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後半

第9章 月下の丘


 ミランが沼地を抜けると背後から光がさしてきた。振り返ると東の大地に横たわる低い山の稜線の向こうから、驚くほど大きな満月が顔を出したところだった。

 闇夜だった昨晩とはまるで異なる冴えた白い光に照らされて、荒野もまたその様相を大きく変えていた。白き青年の赤い瞳をも月の光は苛まず、ゆるやかにうねる荒野の地形を淡く浮かび上がらせているのだった。


 ミランの視力では西の地平線に横たわるはずの闇の森の梢までは見分けることができなかった。しかし彼が荒野に足を踏み出したとたん、遥かな風が白い髪をなびかせた。姫もまた森を出たとミランは直感した。

 彼女が村へ近づかないよう、どこか目立つ場所で出迎えようと見回した白き青年の赤い目が、荒野を少し進んだ先の小高い丘を捉えた。



 丘に登ったミランの眼前には、さやけき月光にまどろむような夢幻的な光景が広がっていた。

 背後から低くさし込む淡い銀光のもと、昼の世界を彩る鮮麗な色彩はいっさい影を潜めていた。しかし、黒一色と見えた大地が実は精妙な影の濃淡に彩られていることが、夜空を満たした月光の下でほの見えた。ミラン自身が立つ丘の影は西に向けて大きな弧を描き、点在する岩や潅木もまた様々な形をした影を薄墨色の大地に投げかけているのだった。



 それら大小の影が伸びる先に、星のような光が一つ灯った。

 森に向けて伸びた影の橋にそって、まっすぐ近づいてきた。


 声を出す必要も、ことさら身振りで示す機会さえないままに、光はうねる髪持つ乙女の丈高き姿に変じた。登りゆく満月の光を正面から受けた白い顔がミランを見上げ、昨夜の別れ際と同じくほほ笑みかけた。


 ミランは息をのんだ。それほど美わしい姿だった。


 豊かな髪に散らされた月の光は金色のオーラのようにその姿を包み、闇の中で燐光を帯びていた瞳は緑の宝石さながらにきらめいた。墨を流したような大地の中、鮮やかな色彩をまとった乙女の姿は輝くようだった。色合いを変えた月光のオーラの中、その姿は陽光に包まれているようにさえ見えた。一瞬、ミランは遠い過去の世界を幻視したような錯覚を覚えた。


 だがミランを引きつけたのは、その笑みが示すものだった。


 昨夜荒野で出会ったときの思い詰めたこわばった顔と同じとは思えぬほど、そのほほ笑みは印象を一変させていた。そしてそれはバドルが村長に呼ばれたあの朝かいま見せたものに似ていた。ガドルがよく見せていた笑みにも似ていた。

 それは開かれた心を証しだてる笑みだった。


 けれど彼らには、彼女の笑みを彩るこの喜悦の光はなかった。閉ざされ続けていた心が解き放たれたときの、死にかけていた魂が息吹を取り戻したときの、あの忘れようのない歓喜。それが内なる柔らかな光となって、乙女のかんばせを照らしているのだった。それは淡い金色の光に混じりあい、取り戻された存在を祝福するかのようにさざめいていた。


 その意味するものがミランにはわかった。母親にさえ忌まれるばかりだった我が身ゆえ、引きつけられたのだと改めて感じた。かつて自分をとらわれなく見つめてくれたまなざしが、まっすぐ呼びかけてくれた声が、見捨てられ、ひからびかけていた魂に息を吹き込んでくれたとき、心を包んだのはこの光だった。そして薬を受け取ると逃げるように去っていく村人たちと違い、彼女はあのとき自分がガドルに向けたのと同じ喜びと感謝のまなざしで自分にほほ笑みかけているのだった。


 自分が存在する意味を初めて実感できた気がした。昨夜あの動揺のさなかにも心のどこかで感じていたものが確信を伴い戻ってきた。かつて受け入れられることで生きかえることができた自分が、いまここで別の誰かを同じように救うことができたのだと。その思いは二重の、そして無上の喜びを彼にもたらした。



 そのとき、乙女の白い手が彼を指し示した。緑の瞳はかすかにうるみ、抜けるような頬さえもほのかに上気したように見えた。そして赤い唇が、昨夜よりずっとなめらかに彼の名を紡いだ。


「ミラン……」


 そんなふうに名を呼ばれたことがなかった白き青年の胸を、甘美な疼痛とでもいうほかないものが突き抜けた。その呼びかけに応えたいという思いが瞬時に像を結んだ。自分も名を呼びたい、呼び返したいという衝動に圧倒されそうになった。


 だがその瞬間、昨夜の記憶の一こまがそれを禁じた。彼女に名を問いかけたときのあの変化、至福に輝いていた顔が一瞬にして翳り、涙さえたたえたことに動揺したまま自分は彼女が去るのを呆然と見送ったのではなかったかと。

 名前に関するなんらかの思いが彼女を苦しめているらしいとは悟られたものの、どんなものかまではわからなかった。あるいは人間だったときの名前につらい記憶でもあるのだろうか。人外のものと化したわが身の現状を際立たせるばかりなのかもしれないとの想像が頭をよぎったが、もちろん確証はなかった。あれからとりとめなく考えてはいたものの、そのことにどう向き合うべきなのかについてはなんの答えも得られてはいなかった。


 そんなミランのとまどいを、乙女はわずかに首をかしげたまま見つめていた。そのことがミランにいいようのないもどかしさを痛感させた。せめて言葉が通じたら!


 すると相手の白い手がもう一度彼を指し、小さな唇がまた彼の名を呼んだ。そして今度はその手がかたわらの潅木を指し示し、その瞳が彼の口元を見つめた。


 彼女の意図をミランは察した。ものの名を知ろうと、言葉を覚えようとしている! 潅木の名を告げると彼女はそれをなんども繰り返した。根元の薬草が、そして月が、星が、はるかな天空を流れる銀河がそれに続き、やがて乙女の額の簡素な冠をはじめとする互いの身に着けたものの名にも及んだ。それらの名を二人で呼び合うごとに、別々だった世界が重なり合っていくような感覚をミランは覚えた。眩暈にも似た感動が彼を押し包んだ。そんな彼の一挙手一投足から乙女も一瞬たりとも目を離さなかった。


 だから丘の麓から自分たちを見上げる視線になど乙女は注意を払わなかったし、ミランに至ってはそんなものが存在することにさえ気づくことがなかった。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 両腕に抱えた子ヤギが身じろぎして、幼い少女は我に返った。危うくバランスを崩しそうになったものの、なんとか踏みとどまることができた。

 上の二人まではいくらか距離もあったので、詳しい様子まではわからなかった。けれどとても夢中で、しかも幸せそうなふうに感じた。だから邪魔をしてはいけないと幼いなりに思った。


 鳴いちゃだめよと子ヤギに囁きかけると、幼い少女はもう一度丘を仰ぎ見た。月の光をいっぱいに浴びたとても美しく、そして幸せそうな人影を目に焼き付けた。抱え上げた子ヤギの暖かさとあいまって、少女はなんだか嬉しい心持ちでその場を離れ村へと急いだ。


 村の大人たちの様子は変だった。だから番をしていた群れから子ヤギがいなくなっていることにも気づいていないようだった。この調子なら誰にも気づかれないうちに連れて帰れそうだった。叱られずにすむだろうと思った。


 けれど村の裏門のところで少女は母親に見つかった。たちまち駆け寄った母親は叫んだ。


「ラロワ! 夜は外へ出ちゃいけないって、怖いものがいるってあれほど!」

「でもこの子を探してたんだもん。怖いものだっていなかった。きれいな人を見ただけだもん!」


 自分を抱きしめた母の両腕が急にこわばったのに少女は驚き、どぎまぎしながらも懸命に訴えた。


「怖いものなんかいなかったもん。きらきらした髪の女の人と、きれいな白い男の人……」

 母があげた悲鳴に少女は言葉を失った。


「ラダン! 大変だよ、ラダン!」

 駆けつけた父や大人たちの様子がみるみる変わった。そして、怯えたラロワを連れ帰った母ミロワは寝室に閂を下ろし、娘を固く抱きしめた。だがそれはラロワを落ち着かせるどころか、その腕にこもる異様な力に母の恐怖を敏感に感じた少女をむしろ動転させたのだった。


 家の外を走る足音。あちこちで上がる叫び。自分の話が引き起こした騒動に、そしてなにか恐ろしい予感に、少女の不安はただかきたてられ、禍々しい恐怖へと形を変えるばかりだった。






第10章 曙の小川


 丘の上で目にすることのできるすべてのものの名前を教えあった果てに、ミランは姫を誘い丘を下りた。そして村外れの沼から森に向けて流れる小川のほとりに歩みを進めた。

 小川に出たときには夜半をとうに過ぎていた。空を見上げた乙女が彼に向き直った。別れのときがきたことを悟ったミランの前で、白い手がなにかのしぐさをとるべく動きかけた。


 だが、ミランはそれを制した。乙女に対する怖れがなくなったいま、白き青年にとっては森もすでに恐怖の対象ではなかった。ならば森のそばまで彼女を送っていけば、いましばらく彼女とのひとときを過ごせる道理だった。怪訝そうな表情の彼女の目をミランはまっすぐ見つめ、上がりかけたままで所在なく宙に浮いたその手をそっと取った。そして先ほど教えたばかりの言葉の一つを短く告げた。


「森へ」


 彼の意図は彼女に伝わったようだった。ひんやりした手が熱を帯びたようにミランが感じたとたん、乙女のもう一方の手が彼の手を柔らかく包んだ。そして小さな、けれども嬉しそうな声が、いまいちど彼の名を呼んだ。


「ミラン……」


 そして彼らは月下にせせらぐ流れに沿って、村はずれの沼地に背を向けてそぞろ歩き始めた。


 だからミランは気づかなかった。背後の沼地の彼方、村があるはずの場所にわだかまる影の中、いくつもの小さな灯りがちらつき始めたことを。




 二人は小川のほとりをゆっくり歩きながら、あらたに目にするものを指し示してはその名を呼び交わしあった。その歩みにつれて、星々がしだいに姿を消してゆき、大きな月もまた輝きを失いつつ迫る森の彼方に没した。からになった天空が白み始めた。


 闇の森の梢の輪郭が振り仰いだミランの目にも捉えられるようになったとき、乙女が数歩前に出た。そして立ちどまったミランの前で森を背にして向き直った。右手が優雅な弧を描いて上げられた。


 まぶしそうに細められた緑の目が、しかし強い思いをいっぱいに込めて彼を見た。そして、様々なものをずっと指し続けてきた右手が彼女自身を指し示した。


「……名前を呼べというのですか?」


 言葉がまだ通じないことも忘れ、ミランは思わずきき返した。それが彼女に通じた様子こそなかったが、明るさを増す空への怖れを隠せずにいるにもかかわらず、自分をひたむきに見つめる緑の瞳がなによりも雄弁に彼女の願いを訴えていた。


 闇が薄れゆく世界に踏み留まりつつまなざしで訴えかける姫の姿に、ミランは感じた。彼女が望んでいるのはこれまでの名ではないのだと。なにか強い思いゆえ、これまでの自分と決別しようとしている、そのための名を求めているのだと。


 それだけの思いに応えるだけの名を、いきなり決めることなどできるはずがなかった。だが朝日のさきぶれに満たされつつある世界に留まるその姿が、ミランに彼女の本質を暗示した。そして彼の思いも定まった。その身の魔性にもかかわらず、無垢であり続けるその魂にふさわしい名こそ彼女のものであるべきだと。


 ミランは彼女に大きくうなづき、背後の丘を指し示した。


「明日の夜、あの丘で」


 そのとたん、乙女の姿は緑の闇に溶け込んだ。だが白き青年の赤い瞳には、まるで朝日を受けたように晴れやかな笑顔の残像が焼きついていた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 ミランは川のほとりに点在する様々な植物を集めながら村へと向かった。毒に痛め付けられたバドルを回復させる薬草、滋養に富む実や根、そして特に精神を落ち着かせる働きをもつキノコをたくさん集めた。沼のはずれにたどり着いたときには、それらは腕で抱えるほどの分量になっていた。


 やがてはバドルも目覚めるはずだった。だが彼が目覚めれば、姫とともに行くことを納得してくれるとは思えなかった。手紙に書いて置いてゆくしかないだろう。自分は喜んで彼女と行くと。村の皆ももう彼女に脅える必要はないのだと。

 薬の種類と服用についての説明を添えておけば、数日のうちに彼は歩けるようになる。あとは村へ戻り皆と暮らすようにすればいい。彼は村になくてはならない存在なのだから。彼女に対する怖れから解放され敵が野盗だけとなれば、村人たちもより冷静に対処できるはず。危機を脱することも難しくはないだろう。


 遠からず、バドルは村の実質的なリーダーになるに違いない。村を守っているという手ごたえと自信が、あまりにも激し過ぎる自責の念に由来する悪夢をそのうち破ってくれるかもしれない。そうあってほしい!

 ミランはキノコを集めながら、もはや村でただ一人の友のため心の中でひたすら祈った。


 新たな薬草を摘んだミランは、そのかげでほころびかけている蕾を見つけた。闇の中で閉ざされていた清楚な花が、陽光の中で本来の姿を取り戻そうとしているのだった。

 奇しくもそれは乙女がたったひとつの記憶を、自分は日の光の中で花を摘んだことがあったのだとの記憶を取り戻すきっかけになった花だったが、むろんそれはミランの知りえぬことだった。だが、彼は思った。この花のたたずまいこそ彼女にふさわしい。この名を彼女に捧げては、と。


 試みにその名を呼ぼうとしたミランの顔に曙光がさした。彼方の岩山の稜線から、ついに朝日が顔を出したのだ。

 思わず顔を上げたミランの目を陽光がまともに射た。だがその視界の端で、何かが動いた。


 腕いっぱいに抱えた薬草やキノコを地面に置くと、彼はかがめていた背を伸ばし、朝日を手で遮りながら彼方を見た。とたんにその顔がこわばった。


 ミランの家の戸口が開け放たれ、何人もの男たちが出入りしていた。逆光のためはっきり見えなかったが、あわただしい動きはただ事ではなかった。顔から血の気が引いたのを感じた。


 バドルの容体が悪化した? だから自分を探しているのか? まさか診立てを誤った? まだ少年にすぎない小柄なバドル!

 自分のうかつさへの怒りのあまり、ミランは叫んだ。


「バドルーっ!」

 男たちが振り向いたとたん、ミランは全力で走りだした。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 バドルは目を覚ましたとき、遠くからの叫びを耳にしたような気がした。だが、それよりはるかに彼の注意を引いたのは濃厚な植物の匂いだった。

 力の入らない上体をなんとか起こしたバドルは目を見張った。部屋中に様々な薬、材料になる薬草やキノコ等が所狭しと置かれていた。


 少年の脳裏にそれまでの記憶がよみがえってきた。彼は自分がミランのおかげで命をとりとめたことを悟った。

 あたりを見回したがミランの姿はなかった。だが、開いた扉の外に誰かの気配がした。彼が外にいると思ったバドルは力が入りきらない声で呼びかけた。


「ミラン……」


 だがその声を聞きつけて戸口から覗き込んだのは、ミランではなかった。しかもぱっと見ただけでは誰だかわからないくらい形相が変わっていた。不安と怖れにぬり潰された村の青年の顔に、バドルは息をのんだ。少年の胸にもたちまち不安が膨れ上がってきた。


「ラダン! バドルが起きた!」


 青年の声に駆け込んできたラダンの顔も同じだった。そして、ラダンとバドルは同時に相手に問いつめた。


「ミランはどこだっ!」


 互いの顔をまじまじと見つめたあと、先に問いかけたのはラダンだった。

「……知らないのか? バドル」


「……わからない。ずっと気を失っていたんだ。ミランはどこにいった? なぜあんたたちがここにいる?」

「聞けバドル。あ、あいつは……」


 ラダンの言葉を凄まじい絶叫が絶ち切った。戸口を跳び出したラダンがわめいた。

「ば、馬鹿野郎っ! 撃て! 撃たんか!」


 力が入らない手足でもがいたバドルはベッドから転げ落ちた。それでもなんとか壁につかまり立ち、戸口によろけ出た。そして前を向いた少年の目が、まともにそれを見た。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 逆光の中でくのぼうのようにつっ立っている二人の間を駆け抜けようとしたミランの耳を、凄まじい絶叫がつんざいた。言葉の体をなさぬそれは、恐慌に陥った獣の咆哮そのものだった。

 驚いたミランの足がたたらを踏んだ。赤い瞳が男たちの顔を捉えた。


 見開かれた彼らの目は恐怖の固まりだった。もはや人間を見る目ではなかった。


 驚愕に立ち尽くした白き青年の胸を、右腿を、至近距離からの矢が突き抜けた。

 潅木の硬い枝を切っただけの矢じりもない粗末な矢が、一撃で全てを破壊した。


 聞こえた叫びがバドルのものだと認識する間もなく、ミランは仰向けに沼に落ちた。痙攣する白い四肢にねばつく泥水がまといつき、激痛に砕けた意識が無明の闇に呑まれ始めた。形を保てなくなった意識がそれでも紡ごうとした一つの名を、口に流れ込む水が永遠に封じた。輝きをいや増す空の下、光を失った赤い瞳を黒い水が閉ざしていった。






第11章 黒い沼


 耳鳴りしそうな叫びさえそれと認識できぬまま、バドルの目は青年の白い姿がみるみる赤く染まりつつ斜めにかしぎ、背中から沼へと倒れ込むのを見た。弱々しくあがく手足に黒く粘る泥水がまとわりつき、朱に染まりつつある白を丸ごと呑み込み始めた。必死で呼びかけようとしたバドルは、だが声を出すことができなかった。激しい喉の痛みが自覚させた。つい今しがた叫んでいたのは自分だったと。


 駆け出そうとした足がもつれ、少年は砂地に倒れ込んだ。板の橋を渡ろうとして小川の泥水に落ちた。ほとんど四つん這いのままやっと辿りついたとき、もうミランの姿はなかった。岸辺から身を乗り出し狂ったように泥水をかき回す少年を、何人もの手が引き起こした。ミランを射た二人が脅えきった声でわめいた。


「よ、よせバドル! 腕を掴まれるぞ」

「這い上がってきたらどうするんだよっ!」


「……おまえらっ!」


 熱に浮かされた目に憎悪をたぎらせ、ふらつく少年は二人に殴りかかった。その手が一人の喉元を掴んだ。弱った指に力は入らなかったが、脅えた若者は締め殺されるような悲鳴を上げ、もう一人がバドルの小柄な体を引きはがすと狂ったように砂地に叩きふせた。


「やめろ、どっちもやめんかっ!」

 なおも拳を振り上げようとする若者をラダンが背後から抑え込んだ。口の端から流れる血をものともせず、バドルは相手をねめつけた。立ち上がろうともがきながら、少年は呻いた。

「……人殺し!」


「な、なにが人殺しだ! 俺達は襲われたんだぞ!」

「あんな血に飢えた目の奴が人間なわけがあるか!」

「あいつの目はもとから赤いじゃないかっ」

「いいかげんにしろバドル! あいつはな……」


 異様な声音に思わず身をこわばらせたバドルの目が、青ざめたラダンの顔を捉えた。


「あいつは闇姫に会ったんだ。もう人間じゃなかったんだ!」

「……ミランが闇姫に?」


 それが意味するものを受け入れられずに、バドルはあえいだ。そして見い出した疑問にすがりついた。


「闇姫がここへ来たはずはない。俺は無事じゃないか。だったらミランだって!」


 しかしすがりつく思いの少年は、ラダンが言い淀むのを見た。その一瞬、さっき見たばかりの大量の薬が恐ろしい可能性を示唆した。そして忌まわしい予感が形をなす寸前に、ラダンの言葉がそれを先取りした。


「毒矢にやられたおまえを助けるといって、日が落ちるのに奴は無理に荒野へ出ていった。そこで闇姫に魅入られたに違いない。さっき丘の上に二人がいっしょにいたのを娘が見たんだ」


 バドルの体が硬直した。絞め殺されるような声が呻いた。


「俺を、助けるために? じゃ、ミランは俺のせいで……?」


 張りつめた意識が最後の一撃にぶつりと切れた。バドルはその場に昏倒した。






第12章 真昼の闇


 真昼の陽光さえ通さぬ森の闇の中、全ての色彩を失い緑の濃淡一色に染められた乙女は夜の訪れをひたすら待ち続けていた。


 もはや昼の世界に拒まれて久しいその身は、陽光に満ちた外の世界を知覚するすべを持たなかった。夜の闇の下でなら遠くまで伸ばせる知覚の網も今は森の覆う範囲に遮断され、彼女にとって外の世界は存在しないのと同じだった。


 人間だったことを思い出すまで当然のことと疑いもしなかったそのことは、思い出してからは深い喪失感を彼女にもたらした。陽光に身を焼かれた経験により表面的には諦めに覆われたとはいえ、それは哀しみの大きな源の一つであり続けていた。ただ一つの情景だけが、思い出すことのできた光景だけがすべてだった。遠い昔、朝日をいっぱいに浴びて開いた小さな花を摘んだ自分。明るく鮮やかな緑の光をきらめかせていた森。抜けるようだった空の青。

 もはや目にすることの望めぬその光景こそ、自分が人間だった確信の礎だった。そして白き青年ミランこそなくした世界からの使者、自分の魂をあるべき世界へと誘う掛け橋だった。そこでは自分は人間として在ることができた。たとえそれがほんの一瞬の幻にすぎなくても。


 ならばとどこかで声がした。おまえは本当にそれで満たされるのか、失われると定められたその至福に酔いしれて、再びそれが失われたときのより深い喪失感に耐えることができるのかと。

 人間にすぎぬミランの命などはたちまちしおれ、枯れ果てる。その後は再び広大な森と不滅の肉体の二つの牢獄に一人残される定めではないか、と。


 わかっているわ、乙女は答えた。


 ならば、と再び声がした。人間などに心を預けてなんとする。すがりついてなんとする。いずれ失うのを怖れるあまり、己が闇へと引き込むのであろう、と。


 いいえ、決して。乙女は答えた。夜魔になり果てたこの身にもかかわらず、彼は私に人として呼びかけてくれた。私も最後まで人としてふるまう覚悟と。


 そうして目をそらし続けるのか? 内なる声が問いつめた。

 自分が生きている限り、いずれこの世は闇の森に覆われ人間は滅びゆく定めではないか。たとえ牙をふるわずとも、自分はこの世を闇に沈める化け物に他ならぬ。そんな身で人間のふりをしてなんとする。


「……ずっと、ずっと先のことよ」


 思わずもらした声はか細く、震えていた。だがその脳裏には、折れた塔の上から見下ろしたあの光景が、はてしなく広がりゆく魔の森の脈動がよみがえっていた。


「ほんの、ほんのひととき、それさえ私には許されないの?」


 内なる声は沈黙した。だが乙女はその沈黙に、それが意味するものに脅えた。心が軋み、思わず膝を屈した。両手が天空を遮る緑の闇にさし伸べられ、声なき叫びが放たれた。


 夜よ来て、と。私を人とみなしてくれる彼に早く会わせてと。今夜、彼は私に名をくれる。新たな私のよすがになる名を。それさえあれば、きっと私は最後まで人としてふるまえる。このさき彼と別れるときがこようとも、人として死ぬ彼を見送れる。この奇跡のような出会いの思い出を抱きしめて、私は必ず心を支えてゆけるから、と。


 たとえ森が大地を覆いつくす定めでも、少なくとも私は、私自身はもはや牙などふるいはしない。それがどれだけ自分を苛むかを、あの少女が教えてくれたのだから。そしてこんな私にさえ、人としての魂が息づいているのだと彼は、ミランは認めてくれたのだから。


「だから、だからせめてひととき。いまひととき、夢見ることを許して。私は、少なくとも私の心は、決して夜魔などではないのだと……」


 ついに声として放たれた願いは、しかし荒れ狂う灼熱の陽光に阻まれ、どこへも届くことがなかった。



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



 いつもの悪夢を通り抜けたバドルを待っていたのは、さらなる悪夢のひとこまだった。


 死にゆく兄ガドルの目に浮かぶ黒々とした憎念は、もはや呪詛というべき域に達していた。おまえは俺を見捨てたのみならず、ミランを守ることもできなかったのかと少女の姿をした吸血鬼や異形の化け物たちに貪られ、引き裂かれてゆく兄の目がバドルを責めていた。


 いつもなら叫びとともに断ち切られる恐ろしい悪夢は、しかし新たな場面に進んだ。もはや人間としての形を失いつつある兄に群がる魔物たちの姿が濃密な闇に閉ざされてゆき、身動きできぬ少年の足元にねっとりと流れてきた。あたりが徐々に明るくなるにつれ、流れてきた闇は黒い沼に姿を変えた。あのとき何も掴めなかった手が、泥水の中の何かに触れた。

 それが万力のような力で少年の手を握り返すとともに、何かが黒い水の中から浮かび上がってきた。白い手が、腕が、肩が、胸が浮かび上がり、目を閉じた中性的な顔がもたげられた。


 まぶたが震え、ゆっくりと開いた。見慣れたはずの赤い瞳は、だが全く異質なものと化していた。気遣わしさを押し隠していたあの穏やかなまなざしがいまやたぎるように貪婪な眼光を帯び、軽く微笑んでいたはずの白い唇の両端が引き攣れたように吊り上げられると毒蛇のような牙がむき出された。

 悲鳴とともにのけぞったバドルを誰かの手が引き起こしたが、それは男たちの大きな手ではなく、少女のほっそりした小さな手だった。身を硬くした少年の耳元で細い牙持つ唇が、兄の生き血を貪った呪うべき仇が囁いた。


「あなたがそうして眠っていたから姫は彼に出会えたの。ほら、ごらんなさい」


 黒い沼は消えていた。少女の姿の吸血鬼に背後から抑えられ、バドルは丘の頂に立っていた。その目の前に二つの人影がもつれあうように立っていた。白蝋のような顔をこちらに向けたミランを、豊かな金髪を背に流した乙女が抱きしめていた。乙女の顔は見えなかったが、ミランの顔がしだいに変わりゆくのをバドルは見た。見せつけられた。肉体を穿った牙から滲む毒が彼を汚し、貶め、ねじ曲げてゆく様を。恐怖に歪んでいたはずの美しい顔がしだいに異様な恍惚とした表情を浮かべ、ついには魔性の欲望に染め上げられてゆくのを。

 身じろぎ一つできぬまま、その光景を見せつけられるバドルの耳に少女の囁きが反響した。あなたがそうして眠っていたから姫は彼に、あなたが眠っていたから、あなたが……。


 絶望に黒々と塗りつぶされた怒りが恐怖を突き抜けた。言葉にならぬ絶叫が悪夢を一気に引き裂いた。




 見開かれたバドルの目が夕日の照り返しに赤く染まった天井を見上げた。脂汗にまみれた少年は、弱々しく呻いた。


「ミラン……」


 答える声の替わりに、身じろぎした者の怯えの気配が応じた。身を起こした少年の顔を、ラダンたちの怯えた視線が出迎えた。けれど自分を支えてくれていたあの赤い瞳はなかった。底知れぬ喪失感に捉えられ、力ない声でバドルは呻いた。


「見てたんだな……」


 言葉一つ発せられぬまま呑まれたような表情を浮かべて壁際に固まっているラダンたちに聞かせるともなく、空ろな声で少年はつぶやいた。


「あいつは、ミランはいつも俺を支えてくれた。悪夢に憑かれた俺を慈しんでくれた。夢のない安らかな眠りをもたらす薬をくれた。ミランは……」


「な、なあ、バドル」


 怯えを隠しきれぬ声でラダンがいった。


「こんな所にいちゃいけない。ここはいつ闇姫がきてもおかしくない場所なんだ。村へ戻ろう。みんながお前を待っている。みな不安なんだ。親父も死んでどうにかなっちまいそうなんだ。誰か頼れる者がいてくれなけりゃ俺たちは」


 なおも続けようとしたラダンを少年のどす黒い視線が射抜き、打って変わった激しい声が言い放った。


「闇姫が来る? なら俺はここで待つ。たとえ死んでもあいつに思い知らせてやるんだ!」


 硬直したラダンたちの顔が色を失うと同時に天井を染めていた赤い光も色あせた。森の彼方に夕日が沈んだことをそれは告げるものだった。






第13章 落ちた橋


 乙女は足早に森を出ると、うっすらと赤みを残す昏き空の下、封じられていた知覚の網をいっぱいに広げた。荒野の彼方のあの丘を、それは難なく捉えた。


 けれど、そこに人の気配はなかった。


 それでも乙女は彼がそこへ来ることを疑わなかった。白みゆく空に目がくらみ始めていたとはいえ、彼女は彼があの丘を指し示すのを確かに見たのだったから。


 だから彼女は昨夜と同じく荒野を渡り、ためらうことなく丘に登った。やがて彼もやってくる。そして自分をまっすぐ見つめ、呼びかけてくれるに違いない。新しい名で。素晴らしい名で。


 そのとき自分は変わるのだ。すがるような思いで彼女は自分にいい聞かせた。自分の中のなにかがそのときこそ決定的に変わるに違いないと。

 内なる声がなにか言い出すのではとの脅えを抑えつけながら、乙女は丘を登り切った。胸が苦しくなるような思いをいっぱいにたたえたまなざしを、荒野の彼方へ投げかけた。


 たちまち知覚の網が異変を捉えた。緑の瞳が見開かれた。


 沼地の中、あの家の位置に、多くの人間の気配がした。

 しかもひどく不穏な、ただごとならぬ気配だった。


 ミランと黒髪の少年だけがひっそり暮らしているはずの家に、何人もの人間たちが踏み込んでいるらしかった。なにか異常な、恐ろしい状況に彼の家は、ミランはあるとしか思えなかった。


 むりやり抑えつけていた不安が乙女を一気に呑み込んだ。長衣の裾をひるがえし、彼女は狩りたてられるように沼地への斜面を駆け降りた。



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



「闇姫を待つだと? ば、馬鹿いうんじゃないっ!」


 裏返った声でわめくラダンを、バドルの黒い、思いつめた目が見据えた。


「逃げたりなんかできるか! 化け物に襲われた俺を庇ったからガドルは倒れた。なのに俺はガドルを見捨てた。だからガドルはあいつに、やつらに食われた。骨さえ残りはしなかった!

 俺がぶざまに逃げたせいでガドルはみじめに死んだ。そのうえミランまで俺を助けようとして闇姫の餌食になったんだっ」

「もう逃げるわけにはいかない! 今度こそ戦ってやる。戦って戦って死んでやる。俺なんかが生き残ったせいでガドルもミランも死んだんだ。俺が、俺が死んでさえいればっ」


「ええい、このわからずやをふんじばれ! 殴り倒してでも村へ連れ帰るんだ!」


 ラダンの声に固まっていた若者たちが身動きしたとたん、かすめた黒い稲妻が音をたてて壁板を砕いた。


「……邪魔するな!」

 追いつめられた獣の目をした少年が、弓を構えつつ唸った。


 そんなバドルにラダンたちは脅えた目を向けたまま凍りついていたが、ついに一人の若者がわめきだした。


「こ、こんな所にもういられるか! 帰る。俺は村へ帰る!」


 戸口によろめき出て扉を開け放ったとたん、だが若者は悲鳴を上げた。いっせいにそちらを向いた全員の目もそれを見た。宵闇に金色の光を散らしつつ、荒野を渡り来る人影を!


「闇……姫っ」

 噛みしめた歯からバドルの呻き声がもれる間にも、黄金の髪の丈高き妖女は滑るように近づいてきた。


「く、来るなぁ!」

 若者が板の橋に取り付き、めり込んだ砂地から引き剥がし始めた。


「ば、馬鹿野郎! 逃げられないじゃねえかっ」

 背後から仲間に組み付かれ、若者は持ち上げかけた板を取り落とした。かしいだ板は小川に落ち、泥水に巻かれて流れ始めた。あわてて拾おうとした二人の目の前の対岸に、ついに魔性の姫がたどり着いた。


 悲鳴をあげて逃げ込んできた二人をかきわけて、バドルは戸口に出た。鍛えぬいた技はそれと自覚さえさせぬまま、つがえた矢を標的に定めた。外しようもない必殺の一撃を放つ寸前、殺意に燃える黒い目が真正面から相手を見た。


 その目が驚愕に見開かれ、弓を引いた手が硬直した。


「なんだ、こいつ……」


 バドルの口からかすかな、放心したような声がもれた。






第14章 黒い小川


 バドルの正面に立っていたのは、古えの言い伝えどおりの姿をした妖女だった。


 おりしも登り始めた月の光に正面から照らされて、宵闇に冴え冴えと輝く大きくうねる金色の髪。赤い宝玉を正面にはめ込んだ簡素な白銀の冠。抜けるように白い顔。緑の宝石のような大きな瞳。すべての特徴が、これこそ魔の森に身を潜め、数多の国さえ緑の闇に沈めてきた吸血鬼であることを示していた。

 けれど足下の黒い小川に鮮やかな影を落としたその姿の異様なまでの美しさは、言い伝えが全く描き出せずにいたものだった。月下の美の精髄のごとき妖女の姿は、そんなものを想像さえしていなかった少年の背筋に衝撃を走らせた。


 だがその衝撃さえ、その顔が浮かべる表情への驚きに比べればものの数ではなかった。


 冷酷に獲物を見据えるはずの目が、だが隠しようのない不安に揺れていた。おぞましい欲望への邪悪な期待を浮かべているはずの顔が、胸苦しいまでの動揺をあらわにしていた。それはまるで大切なものを見失い動転しているかのような、そんな様子とさえ見えた。


 それを裏づけるかのように、人外の美姫は丈高きその身を伸び上がらせるようにしてバドルの、そして家の奥の壁に身を張りつかせて固まっているラダンたちの顔へと順々に視線を走らせた。見られたラダンたちが押し殺したような悲鳴を上げたが、視線を一巡させた闇姫は彼らへの関心を無くしたようだった。およそ獲物の物色とは思えぬそぶりだった。誰かを探しているようにしか見えなかった。あまりに意外なことの連続にバドルはなかば呆然としながら、不安に心乱しているとしか見えぬ闇姫の姿を見つめていた。


 魔物たちを引きつれていたあの少女の姿の吸血鬼は、遠目にも鮮やかだった赤い目と炎を照り返した牙の印象ばかりが残っていた。魔物たちとの戦いになだれこんでしまったため、少女にそれ以上目を向ける余裕がなかったことをバドルはいまさらのように実感した。

 だが目の前にいるこの妖女は、渇きに瞳を燃やしてもおらず、牙をむき出してもいなかった。非現実的なまでに美しい姿ゆえの人間離れした印象さえ、顔に浮かんだ表情に、不安げにあたりを見回すそのしぐさにあらかた削ぎ落とされていた。ほとんど人間としか見えぬ闇姫の姿に、少年はいまや混乱していた。


 そのとき、闇姫の緑の瞳が再びバドルに向いた。身を硬くした少年を、すがるようなまなざしが捉えた。か細い、震えを隠せぬ声が耳に届いた。

 忘れられた言葉の後、異質な響きと抑揚の終わりにただ一つ、小さな赤い唇が耳慣れた言葉を、決して忘れることなど許されぬ名を紡いだ。


 ミラン、と。


 打たれたように立ち尽くす少年の耳に、明らかに問いかけだと知れる不安げな、ひどく切なげな声が再び聞こえた。もはや何といっているのか、疑う余地などなかった。


 ミランはどこ?


 ただ一つの名がその瞬間、受け入れられるはずのない事実を、毒矢のように少年に突き立てた。それは動かぬ証拠だった。目の前の妖姫がミランと出会っていたのだということの。

 よじれた心のあげる軋みが、呻きと化して食いしばった歯からもれた。バドルは思い知らされた。自分がそうでないことを心中どれほど願っていたのかを。今朝の彼は自分の知るミランのままで、荒野から帰ってきたのだと信じたかったかを。


 だが願いは、望みは今や砕かれた。その衝撃の中、突然一つの疑問がバドルを捉えた。それは彼ならばこその疑問だった。別の吸血鬼と遭遇した経験を持つ彼ゆえの、夜ごとの悪夢に連なる恐ろしい疑問だった。


「……なぜ、ミランの名を知っている?」


 魔獣を連れた少女の姿の吸血鬼は、自分たちに名を尋ねたりはしなかった。ならば。


「……どうやってミランの名を知った?」


 口にしたミランの名に目を見開いた魔性の姫を、バドルの黒い目が見据えた。


「牙にかけるだけでは飽き足らなかったとでもいうのか」


 胸苦しいまでの思いをたたえた緑の瞳に、脅えのようなものが混じったのをバドルは見た。あまりにも人間的な、か弱いとさえ見えるその様子に、彼は受け入れることができない真相の一端を直感した。耐えられなくなった少年はついに叫んだ。


「おまえはミランになにをしたんだっ!」


 怒声にたじろぐように一歩下がった相手の姿は、だが考えてはならぬ疑念をかえってかきたてた。もしミランと出会ったときも闇姫がこんな様子だったなら、彼は……?


>長く二人で暮らしていながら、ミランの何を見ていた?<


 兄ガドルの声が、そうと知らぬ間に形を変えた己の内なる声がバドルを責めた。


>あれほどミランにすがっていながら、おまえは彼の気持ちを、人間扱いされぬ者の思いを何一つわかりはしなかった<


 もはや言葉もなく立ち尽くす少年の耳に、人間まがいの美姫と名を呼び交わすミランの声の幻聴が響いた。


>おまえが彼の思いを察せず支えることができなかったから<


 思わず耳を抑えたバドルの脳裏に、見殺しにしてしまった兄の声が膨れ上がった。


>ミランの心に闇姫などがつけ入るのを防げなかったのだ!<


 突き上げてきた激情は悔しさという他ないものだった。

 それでいて、そんな言葉では言い尽くせぬものだった。


 胸を開けなかった悔しさ。

 彼を守れなかった悔しさ。


 最後まで兄ガドルのようにふるまえず、呪わしき妖女に遅れをとってしまった無念さ。


 ついにそれは、ミランの肉体ばかりか心まで丸ごと奪い去った吸血鬼への、化け物の身でありながら人間を模倣するおぞましい妖姫への狂おしい憎悪へと転じた。バドルの心は激しくよじれ、涸れ果てたはずだった焼けつくような涙までもが両の目から絞り出された。なおも両手を差し伸べて何かを訴えようとする闇姫の色を失った顔を、我が身を毒する悔し涙を抑えられぬ目がにらみつけた。


「そうして、そんな顔でミランをたぶらかしたのか!」


 その言葉に返すように細い声がミランの名を呼んだのを聞いた瞬間、バドルの怒りが爆発した。


「化け物のくせにあいつの名を呼ぶなあっ!」


 絶叫とともに放たれた稲妻のごとき矢は闇姫の胸から背中へと突き抜け、羽織ったマントを猛禽の翼のように跳ね上げた。家の中でラダンたちが悲鳴を上げたが、そんなものはバドルの耳には届かなかった。驚愕のまなざしを自分の顔に向けつつも、胸の前に短く突き出た矢羽に手をかけた妖女に、少年は残る矢を一気に叩き込んだ。たちまち針を立てた山嵐のごとき姿になりながら、それでも闇姫は倒れなかった。行き場をなくした激情と己の無力への絶望にわし掴みされ、バドルは空の矢筒を握りしめたまま号泣した。


 呼応するように、もう一つの叫びが響きわたった。


 バドルは、そしてラダンたちは見た。その丈高き半身をよじり天を仰いで叫ぶ妖姫の姿を。そして聞いた。悲嘆に塗り潰された絶望の声音を。


 それは誰の耳にも、悲鳴としか聞こえぬものだった。


 両手を天に差し伸べつつ、闇姫は逃れるように身をひるがえし何本もの矢に打ち抜かれた背を向けた。たちまち荒野を渡りきた颶風が、その体を巻き込みながら竜巻のように吹き上げた。


 その場に倒れ込んたバドルたちが顔を上げたとき、もう闇姫の姿はどこにもなかった。






第15章 二つの闇


 よろめきながら立ち上がったバドルの耳に、ラダンの放心したような声が聞こえた。


「……逃げた、のか?」


 振り向いた少年の目が、立ち上がったものの信じられぬ思いを隠せぬラダンの顔を、同じような表情を浮かべ立ち上がってくる男たちを捉えた。自分も同じような顔をしていることを、バドルもまた激情の爆発のあとの虚脱感に捕われたまま他人事のように感じていた。だが、


「闇姫を追い払った……」

「凄え……」

「ゆ、勇者だ……」


 呻くようなその声にバドルは怯えを聞き取った。そして少年は悟った。彼らの目には自分が化け物じみた存在に映ってしまっていることを。振り払えぬ虚脱感の中、バドルもまた呻いた。


「……なんだよ。そんな目で見るなよ。あいつは、あいつは勝手に逃げたんじゃないか……」


 答えは返ってこなかった。だが彼らの顔に浮かぶ表情が全てを語っていた。自分の居場所はもう村の中にはないと。この沼地の難破船のようなあばらやで、自分は闇姫の潜む闇の森に向き合う防人として独り過ごす定めに置かれたのだと。


 もはやなにをいう気力もなくしたバドルを残し、ラダンたちはそそくさと逃げ帰っていった。バドルには知るすべがなかった。自分を襲うこの絶望的な孤立を、瀕死の自分を置いて去ってゆく彼らを見送るしかなかった数日前のミランもまた感じていたのだということを。


 なぜか闇姫はもう来ないような気がした。確かなのは恐ろしい予感のみだった。これからも夜ごとの悪夢との凄惨な戦いだけは続くのだと。白き青年の支えが失われたいま、このがらんとしたあばらやの中たった一人で立ち向かうしかないのだと。

 そしてあばらやが荒廃してゆくように、自分の心がじわじわと狂気に蝕まれてゆく無残な確信が少年を脅かした。


 恐慌に陥る寸前、必死にあがく理性がなにかを掴んだ。それは疑問だった。二人の吸血鬼が残した疑問だった。


 少女はなぜ自分を逃がしたのか。

 そして、闇姫はなぜ逃げたのか。


 弓矢が効いた手応えはなかった。だからそれが原因だとは思えなかった。なのにあの妖女たちは、そろって不可解としかいえぬ奇妙な行動を見せたのだった。


 バドルの勘が告げた。そこにはなにか秘密があると。武器では決して傷つけられぬ魔性の妖女たちに奇妙な行動を強いるだけのなにかが。

 それを付きとめることさえできれば、そのときこそ奴らに一矢報いることができる。その可能性がある以上、おめおめと狂気になど陥ることがどうしてできようか!


 俺にはまだ、やらねばならないことがある!


 無力感に、絶望に潰えかけていた気力を憎しみがかきたてた。破滅の瀬戸際に追い詰められた自我が、たった一つの足掛かりをもとに捨て身の反撃に転じたのだ。過酷な戦いを切り抜けてきた意思力が情念を制御し、狩人の光を宿す目で黒髪の少年は虚空を睨んだ。しかし悪夢の刻の始まりを告げる無慈悲な闇は、そんなバドルの小柄な姿を廃墟のようなあばらやもろとも呑み込んでゆくのだった。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 荒野の東の沼地のあばらやが闇に閉ざされた同じ時、西の森の広大な闇に乙女もまた閉ざされていた。


 背中に突き抜けた矢もそのままに、彼女は光苔に覆われた樹の根元に取りすがり力なくむせび泣いていた。どうしてこんなことになったのかと、折れた心がただそれだけを繰り返していた。


 なにが起こったのか、具体的なことはまるでわからなかった。だが二つの確信が乙女の脆い心を打ちすえ、奈落へ突き落としたのだった。


 ミランは死んだ。それもなにか恐ろしい死に方で。


 それはミランが命がけで助けたあの少年をあれほど悲しませ、しかも自分のせいで彼が死んだと信じ込ませてしまった。


 沼地の家にミランの姿はなかった。怯えて逃げ惑う見知らぬ男たちをかきわけて、あの少年は姿を現わした。そしてなぜか呆然とした面持ちで自分を見つめた。


 だが不安にかられてミランはどこかと問いかけたとき、少年の顔に浮かんだのは絶望だった。恐ろしい、受け入れられぬ予感に自分がたじろいだとき、少年の目に激しい憎悪が燃え上がった。おまえのせいだ、おまえのせいだとその黒い目が責めていた。


 自分は知らない、自分ではないと必死に訴えようとすればするほど少年の悲しみと憎悪は燃え盛り、ついに悲痛な絶叫とともに彼は自分を弓矢で射抜いた。不死身の体が痛みを感じなくても、その絶叫に、矢を射尽くした後の号泣に突然すぎるミランの死という無慈悲な事実を突きつけられ棒立ちの心は、叩きつけられた憎悪と悲しみの塊をまともに受けて挫かれた。


 悲鳴をあげた心に感応した魔の森の守護の力が発動し、気がつけば自分はここにいた。この緑の闇の永遠の虜囚にすぎぬことを見せつけるかのように。いかなる希望も試みも、願いすら無残に潰えたのだと思い知らせるかのように。


 彼女の心は慙愧の念ただ一色に染められ、黒髪の少年の憎悪に呪われた魂は同じ問いかけを力なく繰り返すばかりだった。



 私が願ったことは、しようとしたことは、こんな結果に終わるしかないほど間違ったことだったのかと。


 呪わしい現実から目をそらし、人と見なされることを夢見た。ただそれだけのことが、これほど許されぬことだったのかと。



 いまや乙女の心には、斧を打ち込まれたような深い傷が大きく口を開け、不滅の肉体の牢獄に繋がれた瀕死の魂が軋むごとに、緑の瞳からはとめどなく涙がこぼれた。だがその問いに答える者どころか、この魔の森の深き闇の中には、全ての色彩を失い緑の濃淡に染まったおぼろな姿を目にする者さえ、いるはずがないのだった。


 そして生きる力も望みも失くした哀れな魂宿る不滅の肉体を、魔の森は守護しつつもその身の妖気を糧にして、深き闇の領域をじわじわと拡大してゆくのだった。



 いつか大陸を覆い尽くすその日まで。



 全てを緑の闇に呑み込むその日まで。



                                  終


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