第10話 「お話作りの途中で」1
□ 文村冬湖
人は、言葉になるかならないかの淡い感情を抱いたりするもの。自分の本心を偽りながら、それと気付かずにいたりするもの。そして、悲しみが心を満たしていても明るく笑っていることさえできる。私はそのことをずっと知らずにいた。姉さんが私の周りに作ってくれた世界は確かなもので埋め尽くされている。だから私は、変わらないものだけを私にとって本当だと思い、それ以外のものを知ろうとしなかった。私は子供だった。まだ子供だった。
放課後になって、私としらゆきはいつものように部室へと歩いていた。並んで歩くしらゆきが、ちょっと私の顔をのぞきこむ。
「ねえ、とーこ。文芸部のやつ、進んでる?」
「え? うん」
「い、いちおー、あたしも出てきちゃったりするんだよね?」
「ん、まあ……」
「あ、あのさ、あたしでよかったら、いつでも取材、応じるからね?」
「う?うん。ありがと……」
なんだかしらゆきは、そわそわと嬉しそうにしている。そんなことを話していると、前から莉香子さんたちが歩いてきた。莉香子さんの左右にいるのは、いつか莉香子さんといっしょに文芸部を見学に来ていた人たちだった。莉香子さんが私たちに気づいて手を振る。
「やほー、しらゆき、探してたんだー! これからさぁカラオケ行かない? とーこちゃんも、いっしょにどう?」
莉香子さんがそんなことを言う。ゆるくウェーブのかかった長い髪をゆらして、少し派手めの整った顔に、華やかな笑顔を浮かべている。
「わり~! 私たち、これから部活あるからさ~!」
しらゆきは笑ってそう答える。
「そっか~! じゃ、仕方ないね!」
「また誘ってよ!」
「うん、またねえ!」
「おうっ!」
そうして、私たちはすれ違った。こんなとき私はまだ不安だった。しらゆきのとなりにいることに、まだ自信のようなものを持てないでいた。でも、そんなこと口に出しては言えなかった。
また並んで歩く私たち。ふと背中に視線を感じたような気がして、私は振り返った。下駄箱へと歩く人たちの間で、莉香子さんが私たちの方を振り返っていた。彼女は私と目が合うと、ふいっと顔を背けて、また友達と一緒に歩いていった。しらゆきのことを見ていたのかな? 私はそんなことを思った。
▼ 高原莉香子
最近、しらゆきが楽しそうだ。
その理由は文村冬湖――しらゆきが「とーこ」って呼んでる、あの女の子。
私はたぶん嫉妬している。あの文村冬湖という子に。しらゆきをしあわせに出来るのは私だけだ。私はそう信じている。
しらゆきと初めて会ったのは小学校のころで、どうやって出会ったかなんて覚えていない。いつのまにか一緒に遊ぶようになった子の一人だった。
そして私はいつ気付いたんだろう? しらゆきが私と同じだということに。しらゆきが誰かを目で追う。私はそれをしらゆきの一番近くで見ていたから、遅かれ早かれ、いつか気付いただろう。気付かないわけがない。
――しらゆきも女の子を好きになるの?
私がそう聞いたときのしらゆきの驚いた顔。ああ、そうか。やっぱりそうだったんだ。その日は、私としらゆきが初めて秘密を共有した日になった。そして私は身近に「神山しらゆき」という一人の女性を見出した。もしかしたら私の手の届く人になるかも知れない。そんな期待を私は持った。
中学に入って、しらゆきは陸上部に入った。昔から足が速かったから、それはしらゆきに似合っていると思った。練習ではスパッツを着けていることが多かった。それは程よい肉付きのしらゆきの脚をぴったり締め付け、だから股間やお尻の形まではっきりと見て取ることが出来た。私はよく応援と称して、しらゆきを見に行っていた。そんな日は眠れない夜を過ごした。一人ですることを覚えたのもこの頃だ。
2年になって、しらゆきは本気の恋をした。相手は同じクラスになった白河絵里という子だった。絵里は――そうだ、文村冬湖は絵里に似ている。優しそうなところや、大人しそうなところ、それに何をしても許して受け止めてくれそうな、そういう雰囲気まで。
しらゆきはああ見えて、そういうことでは奥手だった。教室で、グラウンドで、くつ箱で、声をかけてもらいたげに彼女の周りをうろうろするしらゆきを、私は見ていた。私が絵里と話していると、不自然なほど陽気に、まず私に話しかけてきた。不器用なしらゆき。そんなしらゆきの存在が私の中でどんどん大きくなっていった。
――もし絵里に振られたらさ、私と付き合わない?
冗談めかしてそう言ってみたとき、しらゆきは笑って私の肩を軽く突いた。私としらゆきの距離感はそんなものだった。それでも焦りは無かった。しらゆきは振られるだろう。それは間違いなかった。なぜなら絵里は『そうじゃない』から。
そして、しらゆきは振られていた。いや、振られてすらいない。ある男の子と一緒に帰る絵里を見た。ただそれだけ。しらゆきがはじめて私の前で泣いたのもその日だった。黄昏時のしらゆきの部屋の中で、私はしらゆきの背中をなでていた。
――ずっとこうなのかな? もう嫌だ……こんなの嫌だよ……。
そう言ってしらゆきは泣き、私はその告白に心の平衡を揺さぶられていた。そして私が見たのは、しらゆきの泣き顔、うなじのほつれ毛、夏服の半そでからのぞく二の腕、ふくらみはじめた胸、腰のくびれ、スカートに包まれた脚、陸上部の練習で付いたひざの傷。
――ああ、しらゆき……しらゆき……っ!!
気付いたときには、しらゆきを床に押し倒していた。しらゆきの首すじにくちびるをあてて、その体をめちゃくちゃに触った。抱きしめるようにして全身を撫で回した。スカートの中に手を入れるとスパッツ越しにしらゆきの脚の温かさが伝わってきて、私はしらゆきの体を欲しいと思い、我慢が出来なかった。しらゆきの心に出来た傷に私は付け込んだ。付け込もうとした。
好きな人に触れたいと思うのは当然のことだ。それにいつかしらゆきも私のことを好きになってくれるという自信があった。しらゆきはなんの抵抗も示さない。私はしらゆきに受け入れられたと思った。
――しらゆき。
私は改めてしらゆきのくちびるにキスしようとした。
そこで私が見たのは驚愕と恐怖に蒼ざめて涙ぐむしらゆきだった。
私は動けなくなった。
動きを止めた私を、しらゆきはゆっくりとした動作で押しのけた。そのまま、ベッドに這い上がって、掛け布団にくるまる。
――しらゆき……しらゆき、ごめん。
――帰って……!! 帰ってよ……!!!
なす術なく、私はしらゆきの部屋を後にした。
それから、しらゆきは私のことを避けるようになった。不自然なほどぎこちなく、私と目を合わさない。
――なんだお前ら。ケンカでもしたのか?
長峰大地が聞く。私は笑って、まあそんなとこ、と答えた。
――とっとと仲直りしとけよ。
言われなくてもそうする。しらゆきのいない人生はもう考えられない。
しらゆきは優しい。誰かを悪く思い続けることが出来ない。だから、先に音を上げたのはしらゆきだった。
――ねえ、ずっとこんなの嫌だよ。仲直りしよ? もうあんなことしないよね?
そのときのしらゆきの臆病そうな笑顔を見て思ったことがあって、それはやっぱりしらゆきは私の運命の人だということ。でも、だったらどうして、運命はあのとき私としらゆきを結びつけなかったんだろう? 不思議でしょうがなかった。しらゆきをしあわせに出来るのは私だけなのに。それでも、私はしらゆきの言葉にうなずくしかなかった。
中庭のベンチに座って、曇り空を見ていた。しらゆきは今日も部活だろう。また文村冬湖の隣で笑っているのだろうか。心がざらざらする。
そこへしらゆきが通りかかった。今日は一人のようだった。紙の束を片手に持って、どこか落ち着ける場所でも探すように辺りを見回している。
「しらゆき~!」
私は声をかける。しらゆきがこちらへと歩いてきた。
「よっ! リカコ!!」
「や!」
しらゆきが私の隣に座る。
「今日はとーこちゃんは一緒じゃないの? ケンカでもした?」
「ケンカなんかしないよぉ! とーこ先生は今、新作を執筆していらっしゃるところなんだよねぇ~!」
「そうなんだ? で? そういうしらゆきはどうなの?」
「あたし? あたしはもうほとんど書けてるよ。あとはあれ、あの、スイコウってやつ?」
「ふぅん……」
しらゆきが書いたもの。読んでみたい。
「ね、私が読んであげようか?」
「んえ?」
「私の的確すぎるアドバイスがあれば、直木賞とかも夢じゃないよ」
しらゆきは少し迷うそぶりを見せた。でも結局、にっこり笑った。
「しょうがないなぁ……!」
プリントアウトされたしらゆきの原稿を受け取って読み始める。はじめのページは、ところどころ赤ペンで文章が足されたり、横線が引かれたりしていた。
「おいっちに! おいっちに!」
急にしらゆきが立ち上がって、中庭の芝生の上で体操を始めた。
「……緊張してるんだ?」
「し、してないよ! 早く読んで!早く!」
「はいはい」
再び、読み始める。この話のモデルはしらゆきと文村冬湖だと分かった。目を上げると、しらゆきは私に背を向けて屈伸運動をしていた。スカート越しでもそれと分かるしらゆきのお尻の形に目を奪われる。一度は届いたはずのそれに、私の手はもう二度と――たとえ冗談ででも――届くことはないのかと考えてしまう。そして私は読み終えた。
「読んだよ」
「うん……どうだった?」
しらゆきがまた私の隣に座る。
「よかった! おもしろいじゃん!」
「ほんと!? よかったぁ!!」
原稿を返すと、しらゆきはそれを両手で胸に抱くようにした。
「これってさ、モデルはしらゆきととーこちゃんだよね?」
「え? やっぱわかる?」
「そりゃそうよ!」
「あ~やっぱりかぁ~」
「最後さ、『こうして二人はしあわせに暮らしました』って何? しかも結婚までしてるし」
「そ、それは、まあ、あれよ。おとぎ話の定番のシメ方っていうかさ……」
顔にしまりがなくなっている。だからイジワルしたくなる。
「でも、とーこちゃんが見たら、どう思うかな?」
「えっ?」
「ちょっと急ぎすぎてない? とーこちゃんが読んで『なんか変』って思ったら、それでアウトなんだよ?」
「う、うん……」
しらゆきの顔に不安の影がよぎる。
「私、しらゆきが傷つくとこ、もう見たくないから」
自分のことを棚に上げて言う私は、最低なのかもしれない。しらゆきは俯いてしまった。その横顔からは戸惑いと不安が見て取れた。
あのときのことを持ち出せば、私に何も言わせないなんて簡単なのに、しらゆきはそれをしない。一度赦したら、二度と同じことで責めない。それがしらゆきの優しさで、私はその優しさ――甘さ――に付け込んでいた。ううん、もしかしたら。しらゆきは「私を責める」なんてこと、思いつきさえしないのかもしれない。
「うそうそ! ごめん! ちょっとからかってみただけ!! だいじょうぶだよ、きっと! とーこちゃん、いい子だし!!」
「う、うん……」
さっきまでしあわせそうに笑っていたしらゆきが、すっかり落ち込んでしまっていた。その思いつめた感じすらある横顔に、私は満足感を覚える。
「えと、じゃあ、あたし、もう行くね……。えと、スイコウしないといけないし……」
下手な言い訳をしながら、しらゆきは立ち上がった。
「しらゆき」
そのまま行ってしまいそうになるしらゆきを私は呼び止めた。しらゆきが振り返る。私は立ち上がって、しらゆきの目の前に立つ。
もう一度、チャンスが欲しかった。しらゆきをしあわせに出来るのは私だけだ。スパッツ越しに触れたしらゆきの太ももの温かさが頭をよぎる。そして、しらゆきの首すじにキスをして、それから、しらゆきの胸に顔をうずめて……。
「もし……もしもね、とーこちゃんも駄目だったら……」
しらゆきはまた綺麗になった。制服を押し上げる胸は、私好みに育ちつつある。女性らしい線を描く腰のくびれ。今日、スカートの下はスパッツだろうか。私はあの感触が好きだ。
「そのときは……私のこと、ちゃんと見てほしいな?」
「え……それ、どういう……」
しらゆきは臆病そうに聞き返す。分からない振りをしているのか。それとも、しらゆきの中ではもう終わった話だったのか。なんでも構わなかった。
「しらゆき……」
私はいま告白するんだ。あのときはそれをしなかった。拒絶されて終わった。それ以上、踏み込めなかった。だから、まだ私の中で終わっていなかった。
「私、まだ、あなたのことが好きなの」
呆然とするしらゆきは、あのときの――驚愕と恐怖で固まっていたあのときの――しらゆきによく似ていた。そして私は気付いた。もしかしたら、私にとってしらゆきがしあわせになるかどうかなんて、どうでもいいことなのかも知れなかった。私はただ、しらゆきが欲しいだけ。もう一度この腕に抱いて、甘く乱れたしらゆきの声が聞きたい。そのためなら、例えしらゆきがしあわせになれなくても構わないのだと。




