第9話 「はじめての先輩」3
□ 文村冬湖
家に帰ってから、私は着替えもせずに居間のソファに横になった。ちょっと疲れていた。でも、その疲れはいやな感じじゃなかった。
あれから部室に戻った私たちは、茜先輩の提案で部活を早めに切り上げてカラオケに行くことになった。
「こんなときだからこそ、あえて遊びに行く……!!」
茜先輩はそう熱く語った。
「たぶん、またマンガの影響だと思う」
美夜子先輩がこっそり教えてくれた。
私はカラオケに行くのは初めてだった。しらゆきはときどきテレビで見るバンドの曲を歌っていた。とてもうまいからおどろいた。しらゆきはよくこういうところに来るのかなって、そんなことを思った。美夜子先輩とひなた先輩は二人で歌うことが多かった。歌うのは童謡が多かった気がする。「大きなのっぽの古時計」を、お互いの目と目を見交わしながら歌う二人は、息ぴったりだった。茜先輩は演歌を熱唱していた。目をつむって、にぎった拳を何度も振り下ろしながら歌う茜先輩。そんな茜先輩に、しらゆきとひなた先輩は手拍子を送って、美夜子先輩は呆れたような視線を投げていた。私はと言えば、ずっとタンバリンを叩いていた。
そういえば私が部室に戻ってからカラオケの間もずっと、しらゆきが私に何か聞きたそうにしていた。でも結局、なにも聞いてこなかった。私の気のせいだったのかな? そんなことを考える。
初めて部活見学に行った日、すごろく、茜先輩の詩の朗読、しらゆきとお出かけ、美夜子先輩とひなた先輩に勉強を教わって、そして、今日のこと。文芸部に入って一月ちょっとで、中学のころの半年分くらいの出来事があったような気がする。
「とーこ」
パチリ、と電灯がついた。
「どうしたの? 電気も点けないで?」
「うん」
姉さんが帰って来ていた。私は体を起こして姉さんに「おかえり」を言う。
「疲れてるなら、横になってていいよ。ほら」
姉さんはソファに腰掛けて、ひざの上をたんたんと叩いた。姉さんがしてくれるひざ枕。私は大好きだった。私が姉さんの太ももの上に頭を載せると、姉さんが私の頭をなでて、手で髪を梳いてくれる。
「とーこ、学校はどう?」
「うん……まあまあ……」
「そう。お話は書いてる?」
私は姉さんのひざの上で、くびを横に振る。今日、美夜子先輩の前で泣いてしまったことが、ちょっと恥ずかしかった。
「書くことが見つからない?」
私は頷く。姉さんは私の肩を撫でた。
「じゃあね、とーこ。お姉ちゃんがリクエストしていいかな?」
姉さんがそう言った瞬間、私の全身が耳になる。もちろんいいよ。私は姉さんの次の言葉を待った。
「とーこがね、高校に入ってからあった出来事を物語風にする、っていうのは、どう?」
姉さんはそう言った。それはとても不思議な提案のような気がした。
「とーこが、今、どんな人たちに囲まれているのか、お姉ちゃん知りたいなぁ」
姉さんが、ひざの方を向いている私の顔を上からのぞき込むようにする。どうして知りたいんだろう? そんな私の疑問に答えるように、姉さんは言った。
「だって、とーこが楽しそう。明るくなった気がする」
私には……よく分からなかった。私は自分が明るくなったなんて思わなかった。でも、姉さんが言うなら、そうなのかもしれない。でも、やっぱりよく分からなかった。
「書いてくれる?」
姉さんにそう言われたら……私は書くしかなかった。心が満たされていくのを感じた。自分のやるべきことを見つけることができて、私はやっと安心できた気がした。
「うん」
私はそう答えて、寝返りを打つ。そして姉さんのおなかにぐいぐいとひたいを押し付けた。姉さんのおなかは柔らかくて、とても気持ちがよかった。
次の日の部活の時間も、私と美夜子先輩は池のほとりに来ていた。美夜子先輩が「今日も行きましょうか」って言ったから。もう夕方だったけれど、あたりはまだ明るかった。私たちは、昨日と同じように池のほとりのベンチに並んで座る。遠くからは運動部の人の声が響き、近くからは風に吹かれた草木のさらさらと鳴るのが聞こえた。
「静かね」
「あ、はい……」
水面にさざめく光は、昨日ここにいたときよりオレンジがかって見えた。空を見上げると、少し色あせはじめた青空に、白い雲が流れていく。
「この場所はね、昔、先輩たちやひなたとよく来てた場所なの」
「そ、そうなんですか?」
「ほら、すごろくのときに茜先輩の上に3人、先輩がいたって話が出たでしょう?」
「あ、えと……『雑木林の三賢』?」
「そ。その雑木林っていうのは、この場所のことなの。昔の中国にいた『竹林の七賢』をもじったのね」
「あ……な、なるほど?」
私は入試の日のことを思い出していた。私はここでお弁当を食べて、空を見上げて、姉さんが好きそうな場所だなって思ったんだった。
「とーこ。聞いてもいいかしら?」
「な、なんですか?」
「昨日……どうして泣いたの?」
「えっ?」
そんなことを聞かれて、ちょっと驚いて私は美夜子先輩のことを見た。美夜子先輩は私のことをまっすぐに見ていた。視線が出会う。
「こんなこと聞いてごめんなさい。でも、とーこのこと、知りたいから……」
真面目な表情のまま、美夜子先輩はそう言った。とても真剣な声だった。だから私は答えに窮してしまう。「みんなもとーこのこと、知りたいって思ってるよ」頭の中で姉さんの声が聞こえる。でも、美夜子先輩の真剣さに見合うだけの答えを私は持っていなかった。
「えと……あの、私はどちらかというと空っぽで、その、空っぽだからなんじゃないかな、と……」
あわてて作った答えを言ったとき、知らず知らずのうちに視線をそらしてしまっていた。
「そうなの……?」
美夜子先輩は少し困ったように笑った。
「でも、とーこ、覚えてるかしら? すごろくで『どうして部員同士、仲良くしないといけないのか』って聞かれたとき、『仲が良かったら楽しいし、うれしいから』って答えてるのよ? そんな人が、空っぽなの?」
それは、姉さんがそう言ったから。でも、そんなこと言えなかった。姉さんのことを話すことは、私が私のすべてを晒すことで、それはとても怖かった。
「わ、わかりません……」
私はそう答えるしかなかった。美夜子先輩もそれ以上、追及してこなかった。
沈黙が訪れる。相変わらず運動部の人の声も、草木のささめきも聞こえてくるのに、あたりがシンとしてしまったように感じた。私はちらっと美夜子先輩の横顔をうかがう。言うなら今しかないと思った。
「あの……美夜子先輩。私、書くこと決まりました」
美夜子先輩がすこし驚いたように、私のことを見る。
「高校に入って、今日までのことを書きます……」
「それは……どうして?」
「それは……それを知りたいという人がいたから、です……」
「そう……」
私を見る美夜子先輩の表情を通り過ぎたかすかな影。その感情の揺れが何なのか、私には分からなかった。でもそれは、本当に一瞬だった。
「それは、とてもいい考えだと思うわ。私に手伝えることがあったら、なんでも言いなさいね?」
「は、はい……」
次の瞬間には、美夜子先輩は、いつものように微笑んでいた。でも、その微笑みは少し寂しげだったような気がした。
▽ 立花茜
「想像の翼を広げようよ! 空を飛んでみたっていいと思うんだよ!」
「なるほど……それじゃ、そんな感じの魔法をでっち上げてみますか!」
……たしか昨日は女の子二人が登場する日常系の話だったはずなんだけど。今や、感動系一大スペクタクルファンタジーロマンに変貌しつつある。ひなた、おそるべし。それに平然と乗っかっているしらゆきもやばい。大器の片鱗を感じる……。
「それで、ここのところはどうするのかなっ?」
「うーん、もうお姫さまが美人すぎるから、あれしてこれしちゃう感じでいっちゃおうかなって思ってます!」
「そっかぁ!」
女の子二人は、いつのまにかお姫さまとその家来になっちゃってる……。これはもしかして、宮沢賢治の「十力の金剛石」をパク……いや、インスパイアしてるのかな?
「それで、最後の場面はどうしよっか?」
「えと、病気の子どもが治って、それで、えーと、二人は国中の人から祝福されて結婚とかしちゃったりしようかな、と」
「あれ? この家来さんは女の人だったよね?」
「そ、そーなんですけど……。そこはまあ、いきおいで押し込もうと!」
「ふうん! それいいと思う!」
「そ、そーですか!? ありがとございます! えへへ」
二人とも本当に楽しそう……。テーブルの真ん中に置かれたしらゆきのノートは二人に上から下から書き潰されて、真っ黒になっている。
さすがに疲れたのか、二人とも紙パックのジュースをちゅーちゅーしながら一休み。人生、疲れが心地いいときもある。青春やねえ……。そのとき、ひなたがストローからくちびるを離して、ほっと息を吐いた。
「ねえ、しらゆきちゃん……」
「はいっ?」
紙パックのジュースをテーブルに置いて、しらゆきのことを見るひなた。あ、これは来る。しらゆき、心の準備はいい……?
「物語って不思議だね。私たちの心に世界が生まれて、その世界にはいろんな人たちが住んでて。そう、それはみんな私たちの子どもで! そして、その子たちはいろんな出来事に出会って、触れあって、想いあって、絆を育んでく。そうして、いつしかその世界は、私たちにとってかけがえのないものになっていくんだね……」
「そ、そうですね……」
「ねえ、しらゆきちゃん、私、楽しみだよ? しらゆきちゃんの心にある世界……そこではこれからどんなことが起こるんだろう? どんな物語が紡がれていくんだろう? ねえ、私、見てみたい! 見てみたいの、しらゆきちゃんっ!」
「は、はい……」
「だから……ねえ、しらゆきちゃん。大切に育ててあげてね。しらゆきちゃんの、その世界を……」
いつもの胸の前で両手を合わせるポーズのひなた。その目はうっとりとした輝きを帯びて、しらゆきのことを見つめている。
「わ、わかり、ました……」
しらゆきは顔を真っ赤にして、くちびるの端をひくひくさせながら笑っている。おお、今日は耐えたか。お前はよく頑張った……。
「あっ、みよっち、とーこちゃん、おかえり~」
「うん、ただいま」
美夜子ととーこが帰ってきた。とーこは相変わらずのぼんやりさんだけど、美夜子の方はちょっと浮かない顔をしている。と、美夜子がテーブルの上のノートを見た。ひなたとしらゆきに書き潰されたノート。美夜子の顔によぎったのは羨望の表情だった。自分もとーことこういうことがしたかったけど……とか、そんな感じ? とーことしっくりいってないのかな? ふふ、手のかかる部長さんやね……。
編集会議をやるからと、しらゆきととーこを先に帰らせて、テーブルには私と美夜子とひなた。いつものメンツ。麻雀をやるなら一人足りない。ルールとか知らないけど。
「進捗どう……?」
私が聞くと、ひなたが手を上げる。
「しらゆきちゃんの方はお話の流れが決まりました。これから書き始めればたぶん間に合うと思います!」
ひなたの声は本当に癒される……。落ち着いてて甘い感じがする。
「うん、よろしい……。美夜子は?」
「あ……とーこは題材が決まりました……」
「ふうん、決まったんだ? じゃあ、どうしてそんな浮かない顔してるの……?」
「べ、別に、そんな顔してません!」
してます……めっちゃしてます……。私はちょっと聞いてみる。
「その題材は美夜子が提案したの?」
「え? いいえ。それはとーこが……。それを知りたがってる人がいるから、と」
「それが誰か、言った?」
「いえ、言ってないです」
「ふーん」
なるほど、分かりました……。
「とーこちゃんに頼られなくて、さみしいんだ?」
「そっ! そんなんじゃ……」
図星だと顔に書いてある。美夜子は昔の自分を忘れてるのかな? ならば思い出させてあげよう……。
「私に言わせれば、とーこは昔の美夜子に似てるんだよね……。自分に自信がなくて、なかなか心を開いてくれないところとか……」
あのときは本当に苦労した……。思ひ出が走馬灯のように頭をよぎる。
「でも、いったん心を開いてくれると、すごくいいんだよね、いろいろと……」
「な、なんですか、それは……」
美夜子はムッとした表情をする。お、照れてる照れてる……。
「私の経験から言うと、とーこみたいなタイプは、別に何かしなきゃって気負う必要はないと思う。ただ他の人と比べて、周りを受け入れるのに時間がかかるだけだから……」
美夜子はそっぽを向いている。そのほおは少し赤い。可愛い。
「だから、寄り添ってあげればいいの。ときどき話し相手になって、ひとりじゃないって理解らせればいい。それが美夜子のお仕事……」
そっぽを向いたままの美夜子。ひなたが美夜子の肩に触れて撫でるようにする。
「それでまあ、半年も経てば……」
私は指をぱちんと鳴らして、美夜子を指差した。
「こうなる」
……反応がなかったので、むりやりリアクションを取りに行くことにした。美夜子の頭をなでりなでりとする。
「ほ~ら、よしよし~……」
「あ、私もやります! みよっち~よしよし~」
二人で美夜子の頭をなでる。
「ちょっと……やめてください……」
ムッとした顔で、ほおを赤らめてうつむく美夜子は、本当に愛い奴。いつかひなたと結ばれて欲しいものじゃの……。
美夜子もひなたも帰って、部室には私一人になる。
窓から流れ込んできていた茜色は、少しずつ影の色に染まっていく。部屋の空気はまだ温かい。それはあの子たちの体温が残っているから。私はその温度をゆっくりと呼吸して、今日一日の終わりを感じている。私のとても大好きな時間。
ひなたとしらゆきの平仮名コンビの意気投合っぷりはすごい。ひなた単体のときよりムードメーカー効果が上がってる。あの二人がどこまでいくのか……見もの。
美夜子は部長として先輩として、はじめて悩みを抱えた。これから、ときに傷つき、ときにちょっとしたことで喜んだりしながら成長していくはず。青春って素晴らしい……。
とーことしらゆきの先行きも気になる。そういえば昨日、とーこが少し目元の赤いまま部室へと帰ってきたとき、しらゆきは一瞬ガタンと椅子から立ち上がりかけてた。それからカラオケのあいだじゅう、とーこに泣いた理由を聞こうとしてたみたいだけど、結局聞けなかったみたい。案外、不器用なしらゆき。
私があの子たちと一緒にいられるのは、もうあと一年もない。それでも私のやるべきことは変わらない。
少しずつ薄暗くなっていく部屋の中で、私はまだあの子たちの気配を感じている。それはそこここに在って私を楽しませる。それからまぼろしが……先輩たちのまぼろしが現れる。まだ出会わない人たちが出会い、その中にはもちろん沙雪先輩もいる。もしも本当に出会うことがあったら……しらゆきもとーこも、きっと沙雪先輩のことを好きになってくれたと思う。
そして私は考える。沙雪先輩にとって私はどんな後輩だったのか。それを沙雪先輩に聞くことはもうかなわないけれど、私は今でもそれを知りたいと思っている。




