第5話 「まっさらなノート」
6月の上旬に発行される今年度はじめての部誌。その締め切りは、5月の末日が日曜日だったので、5月28日ということになった。今日は4月16日。中間考査があることを考えると、あと1月ちょっとしかなかった。
宿題を終えて、姉さんからもらってきた大学ノートを開く。そして、何かを書き始めてみようとペンを持つ。でも、何も書けない。
美夜子先輩によれば、物語は「自分の想いを言葉にする」ということ。私は、私の心の中を見てみたけれど、そこには何もなかった。言葉に出来そうなものは何一つ。あるのは、言葉にするには今の私にとってとっても重い姉さんへの想いと、言葉にしてもなんにもならない、小さくて誰にとっても意味のない、私のことだけだった。
だから私は何も書けなかった。うっすらと蒼い罫線の引かれた真っ白なノートの前で途方に暮れることしかできなかった。
そういえば……しらゆきはずいぶん楽しそうにしてた。これから自分が何かを書くということが、とってもうれしいみたいに。
ペンを置いて、椅子の背に背中をぐーっと預けてみる。そして、何かないかなって考えて、ふと昔のことを思い出した。
私が初めて長い文章を書いたのは、小学校5年生か6年生のときの作文の授業だったと思う。学校生活を題材にとって、自分が印象に残ったことを書くという授業だった。
そのときも私は書くことに困った。何を書けばいいのかわからなかった。誰かに自分の感情を見せることをとても怖いと思っていた。もし誰かを傷つけてしまったら? もし「お前、そんなこと考えてたのか!」ってからかわれてしまったら? そんなふうに考えて、何も書けなかった。
結局、私が書いたのは自分のこと。自分が朝起きて、学校へ行って、夜寝るまでのことを、「何をして、何をした」というふうに連ねていって、そうして決められた原稿用紙の枚数を埋めた。ところどころ、「自分しかしないだろう」ということは書かなかった。自分のことのうち、誰でもすることだけを選んで書いた。私の書いたものは誰の記憶にも残らないだろうって思ったし、それでよかった。そして、その試みはたぶん成功したと思う。
その授業では、机の列ごとに回し読みをして、その列でいちばん良かったものがみんなの前で読まれることになっていた。私が覚えているのは、クラスのお調子者で有名だった新川くんの作文だった。名前を呼ばれて前に出る。丸顔にくりくりした目、短く刈り込んだ頭、真ん中に星をあしらった少しだぶだぶしているパーカー。照れくさそうに周りを見回して、原稿用紙を広げる。
「プールの思い出っ!!」
すごく張った声。声変わり前の男の子の少しキンキンするような。題名を読み上げただけなのに、みんなもう笑っていた。
その作文は、ある夏の日のプールの授業のことを書いたものだった。本当にただそれだけだったのに、彼が読み進めて、クラスの誰かが出てくるたびに、みんな楽しそうに笑ったり、うれしそうに手を打ったりした。自分のことを書かれたと思った男の子が、
「おまえなあっ!!」
と、合いの手をいれ、みんなはまたどっと笑った。私もその作文の中に「泳げなくて、プールのすみで息つぎの練習をしている女子」として登場していた。私はその作文の何がおかしいのか、よく分からなかった。それなのに、おかしくてたまらなかった。笑ってしまうのが恥ずかしくて、懸命に笑いをこらえていた。
そして彼は読み終えた。上気した満足そうな顔。みんなが拍手して、彼はその拍手の中、自分の席へと戻った。彼が自分の席へ戻るとき、原稿用紙のマス目からはみだしそうな、濃い鉛筆で書かれた踊るような文字が見えた。
あの原稿用紙は今どこにあるんだろう? 私はそんなことを考えた。
そんなことを考えていると、ずいぶん時間が経っていた。ノートは真っ白のまま。私はノートを閉じて、姉さんの部屋へ遊びに行くことにした。
姉さんは机に向かっていた。ノートパソコンで、大学のレポートか何かを書いている。私は少し姉さんの邪魔をしようと思って、後ろから姉さんの肩に手を置いた。そして、そのまま姉さんの髪の毛の匂いをくんくん嗅いでみた。姉さんの使うシャンプーの匂い。とてもいい匂い。
「とーこ」
「うん」
姉さんが私の名前を呼んだ。姉さんは私がこういうことをするのに慣れているから、ちょっとやそっとでは、こっちをむいてくれない。でも、私はそういうのも好きだった。姉さんが何かやっているところに、いろいろちょっかいをかけるのが。私がいろいろ邪魔しても、姉さんは結局、最後までやってしまう。食事の支度も、お掃除も、宿題も。だから私は安心して、姉さんにいたずらすることができた。
肩に置いた手を、こんどは胸の方にまわして、少し揉んでみる。パジャマの下には何も付けていない姉さん。やわらかく重たい感触。そしてとてもあたたかい。姉さんの胸を手のひらで包み込むようにしても、だいぶ余ってしまう。その感触にドキドキしながら、私は姉さんのくびすじに、チュッとキスをした。
「とーこ」
姉さんがまた私の名前を呼んで、自分の左手を私の左手に重ねる。
「うん」
私は姉さんの髪の毛にそっとくちづけて、姉さんから離れた。そして、姉さんのベッドにぱふんと横になる。姉さんの部屋にカチャカチャとパソコンのキーボードを叩く音が響いている。私は姉さんの掛け布団を引き寄せて、匂いを嗅いでみる。とても安心できる匂い。
机に向かっている姉さんの背中。その横の本棚が目に入る。高校のときの参考書はほとんどそのまま残っていたけれど、マンガや雑誌は少し減っていた。そして、大学のテキストが一番手に取りやすい位置に来ていた。
私はベッドから起き上がって、本棚から雑誌やマンガを適当に抜き出して、またベッドに戻った。女性誌ではダイエットの特集をやっていた。姉さんには必要なさそう。マンガの方は、姉さんが高校生のころに流行っていた二人の男の人がヒロインを取り合うという内容のものだった。二人の男の人の間で揺れ動くヒロインの気持ちが、とても丁寧に描かれていた。でも、姉さんには全然似合っていなかった。二人の男の人の間で揺れ動く気持ちなんて、普段の姉さんからいちばん遠いもののような気がした。けっきょく、これらの本が姉さんの中にどんな痕跡を残したのか、私は知らない。
「とーこ?」
姉さんが椅子を回して、私の方を向いた。そして椅子を立って私の横に座る。
「どーしたの?」
そう言いながら、私に添い寝する姉さん。
「お話、考えてるの?」
そう聞かれて、私はうなずく。
「どう?」
「ぜんぜん、何も……」
ぜんぜん何も書けない。何も思いつかない。
「そっか」
姉さんが私の頭をそっとなでた。
「姉さん」
「ん?」
「姉さんは、どんなお話が好き?」
「うーん、そうだなぁ……。どんなお話でもいいけど……」
私は姉さんのやわらかい声に耳を澄ませる。
「最後はハッピーエンドになるのがいいかなぁ……」
「ハッピーエンド……」
私は姉さんの言葉を繰り返して、そして姉さんを抱き寄せた。
「はぁ……」
そのまま姉さんの胸に顔をうずめて、ため息を吐く。私のとても安心できる瞬間。姉さんのにおい、温かさ、心地よい眠気。そのとき、外の方から、車の音がした。
「あ、お父さん、帰ってきたみたい」
姉さんはそう言って、一度ぎゅうっと私を抱きしめた。きつく。私はうっとりする。しばらくそうしたあとで、姉さんは私を胸から離した。それから、ぽんぽんと私の頭をなでる。そうして、姉さんは起き上がって、部屋から出て行った。階段を降りる音と、「おかえりなさーい!」という声が聞こえてくる。
姉さんに読んでもらう私のお話は、どんなものになるんだろう?
シンとした部屋の中で、私はそんなことを考えた。