2章 名前のない記録係と、灰色の福音 【誕生】
「カイル、お前は本当に薄気味悪い子供だな」
それが、俺が物心ついてから最も多く浴びせられた言葉だった。
王都の片隅にある貧民街。俺には親の記憶がない。気づいた時には、ボロ布のような毛布に包まれ、教会の軒下に転がされていた。
拾ってくれた神父は慈悲深い人だったが、俺が五歳になった頃に流行り病で死んだ。それ以来、俺は「教会の居候」という名の、無償で働く奴隷になった。
俺には、他の子供のような「若さ」や「無邪気な輝き」が欠落していたらしい。
ただひたすらに、目の前の事象を観察し、記憶する。
「今日は雨が三十二回、屋根の隙間から漏れた」
「隣の家のパン屋は、客がいない時に十五回、小麦粉に砂を混ぜた」
そんなことを無表情に呟く俺を、大人たちは気味悪がり、子供たちは石を投げた。
俺の唯一の友達は、神父の遺品の中に紛れていた、表紙もタイトルも掠れて読めない一本の古書――**「無名の年代記」**だけだった。
「お前、またそんなゴミを読んでるのか。文字も読めないくせに」
教会の新しい司祭が、俺の頭を乱暴に小突く。
確かに、当時の俺に文字は読めなかった。だが、その白紙のページをなぞっている時だけは、不思議と心が静まった。まるで、俺が何かを書き込むのを、世界が待っているような錯覚。
転機が訪れたのは、俺が十歳の時だった。
王都から「才能鑑定」の役人がやってきた。国中の子供たちを調べ、魔王軍に対抗するための「勇者候補」や「魔法師」を見つけ出すためだ。
「……次、カイル。前に出ろ」
冷たい視線の中、俺は鑑定の魔道具に手を触れた。
一瞬、魔道具がパチリと火花を散らす。期待に満ちた周囲の空気が、結果が表示された瞬間に凍りついた。
【職業:記録係】
【スキル:完全記憶・言語理解(低)・自動書記】
「……記録係? なんだそれは」
「戦闘能力はゼロ。魔力適性も……ゴミ同然だな。文字が書けるだけの、歩くメモ帳か」
役人は吐き捨てるように言い、俺の名前を「不適格」のリストに放り込んだ。
その日から、俺の扱いはさらにひどくなった。
「飯を食う資格はない。記録係なら、腹が減った感覚でも記録してろ」
そんな罵倒と共に、一週間も地下室に閉じ込められたこともある。
暗闇の中、俺は死にかけていた。
空腹と渇きで意識が混濁する中、俺は「無名の年代記」を開いた。
不思議なことに、暗闇の中でもその本だけは淡く光を放っていた。
(ああ……俺の人生は、何だったんだろうな)
誰にも愛されず、誰の役にも立たず。ただ、世界が流れるのを眺めているだけの、透明な存在。
俺がここで死んでも、世界には一行の記述も増えない。
その時だった。
掠れていた本の表紙に、ぼんやりと文字が浮かび上がった。
『――汝、観測せし全ての事象を、糧とする準備はあるか?』
声ではない。脳内に直接、情報の塊が流れ込んできた。
俺は震える指で、自分の指先を噛み切り、溢れた血で白紙のページに名前を書いた。
『カイル』
その瞬間、俺の視界は「色」を変えた。
ネズミが這う音、風が石壁を叩くリズム、自分の心臓の鼓動。それらすべてが、まるで複雑な数式のように解析され、脳内に蓄積されていく。
翌日、俺は地下室の扉を「観察」した。
どこに力を加えれば、経年劣化で脆くなったヒンジが壊れるか。一億通りの可能性の中から、最も効率的な一点を見つけ出した。
――ガッ!
一蹴りで、重い木扉が弾け飛ぶ。
驚愕する司祭や街の人々を尻目に、俺は教会を出た。
手元には、もはや白紙ではない「年代記」と、すべてを見通すような冷徹な瞳。
「記録係、か。……悪くない。全部、見てやるよ。このクソみたいな世界の終わりまで」
そうして俺は、冒険者ギルドの門を叩いた。
そこで出会ったのが、眩しいほどの光を背負った「自称・勇者」のレオンだった。
奴の笑顔の裏にある醜い傲慢さも、取り巻きの聖女クラリスの冷酷な計算高さも、当時の俺にはすべて見えていた。
見えていたのに――。
「記録係だって? 面白い、俺様の伝説を一番近くで書かせてやるよ!」
その差し出された手を取ってしまったのが、俺の「一回目」の人生における、最大の誤算だったのだ。




