妹に「全部ちょうだい」と言われました――婚約者も爵位も領地も、三十億の借金も一緒です
「ねえ、お姉様。フェリクス様を私にちょうだい」
執務机の書類から顔を上げると、妹のマリエルが小首をかしげて微笑んでいた。
その隣には、私の婚約者であるフェリクス・クレインが立っている。
「……フェリクス様を、ですか?」
「ええ。私たち、愛し合っているの。お姉様とフェリクス様の婚約を解消して、私と結婚させてほしいのよ」
フェリクスは咳払いを一つして、私と視線を合わせた。気まずそうではあったが、その瞳に迷いはない。
「すまない、エレノア。君に落ち度があったわけではないんだ。だが、私はマリエルを愛している。君との婚約は両家の取り決めによるものだったし、領地経営のための合理的な結びつきだった。……このまま形式だけの婚姻を結ぶより、互いのためにも解消したほうがいい」
三年間、当主として領地を立て直す間、彼とは何度も会合を重ねてきた。
情がないと言えば嘘になる。彼が私の執務室ではなく、サロンでお茶を飲む妹の元へ通う日が増えていたことには気づいていた。胸のどこかが静かに軋むような痛みはあった。けれど、怒鳴り散らしたり縋り付いたりする気力は、今の私には残っていなかった。
「お二人の気持ちは分かりました。婚約解消の手続きについては、クレイン子爵家とも協議しましょう」
「ありがとう、お姉様!」
マリエルは屈託なく笑い、それからフェリクスの腕に自分の腕を絡めた。
話はそれで終わりだと思った。だが、妹の口から出た言葉は、そこで止まらなかった。
「それからね、お姉様。伯爵位と領地と、このお屋敷も私にちょうだい」
「……はい?」
「だから、ヴァレント伯爵の座よ。フェリクス様と結婚して、私がこの家の当主になるわ。お姉様のものは全部ちょうだい」
私はペンを置き、妹の顔を正面から見た。
ふざけている様子はない。本気で言っている。
「だって、お姉様は昔から私に譲ってくれたでしょう?」
十歳の頃、遠縁の親戚から贈られた陶器の人形を思い出す。
精巧なガラスの瞳を持ったその人形を、当時五歳だったマリエルが欲しがって泣き叫んだ。両親は困った顔をして、私に言ったのだ。
『エレノア、あなたは姉なのだから妹に譲ってあげなさい』
私は頷き、人形を手放した。マリエルは満面の笑みでそれを受け取った。
あの頃と、まったく同じ顔をしていた。
「爵位を継いだあと、領地の仕事はどうするつもりですか?」
「今まで通りお姉様がやればいいでしょう?」
マリエルは何の疑問も抱いていない口調で続けた。
「私は表に出て社交をして、夜会に出て、ヴァレント伯爵家の名声を高めるわ。お姉様は昔からそういう華やかな場所が苦手でしょう? 難しい書類仕事や数字の計算は得意なんだから、今まで通り奥でやってくれればいいの。私が伯爵として表に立つから、お姉様は今まで通り家業を支える実務をやればいいじゃない」
フェリクスも頷いた。
「合理的だと思うよ、エレノア。マリエルは社交界で人を惹きつける才能がある。君は実務能力に長けている。マリエルが社交を担い、君が実務を担当する。得意分野を分ければ、誰も損をしないだろう」
フェリクスに悪意はない。彼は彼なりに、それが全員にとって一番効率的で平和な解決策だと信じている。
だからこそ、私の頭は急速に冷えていった。
「フェリクス様。貴方は、マリエルが当主になることを望んでいるのですか?」
「ああ。マリエルが望むなら、私は婿として彼女を支えるつもりだ。正式な当主としての決裁はマリエルが行うが、私もクレイン家で多少の補佐業務は学んできた。二人で力を合わせればやっていける」
私は一度息を吸い、姿勢を正した。
「マリエル。本当に、全部欲しいのですね?」
「ええ、全部よ」
迷いのない返答だった。
私は引き出しを開け、一冊の革表紙の元帳を取り出した。机の上に置き、二人に向けて開く。
「現在、ヴァレント伯爵家には三十億七千二百万リールの登録債務があります」
マリエルが瞬きを繰り返し、フェリクスがわずかに身じろぎした。
「……三十億?」
フェリクスの喉が小さく鳴った。
「いや、負債があることは知っていたが……まだ、そこまで残っているのか? 君がかなり整理したと聞いていたが」
「父の代の事業拡大と災害対策で生じた領地債務です。この三年間、職員たちと支出や事業を見直し、現在の額まで減らしました。家政費や生活費、使用人の給与は滞りなく支払っています。領地収入から計画的に返済を続けているからです。破産はしていませんし、領地やこの屋敷を売却する予定もありません」
「完済まであと何年かかるんだ?」
フェリクスが尋ねた。
「現在の返済計画では、約十二年です」
「十二年……」
フェリクスは顎に手を当て、開かれた帳簿をじっと見つめた。
「返済は正常に継続しているのだな? 家令や会計係などの職員もそのまま残るのか」
「ええ。定例の業務手順は確立されています」
「それなら、無茶な承継というわけではないな。……むしろ、現在の返済計画には不測の事態に備えた余裕がかなり大きく取られているように見える。私たちが無駄を精査して見直せば、もう少し早く完済できるかもしれない」
マリエルがフェリクスの顔を見上げた。
「フェリクス様、どういうこと?」
「十二年経てば、この借金はすべて消えるということだ。その間も伯爵家としての収入はあるし、領地も屋敷も残る」
マリエルの瞳が計算するように動いた。
十二年後。マリエルは三十一歳。フェリクスは三十七歳。
「借金がなくなったら、全部私たちのものになるのよね? それに返済している間だって、私がヴァレント伯爵で、この屋敷の主でいられるんでしょう?」
「そうなるね」
「だったら、むしろ得じゃない」
マリエルはふっと口元を綻ばせた。
「十二年くらい、ちょっと我慢すればいいだけの話でしょう? そのあとは借金のない伯爵家が残るのよ」
「マリエル」
私は声をかけた。
「十二年間、何も買えないわけではありませんが、返済と領地運営が常に最優先されます。自由に使えるお金は決して多くありません。修繕や天候不順による凶作など、予期せぬ支出があれば返済が延びる可能性もあります。早期に完済できる保証はありません」
「でも、できるかもしれないんでしょう? フェリクス様もそうおっしゃっているわ」
私は手元の書類をまとめ、別の束を用意した。債務の残高証明、返済条件の写し、過去三年の収支明細、そして年間の予算配分書だ。
「この場で決める必要はありません。この資料を持ち帰って、二人でよく確認してください。収支と返済計画をすべて見て、その上で本当に引き受けるかどうかを決めてください」
フェリクスが書類の束を受け取った。
「分かった。しっかり精査させてもらうよ」
二人が執務室を出ようと扉に手をかけたとき、マリエルが振り返った。
「でも、お姉様。私、やっぱり欲しいわ」
「何をですか?」
「全部」
三日後、二人は再び執務室に現れた。
「お姉様、書類はフェリクス様と一緒に全部読んだわ」
マリエルは晴れやかな顔で机の前に立った。
「私たち、ヴァレント伯爵家を引き受けます」
フェリクスも落ち着いた表情で頷いた。
「過去の帳簿と返済の実績を確認した。確かに自由になる予算は少ないが、現在の収支見通しであれば運営は十分に可能だ。重要な案件は私が相談に乗り、最後はマリエルが決裁する。二人で分担すれば問題ない」
「自由になるお金が少なくたって、伯爵の地位とこのお屋敷、社交界での立場には代えられないもの」
マリエルは胸を張って言った。
「分かりました。では、家督院へ向かいましょう」
王都の家督院で私たちを迎えたのは、五十代半ばの実務的な担当官、バーナードだった。
彼は眼鏡の奥から淡々と書類を確認し、手続きの前に三人を用務室へ通した。
「マリエル・ヴァレント様。フェリクス・クレイン様。当院の手続きに入る前に、確認事項を口頭でお伝えします」
バーナードの声には、私への同情も、二人への批判もなかった。ただ職務としての公平さだけがあった。
「ヴァレント伯爵家の家産には、現在三十億七千二百万リールの公的登録債務が存在します。これは前当主および現当主個人の借金ではなく、伯爵家の家産に紐づく債務です。したがって、当主が交代しても債務は消滅せず、伯爵家として返済を継続する義務があります」
「承知しています」
マリエルが答えた。
「現状の収支見通しを見る限り、現行の計画通りであれば領地経営の継続は可能です。ただし、当主の裁量で自由に使える予算は限られます。家令や会計係といった既存の職員は留任しますが、今後のすべての経営判断および最終責任は、新当主となるマリエル様お一人が負うことになります。クレイン様はあくまで婚約者としての助言者であり、法的な管理責任者ではありません」
「はい」
「実務の手が足りない場合は外部から専門家を雇い入れることも可能ですが、その費用は伯爵家の予算から捻出する必要があります。また、今回の承継合意書では、前当主エレノア様による引継ぎ対応を、承継後三十日間と定めています。それを過ぎた後に、エレノア様が無償で当主業務を代行する義務はありません」
バーナードは書類を机に置き、二人を見た。
「今であれば、家督の承継を辞退することも可能です。その場合、エレノア様が当主を続投されます。どうされますか?」
「辞退なんてしません」
マリエルは即答した。
「引き受けます。私がヴァレント伯爵になります」
フェリクスも静かに頷いた。
「異存はありません」
「分かりました。では、承継誓約書に署名を」
羊皮紙の上に、マリエルの流麗な署名が記された。
バーナードが公印を押し、手続きは完了した。今後の当主業務と管理責任は、正式にマリエルへ移行した。
屋敷に戻ると、私はすぐに引継ぎの準備に取りかかった。
元帳、債権者の一覧、返済期日の管理簿、主要な商会との契約書、そして直近で判断を要する案件の控え。すべて整理して執務机に並べた。
家令と会計係を呼び、当主交代の事実を伝えた。長年仕えてくれている二人は一瞬だけ眉を寄せたが、取り乱すこともなく一礼した。
「畏まりました。我々の職務に変更はございません。新当主様をお支えいたします」
彼らは職務に忠実な、有能な実務家だった。日常の定例業務は彼らが滞りなく回してくれる。
私はマリエルに鍵の束を渡した。
「三十日間、私はこの屋敷の別室におり、質問にはすべて答えます。資料の場所や過去の経緯も説明します。ですが、決裁印を押し、決定を下すのはマリエル、あなたです」
「分かっているわ。フェリクス様も手伝ってくれるし、心配いらないわよ」
承継から二週間が過ぎた頃、私は執務室に呼ばれた。
部屋に入ると、机の前にマリエルとフェリクス、そして家令と会計係が立っていた。机の上には分厚い調査書が広げられている。
「エレノア様、ご足労いただき恐縮です」
家令が一礼して説明を始めた。
「東部街道の石橋ですが、先日の大雨で橋脚の基礎に洗掘が見つかりました。放置すれば秋の収穫期に落橋の恐れがあります。修繕について三つの案を作成いたしました」
会計係が簡潔に三つの選択肢を読み上げた。
第一案。今期中に全面改修を行う。工費は高いが、今後二十年は大規模な補修が不要になる。ただし、今期の予備費の大半を消費する。
第二案。危険な箇所のみ応急補強を行う。費用は三分の一で済むが、来年か再来年に再び本格的な工事が必要になる。
第三案。橋を利用する商工ギルドと交渉し、工費の一部を負担してもらう代わりに通行税の免除期間を設ける。支出は抑えられるが、将来的な領地収入がわずかに減る。
「……どれを選べばいいの?」
マリエルが困惑したように私を見た。
「どれも一長一短じゃない。お姉様、決めてよ」
「決めるのは当主であるマリエルです」
私は言った。
「私が判断するとしたら、まず追加の資料を確認します。東部街道の通行量の推移、秋の収穫期における物流の予測規模、そして商工ギルドとのこれまでの協定内容です。全面改修を選んで予備費を使い切った場合、冬に別の災害が起きた際に対処できるか。応急処置にした場合、来期の予算にどれだけ影響が出るか。それらを確認してから判断します」
フェリクスが腕を組んで唸った。
「……ギルドとの交渉案が一番手元の資金を圧迫しないように思えるが、税の減免期間を何年に設定するかで将来の損失が変わってくるな」
「はい。過去の減免事例の記録が書架の第三棚にあります。それを確認することをお勧めします」
マリエルは眉をひそめた。
「そんなにたくさんの資料を読まないと決められないの……?」
「当主の決裁一つで、領地の安全と大きな支出が動きますから」
その数日後、マリエルが自室に私を呼び止めた。
ベッドの上には、仕立て屋から届けられた布地の見本が並んでいた。
「お姉様、これを見て。次の王都の夜会に着ていくドレスを新調したいの。それから、私が新当主になったお披露目の茶会もこの屋敷で開きたいわ」
マリエルの表情には、ようやく自分のやりたかったことができるという期待が浮かんでいた。
「購入も茶会の開催も、規則上は禁止されていません」
私は答えた。
「ただし、今期の予算書を確認しましたか? 両方を希望通りの規模で行えば、今期の社交および家政上の裁量予算の大半を使い切ることになります」
「えっ……でも、ドレスとちょっとしたお茶会よ? 伯爵家なのに、そのくらいのお金も自由にならないの?」
「毎年の予算は決まっています。返済金と領地運営の経費、使用人の給与を差し引いた残りが当主の裁量枠です。ドレスと茶会にその枠を使うなら、今後の私的な支出や、サロンの調度品の買い替えなどは抑える必要があります」
マリエルは不満そうに唇を尖らせた。
「お姉様は今までどうしていたのよ? いつもきちんとした身なりで夜会に出ていたじゃない」
「以前仕立てた夜会服の刺繍やレースを手直しして使い回していました。出席する夜会も領地の利害に関係する最低限のものに絞り、浮いた裁量費は不測の事態に備えた予備費へ回していました」
「……そんなことしていたの?」
マリエルは初めて聞く話のように目を丸くした。
引継ぎ期間が残り一週間となった日、フェリクスが一人で私の部屋を訪ねてきた。
彼の目の下には、以前には見られなかった薄い隈ができていた。
「エレノア、少し相談がある」
「何でしょうか、フェリクス様」
「……日々の決裁案件が多すぎる。橋の件もそうだが、水路の利用権の調停、商工ギルドからの請願、小作料の減免申請……職員たちが上げてくる書類の精査だけで一日が終わってしまう。マリエルも疲弊している。外部から財務や法務の専門家を雇い入れたいと思うんだが」
フェリクスは疲れた息を吐き出した。
「家督院でも説明があった通り、専門家を雇うこと自体は問題ありません。ただ、相応のまとまった費用がかかります」
「分かっている。費用がかかるのは承知の上だ。問題は、その財源をどこから削るかだ」
「返済計画の支出枠は崩せません。捻出するのであれば、社交費、家政上の裁量費、新規の投資予算などを調整することになります」
「……つまり、マリエルが期待していた暮らしから、さらに何かを削ることになるというわけか」
「そうなります。専門家を雇うこと自体は健全な選択肢です」
フェリクスは眉間を押さえた。
「彼女が納得するかどうか……」
「それを話し合って決めるのも、当主と補佐役の仕事です」
フェリクスは私の顔を見た。
「君は……三年間、ずっとこれを一人で決めていたのか」
「職員たちが優秀ですから、一人ではありませんでした。ですが、最後に決めるのは私でした」
フェリクスはそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
承継から三十日が経過した。
最後の日、領地は変わらず動いていた。使用人の給与も期日通りに支払われ、返済も予定どおり進んでいる。
マリエルとフェリクスも、投げ出したわけではなかった。毎日執務室に籠もり、書類を読み、必要な決裁を行っていた。ただ、二人とも明らかに疲れていた。
夕方、私が荷物をまとめていると、二人が部屋にやってきた。
「今日で合意した三十日間の引継ぎ期間が終了します」
私が告げると、マリエルがおずおずと口を開いた。
「お姉様、本当に……明日からはもう何も教えてくれないの?」
「はい。合意書に定めた三十日は今日で終了です」
「でも、来週には秋の収穫祭の警備計画の決裁があるのよ。商工ギルドとの協定の更新もあるし……」
「職員たちに相談してください。彼らは前例を把握しています」
「でも、最後に選ぶのは私なんでしょう!? 失敗したら私の責任になるじゃない!」
マリエルの声が上ずった。
「もし、どうしても荷が重いとお考えなら、今からでも爵位を返上することは可能です」
私は告げた。
「爵位を返上すれば、家産と登録債務はそのまま管理単位に残り、家督院が次の管理者を決めます。ただし、その場合は伯爵の地位も、この屋敷も、領地から得られる権利も手放すことになります」
マリエルは息を呑み、それから強く首を横に振った。
「嫌よ……! ここまでやって、なんで手放さなきゃいけないのよ。私はヴァレント伯爵よ!」
「では、続けてください」
フェリクスがマリエルの肩に手を置き、私を見た。
「……すまない、引き止めて。君との合意が今日までなのは理解している」
「ええ。それでは、お二人ともお元気で」
私は最後の荷物を持ち、屋敷を出た。
行き先は、すでに決まっていた。
ハーコート商会。ヴァレント伯爵家と長く取引をしており、私自身も当主を務めていた三年間に何度も契約交渉を重ねてきた相手だ。
私が当主を退くと知った商会から、事業管理の補佐役として働かないかと打診を受けていた。
大抜擢でもなければ、莫大な報酬が約束された役職でもない。複数の支店から上がってくる契約書を点検し、数字の不整合を見つけ、取引上の問題を整理する実務職だ。
ここでは、伯爵家の命運を背負う必要はない。仕事が終われば帰ることができ、休日もある。働いて得た給与は、自分の生活のために使える。
私は王都に借りた小さな借家で、新しい生活を始めた。
商会での勤務が始まって一ヶ月が過ぎた頃、マリエルから手紙が届いた。
指定された王都の喫茶室へ向かうと、そこにはマリエルとフェリクスが待っていた。
マリエルは上質なドレスを着ていたが、表情には隠しようのない苛立ちが張り付いている。フェリクスも目の前の紅茶に口をつけようとしなかった。
「お姉様」
マリエルは私が席に着くや否や、身を乗り出した。
「お願いだから、お屋敷に戻ってきて」
「戻ってきて、どうするのですか? 爵位を私に返還するのですか?」
「違うわよ!」
マリエルは即座に否定した。
「爵位は私のものよ。お屋敷も、当主としての立場も、社交界での地位も私が持つわ。ただ……あの書類仕事だけを、お姉様がやってほしいの。昔みたいに、奥の部屋で実務だけをやってくれればいいのよ!」
フェリクスも重い口を開いた。
「……私の見通しが甘かったことは認める。日々の領地経営にかかる実務の量は、私の想像を超えていた。二人で手分けしても、毎晩遅くまで帳簿と向き合うことになり、余裕がないんだ」
「以前も申し上げましたが、実務の手が足りないのなら外部から専門家を雇えばよいではありませんか」
「そんなことしたら、私の社交費が削られるじゃない!」
マリエルが声を荒らげた。周囲の客が一瞬こちらを振り返り、彼女は慌てて声を落とす。
「専門家を雇うお金を出すために、来期のドレス代もお茶会の予算も削るってフェリクス様が言うのよ! そんなの嫌よ! 伯爵になったのに、新しいドレスも作れず、好きなように夜会にも出られないなんて……」
マリエルはカップをソーサーへ置いた。
「私が欲しかったのは、お姉様みたいな暮らしよ。こんなふうに毎日書類に追われて、お金の使い道に悩んで、仕事ばかりする生活じゃないわ!」
私は紅茶を一口飲み、妹の目を見た。
「……それが、私の暮らしだったのですよ」
マリエルは息を詰まらせ、そのまま固まった。
隣のフェリクスも何も言わない。
「あなたたちには、三つの選択肢があります。社交費を削って専門家を雇い、負担を軽くする。自分たちで仕事を覚え、当主と補佐として責任を果たす。それとも、家督院へ爵位を返上する」
私は席を立った。
「私が戻って、あなたの当主業務を肩代わりするという選択肢だけはありません」
伝票を置き、私は喫茶室を後にした。
その後も、ヴァレント伯爵家が破滅することはなかった。
マリエルは爵位を返上せず、フェリクスとの婚約も続いた。
二人は結局、補佐役を一人雇い入れ、その費用を捻出するために社交費を抑える道を選んだ。
不満や口論はあるようだが、それでも案件は毎日上がってくる。マリエルは当主として必要な決裁を続け、フェリクスはその隣で補佐をしている。三十億七千二百万リールの債務も、少しずつ返済され続けている。
私の商会での仕事も、決して楽なことばかりではない。
数字の不整合を見つけて取引先と交渉し、遅くまで点検が続く日もある。
けれど、仕事が終わればペンを置き、書類を机に残して帰ることができる。休日には街を歩き、受け取った給与で好きな本を買える。
昔から、マリエルは私の持つものを何でも欲しがった。
幼い頃の、あの陶器の人形も。
そして今度は、婚約者も、爵位も、領地も、屋敷も。
三十億七千二百万リールの借金と、それを返していく責任まで含めて。
全部、妹の望みどおりに。
最後までお読みいただきありがとうございました。
面白かったと思っていただけましたら、評価していただけると今後の作品制作の参考になります。




