1ー3 プロポーズ
僕の家は普通の住宅街にある普通の家だ。
そんな家に彼女という存在は、ひどく似つかわしくなかった。まるでコンビニにファグラが置いてあるような……少し違うか。
「どうぞ」
テレビと対面する形で置かれたソファーに腰掛けた彼女の前に、麦茶の入ったを置く。
何を出そうか一瞬迷ったが、コップ今更恰好つけても仕方ないと思い、いつもの物を出した。
「ありがとう」
それを手に取ると、彼女は一口含んだ。特に反応はなかった。
内心、ほっと胸を撫で下ろす。
「お父様はいつ頃お帰りになるの?」
「六時から七時の間かな」
親父は普通のサラリーマンで、大体、同じ時間に帰ってくる。遅くなる事はたまにあるが、その理由は仕事でない事がほとんどだ。
「そう」
「そろそろ、教えてくれないか?」
「何を?」
「いきなりウチに来た理由だよ」
彼女はそれを何度聞いても教えてくれなかった。
「じきに分かるわ」
そこから他愛もない話が続いた。僕は食卓の椅子に腰を下ろし、彼女の会話に付き合った。本は読まなかった。あれをしていいのは、やはり部室でだけだろう。
程なくして親父が帰ってきた。
六時二十分。概ね、いつもの時間だ。
「うおっ!」
リビングに女生徒がいるのを見て、親父が怯む。
玄関にローファーがあったので、女の子がウチに来ている事は察していたはずだが、まさかリビングにいるとは思っていなかったのだろう。
「お久しぶりです。月見里明里です」
彼女は立ち上がり、親父に向かって丁寧に頭を下げた。
それに親父も頭を下げて応える。
「どうも……って、あの月見里明里さん?」
「はい。多分」
間抜け顔を浮かべる親父に、彼女は笑顔で応えた。
「えーっと、そういう事?」
親父が僕に視線を向け、尋ねる。僕は首を横に振った。
親父は僕が恋人を連れてきたと思ったらしい。まぁ、当然の判断だが。
「突然すみません。今日はお父様にお話があって、橘君に無理を言っておウチまで連れてきてもらいました」
彼女の口調は、若干、余所行きというか猫を被っていた。
「私に? なんでしょう?」
「橘君を私に下さい」
「はっ!?」
思わず声を上げたのは、僕一人だった。
親父は突拍子もない話を、真剣な眼差しと態度で受け止めていた。
「それは、武尊を月見里家の養子にしたいという事かな?」
「はい」
彼女は真剣だった。少なくとも、僕の目にはそう映った。
「いやいや、ちょっと待て。全くもって訳が分からないんだが。僕と君はただのクラスメイトで、恋人じゃないんだぞ」
「えぇ。その通りだわ」
あっさりと僕の言葉を肯定する月見里。
「なら、なんでそんな話になる?」
色々な過程を素っ飛ばし過ぎだろ。
「言ったはずよ。私にとって恋愛と後継者問題は同じだって。だったら、付き合う前に、橘君がウチの養子になれるのか確認しておく必要があるじゃない」
やばい。頭が痛くなってきた。前々からおかしな奴だとは思っていたが、まさかここまでとは……。
「私は別に、養子だろうが何だろうがそんな肩書きに拘りはないよ。本人のしっかりした意思さえあれば」
「おいおい。なんで親父も真面目に答えるんだよ。だから、こいつと僕は別に付き合ってるわけじゃ……」
「ありがとうございます」
彼女が親父に向かって頭を下げる。
「いや、だから……」
「結婚しても、月に一度くらいは顔を出して下さいね」
「はい。もちろんです」
「おいおい」
ダメだ。こいつら、人の話聞いちゃねぇ。
近くに迎えが来ているという彼女を、そこまで送っていく。
親父と月見里は、あの後も半ば僕を無視した形で話を続け、結婚式やハネムーン、結婚生活にまで話題は及び、完全に僕は蚊帳の外だった。なので、その間、僕はずっと本を読んで過ごした。やはり、本はいい。本は僕を裏切らない。
「怒ってるの?」
背後からの声に、足を止め、振り向く。
自然、彼女の足も止まる。
「怒ってないとでも?」
「……ごめんなさい」
表情を曇らせ、俯く月見里。
溜め息。そして、頭を掻く。
何だかな。これじゃあ、まるで僕の方が悪者みたいだ。
なら、悪いのは彼女か? それも違う。彼女は彼女なりの理由で動いているだけで、そこに悪気はないはずだ。悪気がなければ、何でもやっていいかと言うと決してそうではないが。
「僕は別に君の事が好きではない」
今後のためにはっきり言葉にして伝える。
まぁ、嫌いでもないけど。
「えぇ。分かってるわ」
「なら――」
「でも、私にはあなた以外考えられないの」
僕の言葉を遮り、月見里が言う。
「幼稚園の時に隣で本を読んだからか?」
だとしたら、なんて下らない理由だ。それだけの事で、自分の一生の相手を決めるなんて。
「きっかけはそうかも? けど、理由は違うわ」
「違うというなら、是非聞かせてもらいたいね」
肩を竦めてみせる。
実際、あの月見里明里が人を好きになる理由には、少なからず興味があった。
「私はあなたをずっと見てきた。あなたは気付いてなかったでしょうけど、幼稚園から今日までずっと。その間に見てきたあなたの姿全てが、私があなたを選んだ理由よ」
「……」
なぜだろう。別に納得したわけではないのに、反論が思い浮かばない。
「あなたが今は私の事を好きでないというのなら、いつかきっと振り向かせてみせるわ」
「……楽しみにしてるよ」
「えぇ」
僕の負け惜しみにも似た言葉に、彼女は嬉しそうに頷いた。
家から歩いて三分程の公園の脇に、普通の住宅街には不釣り合いな黒い高級車か停まっていた。聞くまでもない。彼女の迎えだろう。
僕達が近付くと、車の運転席から一人の女性が出てきた。
年は三十前後だろうか。恰好はパンツルックのスーツ。髪は短く、表情は引き締まっている。運転手というより、まるでSPか何かのようだ。まぁ、どちらにしろ、職業の前に〝美人〟という形容詞がつくのには変わりないが。
「お迎えに上がりました、明里様」
女性は車の反対側に回ると、こちらに向かって一礼をした。それは、見惚れるほど見事な仕草だった。
「紹介するわ。こちら、橘武尊君、私の未来の旦那様よ」
「おい」
僕の突っ込みを、彼女は素知らぬ顔で流した。
「望月由香里です」
そう言って僕に微笑みかけた望月さんの表情は、先程までの引き締まったものとは違い、柔和で優しいものだった。
「武尊様のお姿は、何度か遠くから拝見させて頂いております。後、噂は明里様から――」
「あー。いらない事は言わなくていいから」
慌てて望月さんの口を自分の手で塞ぐ月見里。こうして見ると、使用人とお嬢様というより、年の離れた姉妹のようだ。
「もう。帰るわよ、由香里」
体を左右に揺らし、月見里が車に向かう。
「はい。明里様」
笑いを堪えるようにして、望月さんが月見里のためにドアを開ける。彼女の体がちゃんと車内に収まったのを確認してから、望月さんはドアをゆっくりと閉めた。
「では、武尊様、また。明里様はわがままですが、根は優しくていい子ですので、どうか末長くお付き合い下さいませ」
「はぁ……」
最後に一礼をし、望月さんは車の反対側に回り込み、運転席に乗り込んだ。
車のエンジンが掛かると同時に、後部座席の窓が開く。
「橘君、また明日学校で」
「ああ」
車が走り去り、僕はその場に一人取り残された。
まったく、散々な放課後だった。なのに、なぜだろう。少し気分が高揚している自分が確かにそこにいた。