第1話 「序章/入学式の日」1
夜、部屋で本を読んでいるとき、放課後、誰もいない教室でぼんやり窓の外の風景を眺めているときなど、なつかしい人たちの笑い声が聞こえたような気がして、あたりを見回してしまう。
それは思い出のなかに生きる人たちにありがちなこと。
本の背表紙を眺めながら図書館の本棚の間を歩いているとき、私も確かにその声を聞いた。
いろいろの出来事をつい昨日のことのように思い出しながら、それでも、あの日々ははるか遠く、もう私の手の届かない場所にある。
ただ自分のことを……自分の気持ちのことだけを考えてた日々。
自分の気持ちを伝えることだけを望んでた日々。
いつだって伝えたいと思い、黙っていることを知らず、気持ちは伝わると思い、望めば与えられると信じていた日々。
今でも会いたい人がいる。
もし昨日へと一歩踏み出せるなら、私は未来を振り切って会いにいきたいと思う。
姉さんと、私の憧れの人と……そしてあの時間を私と共有してくれた全ての人たちに。
新聞の閲覧コーナーでは、ぼんやりした目のおじいさんがゆっくりと新聞紙を繰っている。
私は行き当たりばったりに手に触れた本を手にとって、窓際の席に座って外を見る。
窓ガラスの向こうのすこしくすんだ世界。
私も昔、そこにいた場所。
視線を戻して本を広げて、活字を追いかけるふりをしながら、私はまた思い出そうとしてみる。
私の記憶の中の、桜の花びら舞う高校の入学式の日、みんなとの出会いから。
『今日』という日も、いつもと変わらない日のように思えた。
違うことといえば、学校へ行くとき、いつも着ていた中学校の制服ではなく、姉さんのお下がりの高校の制服を着ていることと、姉さんがおととしまで通っていた高校へ来ているということだけ。
まわりには、私と同じ新入生らしい人たちがいて、みな真新しい制服に身を包んで、中学校のころからの友達なのだろうか、楽しそうにおしゃべりしながら、歩いたり自転車を並べて走らせたりしている。
袖口を見てみる。姉さんの制服は私には少しだけ大きかった。新しい制服を買おうというお父さんに、私はこれでいいと言った。姉さんのものを身につけているとなんだか安心できる気がした。
「似合うよ、とーこ」
姉さんはその日の朝もそう言ってくれた。
私が高校に進学したのは、何をしたらいいのか分からなかったから。姉さんもお父さんも、私が当たり前のように高校に進学すると思っていたから。だからせめて、私は姉さんと同じ高校がよかった。そんな理由で私は新百合ヶ丘高校に進学した。
校名に「丘」という字が付いているとおり、新百合ヶ丘高校は住宅街のはずれのなだらかな丘の上にあって、敷地内には緑が多く、池まであった。入試の日、私は池を囲むベンチの一つに腰掛けて、姉さんの作ってくれたお弁当を食べた。冷たい風が吹いて、空には雲ひとつなくて、気持ちのいいところだな、姉さんもこの場所が気に入ったからこの学校に決めたのかなって思った。
自転車置き場に自転車を置いて校門へと歩く。
校門をくぐって校庭に入ると、そこでは色とりどりの旗が立てられ、にぎやかな声が飛び交い、新入生に向かってチラシを配っている人たちの姿が見えた。
チラシを渡された新入生たちはひたいを集めて、そのチラシを読み、楽しそうに笑っておしゃべりを始める。それは私がはじめて見る部活動の勧誘の光景だった。
そんな光景に少し息苦しさを感じた。私はそういう性格だったから。そのときにはもう、はやく家に帰りたいと思っていた。家に帰って自分の中に閉じこもりたい。姉さんにわがままを言いたい。他の人には何も期待していなかった。誰も私の欲しいものをくれなかったから。環境が変わることによるほんのかすかな気分の高揚は、いつも退屈な日常の中にまぎれて消えてしまうと知っていたから。
校庭を突っ切って校舎のほうへ、私はうつむいて歩く。その途中で。
前から3人の女子生徒が歩いてきて、出会い頭、私は顔を上げて、その中の一人と目が合った。
ストレートの長い黒髪、気の強そうな整った顔立ち。私を見てはっとする。その人の左隣にはこげ茶色の髪の人懐っこそうな笑顔の人がいて、真ん中の人の背中をぽんと押した。「がんばって」っていうみたいに。右隣には長い黒髪を二つ結びにした人がいた。真ん中の人のためらいを見透かしたように少し意地悪な笑みを浮かべて、ついっとその耳元にくちびるを寄せて何かささやく。真ん中の人は、その右隣の人をむっとにらんで、それからもう一度私のほうを向いた。
私はあわてて目を逸らして、その人たちのわきをすり抜けようとして……
「あの……」
私は呼び止められる。
「こ、これ……」
差し出されたのは紙片……部活勧誘のチラシ。
気の強そうな顔立ちに、おずおずと私の様子をうかがうような表情を浮かべて、彼女は私にそれを差し出している。
「あ……ありがと、ございます……」
私はその表情に促されるようにチラシを受け取って、そそくさとその場を後にする。
「やったあ! まずは一枚だね!」
そんな弾んだ声が、私の背中のほうから聞こえてきた。
入学案内と一緒に送られてきたクラス割り表によれば、私は1年4組で、その教室は一番北側にある校舎の中ほどにあった。教室の扉の前には人だかりがしていた。後ろから見てみると扉に席順の表が張り出されていて、私の席は窓際の一番後ろの席だった。心の中でガッツポーズをした。そこは私にとって一番居心地の良い席だったから。
教室の後ろの扉から入って自分の席にたどり着く。隣の席にはずいぶん分厚い眼鏡をかけた男の子がいて、なんだか分厚い本を読んでいた。
自分の席に着くと手持ち無沙汰になった。椅子に寄りかかるふりをして隣の席の方を見る。ブックカバーをかけていて表紙は見えないけれど、アルファベットや数字の並んだページが見えて、読んでいるのはコンピューター関係の本のように見えた。私も何か読んでいようと思って、暇つぶしのために現代文の教科書をかばんに入れていたのを思い出す。取り出してみると、さっきもらったチラシがページの間に挟まっていた。
ふと目を上げると、私の前の席に向かって一人の女の子がやってくるのが見えた。ポニーテールを揺らして、ものめずらしそうにきょろきょろと辺りを見回している。口元には楽しそうな笑みが浮かんでいて、手には部活勧誘のチラシが束になっていた。一瞬、私とも目が合う。彼女は「お」という顔をしたけれど、私の方が目を伏せてしまう。そうして彼女は自分の席に座ると、手に持ったチラシを読み始めたようだった。
私も手元にあるチラシを見てみる。その一行目には「文芸部へのお誘い」と書いてあった。
そのとき、机に「どさり」とかばんを置く音がした。顔を上げると、髪の色こそ黒いけれどお調子者然とした軽い感じの男の子が隣の席のポニーテールの子に、にやにや笑いかけている。
「おい、冗談だろ?」
「あれー? どちら様ー?」
彼の方を見たポニーテールの子も、にやっと笑って応じる。
「いやまあ、クラス割の紙見た時点でいやな予感はしてたけどさ……」
「いやな予感ってなによ?」
その男の子は、ポニーテールの子の方を向いて背もたれを肘掛のようにして座りながら、大げさにため息をついてかぶりを振ってみせる。
「なんつーかさぁ……よっしゃー高校生活はじまんぜぇ~絶対甘酸っぱい思い出つくったるずぇ~てな感じで意気込んでやってきたら、隣の席の奴がお前だったという……分かるか? この俺の絶望が?」
「わからないけど? ま、安心しなさい、あんたに彼女とかできないと思うし!」
「俺は別に彼女がほしいんじゃねえんだよ。『新百合ヶ丘高校』……こう、なんかありそうな感じだろ?」
「なにそれ? なんか、ってなによ?」
笑う女の子。そのとき男の子の方がふとこっちを見て、二人のやりとりを眺めていた私と目が合った。
「おっ、ども。おれ、長峰大地。大地ちゃんって呼んでいいから」
「あ……はい」
とっさのことだったから、思わず間抜けな返事をしてしまう。
「ごめんね。こいつバカだから。相手しなくていいよ」
何のこだわりもなく、ポニーテールの子も私に話しかける。
「あ……いえ……」
「あたし、神山しらゆき。よろしくぅ~」
「あ、文村……冬湖です」
そんなことを話していると先生が教室に入ってきた。先生は中年の男の人で、髪の毛がだいぶうすくなっていた。
「みなさん、よろしいかな?」
そう言いながら教室を見回す先生。そのとき、長峰くんが神山さんにそっとささやく声が聞こえてきた。
「なあ、あれもうちょんまげにした方がよくね? 真ん中をこう、がーっと刈り上げてさ」
「さいってー」
神山さんはくくっと笑う。
「それじゃ、入学式に出ようか。廊下に並ぼう」
廊下に並ぼうと立ち上がって何気なく窓の外を見たとき、さっき文芸部のチラシをくれた人たちが中庭を横切っていくのが見えた。私にチラシをくれた気の強そうな人の背中を左右の二人が叩いたりなでさすったりしている。真ん中の人はうつむいていて、その表情はよくわからなかった。
入学式はひどく退屈だった。はやく帰りたいとそればかり考えていた。式が終わった後は教室に戻った。いろんなプリント用紙が配られ、学校生活についての色々な注意があった。そうしてその日は終わった。
放課後になって、みんなは先生を囲んで質問攻めにしたり、となりの席の人とおしゃべりを始めたりしている。
「しらゆきぃ!」
「おっ、リカコぉ!」
「私、1組ぃ~」
「おお~」
私の前の席では、神山さんの中学校時代の同級生らしい人がやってきて、神山さんとおしゃべりを始めていた。
「あっ、りっぴー、おひさ~」
長峰くんが裏声を出す。
「あ、ごめん。あんた誰だっけ?」
「ひでぇなオイ!」
となりの席を見ると、眼鏡くんはもういなくなっていた。私ももう帰ろうと思って、かばんにプリント類を放り込んで教室を後にした。
教室を出るとき、どっと湧く笑い声を聞いた。それは神山さんたちの声だったように思う。