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新百合ヶ丘高校文芸部☆  作者: m8eht
入部編
2/67

第1話 「序章/入学式の日」2

 入学式からの帰り道、自転車のペダルをこいで家に近づくにつれて、今日あった出来事の記憶がゆっくりと薄らいでいった。

 姉さんが喜んでくれた、お父さんが喜んでくれた、そんな日も、代わり映えのしない日々の中の一日になって、きっと大人になったら思い出すこともなくなってしまうんだろうと思っていた。

 やさしく降る日の光が、今日という日の余韻のように思えた。あとはもう夜を待つだけ。

 住宅街の真ん中を走る二車線の道路、その脇の歩道から住宅街の中に入る。人の通りはなく、家々からの音も聞こえない。ただ静かで。

 車庫に自転車を滑り込ませて止めて、玄関の鍵を開ける。

 扉を開けると、さっきまでこの家の中でじっとしていた冷たい空気が私の体にまとわりついてくる。

 かばんを居間のソファに投げ出して、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップにあけて飲んだ。水道の水でコップを洗う。蛇口から出た水がステンレスのシンクに落ちて、タタタ……と音を立てる。栓を閉めるとその音は水の中に落とされたマッチの火のようにあっけなく消える。家の中に静寂が戻る。

 お母さんがいたらきっと……こんなふうじゃなかったと思う。今日みたいに早く帰った日には玄関の扉を開けたらきっと……おやつの甘い匂いがしてたんじゃないかなって思う。

 何をする気にもなれなくて、2階から教科書を持ってきてテーブルの上にそれらしく広げたあと、ソファに寝っころがって天井を眺めながら、姉さんの帰りを待った。


 姉さんのことを好きか嫌いかで言えば私は……好きだと思う。大好きだと思う。

 私のお母さんは、私が小学校二年生のときに交通事故にあって、それ以来、私のそばにいてくれない。事故があってからしばらくの間、私はずっとお母さんを探していた気がする。晴れた日のお庭の物干し竿の前、夕飯どきの台所、夜の居間、お父さんとお母さんの寝室……。お母さんはどこにもいなかった。

 真夜中ふと目が覚め、お母さんがいないことに気づいて「ねえ、お母さんがいないよ、ねえったら、ねえ」そういいながら、姉さんやお父さんを起こしてまわったこともあった。そんな私に、二人はいろんなお話を聞かせてくれた。

「お母さんはね、お星様になったんだよ。ほら、見て、あれ。あの星だよ」

「お母さんは神様に呼ばれたんだよ。お母さんが、あんまり美人で優しいから、神の野郎がほっとかなかったんだな」

「お母さんはあの場所でずっととーこのことを見守ってるんだよ」

「お母さんは神隠しにあったんだ。雨ヶ森のお狐様のしわざだな。まったく悪い奴だ」

 そんなお話を何度も聞いているうちに私は、もうお母さんに会えないということを少しずつ飲み込んでいった。

 あれは……いつのことだったろう?

「お母さんにはもう会えないの?」

 そう聞いた私に、

「とーこ。とーこにはね、お姉ちゃんがいるよ」

 姉さんはそう言って私を抱きしめた……そんなことがあった。

 きっとそのときから、私はお母さんにもらえるはずだったものをみんな、姉さんからもらおうとするようになったんだと思う。

 姉さんは、自分が持っているもので、私の欲しいものはなんでもくれた。お気に入りのネックレスでも、買ったばかりのかわいい柄のノートでも、ショートケーキの上のイチゴでも、私がねだれば何でも。

 そうだ、姉さんは初めてのキスも私にくれたんだった。


 あれは姉さんが中学校三年生のころ、夏休みの少し前。

 姉さんは一階の居間で友達の智子さんと千佳さんと一緒に受験勉強をしていた。

 私は二階の自分の部屋をそっと抜け出し、階段の中ほどまで下りて、そこから姉さんたちの話に耳を澄ませていた。姉さんのことは何でも知りたかったし、それに姉さんはそんな私のことを一度も怒ったことがなかったから。

「立ち聞きって、本当はあんまりよくないんだよ」

 そう言って、私の頭をなでただけ。

 階段に座って、暇つぶしのマンガの本を読んでいると、勉強が一段落したのか、それとも千佳さんが勉強に飽きたのか、千佳さんのにぎやかな声が聞こえてきた。

「ねえねえ、あのさぁ、遠山くんの第一志望が新百合ヶ丘だって知ってたぁ?」

「ううん、知らなかった。……そうなんだ?」

「……ねえねえ、どうしてだと思う?」

「……? どうして、って?」

「ふふ……春菜の第一志望が新百合ヶ丘だかららしいよっ!」

「へー! やっぱりそうなんだ?」

 智子さんの声が割って入る。

「ちょ、ちょっとまって。どうしてそうなるの?」

「どーして、って……ねえ?」

「んー……まあ、なあ……」

「ええ?」

 姉さんは、何の話かまだよく分からないみたいだった。

「あーあ、いいなぁ……。私もこんなふうに想われてみたいなぁ……」

「もぉ……変なこと言わないでよ。そんなことあるわけないし。それにそんなうわさ立てられたら、遠山くんだって困ると思うよ?」

「そんなこと言ってられるのも今のうちかもね。高校行ったら、いきなり告白されたりなんかして! 『文村! 俺、ずっとお前のこと……!!』」

「あー……あるかもね」

「ないよ! ないからっ!」

「『遠山くん! うれしい! 実は私も!!』 そして二人は夜の街へと消えてゆく……」

「やーめーて! もう! やめってったらぁ……!」

 千佳さんの即興芝居をやめさせようとする姉さん。みんなあくまで楽しそうで、ただふざけ合ってただけだと思う。でも私は、なんだかよく分からない感情で胸がいっぱいになった。

 勉強会が終わった後、二人を玄関先まで見送ってから、姉さんはまた食卓に座って問題を解き始めた。私は姉さんのそばに寄ってノートをのぞき込むふりをした。

「夕飯、ちょっと待っててね。最後にこの問題だけ解いちゃうから」

「うん」

 姉さんの体温をすぐ近くに感じながら、私は薄くて綺麗な姉さんの字がノートを少しずつ埋めていくのを見ていた。

「はいっ、終わったよ」

 解き終えて、食卓の上に広げられた勉強道具を片付け始めた姉さんに、私は何気ないふうを装って聞いた。

「お姉ちゃん。その……遠山って人と付き合うの?」

「ん? んーん。あれは千佳ちゃんが勝手に盛り上がってるだけー」

 教科書とノートを重ねて端をとんとんと揃えてから、姉さんが私に向き直る。

「どうしたの?」

「……ねえ、お姉ちゃん。もし……もしお姉ちゃんが誰かと付き合ったら、キスとかしたりするの?」

「んー、よくわかんないけど、たぶんする……んじゃないかな? でもずっと先のことだよ」

 そういって笑った姉さん。

 いま目の前にいる姉さんと、いつかどこかで姉さんとキスする誰か。

 例えば……遠山というひと……。

 私が感じたのは違和感だった。私の知らないところで姉さんが私以外の誰かに笑いかけて、私以外の誰かを大切に思う……そのことへの違和感。

 頭ではちゃんと理解していた。姉さんだって、いつか誰かと恋に落ちて、結婚して子どもが生まれるんだって。私は、いつまでも姉さんと一緒にいることはできないんだって。

 でも、姉さんは私の姉さんだから、私のことも忘れないで欲しい。だから……

 『二人の間に割り込もう』

 そのとき、確かにそう思った。姉さんが誰かとキスするとき、きっと私のことを思い出すように。そう、姉さんの初めてのキスを私に。

「お姉ちゃん、いままで誰かとキス……したことある?」

「ないよー。当たり前でしょ?」

「じゃあ、私としようよ」

「え?」

「ねえ、いいでしょ?」

 姉さんにすり寄るようにして、夏服の半そでの袖口をつかんでお願いする。

「とーこ。お姉ちゃんとキスしたいの?」

「……うん」

「ふふっ、しょうがないなあ……ほら」

 姉さんはうすくくちびるを開いて、私のほうに顔を近づける。

 そのときはじめて自分のお願いの意味をはっきりと理解して、少し戸惑った。でも、もう止める気にはなれない。

(ああ、お姉ちゃんのにおいだ……これ好き……)

 鼻がぶつからないように少しだけ首をかしげて、顔を近づけるごとに視界が暗くなる。

 姉さんのくちびるの感触。少しだけぐっと押し付けるようにしてみる。姉さんのくちびるが、ふにゅって私のくちびるを押し返すと、にちゅ……って音がして、くちびるが離れた。

 目を開ける。

「お姉ちゃん……」

 うっとりとそうつぶやいて、そうして姉さんを見つめていた。そんな私に姉さんはほほ笑んでみせる。

「もう一度……?」

「うん」

 今度は姉さんのくちびるをはむように、私は姉さんにキスをした。

 むにゅむにゅしてやわらかくて、私にしっくりくるあたたかさ……。

 その感触が心地よくて、すぐに顔を離す気になれなくて……私は何度も何度も、夢中になって姉さんにキスをした。

 熱っぽい頭、ぽっと火照ったほほ。

(ああ、いい……これいい……すごく好き……)

 少しずつ姉さんのほうに倒れかかる私を姉さんが受けとめて、それでも私は口付けを止められない。

(お姉ちゃん……お姉ちゃん……)

 どのくらいの間そうしていたのか……かすかに息苦しさを感じてはじめて、私は顔を離した。

 くちびるから透明な糸が引いて、たわんで途切れる。

 胸がドキドキして苦しいくらいだった。

 目を上げて姉さんを見た。

 姉さんは笑ってた。

 私の記憶の中の、お庭で私とボール遊びをしていたときのお母さんと同じ笑顔で。


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