第10話 「お話作りの途中で」7
□ 文村冬湖
朝の自転車置き場。自転車を置いて自転車の列の間を歩いていると、私は見慣れた自転車を見つけた。それを見たとき、ちょっとドキッとした。それはしらゆきの自転車だった。今日はしらゆきがいる。昨日かけた電話のことを思い出して、少し恥ずかしくなった。日の光をまぶしく感じて、空を仰いでみた。空には雲ひとつなくて、どこまでも蒼かった。
そして朝の教室で、私はしらゆきを見つけた。しらゆきは、机から教科書を出したり引っ込めたりして、なんだかそわそわしているようにも見えた。
「しらゆき」
後ろからそう呼びかける。
「あっ、おは、おはよう、とーこ!」
一瞬、左から振り向こうとして、あわてて右から振り向くしらゆき。その表情はどこか恥ずかしそうで、どこか臆病そうにも見えた。
「うん、おはよう、しらゆき」
「あっ、昨日は電話、ありがとね」
「うん」
私は席について、カバンの中の教科書やノートを机の中に入れていく。しらゆきは椅子ごと振り返って、そんな私のことを見ている。
「あっ、あのさぁ、昨日リカコとお昼たべたんだよね?」
「えっ? うん」
「リ、リカコ、なんか変なこと言ってなかった?」
「え? んーん。陸上部のこととか、聞いたよ。頑張ってたって」
「そ、そか。うん。……まあ、一度もレギュラーにはなれなかったんだけど……あはは」
そんなことないよ。私がそう言おうとしたとき、しらゆきの後ろから井上さんがやってくるのが見えた。
「あ~っ! しらゆき! しらゆきいるじゃ~ん!」
「もう大丈夫なの?」
その後ろから藤沢さんもやってくる。
「おうよ! 元気元気、こんなに元気だよっ!」
胸をぐっと反らせて、ボディビルダーの人みたいなポーズで二人を笑わせるしらゆき。昨日たった一日しらゆきが休んだだけなのに、そんなしらゆきをずいぶん久しぶりに見た気がする。
「しらゆき~」
教室の後ろの扉の方からそんな声が聞こえて、見るとそこには莉香子さんがいた。そして軽やかな足取りで私たちの方へとやってくる。
「心配したよぉ~! 昨日、来ないからさぁ~」
「ごめ~ん!」
「ほら見て、この肌、荒れてない? 昨日はしらゆきが心配で夜も眠れなかったんだよ? どう? 目の下? クマ出来てるでしょ?」
しらゆきのそばに立って、指で目を示しながらしらゆきに顔を近づける莉香子さん。
「でも、昨日、ボーリング場にいませんでした? お友だちの方たちと一緒に? すごく盛り上がってましたよね?」
井上さんが莉香子さんにそう言うと、莉香子さんは楽しそうに慌てだした。
「やー、それ言っちゃだめだよ~! 違うの、しらゆき。ほら、しらゆきの風邪が治るようにって、しらゆき治れ~って念じながらね、玉を転がしてたの!!」
「玉って!」
井上さんと藤沢さんが笑う。
「ほんとぉ?」
疑い深そうな顔を作って莉香子さんを見るしらゆき。
「ほんとぉ~信じて~」
莉香子さんがしらゆきに抱きつこうとする。椅子に座っているしらゆきに、床に座り込むようにして、しらゆきの胸に飛び込んでいく。そして、しらゆきの腰に抱きついて、しらゆきの胸に自分のほおを押し当てた。そんな莉香子さんは、どこかうきうきはしゃいでいるようにも見えた。と、莉香子さんと目が合う。莉香子さんは一瞬、私の顔をまっすぐに見た。そして、にっこり笑った。
「ね~ね~しらゆき~、ほんとだってぇ~、信じたぁ?」
「信じた。信じたよ」
抱きしめたまま、しらゆきの体を揺さぶる莉香子さん。しらゆきは笑いながら莉香子さんの頭をぽんぽんとなでている。しらゆきと莉香子さんはとても仲が良いと思う。私もいつか、しらゆきとこんなふうになれるかなって、そんなことを思った。
1限目の授業は数学だった。私は、前の席に座るしらゆきのポニーテールをぼんやりと見ていた。しらゆきの席にしらゆきがいる。そのことがなぜか、こんなにも私を安心させる。どうしてだろう? 考えても分からなかった。
放課後の部室で、私は美夜子先輩に自分の書いた詩を読んでもらっていた。とても緊張して、なんだかそわそわした。いたたまれなくなって、部室の後ろに並んだ本棚を眺めたり、また美夜子先輩の手元を見たりしていた。
「う、うん。とってもいいわ。とーこの気持ちが、その、とても、よく、伝わってくる」
私の原稿から顔を上げて、美夜子先輩が言った。その顔は心なしか赤くなっているようにも見える。
「でも、その……」
「……? な、なんですか?」
「あ、ううん、なんでもない。……ちょっとお手洗いに行ってくるわね」
そう言って美夜子先輩は、手でぱたぱたと顔をあおぎながら部室から出て行った。私は少し手持ち無沙汰になる。テーブルの隣にはしらゆきがいて、目の前のひなた先輩が自分の原稿を読んでいるのを緊張した面持ちで見つめている。
「あれっ? 最後のところ、変えちゃったの?」
ひなた先輩が原稿から目を上げないまま、そう言った。
「は、はい。その、まあ……」
「私は前の方が好きだったんだけどなぁ……」
「え、えへへ。なんだか、恥ずかしくなっちゃって」
しらゆきは照れ笑いを浮かべて俯いた。
「そっかぁ」
とんとんと原稿の端をそろえて手元に置くと、ひなた先輩はしらゆきのことを見た。
「うん。それじゃあ、これでOKだよっ! でもね、いつかちゃんと気持ちが固まったら、あんなふうに書いてほしいな? やっぱり登場人物がしあわせになるのって、とっても大切なことだから……!」
「はいっ!」
私は明るく笑うしらゆきの横顔を見ていた。胸がちくりとする。
美夜子先輩が戻ってきて、また私の前に座った。顔がちょっと濡れている。顔を洗ってきたのかなって思った。
「あ、あの、美夜子先輩……」
「なあに?」
「あの、締め切り、明日ですよね? あともう一回だけ考えてみたいんですけど……」
「そう。いいわよ」
美夜子先輩はどこかうれしそうに言って、私の原稿を返してくれた。
夕方の廊下を、私はしらゆきと並んで歩いていた。隣を歩くしらゆきは、廊下の窓から外を見ている。
「ねえ、とーこ」
「うん?」
「あたしたちの書いたのが、本になるんだよね。なんだかすごく緊張する!」
「うん」
「とーこは結局、どんなの書いたの? 美夜子先輩は詩って言ってたけど……」
「ん……ひみつ。後で読んで」
「そか」
「しらゆきは?」
「えーと、あたしは……えへへ、うん。あたしのも後のお楽しみ、ってことで!」
「うん」
私は昨日の莉香子さんとの会話を思い出す。たしか莉香子さんは……。
「昨日、莉香子さんが前にしらゆきの原稿見せてもらったって言ってたよ。すごく面白かったって」
「そ、そうなん?」
「うん」
そして私はさっきのしらゆきとひなた先輩の会話を思い出した。
「最後のところ、変えちゃったの?」
「え……うん。やっぱその……変えたほうがいいかなって思っちゃって。えへへ」
「そうなんだ」
「うん……」
しらゆきがまた窓の外を見る。それからしらゆきはなんだか黙りがちになった。そのまま会話らしい会話もないまま、私たちは自転車置き場までやってきた。自転車のかごにカバンを入れて鍵を探していると、しらゆきが私の隣に来た。
「あ、ねえ、ごめん、とーこ」
「……?」
「あたし、忘れ物しちゃった! 今日はここでね!」
たそがれどきの光の中で見たしらゆきのその笑顔はいつものしらゆきのようでいて、でもどこか今にも泣き出しそうな、そんな笑顔だった。
「じゃっ、また明日ねっ!」
最後の笑顔を残してしらゆきが私に背を向ける。その後ろ姿を私は見ていた。
そのとき、しらゆきに何か言わなきゃいけないことがあるような、そんな気がした。でも、何を? 私には分からなかった。しらゆきになんて言えばいいのか分からない。そのことを、なんだかとても、もどかしく感じた。
遠ざかっていくしらゆきの背中。なんだろう、胸が騒いだ。しらゆきを追いかけなきゃいけない気がする。そして伝えなきゃいけないことがあるような気がする。でも私はしらゆきになんて言えばいいのかな? 私に何ができるのかな? しらゆきの邪魔になるだけじゃないかな? しらゆきは忘れ物を取りに行くだけ。だから心配することなんて何もない。だから私はこのまま家に帰ってしまってもいい。でも、もし、ここでしらゆきを追いかけたら……きっと何かが変わってしまう。もう後戻りできなくなるくらいに。
しらゆきは一度も私のことを振り返らなかった。そして私の視界からいなくなってしまった。私は駆け出していた。誰かに背中を押されるようにして。自転車のかごにカバンを入れたままなのを思い出したけれど、それを振り切るようにして。
校庭に入って辺りを見回した。白い壁の校舎は夕焼けの色に染まり、人の姿がまだちらほらと見えた。その中に校舎の影に消えるしらゆきの背中を見つけて、私はその方へと走る。
『校舎の陰で泣く……』
そんな言葉が頭をかすめていった。それはどこで聞いた言葉だったんだろう? 誰の言葉だったんだろう? しらゆき……しらゆきは今、どこへ行こうとしてるんだろう? 私はしらゆきのことを何も知らなかった。ずっと一緒にいたしらゆきのことを。しらゆきはどうして私と一緒にいたんだろう? しらゆきにはもっと別な未来だってあったはず。もっと友だちと笑い合えるような、そんな未来が。でも、しらゆきは私と一緒にいてくれた。私にとても楽しい時間をくれた。今、しらゆきに会いたい。そう思った。
左右を見回す。歩いているのがもどかしくなって、何度も小走りになる。途中、すれ違った二人が私を怪訝そうに見た。それがいつも莉香子さんといる二人だと気付いて、あわてて会釈して、そのわきをすり抜けた。
校舎の間をどんどん人気のない方へと歩く。校舎の窓に反射して届く光もだんだん弱くなって、影が濃くなっていく。そしてその校舎の角を曲がったところで、私はしらゆきを見つけた。一瞬、身がすくんでしまうような感じがした。校舎の影になった場所で、壁にひたいを預けているその姿は、いつものしらゆきとは似ても似つかなかった。初めて見るしらゆきのそんな姿に私の胸がドキドキと高鳴った。そんなしらゆきの後ろ姿に一歩ずつ近づいていく。しらゆきはまだ私に気づかない。あと数歩というところまで来たとき、私はしらゆきのかすれた声を聞いた。
「友だちだったら、ずっとそばにいられるから……だから……」
どういう意味だろう? 私には分からなかった。これからどうしよう? こんなとき、どうしたらいいんだろう? そう考えて私は、こんなとき姉さんが私にしてくれたようにしようと思って、両手を広げて後ろからしらゆきを――。
▼ 高原莉香子
しらゆきのことを考えていた。今日は思い切ってしらゆきに抱きついてよかった。しらゆきの胸の感触が右の頬に残っている。しらゆきのブラはワイヤーの入っていないスポーツブラだ。だから、服の上からでもしらゆきの胸の柔らかさがよく分かる。今度は手で触りたい。後ろから抱きしめて揉みたい。手のひらいっぱいにしらゆきを感じたい。自分の乳房の重い感じも、しらゆきのあの感触に比べることはできない。しらゆきのが触りたい。
「リカ? リカ?」
「んっ?」
「どーしたの? ぼーっとしてる」
「あ、ごめんごめん! ちょっと考えごとをね」
短い放心を笑ってごまかす。多目的ホールのある校舎の玄関まで来た。腕時計を見る。5時15分。今日はいつもより早く部活が終わっていた。
「あ、ちょっと私、行くとこあるから!」
しらゆきはまだ文芸部の部室にいるかもしれない。部活してるしらゆきも見てみたい。
「じゃあ、ここでね!」
玄関口で二人を見送る。そのとき、ちょうど前を通りかかった人が二人とすれ違った。すれ違う瞬間、その誰かは佳奈と温子に軽く会釈をした。それは文村冬湖だった。辺りを見回しながら早足に歩いている。その文村冬湖の視線は私を素通りしていった。
――え?
黒い予感が胸を満たした。文村冬湖が誰かを探している。誰かを追いかけている。ただそれだけのことなのに、皮膚の表面を不快な感覚が走り抜けていく。背筋が冷たくなる。
文村冬湖が向こうの校舎の影に消えたとき、私はそれに引っ張られるようにして、その方へと駆け出していた。角を曲がるとさらに向こうの角に文村冬湖の姿が見えて、そしてその曲がり角の先へと消えていく。
私はその後を追う。地に足がついていない。どうして追いかけているのか、分かっていない。ただ憑かれたように校舎の角の向こう側に行こうとしていた。頭がキーンと鳴っている。予感にも似た何か。見てはならないものを見ようとしている。それでも足を止められない。角の向こう側、そこで私は――。




