第1話 「序章/入学式の日」3
「ただいまぁ」
玄関のほうから姉さんの声がした。私はソファに寝転がったまま。足音がして居間に姉さんが入ってきた。右手にはかばん、左手には買い物袋を持って。
「はあ、重かったあ……。ただいま、とーこ」
居間の電気をつけながら姉さんが言う。赤茶けた部屋が明るく照らされて、色を取り戻したみたいになる。
「うん、おかえり、姉さん」
「高校どうだった? うまくやってけそ?」
「うん……まぁまぁ」
「そっか。それじゃ、すぐに夕飯作るね」
「うん」
「今日はご馳走だよー。とーこの入学祝いだからね!」
そう言うと姉さんは買い物袋の中身を冷蔵庫につめ、夕飯の支度をはじめた。
姉さんは、地元の国立大学に進学していた。本当はもっといい大学をお父さんからも先生からも勧められていたけど、結局、姉さんは地元の国立大学と短大を受験した。その理由を姉さんは言わなかった。でも、言わなくても私には分かった。
私のことがまだ心配だからなんだ。まだ私と一緒にいてくれるんだ。そんなにも私のことが大切なんだ。姉さんはまだ私のもの。だから私はうれしかった。
その夜はふたりで私の高校入学をお祝いした。姉さんの料理はとてもおいしかった。
夕食後、姉さんは台所で洗い物、私は居間でごろごろしていた。
テーブルの上に、これから使う教科書を広げて、ひとつひとつ、ぱらぱらとめくってみる。数学がひどく難しそうに感じた。これ以上、数学に難しくなられるのはとても嫌だった。歴史の写真つきの資料集を眺めていると、姉さんが洗い物を終えて私のそばに座る。
「うわー、なつかしいなぁー」
姉さんはそういいながら、私の新しい教科書を一つずつ見ていった。
「そうそう、こんな感じだった。でも表紙が変わってる……」
懐かしそうにページを繰って、ときどき手を止めて見入っている。現代文の教科書を手に取ったとき、姉さんはそこに挟んであった紙を見つけて手に取った。それは「文芸部へのお誘い」と書かれていた部活勧誘のチラシだった。
「なあに、これ?」
「……もらった」
「ふーん……」
姉さんは紙を広げて読み始める。そういえば、読もうとしたら神山さんと長峰君に話しかけられたんだった……そんなことを思い出した。読み終えた姉さんが私に聞く。
「とーこはこれ読んだの?」
「んーん、まだ」
「読んでみて、ほら」
「うん」
『文芸部へのお誘い』
新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。
みなさんはこれから、ここ新百合ヶ丘高校で3年という月日を過ごすのですね。その日々がとても充実したものになることを、心からお祈りいたします。
さて、充実した高校生活のためには、部活をやってみるというのも一つの選択肢としてあると思います。みなさんのお手元のこの小さな紙片は、この高校の部活動の一つである文芸部について、みなさんにご紹介するためのものです。
みなさんは詩や物語を書いたことがありますか?
詩や物語を書くことは決して難しいことではありません。例えば、みなさんは今まで手紙を書いたことがあるかと思います。そのとき、みなさんはどんな風に書いたでしょうか。お見舞いの手紙なら相手の体を気遣う気持ちを、遠く離れた友達には相手を懐かしく思っている気持ちを、ラブレターなら相手を想う気持ちを、伝えたい、伝わったらいいなぁ、そう思いながら書いたのではないでしょうか。
詩や物語もそれと同じだと思います。自分の心の中にある想いを読んでくれる人たちに伝えたい、伝わってほしい、そう思って書くんです。あなたの心に映る風景や、あなたの心に住んでいる人たちが織り成す、あなたの世界。それを誰かに見てほしいと思ったとき、それは詩となり、物語となるのではないでしょうか。想いを言葉にするところから物語ははじまる……私はそう思います。
文芸部では、詩や物語を書いて部員同士で見せ合ったり、年に3回、部員みんなの作品を持ち寄って部誌を発行したりしています。活動場所は図書室の隣の空き教室です。興味を持たれた方はぜひ訪ねて来てください。お待ちしています。自分の世界を育てて物語にして、みんなに読んでもらう楽しさ、みんなに受け入れてもらえたときの喜びをみなさんとご一緒できたら、本当にうれしく思います。
文芸部部長 2年 宮守美夜子
読み終えて姉さんの方を見た。姉さんがこれを読んでどう思ったのかを知りたかった。
「とーこも部活、はじめてみたらいいのに」
姉さんはそう言った。
「高校生活を楽しむことを考えてみてね、とーこ。とーこが楽しかったら、お姉ちゃん、とってもうれしいよ」
夜、ベッドに入って考えた。
『想いを言葉にするところから物語ははじまる』
この言葉が、心のどこかに引っかかってるような気がした。
(姉さんが言うなら一度見に行ってみようかな……?)
私は自分のことはどうでもいいと思っていた。自分の考えや希望にあまり興味が持てなかった。すべて偶然に任せてしまってもいいような気がしていた。どっちでもいいし、どうでもよかったから。どうすればいいのかも、どれがいいのかも、何も分からなかったから。
でも、姉さんの言うことはいつでも聞いていたかった。姉さんが私に言うことはいつも、私にとって良いこと。それだけは間違いなかったから。
姉さんはいつでも、私が踏むべき地面をくれる。姉さんが決めた運命の上を歩くとき、私に不安なんてなかった。姉さんはいつだって、私のどうでもいい人生に『必然』をくれる……。
(そうだ、姉さんが言うんだから……一度、見に行ってみよう……)
私はそう、心に決めた。