた。
「ど、どうして、あたしにやさしくしてくれるの……?」
友だち、だから。私の心がすぐに答えた。そのときはじめて、私としらゆきは友だちなんだって、はっきりとそれを意識した。言ってもいいかな? 大切な友だちだからって。でも、違うって言われたらつらい。戸惑われたらつらい。それでも言ってしまおうと思って、私はしらゆきの目をまっすぐに見た。しらゆきが目を上げて、私と目が合う。
そのとき、私はなんとなくそれを感じた。しらゆきが私に求めているのは、そんな言葉じゃない。しらゆきが私の中に探しているのは、もっと別なもの。そんな気がして、私は思わず言葉に詰まってしまう。そして、何も言えないまま、私たちは長い間、見つめ合っていた。
「あっ、ごめん、変なこと聞いて……忘れて……」
そう言って、しらゆきは弱々しい照れ笑いを浮かべた。少し強い風が吹いて、私は校舎の間から空を見上げた。青白いまま少しずつ夜へと向かう空に、ここからはもう見えない夕日に照らされて赤みを帯びる一筋の雲があった。もうすぐ夜が始まる。夜が来る前の時間。どこか心が不安になる。どこか胸が締め付けられる。
「帰ろ? しらゆき」
「……うん」
どうして泣いたのか、結局聞けないままだった。並んで歩き出す私としらゆき。風には夕方の匂いが混じって、しらゆきのあたたかい体が今、私のとなりにあった。
「……」
私はそっとしらゆきと手をつないでみた。しらゆきを少しでも元気付けたくて。しらゆきの手はびくりとして固まった。でもすぐにやわらかく私の手を握り返してくれた。その手のやわらかさとあたたかさを、私はずっと忘れないでいたいと思った。
▼ 高原莉香子
その光景を見て、私は立ちすくんだ。心臓がドギッとする音を聞いた。どぎついような鼓動。息が詰まる。体が浮き上がりそうになる。悪寒が背筋を這い上がる。口が開く。涙が出そうになる。
――ここにはいられない。
体の全部でそれを感じた。思考が止まり、頭が真っ白になる。私のいない世界にしらゆきと文村冬湖がいる。私はそこに割って入れない。ぐらつきそうになる体を必死で抑えた。気が狂ったみたいに地面を転がりまわりたい衝動を必死に押し殺した。
見えなかった。私があの二人の傍らに立っている光景が見えなかった。私のいない未来にしらゆきが行こうとしている。しらゆきが私との間に越えられない溝を築こうとしている。今のしらゆきが必要としているのは私じゃなかった。
あの二人のそばにいて、私はどんな顔をしていればいいのか。疎外感を感じるために、私はしらゆきの隣にいたんじゃない。そんな道化までは演じられない。出来上がった二人の世界の外側で誰にも届かない台詞を吐き続ける役なんてできない。はやくここから離れないと。気付かれてはいけなかった。ここにいることを二人に気付かれるようなことがあれば、そんな惨めはことはない。そんな惨めな自分を私は許さない。一歩後ろに下がって、後も見ずに足音を殺して、その場を離れた。
どうやって帰ってきたのか、全く覚えていなかった。気付いたときには自分の部屋にいた。黄昏時はとうの昔に終わっている。蒼黒い水の底のような部屋がぐるぐる回って、吐きそうになる。頭が熱い。背筋が凍えるように寒い。ぬるぬるした汗が背中を伝っていく。
――文村冬湖……文村冬湖……。
誰かの不幸をこんなにも願ったのは初めてだった。出来るはずがない、そんなはずがない。文村冬湖は白河絵里に似ていて、そしていつか私からしらゆきを奪っていく。そんなことあるはずない。あるはずないのに。
「ああ、ああああ……」
頭が痛い。文村冬湖、どうしてしらゆきがあなたに親切にしているか、分かる? いつかあなたも、しらゆきの本当の気持ちを知ってしらゆきを捨てるのよ。しらゆきを捨てるの。せいぜい今のうちに友だち面しているといい。いつかしらゆきの隣には誰もいなくなって、そしたら、しらゆきは気付いてくれるはず。私しかいないことに。自分には私しかいないことに。ああ、可哀想なしらゆき。そうよ、文村冬湖も無理なのよ。だからしらゆき、そのときは私があなたを迎えに行く。私の手を取ってほしい。
――あのとき……。
今日、私がしらゆきに抱きついたとき、文村冬湖は私を見ていた。その眼差しには不快も嫉妬も全くなかった。それが答え。
――あんな奴に……!!
あんな奴にしらゆきはあげれない。ふさわしくない。それなのに、あれは。あれはなんだったの? 抱き合っていた。二人の世界が私を拒んでいた。どうして。
――真子先生も私を拒絶した……。
自分のした作り話が、嫌らしいほどのリアルさで私の脳裏に描かれる。真子先生の引き攣った笑顔に、おざなりな口実。
――気持ち悪い……そういうのやめて……ごめんなさい……。
「うるさい!! 黙れ!!」
手を払った。化粧道具が床に散らばった。口紅の転がっていく先に姿見があった。歩み寄るとその中に、顔中を涙と鼻水でべちょべちょに濡らした不細工な女がいた。その顔に、その姿に、私は見惚れた。しらゆきが好きで好きで好きすぎて気が狂った女。
――それが私なら。
そんなにもうれしいことはない。しらゆきもうれしいはず。こんなにも私がしらゆきを想っている。私が。この私が。自分の全てでしらゆきを想っている。新しい涙が湧いて、頬を伝って落ちた。
――自分のために泣いてるの?
そんな声がどこからか聞こえてきて苦笑する。そんなことない。私はしらゆきが好きで好きで好きすぎて苦しいの。変なこと言わないで。私の邪魔をしないで。しらゆきに恋して気が狂った女。それはとても素敵な響きで、私は鏡の中の女をまじまじと見つめた。
――素敵……とっても可愛いわ……。
いつかしらゆきに私の全てをぶつけよう。しらゆきは優しいから、いつか必ず私を受け入れてくれるはず。その日が待ち遠しくてたまらない。文村冬湖。あなたもいつか、しらゆきを捨てるの。いつまで友だち面していられる? しらゆきの本当の気持ちに気付いた後でも? 文村冬湖。出来るはずがない。出来るはずがない。そんなはずはない。否定して、否定し続けて、それでも怖い。
床にへたりこむ。手で顔を覆う。私は祈っている。しらゆき。どこにも行かないでほしい。私のそばにいてほしい。しらゆきの心にいさせてほしい。もし、しらゆきの心から私がいなくなってしまったら――私はもう生きていけない。




