第6章:一億の果ての「無垢な調律」
カイルは、セシリアの罵倒を全く気にしていませんでした。
ただ、目の前のハープから聞こえる「声」に、顔をしかめていたのです。
(……ああ。これ、泣いてるな)
「触ってもいいかな?」
カイルが歩み寄ると、ハープから冷たい魔力の波動が放たれました。意志を持つ魔導楽器が、持ち主以外の接触を拒んでいるのです。
「ふふ、無駄よ! このハープは選ばれた演奏者にしか心を開か――」
コンッ。
セシリアの言葉が終わるより早く、カイルがハンマーの柄でハープの支柱を軽く叩きました。
その瞬間。
逆巻いていた魔力の波動が、まるで鏡のような静水へと変わりました。ハープが、カイルの手に自分から吸い付くように擦り寄ったのです。
「え……?」
カイルは音叉を鳴らし、弦の一本一本に、指先で優しく触れていきました。
「……君は、もっと低く歌いたいんだね。無理やり高く張られて、芯が震えてる。……よし、いいよ。自由にしてあげる」
カイルが調整ネジを一回し、二回し。
ただそれだけ。
しかし、ハープから溢れ出したのは、セシリアが今まで一度も出したことのない、深く、温かく、心臓の鼓動に直接響くような音色でした。
「な、何をしたの!? 私の完璧なセッティングを……!」
「セシリア。楽器はね、演奏者に従うんじゃない。演奏者と一緒に『歩く』ものなんだって、この子が言ってるよ」
カイルが弦を一本弾きました。
ポォォォォォォン……
その一音が、広場全体を魔法のような静寂で包み込みました。
喧騒が消え、人々はただ、その音の余韻に涙を流しました。セシリア自身も、自分の喉の奥にあった「傲慢さという名の不協和音」が、その音色に溶かされていくのを感じて、呆然と立ち尽くしました。
【SNS:王都実況掲示板:新人パーティー観察スレ 2】
154:名無しの冒険者
【事件】自称天才音楽家のセシリア様、楽器職人のカイルに「ハープの気持ち」を説かれて完全敗北。
155:名無しの冒険者
見てた。カイルが弦を弾いた瞬間、広場にいた全員が「あ、俺いま天国にいる?」って顔してたぞ。
156:名無しの冒険者
セシリア様、今カイルの足元で「弟子にしてください!」って号泣してるんだけどwww
クラリスが困り顔で「カイルさんは私の調律師なんですから」って、地味に独占欲出してて草。
157:名無しの冒険者
楽器職人のカイル、本人は「弦の張力を適正にしただけです」って言ってるのが一番タチ悪いわ。
それ、国家宮廷楽師が一生かけてやる仕事だろ。
#カイル被害者の会 #セシリア様陥落 #楽器が喋る男
「……ねえ、カイルさん。私の杖も、後で『調律』してもらってもいいですか?」
赤くなった顔を隠しながら、クラリスが呟きました。
「もちろん。クラリスの音はいつも綺麗だけど、少し疲れが溜まってるみたいだからね。……さあ、レオン。パン屋の新作が出る時間だよ」
「おう! カイル、お前の鼻……いや『耳』は、パンの焼き上がりまで聞き分けるもんな!」
三人は、泣き喚く元・ライバルを背に、平和な夕暮れの中を歩いていきました。
カイルの耳には、世界の奏でる新しいメロディが、これ以上なく心地よく響いていました。




