前半
<目次>
第1章 村の境
第2章 廃墟の塔
第3章 沼地の家
第4章 村長の家
第5章 日没の家
第6章 荒野の夜
第7章 天蓋の下
第8章 屋根の下
第9章 月下の丘
第10章 曙の小川
第11章 黒い沼
第12章 真昼の闇
第13章 落ちた橋
第14章 黒い小川
第15章 二つの闇
第1章 村の境
千古の昔からエルリア大陸の西を覆う広大な最果ての森。
光も漏らさぬその森はゆるやかに、しかし着実にその範囲を広げ、多くの村や街、いくつもの国々さえも呑み込んでいた。
人間の歴史は一面において森との戦いに他ならない。そして斧や火という武器を手にして以来、戦いの趨勢は人間に有利なものとなっていた。人間同士の戦などで見捨てられた場所が緑の荒廃に帰することがあったにせよ、森がそれ自体の力で人間を退けることはなかった。
この最果ての森においてのみ人間が一方的な敗北を喫している理由は、ひとえに恐怖ゆえのことだった。この森に吸血鬼が棲んでいるというただそれだけのことが、この森を永遠に人間の手の及ばぬ魔境となさしめていたのだった。森が近づくと人間たちは街や村を捨てて逃げ出し、無人の廃墟と化したそれらを緑の闇は苦もなく呑み込んだ。
だからもう長い間、この森に棲む吸血鬼の姿を見た人間はいなかった。金色の髪を持つ乙女の姿をしているとの言い伝えが正しかったと最後に伝えられたのはもう200年以上も前、後にアルデガンを建立する僧アールダによってだった。そして、その破格の力で数多の吸血鬼を浄化した彼が唯一討ちもらした相手こそ、森の闇に染められたような緑の瞳を持ち、うねる黄金の髪に簡素な冠をいただいた乙女の姿を持つ者に他ならなかった。
その時アールダはいったという。かの者は森の魔力に守られている。森の守りを破らぬ限り、なん人も闇姫を滅ぼすことあたわずと。
だから、本来なら森の迫るルザの村を村人たちは捨てるしかなかったのだが、西部地域の長い戦乱がそれを不可能にしていた。村を一歩出れば野盗やはぐれ部隊の略奪の餌食になるのは目に見えており、それゆえ川と沼に周囲を守られた村にしがみつくほかなかった。
そんなルザの村に、いまも餓狼の群のごとき敗残部隊が襲いかかろうとしていた。
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「命が惜しくば、このルザの村から早々に立ち去れ!」
それを聞いた部隊長の無慈悲な顔に、侮蔑の笑みが浮かんだ。柵の向こうで虚勢を張っているのは村長とおぼしき老人。周りにいるのも不細工な弓を手にした男たち。それも若者の姿はほとんどなく、年をくった者ばかりが妙に目立った。しかも中には女や子供らしき姿さえちらほら混じっている始末だった。組し易しと見てとった部隊長は号令をかけようと息を吸い込んだ。
次の瞬間その口が吐き出したのは、しかし号令ではなかった。血反吐を吐きのけぞった部隊長の目が、黒髪の少年の顔を、黒い炎のごとき目を捉えた。仰向けに倒れながら少年の手にした弓を見た目が、焼けつくような己が腹を向いた。信じ難いほど太い矢が鎧の継ぎ目から突き出ているのを見た驚愕にとどめを刺され、部隊長は骸と化して崩れ落ちた。
さらに二人が喉を、顔面を射抜かれ即死した。恐るべき狙いの正確さと容赦のなさに敗残兵たちは浮き足だち、追い打ちをかける矢の雨に恐慌をきたして逃げ出した。他の村人たちの狙いは甘くほとんどが無傷で逃げていったが、一人の兵が足を射抜かれて取り残された。
ゆっくりと歩み寄る小柄な人影に、脅えた兵士は武器を捨て、両手を上げて訴えた。
「た、助けてくれ。命だけはっ」
その時、兵士は見た。少年の顔が歪むのを。黒い目に激情が燃え上がるのを。
「敵に情けを乞うのか。無様に生きていたいか。臆病者っ!」
絶望を顔に張り付けたまま、兵士は胸を射抜かれ絶命した。
少年の背後の人々から、脅えさえ混じったため息が漏れた。
「さ、さすがはバドル。勇者の弟だけのことは……」
その声を背中で聞いた少年が、ぎり、と歯を噛み締めた。
第2章 廃墟の塔
大地を覆い尽くした魔の森の光も雨も漏らさぬ天蓋の下、緑の闇の中を漂うように闇姫と呼ばれる乙女は歩いていた。眠ることのないその目は、しかし己の心の奥深くへと向けられていた。
乙女の姿は仄かな燐光に包まれ、緑の濃淡だけで彩られた虚像のようであったが、ある意味それは乙女の心象そのものだった。なぜなら彼女は我が身に対する支えを欠いたまま、途方もなく長い時を過ごしてきてしまったのだったから。
だが、かつては長きにわたり失われたものを空しく追い求めていたそのまなざしは、いまや別のものへと向けられていた。
心の中で新たに形を取ろうとしている思いへと。
闇姫の一番古い記憶は、森のはずれに迷い込んだ旅人を捕らえたときのものだった。意識の網目が人間の存在を捕捉した瞬間、森の魔力がその身を獲物のそばへ送り込んだ。風の中から現れた己の姿に驚く旅人の顔を彼女は覚えていたが、自分の心になんの波立ちもなかったこともはっきりと覚えていた。あの時の自分は我が身に対する疑念など何一つ持っていなかった。ただ吸血鬼としての本能の命じるままに振舞っただけだった。
それ以前の記憶をなに一つ持っていなかったゆえに、生まれた時から自分はこうなのだと思っていただけだった。心には一点の疑念もなく、だからなにも考えなかった。緑の闇に身を心地よく浸し、梢のざわめきを交わしあう樹々の言葉なき語りに耳を傾けるだけで満ち足りていたのだった。
永遠に続くかとさえ思われた無垢なる日々は、だがただ一輪の花によって脆くも崩れ去った。森の拡大により近づいた新たな村で、打ち捨てられた家の中に放置された一輪挿しの花を闇姫は見つけた。しおれ始めながらもいまだ開いていたその花は、夜には決して開くはずのないものだったにもかかわらず、彼女の記憶に留められていたものだった。
その記憶が、いまだ人間だった自分が太陽の光の下、その花を摘んだことがあったという記憶を呼び起こした。自分がかつては人間だったという記憶が、本当の自分はこうではなかったのだという圧倒的な確信だけが、それ以外のことは何も思い出せぬまま突きつけられた。
そしてその何も思い出せぬということが、乙女の魂を無垢なる楽園から永遠に追放した。私は誰だったのか、私は何者だったのかという問いかけが、答えを見いだせぬまま、見いだすすべさえ得られぬまま、不滅とさえ呼びうる存在を支えていたものを根底から否定し、代わるものも与えないまま突き崩したのだった。
気がつけば自分は光も漏らさぬ緑の闇の、そして滅びぬ肉体の二重の牢獄に囚われたまま、時の流れに置き去りにされた虜囚に他ならなかった。語り継がれた森の恐怖にもはや訪れる者がいるはずもなく、百年に一人来るかどうかの迷い人に問いかけても、答えどころか忘れ去られたその言葉が相手に届くことすらないのだった。
しかも自分が人間だったという確信ゆえに、乙女は吸血鬼として振舞うことさえできなくなっていた。森の癒しの魔力により大きく減じられ理性を突き崩すだけの力こそ削がれていたものの、魂への呪縛に由来する渇きもまた肉体よりはむしろ魂を蝕むものだったから、それらは拠りどころをなくした自我を両面から同時に苛んだ。
ついに耐えられなくなった乙女は、あるとき緑の闇から真昼の光の下へと逃れ出た。灼熱の白い闇の中瞬時にその身は焼き尽くされたが、日が沈むと同時に再生が始まり夜半には復活をとげてしまった。焼け付く苦痛と激しい渇きに身もだえしながら彼女は立ち上がり、伸びた牙を隠すこともできぬ我が身を嫌悪しつつも獲物の気配を探らずにはいられなかった。そして空しく時を費やしたあげく、夜明けの空の白む曙光に闇の森へと追い戻された。そして癒しの魔力が苦痛と渇きを鎮めるまでの決して短くはない時間を、乙女は惨めな思いで過ごしたのだった。森から離れることなどできはしない、我が身はとうに化け物としかいえぬものになり果てているという事実に打ちひしがれて。
最後に出会った人間は僧侶とおぼしき男だった。その手の錫杖が放つ霊光に我が身を滅ぼす力を感じたとき、だから乙女はただ目を閉じて従容と滅びを受け入れようとした。男の厳しいまなざしの奥に垣間見えた慈悲の心に全てをゆだねようとした。
しかしたちまち魔風が渦を巻き、その身は魔の森の最奥に転移させられた。我が身の浄化される機会が失われた絶望ゆえの慟哭さえどこにも届かぬところへと。
それらの記憶をひとつひとつ辿りながら、乙女は巨大な廃墟と化した古の魔法都市へとやってきた。その中央に立つ折れた塔は本来の高さの半分しかないにもかかわらず、緑の天蓋の上に広がる夜空を見ることができる唯一の場所だった。最後の記憶を振り返るのはこの場所がふさわしいと彼女はここを訪れたのだった。なぜならそれは、自我の迷宮に閉じ込められていた自分が思いもしなかった多くのことを見せてくれたものだったから。失われた過去にしがみつくしかすべのなかった自分に、新たな視座をもたらしてくれたものだったから。
崩れた塔の螺旋階段を登りながら、乙女は最後に出会った人物を脳裏に思い浮かべた。それまでに出会った誰よりも小さく華奢な、少女の姿をしていた者を。
少女は人間ではなかった。自分と同じ吸血鬼だった。自分以外の吸血鬼に会ったのは初めてだったが、つい5年前に転化したというその身がまとう妖気はまだ薄く、ほとんど人間と見誤りそうなほどだった。
しかし、その少女は驚くべき存在だった。古の言葉を解しないにもかかわらず、少女は自分と思念を直接通わせる高い感応力を持っていた。そして自分の状態をたちどころに見て取ると、残された記憶の中の青空と同じ色をした瞳で自分を見上げていったのだった。
「人間だったときの自分のことが知りたいの? それはあなたをもっと苦しめるはずよ」
「私はあなたの望みを叶えられない。でも、あなたが自分のことを知ってしまえば感じるかもしれないことなら伝えられる」
そして少女は、なに一つ欠けることのなかった記憶とそれらを全て残したまま堕ちてしまった自身の来し方を、意識の中に直接伝えてきたのだった。
想像を絶するものだった。凄絶という他ないものだった。自分よりずっと小さな、か弱いとしか見えぬ華奢な少女が歩んできた地獄としか形容できないものは。驚くべきことに少女には渇きを癒す力の加護がなかった。自分がかつて白昼の光に身をさらしたときのあの凄まじい苦悶を、か細い少女は避けるすべさえなく、ただまともに受け続けていたのだった。
しかも少女の持つ記憶は自分自身の支えになるどころか、己の所行に対する激しい罪悪感を狩り立てていた。それらは吸血鬼としてふるまうことを免れぬゆえに人間としての己を断念させるしかないところへ追い詰めながら、人間であったこと自体は片時も忘れることを許さないのだった。少女の心はぼろぼろだった。正気を保っているのが信じられないくらい魂を擦り切らせていた。そして自分のありさまを見たことで、忘却は転化した者にとって慈悲に他ならないと感じたことも率直に伝えてきたのだった。
呆然とするばかりだった。記憶を留めることがかくも苛烈な、ぎりぎりの淵に立ち続けることを強いるものだったとは。しかし我が身の経験と照らし合わせたとき、それはもはや疑問の余地がないものだった。
そして少女の姿に照り返されるように、今の自分の姿が浮かび上がるのを乙女は感じた。確かに記憶がないことはたとえようもなく不安な、存在の根底をゆるがすものだった。長い時をかけて存在を磨耗させ、削り取られるように感じてもいた。だが少女の歩みに比べれば、夢の中を歩いてきたも同然に思えた。たとえ悪夢に他ならなかったとしても、自分は少女のようにじかに苦痛に身をさらさずにすんでいたのだと感じざるをえなかった。
だから乙女は願わずにいられなかった。いつかはあの少女にも安らぎがくるようにと。
そのとき螺旋階段が途切れ、月の光が乙女の姿を照らした。緑一色の濃淡に塗り潰されたようだった姿が鮮やかな色彩を取り戻した。大きくうねる黄金のような髪が、簡素な冠にはめ込まれた赤い宝玉がきらめいた。
夜空を見上げた緑の瞳が、天空をまたぐ銀河を捉えた。少女もどこかでこの空を見上げているのだろうかと思い、乙女は銀河に思いを乗せて再び祈った。いつかはあの少女にも安らぎが訪れるようにと。
だが、その思いがはるか南のゆるやかにうねる平原で、少女に告げられたことを知るすべはなかった。
祈りを終えたあとも、乙女の目は銀河を見上げていた。ここでなら口に出せるのではないかと思っていた言葉を、けれど震える唇はなかなか紡ぐことができずにいた。
少女との出会いは乙女を変えた。自分のことしか知らずにいたゆえに陥っていた自我の迷宮から、その目をひとつ高い視座へと引き上げた。過去を失くした哀しみは消えることがなかったが、答えの得られぬ問いかけの呪縛からは解放された。
そして乙女は思ったのだった。自分をまず捉え直そうと。少女と自分は違うところも多い。少女と自分を比べることで、何かが掴めるのではないだろうかと。
その考えに至るまでには時間はかからなかった。だがそれは、乙女自身にさえ気の迷いとしか思えないものだった。だから忘れようとした。
けれど一度思いついた考えは、もう消えなかった。
あたかも魔の森が大地を覆ってゆくように、当惑する己が心の中でじわじわと大きくなってきたのだった。
少女と自分との最も大きな違いに基づく、その考えは。
「……私は、森の魔力の中にいる……」
解する者がいなくなった言葉を紡ぐその声はあまりに小さく、本当に自分が口にしたものなのかさえ判じられぬほどだった。
「……私は確かに牙持つ身。けれどもう長い間、そういうふうにふるまえないでいる……」
人を殺めずにいられぬ我が身にぼろぼろに擦り切れていた少女の苦悶がよみがえり、言葉が途切れた。沈黙の後、ようやく出た声は震えていた。
「牙持つ身でありながらそうふるまえずにいるのなら、そうふるまわずにすむのなら……」
にじむ銀河に手を差し伸べた。か細い、しかし抑えきれぬ声が訴えた。
「ならば、せめていま一度、人としてふるまってみたい……」
ざあっと風が吹き上げてきた。思わず身を固くした乙女の立つ塔のはるか下で、木々がざわめいていた。梢のうねりが塔を中心として、波紋のように広がっていった。
塔から見下ろした魔の森の姿に乙女はおののいた。黒々とした木々が大地を覆い尽くし、波紋のようなうねりははるか地平線の彼方まで、どこまでも広がり続けていた。あたかも塔に立つ我が身の妖気が、森の隅々まで行き渡るのを見る思いだった。それは自分の存在が、存在すること自体が、この森を育んでいることを容赦なく見せつけた。
少女の最後の叫びが、世界が滅びるという言葉が、かつてない実感とともに迫ってきた。緑の闇の天蓋の下では、これほどまで感じたことがなかったものだった。
たとえどうふるまおうと、自分の存在はいつか人間を大陸から駆逐してしまう。その事実を突きつけられながら、絶望に呑まれそうになりながら、ついに白み始めた空に向けて、か細い叫びが放たれた。
「私はもう人としてふるまうこともできないの? そんなことは許されないの?」
しかし叫びは虚空に消え、曙光さえ吸い込む黒き森はうねりの波紋を果てしなく描き続けるばかりだった。
第3章 沼地の家
ルザの村の西に広がる沼地のほとりに、粗末なあばらやが建っていた。
沼地の西には荒野が広がり、そのむこうに黒くわだかまるのが魔の森だった。そしてかの黒き森は、年々じりじりと荒野に侵食し、沼地へと迫り続けているのだった。
沼地はぬかるみと道とが複雑に入り組み勝手のわからぬ者には見分けさえつかなかったから、野盗や敗残兵などは到底踏み込めなかった。しかし魔の森が沼に至れば、この地もまた闇の領土と化すのは誰の目にも明らかだった。まるで船の舳先のように沼地に大きく突き出た三角州。その上に建つあばらやは三角州をいっそう船そっくりに見せていた。海の墓場に迷い込んだ難破船が、最後の破滅をもたらす岩礁へと引き寄せられるように、三角州もまたじわじわと黒き森との距離をつめ続けているのだった。
そして船のごとき三角州と陸地を結ぶのは、古びた板を渡しただけの粗末な橋にすぎなかった。
泥でできた船尾から船首へと、黒い稲妻が真横に疾った。舳先に立つ太い杭が音をたてて砕けた。
うなる弓からほとんど同時に放たれた稲妻は、離れて立つ杭を残らず粉砕した。恐るべき技、凄まじい破壊力だった。
だが、バドルの黒い目は満たされていなかった。まだ幼ささえ残した黒髪の少年の顔には焦燥の色さえうかがえた。村境の戦いから半月の間に三度、バドルは野盗の襲撃をほとんど独力で撃破した。襲撃がない日はひたすら弓の技を磨いた。それだけの力を身につけながら、だが彼自身が知っていた。こんな力をいくら身につけようと、夜ごとの戦いには決して勝てないと。
それでも彼はひたすら力を求めた。力なき自分を、臆病な自分を決して許すことができなかったから。
その顔が赤く染まった。西の地平に日が沈み、東の空が急速に光を失い始めた。それは少年のもう一つの戦いの始まりを、より恐ろしく絶望的な戦いの始まりを告げるものだった。
そしてそんなバドルの姿を、あばらやの中から白い人影が一つ見つめていたのだった。
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その夜も少年は、バドルは、あの日の戦いとさえ呼べぬ殺戮のさなかにいた。
今度こそ、と念じ射かけた矢は、またも真紅の瞳を燃やす少女の胸をあやまたず射抜いた。
しかし少女の手は、これまでとまったく同じ軌跡を描き矢羽を握りしめた。魔物たちの群もまた機械仕掛さながらの同じ動きで襲いかかってきた。いっせいに立ち向かい武器を突き立てた十人のうち、またあの六人が挑んだ敵に食い殺された。
人面の獅子のごとき魔獣が跳びかかり、思わず背を向けた自分にガドルが体当たりした。自分をかばった兄の脇腹を、毛ほどの狂いもない軌跡を辿る魔獣の尾の毒針がかすめた。
ばりばり音がした。あとの二人が噛み砕かれていた。
踏み留まれ、と念じた脚は、今夜もいうことをきかなかった。そして自分に叫びかけた兄の言葉は聞き取れなかったのに、魔獣を呼び止めた少女の透きとおるような叫びが、いまも胸を苛んでやまぬあの言葉だけがまたも耳に届いた。
「戻って! 私から離れないで!」
何もかもが同じだった。いくら矢を放つ手に力を込めようと、逃げようとする脚を留めようとしても、起こった出来事は何一つ変えられはしなかった。ただ一つ、逃げた自分が知り得なかった兄の最期だけが一夜ごとに変わっていた。少女に生き血を吸われながら、化け物たちに生きたまま手足や胴を食われながら、自分を見送る兄の死にゆく目に浮かぶ表情だけがじわじわと変わっていた。逃げ延びよとの願いがしだいに薄れ、臆病者、裏切り者と責め呪う昏い色にいまや染まり果てていたのだった。
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同じ悪夢に苛まれ続ける目が今夜も見開かれた。とうに涙など涸れた目が昏い感情をにじませ天井を見上げた。バドルは自分でそれを見ることができなかった。だから、悪夢の中の兄の目が、自分の中で膨れ上がる黒々としたものを映しているとの自覚には未だ至れずにいたのだった。
やがて黒い炎のゆらぐその目が、自分に向けられているはずのまなざしを探した。そして、水差しを持って歩み寄る白い人影を捉えた。かすれた声がその名を呼んだ。
「ミラン……」
「飲みなさい、バドル」
女のようなほっそりした手が水差しからの水を受けた器を差し出した。器からは微かに薬草の香りが立ち昇っていた。
やせた青年だった。線の細い虚弱な印象の漂う中性的な顔も、少し離れれば女と見誤りかねないものだった。見方によれば日陰の花のごとき美しさとさえ取れなくもない容姿だった。
しかし、彼は忌み子だった。どれほど離れていようと目にとまる色素を欠くがゆえの白い髪と赤い瞳は、この世界では忌まれた者であることを示す烙印に他ならなかった。渇きに狂う吸血鬼の目と始祖が持つと伝えられる白い髪を持って生まれる者。それは吸血鬼への恐怖ゆえ、その場で殺されることさえ少なくないほど呪わしい存在と見なされていたのだった。
闇の森が間近に迫るルザの村において、彼が殺されずにすんだのも皮肉なことに恐怖ゆえのことだった。忌み子が生まれたとの知らせに駆けつけた村の占師は、この子は闇姫と何らかの係りを持つ宿命にあるとの卦を出した。それがどんな係りなのかが卦に出なかったこともあり、多くの憶測が流れた果てにこの子を害すれば闇姫の怒りに触れるとの見解が大勢を占めるに至った。その結果、ミランと名づけられた忌み子は村の西の端、最も森に近い沼のほとりの粗末な家でひっそりと暮らしてきたのだった。
そんなミランの扱いに意義を唱えたのがバドルの兄ガドルだった。ミランとほぼ同じ年齢だったガドルはいつしか彼と交流を深め、ミランはあくまで人間だと主張した。そしてバドルや仲間たちとしばしばミランの家を訪れ、ついにそこで暮らすようになった。
だが1年前にガドルと仲間たちが全滅して以来、今ではバドルだけがミランとともに暮らしていた。
あれからバドルはミランの赤い瞳を直視できなくなっていた。差し出された器から一口水を飲むと、少年は器に視線を落として黙っていたが、ついにその口から呻きが漏れた。
「あいつ、なぜ俺を逃がした……」
それは何度も繰り返された問いだった。しかもバドルの声にはそのたびに、より暗い、押さえつけられた激したものがにじむようになっていた。とっくに気づいているミランが口を開こうとしたが、バドルの言葉が先行した。
「俺が弱かったから、臆病だったから、取るに足らない奴だったから!」
「バドル! そんなふうに自分を責めてはいけない」
ミランの静かな、だが思いのこもった声にバドルは沈黙した。だが、ふたたびよじるような声が呻いた。
「どうすれば強くなれる? どうすればあいつを倒せる? どこまで強くなれば……」
「吸血鬼は剣や弓矢では倒せない。わかっているでしょう? 君が弱いんじゃないんです」
ミランの穏やかな声と調合された薬草が、バドルのささくれた神経を和らげたようだった。短い沈黙のあと、少年は微かに寝息をたて始めた。いつものように、悪夢に乱されない二度目の眠りがバドルを包み込んだのだった。
ミランはしばらく寝息に耳を傾けたあと、自分よりまだ背の低い少年の肩へ毛布を引き上げた。そして空になった器を洗おうと立ち上がった。
だしぬけに風が吹いた。隙間だらけで閂がきかなくなった窓が軋みながら開いた。窓辺に歩み寄り窓を閉めようとしたミランの体が凍りついた。
窓の外に、中州から陸に渡された板の橋の向こうに人影が一つ立っていた。冴えた月から注ぐ月光がうねる黄金の髪に散乱し、冠にはめられた赤い宝玉をきらめかせた。見上げる緑の瞳には、驚いたような、おののくような、うかがい知れぬ表情が浮かんでいた。
ゆっくりと、相手は数歩近づき、板の橋の側で立ち止まった。視力の良くないミランの赤い目にも、もはやその表情がはっきり見て取れる距離だった。
小さな唇が、かすかに震えた。白い手が胸の前で、祈るように組まれた。赤い唇が引き結ばれた。
そしてそれが、ゆっくりと開いた。
第4章 村長の家
顔を撫でる夜明けの冷たい風に、バドルは目を覚ました。身を起こした少年の目が開け放たれた窓を、そして窓枠に身をもたせかけた白い青年の姿を捉えた。
バドルの動く音を聞き付けたのか、青年が振り返った。疲れたような青ざめた顔に、だがほっとしたような微笑みが浮かんだ。その赤い瞳を、バドルはまっすぐ見返すことができた。疲れ果てて窓辺で眠っていたのだと、それほどまでに悪夢に苦しむ自分を見守り続けてくれているのだと改めて思ったことでかきたてられた感謝が、それを可能となさしめたのだった。
それまでバドルは兄ガドルのようにはミランの姿を受け入れられずにいた。兄への尊敬の念ゆえに行動を共にしてはいたとはいえ、バドル自身がミランの吸血鬼めいた姿への忌避を克服できていたわけではなかった。だからこそ、それを苦もなく克服しているように見えたガドルへの尊敬がつのりもしたし、そんな兄を見殺しにしまった自分はなにがなんでもミランを見捨ててはいけないと思いつめてもいたのだった。
けれど、わかってみればなんでもないことだった。彼は自分が悪夢に苛まれ続ける夜をずっと支え続けてくれていた。高ぶる感情を抑えられず殴りかかったことさえあったのに、変わらぬ態度で接してくれていた。そして、ミランはこれまで自分には疲れたそぶりなど見せたこともなかった。それがミランにどれほどの負担をもたらしているのか自分はろくに考えたことさえなかったというのに、彼は窓辺で眠ってしまうほど疲れていながら寄り添い続けてくれていたのだと思った。二人だけで暮らしてきた一年の間にそれとは気づかぬうちに育まれてきた信頼。その根の上に花開いた感謝。もはやそれらの前に、白子の青年の赤い瞳や白い髪になんの意味もあろうはずがなかった。知らず微笑みを浮かべ、バドルは声をかけた。
「……そんなところで寝てたんだ。疲れてたんだろ?」
「あ、いえ……」
一瞬相手の顔に浮かんだとまどいのような表情は、しかしバドルの注意にとまらなかった。
「ゆっくりしてて、ミラン。今朝の食事は俺が作るから」
窓辺から台所に向かおうとするミランをバドルは手で制して、裏手に置かれた水瓶から水を汲もうと戸口に出た。すると横から声が呼びかけた。
「バドル、親父が呼んでる。すぐ来てくれ」
見ると村長の息子ラダンが馬に乗ったまま板橋のたもとで白いものが混じり始めた髭をしごいていた。
「朝飯がまだなんだ。待ってくれないか」
「飯くらいこっちで食えばいい。すぐ来てくれ」
「大事な話なんでしょう、バドル。行きなさい」
窓から顔を出したミランに、バドルはしぶしぶ頷いた。そんなバドルに見られないように気をつけながらも、ラダンはミランに呪い払いの印を切った。
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村長の家は他の農家よりいくらか大きかったが、構えや作りはさほど変わらなかった。この貧しい村では、たとえ村長といえど権力の基盤を築くほどの蓄財をする余力はなかった。
そんなルザの村を長年にわたって治めてきたルダンが、人々のまとまりをなにより重視するのは当然のことだった。それは村の内の人々に対する慈愛に満ちたまなざしと村を脅かす者への仮借ない態度という、極端に異なる二つの姿勢の根底に位置付けられたものだった。寄る年波には勝てず武器を手にすることなどできない身でありながら、村を脅かす者が現れるとルダンは常に村人たちの先頭に立ち、敵に最後通告を突きつけた。老いたる村長は村人たちの精神的な拠りどころだった。実質的に敵と戦う身でありながら、バドルもその例外ではなかった。だが……。
「早くに呼びつけてすまないねぇ、バドル」
村長の家の囲炉裏ばたに待っていたのは禿げた頭と長い顎鬚のルダンだけではなかった。ラダンの妻にしてこの村の現在の占師ミロワが隣に控えていた。型どおりに挨拶を返しながらも、だがバドルは渋面を隠すことができなかった。
寒村にあっては人目を引く容姿をいまだ保っていたとはいえ、ミロワの占師としての評判は必ずしも芳しいものではなかった。ミロワの母だった先代は日々の天候や村に襲い掛かる災厄の予兆をことごとく告げることのできる霊力の持ち主だった。それだけの力を持つ先代にして、生まれたばかりのミランの将来について確かな卦を出すことはできなかったのだが、それでも闇姫と係りを持つであろうと告げたのが先代だったからこそ、殺されるはずだった赤子は命拾いしたのだった。
占師としてのミロワは凡庸の一言に尽きた。他にましな人物がいないから先代から引き継いだ諸々の神具を身にまとっているにすぎなかった。口さがない連中は、ミロワは占師としてやっていけなかったからラダンに取り入ったとさえ噂する始末だった。
そして占いよりはましとはいえ、薬師としてもミロワは非凡とはいえなかった。少し難しい症例であれば、彼女はあからさまに不機嫌な顔で村一番の薬師をたよるように告げるしかなかった。それが他ならぬミランだということも彼女の矜持を傷つけていたのは明らかだった。
占いや薬師の才能に恵まれなかったのはミロワの罪ではない。それはバドルにもわかっていた。しかし、あの惨めな全滅を喫した戦いを戦神の奇跡と持ち上げたのだけは我慢がならなかった。たとえ村人を勇気づけるためだったとはいえ、そしてそうとでも解釈するしか説明のつけられぬ奇妙な状況だったとはいえ、あまりにも戦いの実情からかけ離れたミロワの卦はバドルをいらだたせた。なにもわかっていないくせにとの思いは憎悪めいた気持ちにまで高まることさえあった。気休めに逃避するにはあまりにも恐ろしい体験をしてしまった少年は、そしてそこから逃げ出した自分を許せずにいる少年は、惨めに死んだ兄や仲間たちに被せられた茶番めいた称号を受け入れることができず、だからといってそれをなかばすがりつくようにして信じている村人たちを切り捨てるようなまねもできずにいたのだった。そしてどっちつかずの自分を受け入れるにも潔癖すぎる、バドルはいまだそんな年頃の少年でしかなかった。
「ミランと暮らすのをやめろって?」
大声を出したバドルに、村長ルダンは重々しく頷いた。ミロワがいくぶん青ざめた顔でいった。
「忘れたわけじゃないだろバドル。あいつはもうはたちになる。闇姫がいつこの村にやってきてもおかしくない時期なんだ」
それは先代がミランが生まれる少し前に出した卦だった。これより二十年後に闇姫はこの地を訪れることができるようになる。夜明けまでに森に戻らねばならぬ闇姫が訪れることができるのは夜半までにたどり着ける距離。そこまで森が迫るのが今から二十年後であると。そして、直後に生まれたミランに闇姫との係りを告げる卦が出たことで、誰もがそれを村の滅びの日と受け止めたのだった。呪われた忌み子がはたちになる日を。
「だからって、なぜ俺がミランのところから出なくちゃならないんだ! 闇姫がミランのところへ来るから? だったらミランは俺が!」
「バドル!」
ミロワを睨みつけるバドルにルダンが一喝した。立ち上がりかけていたバドルが腰を落とした。
「おまえがあやつを守りたい気持ちはわからんでもない。それがガドルの遺志だったのだから。だが、おまえは村一番の戦士だ。皆を守り、導かねばならぬ身だ。そのおまえがあやつと暮らしていてはルザの村はこの難局を切り抜けられぬ。おまえは村の中にいて皆を束ねなければならぬのだ。村へ、皆のもとへ戻れ!」
言い放つルダンに勢いを得たのか、ミロワも言葉を続けた。
「あいつといっしょに暮らすということは、村の皆から離れて森のそばで暮らすということなのさ。見捨てられたように思う者もいれば訝しむ者もいる。なぜバドルは闇姫と係りを持つ忌み子のそばにいられるんだって、いつの間にか闇の森の妖気にあてられたんじゃないかってね」
「なにが森の妖気だ! ミランは化け物なんかじゃない!」
バドルが顔を真っ赤にして立ち上がったとき、ラダンが転がりこんできた。
「て、敵だ。親父、バドル!」
険しい顔でルダンも立ち上がった。
「この話はあとだ、バドル」
その声を背に、バドルは愛用の弓矢を受け取るやいなや駆け出した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「命が惜しくば、このルザの村から早々に立ち去れ!」
毅然として言い放つ村長ルダンの横で、だが黒髪の少年は違和感を覚えていた。村長が相手の目を引き付けている間に、少年でしかない自分が誰が頭か、誰を倒せば敵の戦意をくじけるか目星をつける。意表を突かれた敵を総崩れに追い込む最も効果的な戦法としていつしか定着していたやり方だった。
そんな戦いで研ぎ澄まされた勘が、だが警報を鳴らしていた。正面に敵の頭に相当する者がいない? 敵の後ろについ先ほどの戦いの際に見覚えがある顔を見つけた瞬間、バドルは叫んだ。
「村長、罠だっ。読まれてる!」
とたんに数本の矢が真横から飛んできた。一本がルダンの胸を貫通した。跳び退いたバドルの腕を一本がかすめた。とたんに意識が吹き飛びそうな激痛が少年を襲った。落ちた矢が毒々しい緑に濡れていた。
「毒矢か!」
とたんに悪夢の一こまがよみがえった。兄の脇腹をかすめた魔獣の毒針の軌跡がずれて、自分の腕をかすめた。なかば忘我の状態になりながら、バドルは自分の矢ばかりか敵の打ち込んだ矢までも手当たり次第に殺気を感じた方角へと射返した。ほとんど狙いなどつけていないはずのその矢は、だが潜んでいた敵をことごとく打ち抜いた。
「ば、化け物だ!」
動揺した敵に味方の矢の雨が射掛けられ、二度までも戦意を粉砕された敵は今度こそ壊走した。
だが、そのどよめきを黒髪の少年は認識していなかった。その耳はこれまで一矢も報いることができなかった手負いの魔獣の咆哮を聞き、黒い目は肩に食い込んだ矢を折ろうともがく人面の獅子の姿を幻視した。自分の口元に笑みが浮かんだのを少年は感じた。
そしてバドルの意識は、そのまま黒い沼のような闇の中に滑り込んでいった。
第5章 日没の家
バドルがラダンの馬に乗って去るのを見送ったあとも、ミランは窓辺から離れられなかった。昨夜この同じ窓から見た光景は、朝日に輝く景色の中になんの痕跡も留めていなかった。だが白い青年の赤い瞳には、冴えた月の光を浴びて立っていた乙女の姿が焼きついて離れなかった。
かの黄金の髪をきらめかせた乙女の緑の瞳には、しかし翳りがさしていた。赤い唇が紡いだのは聞いたこともない言葉だった。言い伝えによれば闇姫がいにしえの言葉で告げるのは滅びの宣告に他ならず、それを耳にしたものは生き血を吸われる定めのはずだった。だが、相手はまったく襲いかかるそぶりを見せることがなかった。ためらいがちでありながら、それでいてなにごとかを訴えずにいられない。そんな様子のまま意味の取れない言葉を、ひたすら細い声で語りかけ続けた。やがて彼女は空を見上げた。そして何度もこちらを振り返りながら西へ、森のほうへと去っていったのだった。
自分が生まれたときに占師が出した卦のことはもちろんミラン自身も知っていた。闇の森に棲む闇姫と係りを持つと予言されたことを片時も忘れたことはなかった。
だが、振り返ってみれば、その係りがどんなものなのかを深く考えたことはなかったような気がした。出会えば殺されるのに違いないとただ思っていただけだった。相手は千年もの時を闇の森とともに過ごしてきた吸血鬼。それ以外の考えが浮かぶ余地などあるはずもなかったのだから。
だが実際の出会いは、そんな単純な予想を超えたものだった。そしてそれは、なぜかミランに自身の回想を促したのだった。
村の誰とも違う白い髪や赤い瞳に逃れようもなく刻印された呪い。薬師だった母は、人々から追われるように住みついたこの家で自分の知識と技を我が子にたたき込んだ。立派な薬師になるんだ、誰にも負けない薬師に。そうすれば皆も受け入れてくれる、村に戻れる、こんな沼と荒野と森の影に脅えて暮らさずにすむようになるといいながら。それを疑うことなど少年にできるはずもなく、ミランは常軌を逸した母の教えに必死でついていくばかりだった。
だが、ことは母の願いどおりにはいかなかった。患者や身内の者たちはミランに診立てや薬の調合をさせるどころか、同じ部屋にいることさえ許さなかった。一縷の望みを絶たれた母は絶望のあまり精神の平衡を失い、森に最も近いこの沼地に見捨てられて暮らす恐怖に呑まれてしまった。昼夜を問わずうわごとをつぶやきながら辺りをさまようようになり、とうとう疲れ果てたミランが眠っていた間に姿が見えなくなってしまった。ただ村に近い沼の東の岸に、履いていたサンダルの片方が引っ掛かっているのが見つかっただけだった。
皮肉なことに、母がいなくなってようやく村人たちはミランの薬を求めにくるようになった。もちろんミランにも、母がいなくなったから人々が仕方なくそうするようになっただけだということはわかっていた。でも彼はそれを憤るどころかおかしいと思うことさえなかった。母はミランの呪いを恐れていた。その点では村人たちとなんら変わらなかった。だからミランも自分の呪いを疑うことを知らなかった。村人たちからどんな仕打ちを受けても仕方がないと思っていただけだった。
そんなある日、胸を病んだ妻を伴いやってきた男がいた。子供も二人連れていた。黒い髪と目がよく似た兄弟で、兄はミランと同じくらいの年に見えた。彼は木刀を持っていた。そして母を守るように後ろに立ち、ミランの様子を緊張した面持ちで睨んでいた。弟はそんな兄の背後から、脅えたようにミランをうかがっていた。
しかしミランの薬が母親の発作を鎮めたのを見て、兄の様子が変わった。敵意を帯びた警戒が賞賛と感謝にとってかわり、彼はばつの悪そうな顔で木刀を引っ込めた。薬の代償に川魚の薫製と固いパンを置いた父母がそそくさと立ち去っても、兄はその場に残っていた。早く行こうとせがむ弟をしがみつかせたまま、彼はミランをまっすぐ見つめて礼を述べ両親の非礼をわびた。それがミランとガドルの、そしてバドルとの出会いだった。彼らはその後も母の薬を受け取りに、しばしばこの家を訪れるようになったのだった。
ガドルとの出会いによって、ミランは母が何を願っていたのか初めて実感することができた。目が赤いだけじゃないかとガドルはいった。実の母さえ克服できなかった忌まわしい徴への恐怖を同い年の少年はものともしなかった。
母親も、そしてミラン自身さえ持つことができなかった忌まれた身へのその肯定は、ミランを生まれ変わらせた。誰にも受け入れられないことがもたらす身の置きどころのない感じ、生まれてこなくてよかったのにとの人々のまなざしがもたらす呪縛めいた思い。それが破れて初めて、白き忌み子は生きる悦びにおずおずと触れることができたのだった。それまでの自分は生きていたとはいえなかった、生きながら死んでいたも同然だったと実感したのだった。
それはなにかに似ていた。まるでそれは、そう……。
「開けろ、開けろ!」
突然の声と戸を乱暴に叩く音に、椅子にかけたまま眠っていたミランは叩き起こされた。もう夕刻だった。西日があたりを朱に染めていた。
扉を開けるとラダンを先頭に数人の男たちが意識のない少年を運び込んできた
「バドル!」
「敵の計略にかかった。毒矢だ」
駆け寄ったミランにラダンがいった。だが少年を一目見るなりミランは顔色を変えた。傷口は毒血を抜いて縛ってあった。だがそれ以上の手当がなんらほどこされていないまま、傷口にこびりついた血がすっかり乾いていた。これほどの容体でありながら、バドルが応急措置をほどこされただけで放置されていたのは明らかだった。
「この傷の様子、半日はたっていますね。なぜこんなに遅くまで連れてこなかったんです!」
「親父も、村長も殺されたんだ。だからミロワにまかせておいたんだ」
「あの人の手に負えないことくらい……」
ミランは呻いた。歯噛みする思いだった。ミロワの腕では応急措置がやっとであることなどわかっていたはずなのに、明らかに彼らは手遅れになるのが目前になるまでここへくる決心を固められなかったのだ。ルダンなら迷わず下せたであろう決断を、彼らは下せなかったに違いなかった。ガドルと仲間たちがいなくなったことで、もはや自分に好意をよせるどころかあえて接触しようとの勇気を振るい起こしてくれる者さえなくなった。己が孤立の深さを見せつけられた思いに打ちのめされながらも、そそくさと帰ろうとするラダンたちの背にミランは必死に呼びかけた。
「この毒を消すには荒野に生える薬草がいります。もう日が暮れる。手伝ってください!」
「お、おれたちは村を守らなけりゃなんねえ! 親父もバドルもいないんだぞ!」
「てめえでなんとかしろ! 薬師だろ!」
「森のそばで日が落ちちまう。そ、そんなとこに行けるか!」
口々にわめきながら、ラダンたちは走り去ってしまった。
ミランは唇を噛んだ。このままではバドルは朝まで持たない。おそらく夜半が峠。なにがなんでも薬草を取って戻るしかない。闇姫が森から出てこないうちに!
悲愴な決意にまなじりを吊り上げたミランが走り出たとたん、太陽がついに地平線にわだかまる森のかなたに没した。
第6章 荒野の夜
夜の荒野の只中に、鬼火のような松明の炎が燃えていた。その明かりに照らされて、白い人影が腰をかがめ点在する潅木の陰を這うように進んでいた。
遠目には亡霊さながらのその姿をもし近寄って見る者がいたとしても、白い髪を振り乱し赤い目を地にすり付けるようになにかを探す青年の姿を見れば、執念に迷う亡霊に出会ったとの印象はかえって強まったかもしれなかった。ミランの顔に浮かんだ切羽つまった焦燥は、それほど鬼気迫るものだった。
求める解毒の薬草は潅木の根元にしか生えておらず、おまけに頼りない松明の光の下では求める葉の形を見分けるのも難しく、必要な量がなかなか集まらなかった。しかも潅木を伝い歩くことで我が身は瀕死の少年の伏せるあばらやからますます遠ざかり、夜の闇に溶け込んだ森へと吸い寄せられるばかりだった。自分がどのくらい森に近づいたのかもわからない。もしかしたら自分はとうに魔の森の闇に呑み込まれているのかも。そんな恐怖に抗いながら地面に目をこらす青年の白い顔を、油汗が冷たく伝い地に滴り落ちた。
いつのころか聞こえていた音が梢を渡る風の音だとだしぬけにミランは気づいた。その瞬間、彼の視界の端、新たな葉を掴んだ手のほんの先の地面に、墨流しのように闇からおぼろげな紫色が浮かび出た。
それは長衣の裾の形をしていた。
ゆっくりと上を向く凍りついたまなざしを、淡い燐光をおびた人のものではありえぬ目が見下ろした。
月が群雲に隠れた今宵、それも手を伸ばせば触れる近みに立つ闇姫の姿は昨夜以上に戦慄的なものだった。しかも昨夜あれほどなにごとかを訴え続けていた赤い唇は一言も発せず引き結ばれ、光苔のような光をおびた緑の瞳がひたすらこちらを凝視しているのだった。そして凍りついたミランの前で、闇姫もまた微動だにしなかった。ただ黒き梢を渡ってきた風が、彼我のくすんだ金と銀の髪をわずかにそよがせるばかりだった。
どれだけ続いたのか定かならざる時の果て、無理な姿勢のまま凝固していた青年の緊張の糸が切れた。開こうとした口が呼吸の仕方を忘れたような喘ぎを数回くりかえたあげく、かすれた声がついに言葉の形をなした。
「わ、私を殺すのですか……」
相手がわずかに首をかしげた。薄緑の光をおびた目もわずかに細められた。けれど言葉は返ってこなかった。いくらか姿勢を変えただけのミランの身が再びこわばった。
かなりの間そうしているうち、ミランは相手が自分の言葉に、そして行動に注意を傾けているように思えてきた。言葉の意味が通じているような手応えは感じられなかったが、自分がなにかをいったりしたりするのをひたすら待っているような、そんな気がなぜかしてきた。
止まっていた時間がわずかながら動いたように感じたとたん、恐怖に押さえ込まれていた焦燥が突き上げてきた。これでは間にあわない、バドルが死んでしまう! そう思ったとたん、ミランは身を起こし掴み取った薬草を相手に突きつけて叫んだ。
「これを持って帰らないと友が死んでしまいます。お願いです。見逃してください!」
いきなり眼前に拳を突きつけられた形の相手は、だがわずかに頭をそらしたものの、むしろその目をより見開いて突きつけられたものを凝視した。渦巻く焦燥と恐怖にミランが恐慌に陥るかと思ったとき、音もなくおぼろな姿が離れた。そして潅木の根元を滑るように伝いながら、すばやく腰をかがめつつ何かを拾い集め始めた。たちまち戻ってきた影なる乙女は、あっけにとられた青年の目の前に集めたものを差し出した。
薬草の束だった。ミランがそれまで集めたよりも多いくらいの分量を、森の姫は周囲の潅木をぐるりと一回りしただけで集めてみせたのだった。差し出されたものを見つめたままミランが呆然としていると、乙女はわずかに目を伏せた。それはなぜかひどく哀しげなしぐさに見えた。虚を突かれた青年は動揺した。
そんなミランの前で、乙女は身をかがめ手にした薬草を地面に置いた。そして白き青年を見つめたまま音もなく退いた。
ミランの手が反射的に薬草を掴んだ。だがあまりにも予想外の事態に、白き青年は自失していた。ただ焦燥の駆り立てるまま、その身はよろめきながらも来た道を戻り始めた。
肩越しに振り返ると、闇姫のおぼろな影は立ちつくしたままのようだった。かいま見た哀しげな表情のせいか、闇に溶けた森のそばに取り残されたような姿がひどく孤独なものに見えた。
胸の奥に感じた痛みにミランはたじろいだ。あれは千古の魔の森を統べる吸血鬼、数多の村や街を呑み込んだ深き闇の主にほかならぬ。そんなものに自分は何を……?
心の声が答えようとしていた。それをむりやり振り払おうと、ミランはついに走り出した。
東の地平線にあばらやの舟のような輪郭が浮き出たとき、ミランはもはや歩くのがやっとだった。沼地に入る手前でついに彼は立ち止まり、荒い息を整えようと立木に身をもたせかけた。その目がふと来し方を向いた。
闇姫の姿が荒野を半ばまで渡っていた。
激しい動悸も乱れた息も一瞬に凍てつかせた白き青年の目の前で、影なる乙女の丈高き姿は荒野を滑るように渡りきった。だがミランから少し離れたところで足を止め、またも無言で彼を凝視した。
「……どういう、つもり、です……」
ミランの呻きに闇姫は答えなかった。だが、その目が手に持つ薬草の束に向いているのに彼は気づいた。
「気になるのですか? これが……」
言葉が通じた手応えはやはりなかったが、振りかざした薬草の束を緑の瞳が追いかけた。
もう時間がなかった。そして相手がどういうつもりだろうと、自分にそれを阻むすべがないのも明らかだった。焦燥はもはや怒りにも似たものと化し、ほとんどやけくそというしかないものが元来は温和な青年を呑み込んだ。
「そんなに気になるなら見ていなさい。でも邪魔だけはしないでくださいっ!」
あばらやによろめき入ったミランは扉に閂をおろし、かわりに窓を開け放った。たちまち乙女が滑り寄り、窓から中を覗き込んだ。
だがバドルを見下ろした瞬間、ミランの頭から闇姫のことは一気に吹き飛んだ。少年の顔色は土気色になりかけていた。一刻の猶予もなかった。
ほとんどそれと意識しないまま、湯を沸かし葉を摺りおろし、練り薬と煎じ薬を同時にこしらえると、傷口に練り込むとともに口にも布にしみ込ませた煎じ薬を含ませた。祈るような気持ちで脈を取り、血行がよくなるように腕を、そして肩から胸にかけてもみほぐし続けた。
夜半過ぎ、少年が噛み合わされた死のあぎとをぎりぎりで逃れ得たことをミランは悟った。疲労困憊の白き青年は少年の寝台の枕もとの床にへたり込んだ。
振り仰いだ赤い目が緑の目とまともに向き合った。
その目に浮かんでいたものは、憧れのような、羨望のような、そんなものとしかいいようのないものだった。目を伏せたときにかいま見えた哀しみが、荒野に立ちつくす姿がまとっていた孤独の影が重なりあい、振り払ったはずだった胸の痛みが、心の声がさらなる強さで戻ってきた。
人間ならざるその身にひどく孤独な魂が息づいていることを、ミランはもはや疑うことができなかった。
緑の瞳が夜空を見上げ、丈高き姿が窓辺を離れた。窓から外を覗いたミランの目が、板の橋を渡りゆく後ろ姿を捉えた。
ばかなことを考えるな! 分別がそう心をののしった。
バドルが助かったのは彼女のおかげだ。心が言い返した。
結果論じゃないか! 分別がさらに切り返した。
思い出せ! 心が叫んだ。
ガドルと出会ったときのことを、死にかけていた心にまっすぐ呼びかけてくれた者に出会えたときのことを!
言葉も通じぬ化け物になにを! 分別が嘲笑した。
赤い目が決然と前を見た。
「待ってください!」
橋を渡りきった乙女の足が止まった。ゆっくりと、こわばったような動きで向きなおった。昨夜と同じ場所で、同じように手を胸の前で組んで、ためらいと訴えの入り混じった面持ちで。
相手の息苦しいほどの緊張を、打ち震える心をじかに感じながら、白き青年は一つ息を吸い込んだ。そして自分を指さしながら名乗った。
「ミラン」
乙女の顔が輝いた。歓喜がその姿を、光景さえも一変させた。呪われた身に閉じ込められている魂が浮かびあがり、乙女の真の姿がよみがえったことをミランは直感した。赤い唇が震え、細い声が異質な発音、異なる抑揚で、しかし明らかに名前と認識した言葉を返した。
「Milan」
「ミラン」
「Milan!」
そうして呼び交わしたのち、次いでミランは乙女を指ししめし問いかけた。
「あなたは?」
だが、結果はミランの予想とはまるでかけ離れたものだった。撃たれたように目を見開いた乙女の顔にはたちまち悲しみの影が落ち、緑の目にみるみる涙があふれ出た。
思いもしなかった反応にたじろぐ白き青年に、だが黄金の髪の乙女は微笑みかけた。細い、小さな声が思いを込めて彼の名を呼んだ。それはミランにあやまたず伝わった。なぜならそれは、彼がかつてガドルに寄せた思いと同じものだったから。
なごり惜しげに振り返りながら去ってゆく乙女の姿を、ミランは揺れる心を持て余したまま、いつまでも見送っていた。
第7章 天蓋の下
朝の曙光の一筋さえ射し込まぬ魔の森の天蓋の下、緑の常闇に身を沈めた乙女は何度もこの二夜の出来事を思い返していた。
あの夜塔から森を見下ろしたときの絶望に打ちひしがれつつ、あれから乙女は闇の中を果てしなくさまよっていた。闇の眷属と化した身でなにを夢見るか、憧れるのか。愚かなことよと自分にいいきかせながら。
けれど、心にくすぶる火種を消すことはできなかった。むしろその孤独なさすらいのうちに、彼女は確信するに至った。もしもこのまま一人でい続けたなら、この世の終わりまでこうしているしかないのだと。緑の闇に沈みもはや誰もいなくなった大地を、永遠に闇に溶け込んだままさまよい歩くばかりなのだと。
その確信は乙女を脅かした。広大な緑の闇と不滅の肉体に囚われた脆い魂は永遠の虚無を前に震撼し、そして駆り立てられたのだった。誰かに出会わなければならない。自分のなにかを変えてくれる誰かに。かつて人でありながら闇の森の妖魔になり果てたこの身を、いま一度人として振舞わせてくれる誰かに! たとえそれが一場の夢にすぎずとも!
あがく魂に突き動かされて、乙女は荒野を渡り村をめざした。それが昨夜のことだった。
沼地の中州に人間の存在を感じて、乙女はあばらやを訪れた。そこには白い青年がいた。驚愕に見開かれた瞳は真紅だった。
なぜかその姿に、乙女は異様な衝撃を覚えた。
印象的な姿だった。乙女の目には美しいとさえ見えた。だが、それ以上にその姿は記憶の奥の定かならざるものをかきたてた。それは彼女を転化させ、人としての記憶の欠片に苦しむその身を憐れみ記憶を消した始祖たる白き吸血鬼との結びつきゆえのことだったが、彼女自身はそうと認識することができなかった。森の加護の力ゆえに記憶の完全な消去を免れたとはいえ、意識の表面に浮かぶだけのものが残っていたわけではなかったから。
ただ彼の姿を一目見た瞬間に、得体の知れぬ衝撃が意識の最奥を内から突き抜けたことだけが自覚されたのみだった。しかも、乙女はそこになにか宿命的なものを感じた。
衝撃の呪縛がゆるんだとき、だから彼女は必死で語りかけた。この相手なら何かが通じるのではないかと思って。彼にこそ自分の思いが伝わることを願って。
だが、はるか昔に滅びた言葉が彼に届いた手応えはなく、そのこわばった表情一つ変えることができなかった。時間がなくなり乙女はむなしく森に戻った。そして悟った。死に絶えた言葉しか語れぬ以上、いかに一人でがんばってもなに一つ伝わりはしないのだと。言葉そのものが無力な状況下では、聞く側に真意を汲み取ろうとする意思がなければどうにもなりはしないのだと。
ならば、自分が相手のいうことやすることの意味を汲み取る側にまわるしかない。そう決心して森を出た乙女の前に彼はいた。潅木の下をなにやら必死に探しているようだった。少し離れていた所で自分が見ていることにさえ気づかなかったほど夢中で。
そして自分を見たその赤い目の隠しようもない怯えにもかかわらず、彼はひどく切羽つまった様子でなにごとかを叫び、自分に手にした草の葉を突きつけたのだった。
とにかく相手の怯えをなんとかしたかった。あるいは相手と同じ事をすれば自分に害意がないことだけでも伝わらないだろうかと思い、ひたすら同じ形の葉を集めてみた。だが、それはむしろ相手を混乱させたようだった。落胆を覚えながらも、集めた葉を置いてみた。少なくともその葉が重要なものだったのは間違いでなかったらしく、相手はそれを掴むやいなや村のほうへと戻っていった。
後を追うべきかしばし迷った。かえって怯えさせることになるのではとも思った。けれど、あの葉をなぜあれほど必死に集めていたのかを知りたい気持ちが抑えられず、結局ついていくことにした。
白き青年はやはり怯えを見せた。だが、どういうつもりだったのか、これ見よがしに窓を開け放ったのだった。
そこには黒い髪の少年が横たわっていた。彼が昨日感じた気配のうちの一方の主だったことを乙女は悟った。
少年の纏う生命の光はひどくかすれ、弱まっていた。しかも、その顔に見覚えがあった。1年前、あの少女から伝えられた記憶の中に彼はいた。少女の胸を射抜いた少年に追いすがろうとした人面の魔獣を、しかし少女は呼び止めた。村へ逃げ戻ろうとする少年を追わせれば魔物たちは村へ暴れ込んで全滅させてしまう。それだけは避けようと少女が魔獣を呼び戻したために、あのとき少年も村も破滅を免れたのだった。
記憶の中の姿よりいくらか大きくなっていたが、今や明らかに死にかけている少年に、青年は集めた葉を煮立てたりすり潰したりして作ったものを飲ませたり塗りつけたりした。そして一心に寄り添い消えかけた灯火のような命を守ろうとしていた。
人間たちが集まって暮らすものであることを、乙女はもう長い間自らの目で見た憶えがなかった。森が近づくと人々は村や街を捨て、乙女が訪れたときは廃墟と化しているのが常だったから。人のいた僅かな気配も荒廃の訪れとともにたちまち霧散し、緑の闇の底でただ枯骨のような姿に朽ち果てるばかりだったから。
けれど少女はその記憶を通じ、城塞都市に集い魔物との過酷な戦いの中で助け合って生きる仲間たちのイメージを伝えていた。そして、いま眼前に繰り広げられている光景も仲間の命を守ろうとする営みに他ならなかった。
ああ、そうだったのだと乙女は思った。人として生きるというのはこういうことだったのだ、と。
そしてあの少女は、吸血鬼と化したことで仲間たちから切り離され、人として生きることができなくなった苦しみにぼろぼろに擦り切れていたのだった。記憶をなくした自分がからくも免れていたものがどんなものだったのか、それを知ったことで喪われたものの大きさがかえって身に迫ってきた。孤独の虚無にあれほど怯えた理由ももはや明らかだった。
乙女は悟った。人間として生きたいとの願いは、孤独の中では決してかないはしないのだと。自分は少女との出会いによって、そのことに薄々気づいていたのだと。
そして悟った。だからこそ願いはよりかきたてられ、胸の奥を苛んでいたのだと。
こんな身に堕ちた自分が人間とあんなふうに寄り添っていけるはずがない。眼前の光景に感じたその思いは、だが憧れと羨望をかえってかきたてた。それらの思いがせめぎあう中、白き青年がついに手を止めた。見ると少年の生命の光は、弱々しいながらも安定を取り戻していた。
へたりこんだ青年がこちらを見た。窓から見ていた自分のことなど今まで忘れていたような、そんな驚きの表情が浮かんだ。
受け入れてもらえるはずがない! その思いが渦巻く憧れを、羨望を圧倒した。
もう戻らねばならない時だった。窓を離れ板の橋を渡る間も、いいようのない寂寥が心を吹き過ぎた。でも受け入れなければ、身をゆだねなければと思った。始めから無理なことを望んでいたことがこれほど明らかになったのだから、と。
だから背後で青年の声がしたとき、乙女は自分の耳を疑った。願いのあまり幻聴を感じたのだろうか。振り返ろうとする動作が閉ざされた窓を見るだけではとの怯えに軋んだ。
そんな彼女を、しかし白き青年がまっすぐ見つめていた。その赤い瞳にはもはや恐怖の影はなく、なにか決意とさえいえそうなものが込められていた。
青年が大きく息をした。なにかをいおうとしていた。彼自身の明確な意思で。
彼女は悟った。自分のしてきたことに対する結果がいまここに出ようとしていると。瞬間が永遠と化し、期待と怖れに引き裂かれそうな魂を抱えた我が身が知らず祈りの形に手を組んだ。
青年の手が彼自身を指した。そして、彼はたった一つの言葉を発した。
「ミラン」と。
明らかに名乗りだとわかった。白き青年の名に違いなかった。彼は言葉の通じぬ相手に対し、少なくとも恐れていないことを、そして信頼していることを伝えようと、人外の自分にあえて己の名を教えたのだと悟られた。
それは呪わしい肉体に囚われた魂への呼びかけだった。そうと認識していなければできるはずのない行いだった。そしてたった一つのその言葉は呪われた牢獄の壁を越え、死にかけていた心に確かに届いたのだった。
名前にすぎぬその一言が奇跡をもたらす呪文と化した。全てのくびきがたちまち解かれ、魂は白い霊光の中に飛翔した。そして歓喜の光に包まれて、魂が一瞬姿を変えた。いまだ憂いの影一つなかったはるか昔の無垢なる姿へと。そして名を、呪文のごとき言葉を呼び交わした。
だが白い手が我が身を指差すのを緑の瞳が捉え、聞こえた耳なれぬ言葉がわかってしまった。名を問われたと。あなたは誰か、何者なのかと問われたと。
幻は瞬時に消えうせた。かつて魂を呪縛した問いが惨めな現実を突きつけた。自分には答えるべき名前がないことを。長い時の流砂の彼方に、誰の手も届かぬところに埋もれ、取り戻すすべもないことを。
気がつけば、あたりはもとの沼だった。
魂も肉体の牢獄に囚われたままだった。
天空の彼方に去った光を見上げる瞳に涙があふれた。
だが、その瞳がミランの姿を、たじろぐ様子を捉えた。
自分の嘆きが彼を混乱させている!
そのとたん、胸の奥から湧き上がった思いが悲しみを退けた。呼びかけることで、彼は自分を解き放ってくれた。たとえ瞬時のことであれ、それは自分一人では不可能なことだった。そして、いまや彼は自分の様子にあれほど心を動かしている。
もう一人ではないという思いが、湧き上がる感謝が悲しみの影を払い、乙女は白き青年に微笑みかけた。そして、万感の思いを込めてもう一度、その名を呼んだのだった。
ミラン、と。
あれからもう数え切れないほど、乙女は闇の中でその名を繰り返していた。呼ぶごとに自分の中になにか暖かい、それでいて力強いものが満たされる思いだった。あの一瞬の光に包まれた感じとどこか似ていた。受け入れられた存在が、ゆっくりと新しい姿に変容しつつある、それはそんな感触だった。
そして、一つの願いが、希望が芽生えていた。
彼に名前を呼ばれたいという願いが。
新たな名を与えられたいという願いが。
その時、なにかが決定的に変わるに違いないという希望が。
青年の名を繰り返しつつ夜を待ち焦がれる乙女の中でそれらはますます膨れ上がり、しだいに確信めいたものへと形を変えゆくばかりだった。
第8章 屋根の下
窓から射し込む曙光に顔を照らされても、バドルは昏睡から目覚めなかった。そんな少年の枕もとに寄り添いながら、ミランもまたこの二夜のことに思いを巡らせていた。
なにからなにまで驚くことばかりだった。自分で体験したことでありながら、こうして日の光の中で思い返すと夢を見ていたのではという気がしてくるほどだった。
けれど別れ際に見せた姫の表情のあの変化、一瞬の歓喜の輝きに悲しみの翳りと涙、そして最後に微笑とともに自分の名を呼んだときのあの声音。数瞬の間にうつろったそれらの表情に、彼は感じたのだった。あれが闇姫の真実だと。千年もの昔から闇の森の主として怖れられてきた乙女の姿だったのだと。
そしてそれは彼の心に消えることのない刻印を刻み、その深さゆえに彼に告げるのだった。夢ではないと。自分が見たのは人外と化した身に宿る人としての魂に他ならなかったのだと。
ミランは自分がなにも考えたことがなかったような気がした。闇姫とかかわる定めとされながらそのかかわりについて考えたこともなければ、自分が闇姫の牙にかかる定めだと思い込んでいながら吸血鬼とはどんな存在なのか、そして人が吸血鬼に転化するとはどんなことを意味するのかについても、ろくに考えたことがなかったと思うばかりだった。
けれどいまや彼は確信していた。彼女は生まれたときからああではなかったのだと。遠い昔、おそらくは若き日に転化をとげてしまい、その上なぜか人の心も残してしまっているのだと。
しかし、とミランは思った。姫に人としての心があり、害意がなかったとしても、それでこの先どうなるのか。既に彼女はこの家に辿りつくに至った。やがては村の中にも入れるようになる。そのときバドルは、ラダンや村人たちは姫の存在を受け入れることができるのか?
どう考えても無理だった。度重なる野盗との戦いに疲弊した上に村長ルダンを失った村人たちは、たちまち恐慌をきたすとしか思えなかった。そしてバドルは……。
ミランは改めて昏睡しているバドルに目を向けた。そして思いをはせた。今から一年前、からくも生還したバドルの話を初めて聞いたときのことを。あのときもやはり、死んだように眠るバドルの顔を自分は見つめ続けていたのだった。
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バドルがあばらやへ戻ってきたのはかなり時間がたってからのことだった。恐慌に陥り泣き叫ぶ少年から話が聞きだせるようになるまでに時間がかかっただけでなく、村長ルダンが村を守るために必要な情報をすっかり聞き出すまでバドルを開放しなかったからでもあった。だからようやくラダンに伴われて戻ってきたとたん、心身ともに限界に達していた少年は倒れるように眠ってしまい、ラダンもまたろくに説明もしないまま逃げるように帰っていったのだった。ただ一言、バドル以外の仲間たちは全滅したとだけ言い残して。
ガドルと仲間たちが死んだ! その知らせにミランは打ちのめされた。狭かったはずのあばらやを満たす虚空の異様な大きさに呆然としたまま、死んだように眠り続ける少年の顔を見つめるばかりだった。どれほどの間そうしていたのかわからなくなり始めたとき、まだ夜明けも遠いというのに水鳥の群が沼地の彼方から飛来して、脅えたような声で鳴き交わしながらあばらやの上空を越えていった。
そのとき、バドルがひどくうなされ始めた。
あまりに苦し気な声にミランが驚いて駆け寄ったとたん、悲鳴とともにバドルが跳ね起きた。そして逃げようとしたのか、寝床から転げ落ちた。あわてて助け起こそうと手を伸ばすと、少年は追い詰められた獣のように絶叫した。
「バドル! しっかりしてください、バドルっ!」
差し伸べようとした手を宙に浮かせた格好で、ミランは必死に呼びかけた。その声がようやく届いたのか、バドルは叫ぶのをやめた。呆然とした顔がおずおずとミランに向けられた。その顔が歪み、少年はよじるような声で泣き出した。そして、あまりにも無残だったできごとを切れ切れに話し始めた。
それが、夜毎にバドルを苛む悪夢の始まりだった。
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あれから一年の間、ミランは悪夢に苦しむバドルに付き添ってきた。そして、その間に起こった変化をつぶさに見てきた。
恐怖の生々しさそのものはいくらか薄れてきたらしかった。夢の中のできごとはいつも同じで寸分も違わないとバドルはいっていたが、どうやらそのせいでもあるらしかった。
だが、それにつれて恐怖が覆い隠していたものがしだいに顕になり始めてきた。
もともと弓矢を得意としたバドルは、やがて憑かれたように弓矢の稽古を始めた。なにがなんでも強くならなければならないと思い詰めているのは傍目にも明らかだった。兄を見捨てて逃げた自分の弱さを許せぬ心情ゆえのものであるとミランが気づくのに時間はかからなかった。
そして恐怖が克服されるにつれ、まだ少年でしかないバドルの顔にはしだいにどす黒い憎悪が浮き出るようになった。ミランはそんな彼の様子を見かねてある日こういった。自分をそんなふうに追い詰めてはいけない。それだけの目にあいながら生きのびたことを前向きに捉えるべきではないか。魔獣を呼び止めた少女の真意はわからないにせよ、そのせいで奇跡的に命拾いしたことに間違いないのだからと。
とたん、激昂したバドルはミランを殴り倒した。床にくずおれた白き青年に、拳を震わせた少年は呻いた。あいつがガドルを、みんなを殺した。そんな奴に憐れまれたというのか。そんな奴が憐れみの心を持っているとでも。認めない。そんなことは断じて認めない。あいつはガドルの、みんなの仇だ。断じて許さない。自分はどこまでもあいつを憎むと。
その呻きが、かえってミランに悟らせた。バドルは少女の姿をした吸血鬼が自分を憐れみ見逃したと感じていると。だが、少年のあまりにも激しい自責の念が、自分を逃げのびさせるに至った全てのものへの呪いめいた憎念と化したのだと。我が身に向けば自死にさえ直結しかねぬ自責は行き場を求めて荒れ狂った末に、仇敵に対する限りない憎悪に形を変えるしかなかったのだと。
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バドルは姫を決して受け入れない。受け入れることなどできるはずがない。そのことは火を見るより明らかだった。村人たちの恐慌さえ招きかねぬ恐怖。その恐怖さえねじ伏せたバドルの凄まじい憎悪。もし姫が村に、いや、バドルが目覚めたときにこの場に姿を現わしたりしたら……。
ミランの目に逃げ惑う村人たちを背に、ひたすら矢を射かけるバドルの姿が浮かんだ。だが、その結果どんなことが起こるか、想像だにできなかった。
白い青年の赤い瞳が天を仰いだ。
姫を村から遠ざけるしかない。それが自分の役目だ。予言された自分と姫との係わりとは、きっとそういうことだったのだ。
広大な魔の森の周囲には、どこかに自分の住める場所もあるだろう。もしも自分がそこで暮らせば、姫はもうこの村を訪れないかもしれない。やがて村が森に呑まれるにせよ、それはまだ年数がかかる。きっと村人たちが脱出する機会も持てるはず。背後の恐怖から解放されたとわかれば活路を見いだすこともできるかもしれない。
そもそも村に居場所がない自分が姫とともに去ったとしても、惜しむ者などいないはず……。
いや、バドル。バドルのことはどうする?
ミランの胸が痛んだ。村人はバドルが毎夜どんな悪夢と戦っているのか知らない。そんな少年を放っておくのか?
だが、バドルはこの村を守るために欠かせない存在だ。そして自分のそばにいる限り、彼は人々に溶け込めない。今回のようなことがこれからも起こるかもしれない。
それに、どのみちバドルは姫を許容できない。
もういちど姫と会って様子を確かめなければならない。バドルはしばらく意識を取り戻しそうな容態ではないが、それでもこの家で会うのは危険だ。荒野まで出る必要はあるだろう。
ミランは日中の間にバドルの回復に役立つ様々な薬草を集め、意識を取り戻したときに備えていくつもの薬を作った。その間、姫にどう接するかを考えてみた。しかし、言葉の通じない相手にどう伝えればいいのか思いあぐねるばかりだった。
とにかく荒野で会うことにして、言葉の問題はなんとか考えるしかなさそうだった。
日暮れが訪れた。白き青年はあばらやから荒野に向かった。




