1ー2 理由
「はい」
いつものように少し遅れて部室にやってきた彼女に、僕は立ち上がり、前以て机の上に置いておいた本を差し出す。
「え? 何?」
目を丸くしながらも、彼女は僕から本を受け取る。
「先週言ってただろ? 本を貸せって」
「……あぁ」
ようやく、先週自分の言った言葉を思い出したようだ。その反応からも分かるように、ただの思い付きで発した言葉だったらしい。
「ありがとう」
お礼を言い、彼女が座る。
僕も椅子に腰を下ろすと、読み掛けの本に目を落とした。
「どういった本なの? これ」
「男子大学生と女教授の恋愛ものさ」
「ふーん」
彼女が表紙を捲る音がした。
よし。これで静かに読者が出来る。
彼女に本を貸したのは、それが理由だった。さすがの彼女も本を読んでいる間ぐらいは口数が減るだろう。そうすれば、僕が読書に集中出来る。
だが、僕のそんな思惑は次の瞬間、早々と打ち砕かれた。彼女が本を閉じる音がしたのだ。
驚き、思わず、顔を上げる。とはいえ、決して顔には表情を出さないが。
「折角、橘君が貸してくれた本だもの。家に帰って一人の時にゆっくり読むわ。それに、私、橘君みたいに本と会話を同時に楽しむ真似は出来そうにないわ」
それが狙いだと思ったが、当然、口には出さなかった。
本に視線を戻す。
さすが、月見里明里、僕の予想を軽々と越えてくる。
「ところで、橘君には好きな人はいないの?」
「いないね」
なんか、先週から彼女には質問されてばかりだな。
「じゃあ、いた事は?」
「……ない」
「今の間は何かしら?」
「母親や保母さんをカウントすべきか迷ったんだよ」
「橘君はお母さんが好きだったのね」
「……そうだよ」
ちなみに、今の間はその話に踏み込んでくるのかという、驚きと不快感か入り交じった間だ。彼女があの事を知らないはずがない。
「素敵な人だったのね」
「まぁね」
敢えて、素っ気なく言い放つ。本当に、この話はしたくないのだ。
「あなたがそうなった原因はやっぱり――」
「月見里、僕はどうやら君を買い被っていたようだ」
「……ごめんなさい。もうしないわ」
僕の最後通告を彼女は文字通りの意味で理解した。下方修正した彼女の評価を少し上げる。ここで尚も話を続けるようなら、僕は彼女とはおそらく絶交していたに違いない。……いや、今も彼女とはクラスメイトという以外、何の関係性も持ち合わせてはいないが。
彼女は僕の機嫌を損ねた事を気にしたのか、それっきり黙り込んでしまった。
僕は溜め息を一つ吐き、彼女に告げる。
「君が面白半分でそういう話をする奴じゃない事は知ってるつもりだし、何か別の意図があったんだろうとも思ってる。だけど、その話をする程、僕と君は仲良くない。分かるね?」
顔を上げずとも、彼女が頷いたのが分かった。
「そもそも、なぜそんなにも僕に拘る? 君の周りにはたくさん人がいる。僕なんか相手にしなくても別にいいだろ?」
「彼らは……」
そこで少し間を空け、彼女は言い直す。
「彼らは私を見てないわ。月見里明里という人間の表面を見てるだけ。そんな彼らに、私は一ミリの興味もないの」
彼女の言わんとする事は分かるし、実際その通りなのだと思う。だが、それはある意味では仕方ない事だ。彼女はそういう星の下に生まれ、恩恵も授かってきたのだから。
「分かるわ、あなたが言いたい事は。痛い程に痛感してる」
その時、僕の頭に浮かんでいたのは、〝痛い程に痛感〟は〝頭が頭痛で痛む〟と同義語なのかという、比較的どうでもいい事だった。
「僕が周りの奴とは違うから興味があるって事か」
「違うわ。興味はあるわ。でも、理由は全然違う」
「じゃあ、何だよ?」
一体全体、他にどんな理由があるというのだ。
「……分からない。私は、その理由を君と話しながら探してるのかもしれないわね」
「答えが出たら教えてくれ」
「えぇ。きっと」
「これ」
そう言って差し出されたのは、一冊の本だった。先週僕が彼女に貸したものだ。
「どうも」
受け取った本を鞄にしまい、読書を再開する。
「感想を聞いたりはしないの?」
「……感想は?」
「話の内容自体はあまり好きになれなかったわ。でも、文章や構成は好きよ。上手いというかキレイだったわ、作りが」
「……」
残念ながら、僕と全く同じ感想だった。
「またその内、何か貸してね」
「考えておくよ」
椅子が軋む。彼女が腰を下ろしたのだ。
「父に聞かれたわ。付き合ってる奴はいないのかって」
「……」
「私は父にとって一人娘だから、きっと後継者が心配なのよ」
嘆息をしながら、彼女が言う。
「本当に、父として、娘の恋愛を心配してるだけかもしれない」
「かもね。けど、結局のところ、私の恋愛と後継者問題は切っても切り離せないのよ」
「大変だ」
出来るだけ他人事っぽく言ってみせる。実際、他人事だが。
「やっぱり、嫌? こういう家庭の女は?」
「相手が自分の好きな人なら関係ないだろ」
飽くまでも、自分の好きな人なら、だが。
「そう。なら、良かった」
「……君は僕をどうしたいんだ?」
「どうって?」
声色から察するに、演技ではなく、本気で僕の言わんとする事が分かっていないようだ。
「そんな話をして、僕にどうして欲しいんだって事だよ」
「別にあなたに何かを期待してるわけじゃないわ。今のはただの確認。あなたの考えが知りたかったの」
「そうか」
少し自意識過剰だったみたいだ。気を付けよう。
「ねぇ、子供は何人がいい?」
「……」
前言撤回。僕の自意識は正常に機能している。おかしいのは僕ではなく、彼女の方だ。
「十一人かな。子供だけでサッカーチームを作るのが夢なんだ」
「フットサルじゃダメ?」
「……」
僕の嫌みは、彼女には通じなかったらしい。分かっていて返している可能性も当然あるが。
「両親を入れてフットサルチーム、で手を打とう」
「随分、まけたわね」
まけたって、買い物じゃないんだから。
「でも、三人ぐらいなら……うん。頑張れそう」
「そうか。頑張れ」
「うん。頑張る」
ダメだ。この手の話題で、彼女を言い負かすのは僕には無理そうだ。
「この前の話だけど」
「この前?」
はて、どれの事だろう?
「私がなんであなたに興味があるのかって話」
「答えが出たのか?」
「答えっていうか、理由は分かった……というか、思い出した」
「思い出した?」
どういう事だ?
「幼稚園の年少さんの時、初め、私はみんなの輪に入れずいつも部屋の隅にいるような子だったわ。先生や友達が誘ってくれても全然隅から動かなかった。でも、ある日、一人の男の子が私の前にやってきて本を読み出したの。私に話し掛けるでもなく、ただ一人で」
そう言えば、僕も幼稚園に通い始めた頃は、みんなの輪に入らず一人で本を読んでいたっけ。
「私は逆に自分からその子に話し掛けたわ。面白い? って。そしたら、その子、とてもいい笑顔でうんって頷いたの。それがその子と私の初めて交わした会話だったわ」
そんな事もあったような……ぼんやりとしか思い出せないが。
「その子がどういう意図で私の傍で本を読み出したかは分からないけど、それ以来、私は幼稚園に行くのが楽しくなったわ。その内、他のみんなとも遊べるようになって……今度は私がその子をみんなの所に引っ張ってた。それから私は、ずっと知らぬ間にその子を目で追ってきたの。年長になる頃には話す機会は少なくなってたけど」
僕にとって、あの出来事以前の記憶は出来れば思い出したくないものとなっていた。なぜなら、大好きだった母さんの事を思い出すから。
「ねぇ、橘君、一つだけお願いがあるの?」
「何?」
「今日これからあなたの家に行きたいの」
「……はい?」