第7話 「夕焼け色の部室 (立花茜の視点から)」
窓の外を眺めている。地平線の茜色から中空の蒼色までのグラデーション。いつも世界は少しずつ変わっていく。私も、私の世界も、こんなふうに変わっていけたら良かったのに。
「それじゃあ、お留守番おねがいね。私たち、今日は図書室の受付しなきゃだから」
「図書委員のお仕事なの~」
背中で美夜子とひなたの声を聞いた。少し弾んでる気がするのは、私の気のせいじゃない。
「了解っす、いってらっしゃい!」
「いって、らっしゃい……」
応える声。この部室に馴染み始めた声。しらゆきと冬湖。この文芸部も新入部員を迎えることが出来た。それはとてもうれしいこと。美夜子もひなたも『先輩しよう』と張り切っている。
しらゆきも、とーこも、とても良い子。私は悪い子でも全然かまわなかったけど。それにしても二人とも変わった名前だと思う。コンビ名は『シベリアンズ』と『ツンドラーズ』どっちにしようか……迷う。
耳にかすかに、となりの図書室の引き戸を引く音が届く。これでもう美夜子とひなたは一時間は帰ってこない。今日は何をしようか?
振り返ると、美夜子とひなたを見送った二人が、めいめい自分のことを始めようとしているところだった。そして私の目に入る美夜子のかばん。椅子の足に立てかけるようにして置かれている。
なにか面白いものが入ってる。そんな予感に、口もとがゆるんでしまう。
「あの、茜先輩? なにしてるんですか……?」
とーこの声。テーブルの下から顔を出して、おいでおいでと二人を手で差し招く。二人に挟まれると、ふわりと良い匂いに包まれる。これはかわいい匂い。
「や、茜先輩っ、それっ、まずいですよっ……!」
かばんの金具をはずしたところで、しらゆきは私が何をしようとしてるか分かったみたい。
「だいじょぶ、だいじょぶ」
たしかに、人のかばんをあさるのは良くないこと。でも、ここから楽しいことになるんだから、仕方ない。
「お……」
教科書やノートをより分けていって、カバーの付けられた本を見つけた。これはなにかな……? カバーをはずすと、その本の表紙には「部下を導く仕事術―出来る上司のメソッド―」とある。
「ふふ、美夜子ったら、こーゆー本、読んでたんだね……」
後輩が出来て……これを読もうと思ったんなら……やっぱり美夜子、面白すぎる……。ページをめくっていくと、ところどころ黄色の蛍光ペンで線さえ引かれている。
「おや……」
私の手が止まる。「目的・目標を設定する」云々と書かれたページ。すぐ上の余白には星マークと「部誌の発行」という美夜子の字で書かれたメモ。本文の方をたどっていくと、「目標にいたるまでのプロセスの提示」とか「部下の状態・能力の把握」とか「適時・適切なアドバイス」とか、そんな文章に線が引かれている。にやにやするのが止められない。口もとにこぶしを押し当てて、なんとか笑いをこらえる。
「ふたりとも、怒ってもいいんだよ? 『私たちは部下じゃありません!』ってね……」
「なに言ってんですか! なんかにやにやが止まらないですよ! あたし、美夜子先輩をいじり倒すのに青春かけちゃいたい気分ですっ!」
「ふふ、よう言うた……」
しらゆきは浮かれて私の背中をたんたんと叩いてくる。良い。この子はわかってる。
とーこの方はというと、じーっと開いたページを見つめている。書かれているものを読もうとしているみたい。あまり表情が変わらない子だけど、好奇心が隠せてない。良い。この子もわかってる。
とーこが読み終えたのをさりげなく見計らってから、またページを繰っていく。まだ何かあるような気がして。そして奥付の裏の白いページ。ほら、やっぱりあった……。
「これも美夜子先輩が!?」
「んーん、この絵はひなただと思う……」
そこにあったのは、私たち5人分の似顔絵。「私たち新百合ヶ丘高校文芸部☆」と書かれたリボンの下の、笑顔の私たち。
真ん中にいるのはとーことしらゆき。ジト目にむっとした表情のとーこ。でも、かわいらしい。子猫のような目にポニーテールが風になびくしらゆき。これもかわいい。そんな二人を囲んで、私たちと一匹の猫がいる。私がにんまりとワルそうに笑っているのはご愛嬌。美夜子とひなたは寄り添うように。のほほんとした三毛猫の隣には、ふわふわ湯気のたつ湯呑み茶碗……。
さらにそのまわりを、幼稚園児が書いた夜のような、はりきりすぎたパーティーのクラッカーのような、ありったけの赤や黄色や緑の星が、きらきら瞬いていた。
「あのー、茜先輩……」
「ん……?」
「美夜子先輩とひなた先輩って、その……どう、なんですか?」
この二人の距離感を見逃さない。しらゆき、できる子。
「ふふ……いつか、どうにかしないとね……」
本当にどうにかしないと……せめて私が卒業するまでに。それまでには見てみたい。あの二人が付き合ってるところ……。
「あの、どうにか、ってどういう意味なんですか?」
とーこは頭にはてなマークを浮かべている。しらゆきの前途は多難そうだけど、不思議と心配にならない。私のカンが言ってる。どうにかなりそうな気がする、って。
「いつか、とーこにもわかるよ……」
にんまりして見せれば、とーこは軽く首をかしげる。そんな子供っぽい仕草が、この子にはよく似合っている。
「やっぱり卒業するまでには、見てみたいよね……」
「ですよねっ!! あたしもお手伝いしますっ!!!」
しらゆきの目はきらきらしている。私、こういうの、好き。
「とーこも、手伝ってね……?」
「え、あ、はいっ」
とーこは何の話か分からないまま、うなずいたみたいだった。
窓から夕焼け空のどろっとした赤い光が流れ込んでくる。窓を開ければ夕暮れ時の風が心地よい。下校の時間が近づく。部室の中はとても静か。とーこのノートはよくわからない幾何学模様でいっぱいになっている。しらゆきの方はメモを取るのに飽きたみたい。チラチラととーこのことを盗み見て、話すきっかけを探している。ほほえましいし、かわいい。
私はまた自分の持ってきた部誌のいつもの箇所を開く。もう何度読んだか分からない。でも、私にはこれしかないから。ここから始めて、ここまでたどり着かないといけない。
(先輩……沙雪先輩……)
ページを繰っていく。それは魔法のような物語。言葉がとても軽くって、ふわりと羽のように私の心に触れてくる。
先輩の手のひらの上で、勝手気ままにふるまう登場人物たち。ときどき先輩の優しい指先がその頬を突っついて、物語がゆっくりと転がり始める。
とても自由な。そして広くて明るい場所。いつのまにか読み終えていて、胸にはただ、心地よい時間を過ごした感じだけが残る。
そんな軽い気持ちのまま、最後のページの余白、私は薄い鉛筆で書かれた詩を読んだ。
私は書きたい
ひとつの言葉、ひとつの場面でなく
全てが、長い間の印象が
私とあなたを変えていくような
そんな物語を
心のずっと深いところで
ある日、そっと芽吹いた想いが
いつかあなたへの花束となるような
そんな物語を
(先輩……沙雪先輩……)
何度目だか分からない。目に涙がにじみそうになって、あわててこらえる。私もこんなふうになりたかった。こんなふうに書きたかった。私のあこがれ。私の愛しい人。
あこがれと恋とを間違えてるんだとしても、私はそれでもいい。このあこがれに恋焦がれて、その中で……その想いの中で……死んでいきたい。
席を立って、窓の外を眺めやる。開いた窓からは夕暮れの匂いを乗せて風が。カーテンはそれに応えてかすかに揺れる。
空と風と光と緑。みんな、あの人が好きだったもの。私にはもう、あの人と同じ景色を見ることは出来ないけれど、並んで見たあの日の夕焼けの色を、あの光を、忘れない。忘れられない。
記憶の中に遠くこだまする声。まぶたの裏の淡い赤い光の中に、あの人が立っている、あの人が立っている、あの人が立っている。この胸の中にあって、私を私にしてくれた人。
「先輩……?」
その声に、私は振り返る。しらゆきが、とーこが、私のことを見ている。とても心配そうな表情。
「どうしたの……?」
「あ、っと、なんだか先輩が……あ、いや、やっぱなんでもないです!」
困ったように笑うしらゆき。まぶしさに目を細めて、私を見ているとーこ。私の、私たちの、かわいい後輩。
人は、一度大切なものを失っていると、もう一度失うことを怖れる。とても臆病になる。私もそう。もう、何も失いたくない。それだけを願っている。
美夜子とひなたに結ばれてほしい。しらゆきととーこがイチャイチャしてるところを見てみたい。そのためには、今度こそ守りきらないといけない。もうあのときの私じゃない。
「ねえ、もうすぐ下校時間だね……。図書室、冷やかしにいこっか……」
「お、いいですねっ!」
窓を閉めると、カーテンはふわりと動きを止めた。部室を出るとき、一度ふりかえって窓の方を見る。淡い、赤い、光。
私はまだここにいる。あこがれを胸に抱いたまま。私はまだ待っている。いつかまた会えるんじゃないかなんて考えてしまっている。私はそんな自分を、どうしたらいいのか分からずにいる。
私がこの学校を卒業するとき、時間は私を置き去りにすると思う。過ぎていく時間を見送る日々の中で、いつか私はここに帰ってこよう。先輩がいる、先輩との思い出の中に。
笑顔を、声を、手のひらのぬくもりを、私は何度でも思い描いて、あなたと二人きり。この夕焼けの世界で、私はあなたと二人きりになる。




