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忘れられない人がいます〜命を懸けて守ってくれた人を忘れたくない 

作者: おかき
掲載日:2026/08/15

クレハ・セラフィード伯爵令嬢は学園で悪い意味で有名人となっていた。


クレハが学園に入学し一学年の時は楽しく学園生活を過ごしていた。

伯爵令嬢として卒なくこなし、試験も常に一位と伯爵家に恥じぬように過ごしていた。


二学年に進級すると、一学年に平民のリリーが特待生として入学した。

平民ではあるが、勉学に励み貴族の嗜みすら身に着けた才女であった。

明るく素直で聡明な彼女は、学園で虐められることも無く楽しそうに過ごしている。


平民であるリリーと伯爵令嬢であるクレハは顔見知りであった。


クレハが二学年に進級して数日経つ頃、学園の廊下でリリーと顔を合わせた。


いつも明るく笑顔の絶えないリリーが顔を曇らせ、クレハに問い詰め始めた。


「クレハお嬢様、ジミーをどこに連れて行ったのかしら?お嬢様の邸に向かってから、ジミーは帰って来ないのよ?ねぇ、お嬢様は婚約者がいるのよね?なら、ジミーを返してくれないかしら?ジミーは私の幼馴染なのよ!」


今にも掴みかかりそうなリリーを周りの生徒が止めに入る。

だが、生徒達がクレハを見る目は軽蔑の眼差しだった。


「婚約者がいながら男を連れ込んでたのかよ」

「平民の男ならいなくなっても構わないと思っているのかしら?」

「カイン様はご存知ないのでは?」


クレハは婚約者であるカインの名前が出た事で肩を小さく跳ねさせた。

クレハの隣に立つ侯爵令嬢のアドリアナが反論しようと一歩前に出たが、クレハの手で止められた。


「失礼しますわ」


クレハは軽く礼をとると、アドリアナの手をとりその場を離れた。


「クレハ!いいの?絶対に誤解されたわよ!」


早歩きになっていたクレハの足が止まり、アドリアナへと体を向けた。


「一年。後、一年の我慢よ……」


クレハの瞳には大粒の涙が溜まっていた。

瞬きをすると涙が伝う。


アドリアナは無言でクレハの涙をハンカチに含ませ、クレハの手をとり馬車乗り場へと向かう。


「きっとこれから騒がしくなるわね。ジミー……」


クレハは目を閉じ伯爵家に向かうまでにするべき事を考えていた。


邸に帰ると、クレハは執事に父に話がある事を伝えた。


父であるロバートが話を聞くと、執事がクレハの部屋に迎えに来た。


ロバートの執務室の扉をノックし、中へと入る。


「どうした?帰って早々に話があるとは、珍しいな」


ロバートに促され、クレハはソファーへと座る。対面に座るロバートにクレハは今日の出来事を伝えた。


「そうか、リリーが学園に……お前に近付くためだろうな」


「大勢の生徒の前での出来事です。いずれはカイン様の耳にも届くかと……」


クレハはロバートにそう伝えた。


「ノワール侯爵家か。あの家は何も知らされてはいない。一年後、クレハとの婚姻後に知らされる予定だ。どうしたものか……」


ロバートは小さな溜め息を吐くと、考え込んでしまった。


「暫く様子を見るしかないか」


クレハもそれ以外に方法は浮かばず、流れを見るしかなかった。



次の日からクレハの学園生活はガラリと変わった。

アドリアナが側にいない時のクレハは、生徒達から攻撃を受けていた。


罵詈雑言は常であり、水をかけられたりは当たり前となっていた。

気が付いたアドリアナが対処しようとするも、クレハが絶対に動いては駄目だとアドリアナに約束させた。


アドリアナとは教室が違うため、クレハを守る事が出来ずにいた。


アドリアナがいない教室での虐めは加速していた。



クレハは日々痩せていくも、学園を休む事はなかった。

休む事は周りに負けた気がして休む事を選択する事はなかった。


自分は悪い事はしていないと、堂々と学園へと通っていた。


生徒達はリリーが泣いてジミーの話をする度に、クレハへの怒りを募らせていく。


平民を虐げる、傲慢な令嬢だと……


クレハへの虐めは学年を問わず酷くなり、とうとう階段から突き落とされてしまった。


学園側は事故と結論づけたが、幾人か見ていた生徒がいたのだ。


クレハがリリーにした事は許したくはないが、人を傷付けるのは違う。

そう判断した生徒がセラフィード伯爵家へと真相を話したのだ。


ロバートは怒りを抑えられずにいたが、クレハがロバートを抑えた。


階段から突き落とされてしまったクレハは、足を捻挫し数週間の安静とされた。


学園を休みたくない負けん気と、虐めから解放される安堵感とで気持ちが落ち着かずにる。


クレハがボウっとベッドから窓を眺めていると、扉がノックされ執事が入ってきた。


「カイン様がお見舞いにお越しです。お通しして宜しいでしょうか?」


「大丈夫よ」


クレハが返事をすると執事が扉から離れ、婚約者であるカインが入ってきた。


「怪我をしたと聞いた。大丈夫か?」


(怪我をしたのは三日前ですわよ。今更ですね……)


クレハは頭が切れる。

カインが見舞いに日にちを要した理由が直ぐに理解出来た。


「大丈夫ですわ」


クレハの返事にカインが寝台の横に置かれた椅子に座った。


「学園で色々あった事は聞いたよ。リリー嬢からね」


真っ直ぐにクレハを見つめるカイン様の瞳に、軽蔑の眼差しが含まれている事に気が付いた。


「ジミーという平民の男性の話も聞いた。ジミーは今どこにいる?なぜリリー嬢に会わせないのだ?」


(会わせないのではない。会えないのよ……二度と……)


クレハは小さく深呼吸をし、カインに問の答えを伝える。


「カイン様は私がジミーを私が囲っていると言いたいのですか?リリー様からジミーを奪ったと。そう言いたいのですか?」


「この数日、学園で話を聞いて回った。どれもリリー嬢への君の態度は良くない。ジミーに会わせない時点で答えは出ている」


「私はジミーを囲ってはいません。そう伝えても信じては貰えないのですか?」


「………」


カインの沈黙で答えは出た。


婚約して二年。クレハはカインに好意を寄せていた。

格上の侯爵家の三男であるカインの婿入り先にセラフィード伯爵家が選ばれた。

セラフィード伯爵家は歴史が古く、筆頭伯爵家となっていた。

カインとは政略的な婚約だとしても、仲睦まじく過ごし、クレハは次の当主になるカインの助けになろうと懸命に努力していた。


(リリー様の言葉で私のこれまでが全て否定されるのね……)



「私はクレハを信じたい。この婚約が政略だとしても、お互い尊重し合える仲だとそう思っている」


(尊重し合える。か……。好意はないと言ったも同じよね)


「だからクレハ、ジミーの事を話してくれ。クレハを信じるためにも、頼む」


ジミーの話をしなければ、信用しない。

ジミーの話をすれば、信用する。

それは、クレハ自身は信用しないと。そう言っているのだと解って言っているのか、クレハはカインの本音を聞くために賭けに出た。


クレハはベッドに座ったままだが、姿勢を正しカインにはっきりと伝えた。


「例えカイン様であっても、ジミーの話をお教えする事は出来ません。一年。一年待って頂けるのなら、お話出来ます。私を信じて頂けませんか」


「解った……。私を信頼しないと、話をしてくれないと判断するよ。信頼出来ないまま婚約を続けても意味はない。このままだと婚約は解消となるだろう。クレハはそれでも良いのか?」


「カイン様のお気持ちは受け入れます。解消の話は私から父に話をしますので、このままお帰りになって頂いて構いません」


クレハは声が震えないように腹に力を入れ布団の下で握りしめた手をギュッと握りしめた。


「なっ……君はそこまでしてジミーを選ぶのかっ!もう良い!」


カインはクレハの言葉に驚愕していたが、次には怒りの表情に変わると椅子から乱暴に立ち上がり部屋から出て行った。


「やはり信用しては貰えなかったわねっ……」


クレハはベッドに潜り込み、声を殺して泣きじゃくった。


婚約して初めての顔合わせでカインと会った時は、四歳年上の優しいお兄様だった。


交流のお茶会でのお話は難しい政治の話も、領地の話も沢山意見を言い合った。

クレハがカインに好意を寄せる事に時間はかからなかった。


王太子殿下の側近として忙しいカインも、手紙や贈り物を欠かさず届けてくれた。

婚約者としてきちんと務めを果たしてくれた。

クレハの片思いでも良かった。

信頼し合える仲だけだとしても、好意が例えなくともクレハを信じてくれるだけで、それだけで良かった……。



半年、一年と共に過ごせば、好きになるに決まっている。

カインは社交界でも人気の心優しい令息。


クレハは諦めきれない自分の気持ちの行き場を、泣くことで消そうとしていた……。



夕刻、邸に戻った執事からロバートはカインが訪れたと報告を受けた。

暫く部屋にいたが、カインが怒って部屋を出た後、クレハが泣いていた事も聞かされた……。


ロバートがクレハの部屋の扉をノックすると、小さな返事が返ってきた。


「クレハ、何があった?」


クレハはベッドの中に潜り込んだまま出てこない。


寝台の側に倒れた椅子をロバートが視界に入れた。

椅子を元に戻し座ると、布団の上からポンポンする。


「カイン殿と何かあったのか?」


クレハは顔だけ出すとロバートにカインとの出来事を話す。


「リリーからカイン様はジミーの事を聞いたそうです。私はジミーの事は話せない。一年待って頂きたい。私を信じて欲しいと伝えましたが、駄目でした。

婚約をっ……解消したい…そうですわっ。私は解消をっ、解消を受け入れましたっ」


クレハはそれだけ伝えるとベッドに潜り込んだ。

泣いているのは明らか。嗚咽を我慢する娘の声に、ロバートは全てを捨ててもクレハを守ると決断する。


「クレハ、この国から出ようと思う。マーガレットのいる隣国に移ろう。この国に未練はもうない」


ロバートがそう言うと、クレハが飛び出し抱きついた。


「好きだったの……カイン様が、好きだった……」


ロバートの腕の中で泣きじゃくる娘を抱きしめ、泣かせた者達を許さないと腹の中は怒りに満ちていた。


ロバートは学園での出来事を全て調べ上げていた。

クレハが何をされ、どんな目にあってきたのかを。



ロバートの動きは早かった。


リリーが学園に入学した話を聞いた時から

、クレハに何かあれば隣国で療養しているマーガレットの生家に移る準備は終えていた。

マーガレットも愛娘の現状に激昂し、隣国への移住の手続きを直ぐにしてくれた。


使用人を集め、爵位返上の話を伝える。

伯爵家は分家筋に領地の権利が移るようにと書面も用意してある。

領民に負担を強いるわけにはいかない。



隣国に来る者はそのまま雇い入れる事を伝え、残る者達には紹介状を書いた。


一刻も早く隣国に移る為に、王城に爵位返上の書類を提出し邸の整理を始めた。


王城から登城命令の封書が届くのは早かった。爵位返上の書類を提出した数刻後に届いた。


「王城から戻り次第、私は邸を出る。クレハを直ぐに馬車に乗せ隣国に先に向かわせてくれ。クーロは全てを終えたら隣国に来て欲しい」


クーロと呼ばれた老執事は了承し、ロバートを見送ると使用人達に指示を出しクレハの旅支度を始めた。





王城に到着すると近衛騎士団長が迎えに出ていた。

ロバートの怒りを王家はようやく知ったのだろう。

爵位返上となるまで気に留めなかった事を今更後悔しようと、ロバートは許すつもりはなかった。



謁見の間に通される。

ロバートが姿を見せた瞬間、両陛下と王太子殿下が立ち上がった。


「ロバート。すまない」


陛下が謝罪の言葉を真っ先に口にしたが、ロバートが返事をする事はなかった。


その場にいるのは、ノワール侯爵夫妻とクレハの元婚約者のカイン。


それに、クレハの親友のアドリアナがいる。が、アドリアナは心配そうにロバートを見つめていた。


ロバートは陛下に一言だけ返事を返した。


「爵位返上の書類に印をお願いします」


「対応が遅れた事は認める。罪を犯した者は処罰する故、国に残ってくれ」


 『爵位返上』


その言葉に、ノワール侯爵夫妻とカインが呆然としながらロバートに視線を向ける。


「ロバート殿。爵位返上されるのは、カインが婚約解消を伝えたからだろうか?」


ノワール侯爵の言葉にロバートは反応しない。


「私のせいですわね……」


アドリアナがポツリと呟いた。


「違う!私の責任だ。アドリアナは悪くない。全て、私が招いた事だ……」


アドリアナの言葉を否定したのは、王太子殿下だった。


「そうですね」


ロバートが王太子殿下へ不躾な視線を向けた。


「殿下の過ちを隠すために、それだけの為にジミーとクレハが犠牲になったのですから」


王太子殿下は拳をぐっと握りしめ、俯いた。

アドリアナはチラリと王太子殿下へ視線を向けるも、ロバートへと視線を戻した。


「アドリアナ嬢。学園でクレハを守ってくれた事に感謝する。クレハはアドリアナ嬢が大好きだから、貴女を今まで守る事が出来た事だけは後悔していないよ」


厳しい顔をしていたロバートだが、アドリアナには優しく微笑みクレハの思いを伝えた。

アドリアナは涙を堪え、ロバートへと笑みを返した。


「話が見えないのだが。我が家は何故この場に呼ばれたのですっ」


状況が全く理解出来ないノワール侯爵が声を荒げた。


「ノワール侯爵は真実を知らぬが、巻き込んだのは事実。その経緯を伝えたく呼んだのだ」


陛下が口を開き、隠し続けた秘密を全て話た。





王太子殿下は学園に入ると、ある平民の女子生徒と親密になった。

平民で初めての学園の特待生での入学。

貴族から守るために、少しばかり側にいただけであった。

殿下は婚約者はいないが、候補となる者は数人いた。

その中の一人がアドリアナであった。

殿下の近い世代に高位貴族の令嬢がおらず、四歳年下のアドリアナが筆頭候補となっていた。


親密になったと言っても王太子の立場をきちんと理解していたため、学友として交流をしていただけだった。

殿下は平民の女子生徒の行動が面白く、会話も市井の話と興味深い事に夢中になった。


殿下には女子生徒に恋心は全くなかった。

だが、女子生徒は殿下に夢中になってしまう。

当時殿下の側近の数人を誑かした女子生徒は、殿下の行動をずっと監視していた。


殿下の婚約者が決まると側近達から聞かされた女子生徒は、殿下が会いに行く侯爵家に忍び込んだ。


殿下が会いに行ったお相手が、アドリアナの生家のシュタイン侯爵家であった。


その日の殿下の訪問はシュタイン侯爵家には伝わっていなかった。

側近達が先触れを隠していたのだ。


アドリアナとジミーは幼馴染であった。

ジミーはアドリアナが市井で誘拐されそうになった時に助けた事から、侯爵家への出入りが許され将来はアドリアナの専属執事として雇い入れる話になっていた。


だが、ジミーを簡単に邸に入れている事が漏れると、ジミーの身に危険が及ぶためジミーの両親以外は誰も侯爵家に通っているとは知らなかった。


ジミーは貴族について学び、アドリアナの遊び相手としてお茶を一緒にしたり勉学を共に受けていた。


殿下の側近はその情報を手に入れ、平民の男性と一緒にいる令嬢が嫌われれば良いと殿下の訪問の先触れを隠したのだ。



殿下がシュタイン侯爵家を訪れた日、アドリアナはクレハとお茶会を開いていた。

ジミーの執事の練習のためにと、幼馴染のクレハを呼び特訓をしていたのだ。


アドリアナが席を離れ、クレハとジミーが二人きりとなった。

クレハは練習のためと、ジミーとの会話を楽しんでいた。


そこに侵入した女子生徒が現れたのだ。


「あんたが殿下の婚約者の侯爵令嬢なのっ!」


興奮状態の女子生徒を見たクレハは咄嗟に

「そうよ」と返事を返した。


女子生徒は走り寄り手に持っていたナイフをクレハに振り上げた。


クレハは(刺される!)

目を強く閉じそう思ったが、痛みがこない……。

クレハがそっと目を開けると、両手を広げたジミーが目の前に立っていた。


声をかけようとした瞬間、ジミーが崩れ落ちた。

ジミーを起こそうと手を伸ばし抱え上げた。すると、クレハの手に温かなヌルリとした物が纏わりついた。

クレハが手を広げると血である事が解った。


クレハは悲鳴をあげ、ジミーの名前を必死に呼ぶ。


その声に使用人達が気が付き、悲鳴を聞いた殿下も駆けつけた。


邸の玄関にいた殿下が悲鳴の聞こえた場所に向かうと、ナイフを手に呆然とする女子生徒がいた。


その足元には令嬢と倒れた使用人らしき者が目に入った。


殿下は護衛に女子生徒を捕縛させ、押さえつけた。


邸から現れたアドリアナが、ジミーとクレハの名を呼び走り寄る。


クレハはジミーの頭を膝に乗せ、名を呼びながら泣いている。


殿下は自分のせいだと気が付いた。

女子生徒は地面に押さえつけられているのに

「殿下が助けに来てくれた!」と、嬉しそうにしているのだから……。


女子生徒は騎士に連れて行かれ、クレハはジミーと引き離された。



クレハはアドリアナの邸に暫く泊まる事になった。目の前でジミーを殺され、錯乱状態のクレハは茶会のあった庭から離れる事が出来ずにいた。



そんなある日、お忍びでシュタイン侯爵家で話し合いの場が設けられた。


陛下とフェルナン王太子殿下。

シュタイン侯爵夫妻とアドリアナ。

セラフィード伯爵夫妻とクレハ。


それに、ジミーの両親。


ジミーの両親は死を待つ罪人のように顔色を悪くしていた。


「申し訳ない。私の軽弾みな行動が平民の女子生徒を勘違いさせ、ジミー殿を死に至らしめてしまった……」


アドリアナとクレハは黙って聞いてはいるが、涙を堪えきれずにずっと泣いていた。


「愚息であるフェルナンの不手際でジミー殿を死に至らしめた事は事実。ご両親には申し訳ない事をした」


ジミーの両親は陛下と王太子殿下に謝罪され、今にも意識を失いそうになっていた。


「あの罪人は死罪となる」


陛下の言葉に肩を跳ねさせたのは、ジミーの両親だった。

平民の娘が貴族に刃物を向けたのだ。

殺した相手が平民であっても、刃物を向けた相手が貴族であった事で死罪となる。

そして、罪人の家族も……。



「愚息の愚行で罪人を作る事になったのだ。罪人の家族には咎はない」


ジミーの両親は安心したのか、肩の力をゆっくりと抜いていた。


「シュタイン侯爵家への先触れを隠した件だが、重い処罰は出来ない。側近達の愚行を公表すれば処罰は出来るが、これでも愚息は王太子だ。この件を今すぐに公表する訳にはいかない。アドリアナ嬢を婚約者とする話が議会を通ったからな……」


アドリアナは驚き、王太子殿下へと視線を向けた。


殿下はアドリアナを真っ直ぐに見つめ。


「あの日、私が自らアドリアナ嬢へ婚約者となった事を伝えたく、シュタイン侯爵家へ向かったのだ。候補の中でアドリアナ嬢が一番努力家であり、友人のクレハ嬢を大切にする人物だと私は好感を持った。だから陛下に婚約者をアドリアナ嬢にと望んだんだ」


殿下からの婚約の申し出に、アドリアナもクレハも驚いていた。


「シュタイン侯爵家でのジミーの死を暫くは隠してもらわなければならない。側近達は二年で処罰である謹慎が解かれる。あの者達は騙されたと自分達の非を全く認めておらず、側近を降ろされた事に憤慨しておる。いずれ何かしら事を起こすやもしれん……故に、ジミー殿の死を暫く隠し側近達が真に反省しておれば良しなのだが……」


元側近達の家門も高位貴族のため、派閥争いが激化すれば王太子殿下の失態は足元を掬われる一手になってしまう。


「陛下、宜しいでしょうか」


今まで黙っていたクレハが陛下にお声がけした。


陛下が頷きクレハに話の許可を出す。


「あの日、ジミーはシュタイン侯爵家ではなく、私の邸に来た事にしてはいかがですか?私とジミーも幼馴染なのは事実です。あの日、幼馴染の私の邸に来ていたとすれば、ジミーはいなかった事に出来ます。シュタイン侯爵家での事が広まれば、せっかく正式に受理されたアドリアナと殿下の婚約も破談となるやもしれません。そうなると、アドリアナの立場もなくなってしまいます……」


アドリアナが反論しようとするのをクレハが先に口を開き言わせない。


「アドリアナ。貴女が王太子妃になる事は、私の願いでもあるわ。貴女が社交界で力を持てばきっと報われない女性も救われるはずよ。貴女は優しく聡明な私の自慢の親友ですもの」


「っ……クレハ」


アドリアナは涙を堪え、クレハと見つめ合う。


ロバートは娘の意思を汲み取る事にした。


「娘がそう望むなら、ジミーはあの日クレハと我が邸でお茶会をしていた。そう致しましょう。その後はセラフィード伯爵家はジミーの行方は解らないとします」


ロバートの言葉で話は纏まった。

二年後、側近達の謹慎が解かれ様子を見て、その一年後に何事もなければフェルナン王太子殿下とアドリアナ侯爵令嬢との婚約を公表する。



話を聞き終えたノワール侯爵が口を開いた。


「カインが急に殿下の側近となったのは、そのような理由からだったのですね。そして、クレハ嬢を元側近達から守るためにカインが婚約者となったのですね」



そう。今は側近達の様子を見ている最中であったのだ。

クレハを守れる爵位でクレハに何かあれば王太子殿下に仕えるカインに話が伝わると、陛下も王太子もそう考えていた。



「クレハの婚約にカイン殿を受け入れたのは、爵位だけではない。カイン殿は……穏やかで優しい性格だ。だからこそ、傷付いたクレハの心に寄り添えると判断したのだが……。違ったようだ。リリーの話を鵜呑みにし、クレハを信じようとはしなかった」


それに……。


「リリーの事は陛下に伝えた筈です。リリーには気を付けるようにと。陛下達はリリーがジミーに恋をし、ただ行方を捜している哀れな平民とでも解釈しましたか?リリーは元側近と繋がっているのですよ?」


「なっ!真かっ!」


「リリーはジミーに執着し過ぎてクレハを攻撃していた。元側近達はアドリアナ嬢と親しいクレハに汚点をつけたかったのでしょうが、クレハは学園で何をされようと、何を言われようと折れなかった。

自分が正しいと行動しなければ、ジミーを囲っていると決めつけられてしまう。そうなると、ジミーの名誉に関わる。

ジミーに貴族の愛人や男娼のような汚名を着せたくなかったのですよ」


ロバートが語るクレハの内心を聞いたジミーの両親は声を上げて泣き始めた。


「ジミーのために、クレハ……お嬢様がっ…。ジミーが命を懸けた女性がクレハお嬢様でジミーも幸せだったでしょうっ……」


伏せて泣くジミーの両親をカインは見つめていた。


「ジミー殿の名誉のため……」


カインが小さな声で呟いた。


「ジミーはクレハを慕っていたようだ。だが、ジミーは身分差をきちんと理解していた。アドリアナ嬢の側に仕えクレハの幸せを見守るだけで満足だったようだ。

クレハを庇ったあの時に、ジミーは最後にクレハに気持ちを伝えた。死んでしまえば身分差等関係ないからな。

ジミーは命を懸けて好いた女性を守ったのだ!そんなジミーを、クレハが大切に思い、名誉を守って何が悪いのだ!

たかが平民女とリリーを侮ったから、このような事になったのだ。私達家族は隣国に移る。二度と国には戻る事はないっ」


話すことはもうない。

と、ロバートは礼をするとその場を下り扉に向かう。

カインはロバートの側に走り寄り自分の気持ちを伝えた。


「ロバート伯爵!私は誤解していました。クレハがジミーを囲ったまま私と婚姻するのだと、そう聞かされました。私はクレハを愛していました。ただクレハにジミーの存在を、噂の真相を話して欲しかっただけだったのです」


泣きそうな表情のカインだが、ロバートは構うことはない。


「嫉妬か?愛していたからなんだと言うんだ?クレハは一年後きちんと話をすると伝えたはずだ。待って欲しいと、願いを伝えたはずだがそれを無下にし、婚約解消すると決めたのはカイン殿自身であろう?」


ロバートはゆっくりと歩きカインの前に立った。


「クレハに愛していると伝えた事はあるか?ないよな。クレハはカイン殿からは信頼しかされていない。好意などないと言っていたからな。クレハに政略的婚約だとカイン殿が口にしたのだからな」


ロバートの言葉にカインの表情が青褪めていく。


「それに、クレハはもう国にはいないよ」


そう言うとロバートは踵を返し、足早に謁見の間から退出していったのだった。


カインとロバートとの会話が何であったかを知る者はいない。


ただ、カインが呆然としていることだけしか解らなかった。


カインは膝から崩れ落ちロバートが去った扉をずっと見続けていた。







カインはクレハが婚約者だと初めて顔合わせをしたあの日を思い出す。


初対面のカインに向ける笑顔の下に、傷付いた何かを抱えた可愛らしい少女がとても気になった。


まだ幼さの残るクレハが、カインに気を配り一生懸命に背伸びをする姿を見る事が日々の喜びになっていた。


婿入りするカインのために領地経営を学び、王太子殿下の側近であるカインの体調を気遣ってくれる温かさを嬉しく思っていた。


婚約して二年もあれば、クレハに好意を抱いていた。

政略的婚約であっても信頼し合えればましだ。

そう思っていたカインも、可愛らしい婚約者を好きになり婚約者として大切にしてきたつもりでいた。


クレハが学園で怪我をしたと聞くまでは。


平民を囲っている?

愛人を隠し、結婚するだと?


リリーと名乗る女性が、ジミーをクレハから返すように伝えて欲しいと、泣きながら訴えられた。


学園で話を聞いて回れば、クレハの行いは信じられなかった。

ただジミーをリリーに会わせれば良いだけだろう?

なぜクレハはジミーを隠すのだ。

ジミーを好いているのか?


自分に向けていた好意の視線や、恥ずかしそうに頬を染めた仕草も嘘だと?


整理がつかないま、クレハに会いに行った。


クレハが他の男を選ぶ事に我慢ならなかった。

自分との婚約の継続がかかれば、話をしてくれるはずだと高を括っていた事が最悪の結果となってしまった。



王城では知らなかった殿下の秘密を知らされる事になった。

知らなかったとは言え、自分がクレハを信頼し一年待てば良かっただけだった。


だが、愛しい婚約者が他の男と通じている可能性を考えれば、嫉妬に狂うのは仕方ない事ではないのか……。




セラフィード伯爵家が国を離れ、妻の生家である隣国に籍を移した話は直ぐに社交界に知れ渡った。

クレハが平民の男性を囲い、それが幼馴染の平民特待生であるリリーにより明らかになったと。

リリーは英雄扱いを受けている。


真実を知る者は少なく王家の許可なしに否定の証言が出来ないため、セラフィード伯爵家を貶める話しか出てこないのだ。


間違った解釈で噂が広まるのは、あっという間であった。



カインはフェルナン王太子殿下から呼ばれ応接室のソファーに座っていた。


クレハが国を離れ、婚約を白紙にされてからカインは生きる気力を失っていた。


クレハを信じたい気持ちと、ジミーへの嫉妬で纏まらない思考のままクレハに会ったことを深く後悔していた。


あれからカインが考えるのは、あの日クレハと話をした時間の事だけ。


胸に残るのは、ロバートが口にした

「命を懸けて守ってくれたジミーを大切に思い、名誉を守って何が悪いのだ」


その言葉が脳裏に、胸の奥底に刻まれ離れる事がない。


カインの思考を遮るように、執務室にフェルナン殿下とアドリアナが入室した。

フェルナン殿下は自分の過ちで、また誰かを不幸にしてしまった事が堪えたようで、見るからにやつれていた。


「カイン……すまなかった」


殿下が頭を下げた。

側近として一家臣としてその行動を止めるべきだが、どうでも良かった。


「ノワール様。私からも謝罪致します。クレハに口を出さないよう約束させられていても、もっと早くせめてノワール様だけにはお話をお伝えすべきでした」


アドリアナは一瞬躊躇うも、カインに伝えたい事があった。


「クレハはノワール様に知られたくなかったのです。ジミーの事は王家が絡む以上何も言えない。ただ耐えてやり過ごす事をクレハは選んだのです。一年過ぎれば、真実が伝えられる。リリーや他の生徒から何を言われようと、何をされようと一年我慢すれば良いと……。

でもそれは、事実を知る者だけの解釈でしかありません。知らなかったカイン様に瑕疵はないのですから……クレハの事は気になさらず、前を向いてください。政略的婚約の役目を終えたのですから……」


カインには責任はない。

クレハを忘れ、婚約者を作って欲しい。

アドリアナはそう伝えた。


アドリアナはクレハがカインを好きな事は知っていた。

クレハがカインは政略的婚約を受け入れて婚約者として扱ってはくれるが、必要最低限の接触しかない事も。

クレハに対しカインが信頼関係以外の気持ちがない事も聞かされていた。


(今更クレハの真実を知ったから可哀想だとでも思ったのかしら。同情心なんてクレハは喜ばない)


日々やつれるカインに、アドリアナは怒っていたのだ。

クレハがいなくなって後悔するなと。


「私は……私は、クレハをきちんと女性として好意を持っていましたよ。健気で可愛らしいクレハを好きになるのは当然です。私の婿入りの為に必死に学び大人の女性に憧れて背伸びするクレハは、とても可愛らしいのですから」


昔を思い出したのか、カインが小さく笑う。

でも、次には少し顰めた顔をした。


「初顔合わせの日、クレハは笑顔で私を迎えてくれた。だが、その笑顔の下には傷付いた何かを抱えているのが見えてしまった。お茶会をしていても、ふと辺りを気にする仕草をしていた。

あれは、ジミー殿を思い出していたのだと、今なら理解出来る。

でもあの時の私は何もわからない。何を抱え何を傷付いたのかを。だから婚約者としてはきちんと接して信頼を築きいつか話してくれると努力をしたつもりだった。

そして、ジミー殿の話をあの女から聞かされ、ジミー殿と結ばれない事が原因ではと、勘違いをしたのが大きな原因だ。ロバート伯爵には、嫉妬か?と。気持ちもクレハに伝えた事がないくせに……と、今更だと叱責されたがな……」


あの王城での話し合いの時に言われたのだろう。


フェルナン殿下もアドリアナも何も言えない。


アドリアナもクレハを想い尊重してきたカインの胸の内を聞き、すれ違いを起こさせた原因が自分達にある事を理解している。


「カイン。私は自分の過ちを一年待たずに公表しようと考えている。私の過ちで大勢の人を傷付けた。王太子から廃されるかもしれない……。真実を公表し平民女が英雄扱いを受けている報いを受けさせたい。貴族には闇に隠すべき事など幾つもある。それを理解せず、綺麗事で人を貶めた者達を許したくはない」


「そんな事をしてもクレハは帰ってこない……。しかし、リリーを持ち上げ英雄扱いをする学園の生徒達には我慢は出来ないかな。クレハを虐め抜いた報いを受けさせるのもありかもしれない。そして、クレハの優しさを、ジミー殿の名誉を守り通した強さを知ってもらいたい」



カインはクレハの名誉を回復する事に力を注いだ。

クレハはジミーの名誉のために自分が盾になった。

カインはクレハのためにクレハの名誉を守り、盾になる事を誓った。






クレハが隣国へと移り住んで三ヶ月が過ぎる頃、ロバートの邸に一通の報せが届いた。


『クレハ様の名誉は回復し守られました。王太子殿下、アドリアナ嬢、カイン殿により学園での生徒達への処罰。平民リリーへの処罰。王太子殿下の元側近の処罰も全て終えております』


ロバートは間者を王都や王城に残していた。カインがどう動くのか、王太子殿下がどう動くのか。隣国から伺っていたのだ。


ロバートもカインが全て悪いとは思ってはいない。

王太子殿下の過ちも仕方ない事であると理解はしている。

過ちを犯した事全てに罪があるとは思わない。ただ、その後の行動が大事なのだ。


カインがクレハを愛していた事には多少の動揺はあったが、クレハの涙ながらの言葉を聞いていたロバートは、娘を泣かせたカインを許す事は出来なかった。


隣国でクレハは落ち着き、学園へと通っている。

妻の実家は公爵家である。公爵家の持つ伯爵家を妻が継ぎ、隣国でも伯爵として生活を始めていた。


「貴方、クレハはまだカイン様を想っているようですわね」


マーガレットの言葉にロバートは渋い顔をし、話をしたくないと紅茶を口にした。


「クレハに対する生徒達の仕打ちには腹が立ちましたが、何も知らされていないカイン様を責めるのはどうなのでしょうね」


マーガレットはそれだけを伝えると、自身も紅茶へと手を伸ばした。


「そうだな……カイン殿の行動しだいだろう」


クレハが学園から戻ってから話をしてみる事にした。



学園から戻ったクレハは、両親に呼ばれ何があったかを全て伝えた。



王太子殿下は元側近がなぜ謹慎処分を受けたのか公表した。


王太子殿下の軽率な行動が一人の平民女性を勘違いさせ、婚約者となったアドリアナ嬢を襲おうとした事。

クレハがアドリアナの振りをしたため、平民女性に刃物で襲撃を受けそうになった。

だが、平民であるジミーがクレハを庇い命を落とした事。

派閥争いを避けるため、王太子殿下と元側近の失態を隠した事。


セラフィード伯爵家がその秘密を請け負っていた事実。


リリーの言うジミーは、この世にいない。

仕える主の親友であるクレハを身を呈して庇い命を落とした事実。


クレハはジミーの名誉を守る為に学園での仕打ちを堪えていた事。


全てが王都中に広められた。


社交界も王都の街も、大騒ぎとなった。


平民女性が二人も貴族を相手にやらかしたのだ。

平民達は自分達にも何かお咎めが来るのではと、気が気ではない。


貴族達は自分達の子供が学園でやらかした事実を告げられていた。


学園の中は小さな社交界であり、閉鎖された世界。

子供達のやらかしを知らなかった親は大勢いた。


学園の事だから知らなかったでは済まされない。

セラフィード伯爵家が学園だけでなく、社交界でも悪意の噂の的にされていたのだから。


陛下から「セラフィード伯爵家は王家に献身的に仕えてくれた。それに甘えてしまった余に責任はある。これより先、セラフィード伯爵家を貶める発言は王家への反意とみなす」


そう宣言された。


[クレハ嬢は平民ジミーの名誉を守り、親友である王太子殿下の婚約者を守り抜いた]

賛辞の言葉が広がった。


だが、セラフィード伯爵家は国にはいない。

平民の名誉を守り抜いたクレハもいない。


国は暫く落ち着く事はなかった。



両親から事の顛末を聞かされたクレハは、

「アドリアナと殿下の婚約に支障はありましたか?」


親友のアドリアナの心配をする娘をロバートもマーガレットも誇りに思うが、自分自身をもっと大切にして欲しいとも思ってしまう。



「王太子殿下は後継から廃されず、王太子のままだ。アドリアナ嬢との婚約も継続されている」


ロバートの言葉にクレハはホッと安堵の息を吐いた。


「クレハ、貴方はカイン様をどう思っているの?」


マーガレットは言葉を濁さずクレハに問いかけた。


クレハはそんな事を聞かれるとは思わず、驚いていた。


「えっ?どうとは……カイン様とは婚約を解消していますので、それだけです」


クレハはそう伝えるが手をギュッと握り込んだのをマーガレットは見逃さなかった。


「クレハ。貴女の献身は私もロバートも知っています。学園での事は人として受けてよい仕打ちではありません。ですが、カイン様はクレハを愛していたそうよ。クレハが何かに傷付き抱え込んでいる事も気が付いていた。いつかクレハから話してくれると信じていたと」


クレハは母から聞かされた言葉に驚きを隠せずにいた。


「カイン様が?私を?」


「クレハが抱える悩みが、ジミーと結ばれない事ではないかと思い違いをしてしまったの。ジミーを愛人としたままカイン様を婿入させる。そう聞かされたみたい。

普通なら信じなかったはずだけれど、カイン様はクレハがずっと何かに悩んでいた事に気が付いていたから、そう考えてしまったのね。

カイン様はね、ジミーに嫉妬していたの。何故嫉妬したのかわかるでしょう?カイン様はクレハを愛していたからよ」


マーガレットの話を聞きながら、クレハは涙を流していた。


カイン様は愛してくれていたの?

私が悩んでいた事も気が付いていたの?

嫉妬心からリリーの話を鵜呑みにしてしまったの?


「クレハには大きな秘密があったわ。王家が絡む以上、その事を口には出来なかった。でもね、クレハ。

貴女は秘密を語れない代わりにカイン様に好きだと。ジミーではなく、カイン様をちゃんと好きだと伝えていれば、カイン様も不安や嫉妬する事なくクレハが伝えた一年をきっと待ってくれたわ。何を信じれば良いか解らない状態でクレハの一方的な願いを聞いて欲しいと言うのは我儘だと思わない?」


母の言葉が胸に刺さる。

カイン様を忘れられなくて、奥底に隠した後悔と恋しい想いが棘のように胸を突き刺してくる。


涙を流し続けるクレハの頬をマーガレットがハンカチで優しく拭う。


「クレハには厳しい言葉を言いましたが、学園の事とカイン様の事は別の事だと考えなさい。アドリアナ様を庇って秘密を抱える事になった事も、全てが別の話なのですから」


クレハは母の胸に飛び込み幼子のように泣いた。


クレハはカインを忘れる事が出来なかった。政略的な婚約だとしても、ジミーの事で塞ぎ込んだ気持ちを掬い上げてくれたのは、間違いなくカインだったから。


その日は母と一緒に過ごし、自分の気持ちをゆっくりと言葉を選びながら母に伝えた。


自分の未練がましい気持ちを母に伝える事が出来たからなのか、クレハは明るさを少しずつ取り戻した。


学園から帰って来たある日、帰宅早々着替える暇も貰えず執事に呼び止められて応接室へと連れて行かれた。


扉が開き両親を視界に入れると、もう一人見覚えのある人物が視界に飛び込んだ。


「カイン様……」


震える声で名前を呼ぶと、カインは今にも泣きそうな表情で優しく笑みを浮かべた。


「クレハ」


カインから名を呼ばれクレハの胸がギュッと締め付けられた。喉の奥が痛み息が出来ない。

滲んでいくカインの輪郭で自分が泣いているのだと理解させられる。


会いたかった。声を聞きたかったのだと。


「少し二人で話しなさい」


ロバートはマーガレットを連れて応接室から退室した。


カインが動かないクレハに近付き、クレハの涙を拭う。


「クレハ、ごめん。ごめんね」


そう謝罪をするカインも泣いている。


クレハからカインに手を伸ばし抱きしめた。

カインもクレハの背中にゆっくりと手を回しお互い会話もなく抱きしめ合う。


カインがクレハから離れ手を繋ぐとソファーへと座らせた。

体をクレハに向け、俯くクレハを覗き込んだ。


「会いたかった。クレハ」


クレハはゆっくりと顔を上げ、


「私も会いたかったです。忘れたくても、忘れられませんでした」


クレハの言葉に嬉しそうにカインは笑顔を向ける。

今までの笑顔で一番幸せそうな笑顔だった。


「私も会いたかった。クレハを信じる事が出来なかった事を後悔していたよ。クレハが話してくれる事をただ待つのではなく、きちんと気持ちを伝えていれば良かったと後悔ばかりしていた」


後悔していたのはクレハも同じ。

賭けをするのではなく、あの時好きだと伝えたうえで待って貰えるように頼むべきだった。

カインに正直にそう伝えた。


「クレハは私を好きだと?そう言ってくれるの?」


告白を無意識にしていた事に気が付き、クレハは真っ赤になりアワアワし始めた。


「私も、クレハが好きだと、愛しているから話して欲しい。そう伝えるべきだった。ジミー殿に嫉妬している事を知られたくなくて、私も婚約解消を口にすれば話してくれると賭けに出た。まぁ、間違ってしまったけれどね」


苦笑いしながら、そう伝える。


「クレハ、もう一度やり直せないだろうか。私はクレハを忘れる事が出来ない。クレハを愛している」


真っ直ぐな言葉で気持ちを伝えるカインに、クレハもきちんと答える。


「私もカイン様が大好きですし、忘れる事が出来ませんでした。やり直せたらと考えた事もありました……。ですが、カイン様。私は一生ジミーを忘れる事はないと思います。命を懸けて私を守ってくれたジミーを忘れる事は出来ません」


初めてクレハが婚約してから隠し続けた思いを言葉にした。


「勿論だよ。ジミー殿がクレハを守ってくれたから、私はクレハと婚約をして愛する事が出来たんだ。ジミー殿には感謝しかない。忘れなくていいよ。私もジミー殿の献身を一生忘れない」


クレハは堪えきれずにカインの胸に飛び込んだ。


「ジミーは……刺されて苦しいのに…私を愛していたとっ……幸せになっ…てって……笑ったのっ」


カインの胸に顔を埋め、ジミーの最後を初めて誰かに話したクレハ。


一人ジミーの最後の言葉を抱え、ずっとクレハは後悔し続けていた。

アドリアナの振りをしなければ、ジミーは死ななかったかもしれないと……。


泣きながらポツリポツリとカインに伝えた。


カインは何も言わず、ただクレハを抱きしめ寄り添ってくれた。


様子を見に来たロバートもジミーの最後を初めて聞いた。


クレハが抱え込んだ物がどれほど大きかったのかを知ったのだった。

クレハがその思いを伝えたのが両親ではなくカインだった事で答えは出ていた。


「クレハとカイン様の再婚約を認めるしかありませんね?あなた」


マーガレットは楽しそうに話し、ロバートは苦い顔をする。


「国は変わりましたが、カイン様が婿入りする事に変わりはないのですから」


カインは再婚約の申し出の為に隣国まで一人やって来ていたのだった。





クレハとカインの再婚約は直ぐに認められ、カインは隣国の伯爵家に婿入りとなった。

カインは両親からの許可は得ていた。献身的なクレハをノワール侯爵家は最初から好意的に見ていた。



クレハが隣国の学園を卒業した次の日、カインとクレハは結婚式を挙げた。身内だけが招待され、ひっそりと執り行われた。



カインとクレハの婚姻は二人の祖国にも噂で広まった。

王太子殿下とアドリアナの結婚式も近付くなか、カインとクレハが祖国に足を運んだ。


ノワール侯爵家でクレハは歓待を受け、慌てるクレハをカインが温かな眼差しで見ていた。


クレハは侯爵家から出る事はなかった。アドリアナからのお茶会ですら、丁寧に断りを入れた。

クレハは祖国の社交界に顔を出すつもりがない事を示した。


アドリアナとの直接的な接触はしないものの、毎日手紙を持った使者がが王宮とノワール侯爵家を行き来する。


クレハは学園での出来事は忘れる事が出来なかった。

この国の貴族と会う事が恐ろしかった。

クレハとカインは王太子殿下とアドリアナの挙式の日まで侯爵家でのんびり過ごす事にした。



街が賑やかになり活気に満ち溢れる今日は、王太子殿下の結婚式の日。


クレハとカインは変装し、一般市民と混ざり二人の挙式パレードを見に来ていた。


クレハはソワソワしながら馬車が通るのを待つ。

段々と民達の歓声が大きくなる。

クレハは人混みに隠れていたが、馬車から手を振るアドリアナと視線が合った。


アドリアナの目が大きく見開かれ、手を振る動作が止まった。


その姿は一瞬で過ぎていく。


「アドリアナ様は気が付いてくれたね?」


カインはクレハの肩を引き寄せ、震える肩を優しく撫でる。


「うん……」


大歓声が途切れる事はない。

その声を聞きながら、二人はその場から離れた。


クレハがカインを連れてある場所に案内した。


そこは墓地でシュタイン侯爵家の名が刻まれた墓石の前に着いた。

侯爵家のお墓の後ろに小さなお墓があった。

名は刻まれていない。

だが、とても大切にされているのは見ればわかる。


「まさか……」


「そう。ジミーが眠っているの」


クレハは手を合わせる。

カインも隣に立ち手を合わせた。


「ジミーが言った通り、私は幸せになるわ。ジミーのおかげよ。ありがとう」


涙を堪え、ジミーへと言葉を告げる。


(ジミー殿、貴方が命を懸けてクレハを守ってくれたおかげで、クレハと出会い夫婦になる事が出来ました。ありがとうございます)


カインは言葉にせず、ジミーへ心の中で感謝を伝えた。


「貴方の分もクレハを愛し、大切にします」


カインはジミーのお墓に向け 、そう伝えた。


風が吹き、ふわりと供えたお花が小さく揺れる。


ジミーが頷いているかのように感じた。



クレハは祖国でノワール侯爵家以外とは誰とも顔を合わせる事なく、隣国へと帰って行った。



クレハは知らない。


平民の中で絶大な人気を得ていた事を。

一人の平民の名誉を守るために、国まで捨てた優しく芯の強い令嬢を敬愛している事を。


王太子殿下が廃される事が無かった理由の一つにクレハの存在があった。

王家への献身に胸を痛めながらも、クレハが守り抜いた王太子殿下とアドリアナだからこそ民衆から支持されたのだと言う事実を。


隣国に訪問された王太子夫妻から聞かされるまで、クレハが知る事は無かった。


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