私は悲劇の王女ではありません。
誤字や名前間違いあるかもしれません……。もしありましたら教えていただければ助かります。
ヴェルデン王国の王都セイレンは、人々の活気で満ち溢れていた。この国を長く脅かしていた蛮族との戦いに、ついに終止符が打たれたためだ。
国中が功労者である討伐隊の面々を称え、各地で盛大なお祭りが開かれていた。特に兵たちの凱旋の最終地でもある王都の盛況ぶりは凄まじく、一目雄姿を拝もうと多くの人々が詰めかけ、戦果を挙げた報告を直接行うために王城へ入った後もなお賑わいは衰えることがない。
敵を倒した兵たちも、向けられる熱気と自身が成し遂げた偉大な功績に興奮が冷めやらず、誰もが高揚した面持ちで王の待つ大広間へと歩を進めていた。口々に功績を称えあっている彼らだがしかし、その中で一人冷静な様子で前を見据える青年がいた。
白銀の髪をさらりとなびかせ颯爽と歩く背の高い青年は、今回の戦いの一番の功労者であり、彼の圧倒的な強さと戦いぶりは国民の間にも広く知れ渡っている。
やがて隊の面々は城の中心部へと辿り着く。
王国で採れる金を余すことなく装飾として使用した絢爛な扉が開かれると、最奥には最高権力者の姿があった。
「この度は誠にご苦労であった」
隊を率いた長が改めて戦果を報告すると、王であるジェーダスがねぎらいの言葉をかける。そして今回の戦いの勝利に対して、参加した兵たち全員に多大な褒美を与えることを約束した。
しかしある男はそれだけにとどまらなかった。
「シーレン、面を上げよ」
名を呼ばれ、頭を垂れ跪いていた青年が顔を上げる。月光を編み込んだような色合いの美しい髪が流れ、澄んだ青色の瞳が露になる。
「お主のことは儂の耳にもしかと届いておる。臆することなくたった一人で大勢の敵を相手にし、蛮族の中でも戦いに特に秀でた者たちの首をとった。のみならず、統率者であった長をも倒し、族を消滅へと至らしめた。勇敢な兵たちの中でも特に目覚ましい活躍だったとな」
「お褒めにあずかり光栄でございます」
見た目にはとてもそんなやり手には見えない。
身長こそ高いが、軍団の中でも細身で、兵というよりは文官に思えるいで立ちだ。精巧に作られた人形のように美しすぎる顔立ちも、その要因といえるだろう。
だが彼の実力は本物だ。どこからともなく現れ、義勇軍として討伐隊に加わったまだ日の浅かった青年は、はじめこそ敵味方共に、風が吹けば折れてしまいそうな体躯の男を場違いだと鼻で笑っていたものだが、ひとたび戦闘になればまるで一陣の風のように軽やかに舞い、一閃で敵を殲滅した。
返り血を浴びることなく華麗に舞い戦う彼の通った後には死体だけが転がっており、『白銀の死神』として敵に恐怖を植え付けた。
「『死神』とはなんとも物騒な名だが、我が国にとっては救世主だ。主には本当に感謝している。国を統べるものとして心から礼を言う」
そしてジェーダスは次にこんなことを告げた。
「シーレン。成し遂げた偉大な功績の証として、儂はお主に特別な褒美を与えようと思う。叶えられるものであるならば、王としてそれを許可しよう。何なりと言ってみるがいい。金でも名誉でも、爵位でも」
「何でも、ですか」
少し俯き加減になり物憂げな表情で思案するシーレンの色香にあてられたのか、ジェーダスの隣に控える王妃や王女たちが思わずほっと吐息を漏らす。
美しいその御仁はそれからしばらく悩んだ後、おもむろに口を開いた。
「陛下」
水を打ったように一気に静まり返る室内。彼の望みを一言一句逃さぬよう、周囲が聞き耳を立てる。
そして皆の注目の中彼が言葉にした望みは、誰もが予想しえないものだった。
「もしもお許しいただけるのならば、このシーレン、オリヴィア王女殿下の騎士として任命していただきたく思います」
迷いのない澄んだ声は、静寂で満ちていた大広間の隅々まで、淀みなく広がった。
予想外の人物の名前にざわめきが場を支配するが、発言した当人は凪のない湖面のごとく静かな面持ちだった。
「皆の者、静粛に」
ジェーダスの一言で、一気に場は収束する。再び沈黙の時が訪れたのを確認したのち、ジェーダスはシーレンに問いかける。
「お主が主人として仰ぐ人物として名を挙げたのは、ここにはいない第二王女オリヴィアで間違いはないか」
「はい」
「……敢えて問おう。儂には他に子がおる。なぜオリヴィアを選んだ」
シーレンはオリヴィアが座るべき場所────第一王女と第三王女の間の空間を見つめた後、視線をジェーダスに戻し言った。
「数年前、私は陛下の視察について回っておられたオリヴィア王女殿下にお会いしたことがございます」
シーレンは懐かしむようにわずかに目を細めると、静かに続ける。
「あの時の私は生きる希望を失っておりましたが、王女殿下に優しくお声掛けしていただいたことで、なんとかここまで命を繋ぐことができました。今の私がここにいるのは、王女殿下のお陰です。だからこそ、この国の脅威を退け私の役目も終わった今、この身をオリヴィア王女殿下に生涯捧げられたらと望みを持ちました」
「……その旅のことなら、今でもよく覚えておる」
思い出したのか、ジェーダスをはじめとした王家の面々が悲痛な面持ちを浮かべる。
「オリヴィアに起こったあの事件のことは、お主も知っているな」
陛下の言葉に、シーレンも苦々しい表情を浮かべる。
それは王家の、そしてヴェルデン国民の中にも刻まれた、忌まわしき記憶である。
視察の最後の地であるサノラマの孤児院でオリヴィアが子供と交流中、突如蛮族が侵攻し、彼らに切りかかられる少女を庇い負傷。生死の境を彷徨って生還したものの、肩から胸元、そして腹部にかけて大きな傷跡が残った。
そのせいで決まっていた他国の王子との婚約は破談。今は王家の所有する領地の一つで静養している。
「私は、あの時心を救っていただいたオリヴィア王女殿下を、この命を懸けてお守りしたく思っている所存です。勿論、貴族ですらない私が王女殿下にお仕えするのにふさわしいとは決して思っておりません。ですがせめて願望を口にするだけならば罪には問われないのではないかと考え、陛下の『なんでも』というお言葉に甘えさせていただいた次第です」
ジェーダスがちらりとシーレンを一瞥すると、思いのたけを伝えたシーレンは神妙な面持ちで、彼から発せられる次の言葉を待っていた。彼がオリヴィアを慕っているという言葉に、嘘はないように思える。
だがジェーダスの表情は芳しくなく、考え込むように静かにうなり声を上げる。これに関しては、何よりオリヴィア自身の意志が重要だ。この場ですぐに決断できる話でもなかった。
ジェーダスは立ち上がってゆっくりと歩を進めると、シーレンの正面に立つ。
「オリヴィアは我が国の誇りであり、同時に儂の愛しの娘でもある。主がオリヴィアに仕えるのにふさわしいかどうか見極めるのに、少し時間をもらう。それまでしばし主の願いは保留だ」
「仰せのままに」
ジェーダスの言葉に、シーレンは深く頭を垂れた。
○○○○
オリヴィアが静養するのは、王都から遠く離れた場所だ。しかし美しい自然に囲まれた地であり、静養の場としては適した場所だと判断されたのだ。
が、現在オリヴィアの姿はそこにはない。
彼女がいるのは、まさに王都だった。
時は遡り、シーレンをはじめとした勇敢なる兵たちが王都へと到着するまさに直前。
まもなく王都入りする英雄たちを一目見ようと、セイレンには人々が集まっていた。特に彼らが通る王城へと続く大通りは群衆で埋め尽くされ、身動きが取れないほどである。
そんな大通りから離れた場所。少し小高い場所にある、とある元騎士が購入したこぢんまりとした家の一室にオリヴィアはいた。
彼女は現在、二階の窓から、興奮した面持ちで大きく身を乗り出しているところだった。
「ねぇノア、もうすぐじゃない!?」
後ろに垂らされた長い三つ編みを揺らしながら声を弾ませていると、彼女の後ろで優雅にコーヒーを堪能していたノアと呼ばれた人物が、カップを唇から離してにやりと笑った。
「それより、興奮しすぎて下に落ちないでね」
「子供じゃないんだし大丈夫よ!」
「そう? でも綺麗な魚に目を奪われて湖に落ちたのってついこの前じゃなかったっけ」
「ま、まあ、そんなこともあったけど……」
怪我をする前────世間で出回っている頃の絵姿のオリヴィアは、美しくも艶やかな黄金の髪と翡翠色の瞳、雪のごとく真っ白な肌を持った、儚げで可憐な美少女であった。故に療養している今、彼女の儚さと可憐さには拍車がかかり、深窓の令嬢のごときイメージがついている。
だが、口ごもりながら振り返ったオリヴィアはまるで違っていた。
絹糸のような滑らかさを持った黄金の髪は、太陽の光によくさらされているせいかオレンジの色合いが濃くなっていて、髪質も以前の艶やかさはない。陶磁器のように白かった肌も、今ではそれなりに焼けている。醸し出される雰囲気に儚げの要素は全くと言っていいほどなく、それとは真逆である。
可憐な容姿に変わりないが、とても心と体を病んでいるようには見えずすこぶる元気そうであり、彼女が件のオリヴィア王女だと言われても、俄かには信じられない。
しかし、今は服で隠れているが、刃物で斬りつけられた深く痛ましい傷跡が、時が経った今でもしっかりと残っていて、これが彼女がオリヴィア王女本人であると証明していた。
そんな彼女は療養中ほとんど外には出ない、という噂とは違い、離れて暮らしてはいるが家族とも連絡は取り合っていたし、王都へも個人的に何度も遊びに来ていた。
そして今回この地にいるのも、他の群衆と理由は大差なかった。
「あ、見て見てあそこ!! 先頭にいるのが、討伐隊の指揮官様じゃないかしら!?」
トランペットの天をも切り裂く鮮やかな音色と同時に、歓声が上がる。群衆の間から見えたのは、見事な鬣を持つ真っ黒な馬に乗る大柄な男だ。
オリヴィアの声につられ、ノアも立ち上がると彼女の隣に並んで、オリヴィアと同じように手にしたオペラグラス越しにそちらを見つめる。
「おー、確かに。あのむさくるしい感じは、指揮官のおっさん以外の何者にも見えないね」
その後もゆっくりとした行進は続き、敵を倒した立役者である兵たちは皆、思い思いのポーズを取ったり誇らしげに手を振り、その度に見ている人々から声が上がる。
そんな中、そろそろ終わりに近付こうかという頃合いで、一際大きな声が上がった。
「キャア────ッ!! こっちを向いて!」
女性たちの興奮した黄色い声が一帯を占め、その波は瞬く間に広がってさらに大きな声のうねりを生み出す。
歓声の理由はすぐに分かった。
「ねえノア、あの人がもしかして噂の……」
「死神だろうね。なるほど、ここからだと距離があってはっきりとは顔は見えないけど、美貌の剣士であることに間違いはなさそうだ」
陽の光に照らされてキラキラ輝く銀の髪をした青年は、他の兵達とは違い、観客に目もくれず、ただ前を見据えて事務的な動作で行進していた。
「なんていうか珍しいタイプだね。兵士って大体脳みそまで筋肉に侵されてる奴が多いから、自己主張激しい目立ちたがり屋ばかりなのに」
「その言い方はひどいと思う」
「だって事実だからね。あいつら筋肉を鍛えることに集中しすぎてて常に暑苦しいし、しかもそれを見せびらかしてくるし。興味ない大胸筋を間近で見せられ続けた私の身にもなってほしいよ」
肩をすくめてそう言い放つノアを見て、オリヴィアはあることを思い出した。
「そういえばあなたって昔、王国の騎士団にいたんだっけ」
「そ。義勇軍の方は分からないけど、少なくともこの国が選抜して派遣した今回の討伐隊のメンバーは、指揮官殿を含めて昔所属してた騎士団の連中も多くいるからね」
そんな話をしている間にも行進は進んでいくが、遂には途切れ、二人の視界から消える。それでも尚民衆の歓声は続いていて、その熱気が離れたここまで伝わってきているような気がした。
彼女はその後もしばらく感慨深い様子で、彼らが進んだ先にある王城を見つめ、そして小さく呟いた。
「本当に終わったのね……」
そしてそっと、傷跡に手をやる。これまでに多くの命が散った。オリヴィアも傷を負い、表舞台から姿を消すこととなったが、彼女は自分の現状に後悔はなかった。
ただ心残りがあるとするなら、彼女がその身と引き換えに助けた少女のことだった。
オリヴィアが十二歳の時、彼女は国王陛下である父と一緒に国内の視察に同行していた。
堅苦しい礼儀作法の授業や、口うるさい家庭教師の先生の小言から解放されたいという気持ちもあったが、一番の理由は自分の目でこの国のことを知っておきたいと思ったからだった。
そんな中、旅の最後に寄ったのが、国境沿いに位置するサノラマという街だった。そこにある孤児院を訪問した際、輪の中から外れている少女がいることに気が付いた。
院長に話を聞くと、ここに来たばかりだというその彼女は、家族を病で亡くしていて、元々住んでいた村でも虐げられていたようで帰る場所もないそうだ。
その上とある人身売買を扱う組織に攫われ、その後闇取引で売買されていた奴隷だったと教えてくれた。
そこで相当な扱いを受けたようで、服の先から見える手足には無数の傷痕が刻まれており、その時受けた恐怖からか、大人が近付くとひどく怯え、治療することすらままならない状態だという。
その話に耳を傾けていたオリヴィアは、痛みと吐き気で胸が苦しくなった。
この少女を攫った組織は、関係者達を全員捕らえ、終焉を迎えたと耳にしていた。けれど奴隷とされていた子供たちにとって、それは終わりではなかったのだ。彼らは隅でうずくまる少女と同じように、今も過去の記憶と恐怖に縛られ、悪夢に脅かされ続けている。
その事実に、オリヴィアは今初めて気付いたのだ。そんな己の能天気さと無知に、彼女は恥じ、苛立ちすら覚えた。
けれどここでそのことについて悔やんでも仕方がない。大事なのは今だ。何か今の自分にできることはないだろうか。全ての人間を癒すことはできないかもしれないが、それでも目の前で苦しんでいる人のほんのわずかでもいい、力になりたいと思った。
オリヴィアはそっと、少女に歩み寄る。靴音を立てただけでも彼女の体はびくりと大きく跳ね上がり、抱えている膝小僧を掴む手が更に強張るのが分かる。
まだまだ距離は遠いが、これ以上近付けば悪戯に少女の恐怖心を煽るだけだと感じたオリヴィアは、すぐに立ち止まる。
やはり顔は上げないが、それでも墨を夜空に流し込んだような髪色から、少女が東方に位置するごく限られた地域の出だということが分かった。そのあたりで歌われると言われている子守唄を昔聞いたことがあったなと思い出し、試しに歌ってみることにした。
記憶を辿りながらなので途中つっかえたりもしながら歌っていると、少女がピクリと反応し、やがてゆっくりと顔を上げた。どうやら同い年くらいに見える顔立ちの少女は、青の瞳を困惑気に揺らしてオリヴィアを見つめている。
何とか最後まで歌い切ったオリヴィアが呼吸を整え、少女を見つめると、しばらくの沈黙の後少女がゆっくりと口を開いた。
「それ……昔、お母さんが歌ってくれた。どうして知ってるの?」
とてもか細い声だが、オリヴィアの耳にははっきりと届いた。彼女は怖がらせないように、柔らかく微笑みながら答える。
「私の乳母が、あなたと同じ髪色をした東方の出だったの。だからもしかして同じ故郷なのかなと思って、歌ってみたんだけど……やっぱりあなたもそこの出身?」
それに対し、こくりと頷く少女。
「そっか」
それをきっかけに少しずつ、少女との交流が始まった。
数日もすると、オリヴィアは彼女のすぐ隣に座れるほど距離を縮めることができた。
彼女の名はレイと言って、オリヴィアより二つ上だった。精神だけでなく肉体的にも奴隷時代の虐待の影響が及び、成長が遅れているようだった。
たくさん話をするわけではない。
どちらかというとオリヴィアが話し、それにレイが相槌を打ったり時には彼女が話をしたりする。
無言の時間も多く流れるが、それが嫌というわけではなくむしろ心地よかったりする────そんな不思議な時間を共有していた。
それにオリヴィアは、レイがたまに見せるようになったはにかんだような笑顔が好きだった。その顔を見るたびに、ぎゅっと抱きしめたくなる衝動に駆られていた。勿論、怯えさせないよう我慢したが。
そうして少しずつ心を開いてくれたからなのか、まだ怖がる節はあるものの、以前よりも大人に対する恐怖は薄れているように見えた。
だがオリヴィアは視察でこの地に来ている身。帰る日がすぐそこに迫っていた。後ろ髪を引かれる思いだったが、初めよりもかなり落ち着いてきていたので、大丈夫だろう。
けれど最後に挨拶だけはしたい、そうジェーダスにお願いして、孤児院に立ち寄った際に事件は起きた。
孤児院の門の前に子供たちが集まり、一人ずつ別れの言葉を述べていたその時、何の前触れもなく突然蛮族が攻め入ってきたのだ。
後から聞いた話だが、街を守る門番が彼らと通じており、その為襲撃が起こったのだという。加えて孤児院は街の端にあった為、まず一番にその場所が狙われたらしい。普段彼らが侵攻してくるのはもっと遅い時期だったので、警戒が足りていなかった。
すぐにオリヴィアと国王は馬車に押し込められ、孤児院の扉も彼らに侵入されないように急いで閉じられたが、ただ一人、レイだけが間に合わず、扉の前に取り残されてしまった。
周囲には王家を守る騎士がいたため蛮族の奇襲はすぐに収束するように見えたが、敵の一人が無防備に立ち尽くすレイに斬りかかっていくのを、オリヴィアは目にした。
レイはその場を動けず、恐怖をたたえた瞳で男をただただ見つめている。
「レイ!!!!」
彼女は名前を叫びながら扉を開け、夢中で走る。あまりの早さに誰もオリヴィアを捕らえることはできなかった。
オリヴィアは王女だ。この国の民を守る責任がある。守らなければ。何としても守らなければ。たとえこの命に代えても────!
やがて無情にも剣は振り落とされる。鋭く光る切っ先は、確かに人の肉を切り裂いた。
間一髪で間に合い、レイの前に立ちはだかったオリヴィアの体をだ。
「オリヴィア様っ!!!」
痛みで意識を手放す寸前聞こえてきたのは、レイが自分を呼ぶ声だった。
ああ、彼女は無事だった。よかった間に合って。
レイには幸せになってほしいから、もう傷の一つも作らせたくなかった。
「よか、った、怪我、してない、ね」
そう口を開くのが限界だった。体が焼けるように痛い。あまりの痛さに意識が徐々に虚ろになり、視界もぼやけていく。レイがどんな顔をしているかも見えない。
「オリヴィア様、オリヴィア様!!!!」
オリヴィアを呼ぶ彼女の声もだんだん遠くなっていく。自分はここで死ぬのか。分からない。
だけど意識を手放す直前、最後に思ったことは、こんな時に思うにはあまりにふさわしくない喜びの感情だった。
ああ、レイが初めて自分の名前を呼んでくれたな、と。
気付いたらそこは孤児院近くの病院の一室だった。なんとか一命は取り留めたが、傷は深く、しばらく安静にするよう医師には告げられた。それからオリヴィアが王都に帰れたのは三か月後のことだった。
体調は万全ではないものの王都へ戻ってきたオリヴィアは、改めて状況を聞くことができた。
彼女が意識を失ったあと、蛮族はすぐに討伐され、彼らをその地に送り込んだ裏切り者も即刻取り押さえられ、処刑されたらしい。被害は最小限で抑えられ、ヴェルデン国側に命を落とした者はいなかったという。
そして彼女の怪我についてだが、鋭利な剣で斬られた痕は残り、消すことは不可能だという。
そのことをいち早く耳にしたオリヴィアの婚約者であったポラリラ王国の王子は、まだオリヴィアがサノラマで療養中の時期にも関わらず、醜い傷のある人間と結婚はできないと独断でこの国へと乗り込み、ヴェルデンの王族の前で堂々と婚約破棄を申し出た。
どうも彼には真実を誓う恋人がいたようで、これを機にその女性と結ばれたいと思ったらしい。
オリヴィア的には、数度しか会ったことのない相手だったので、何も思うものはなかったが、そんな人間との婚約などこちらから願い下げだとオリヴィアの家族はそれはもうご立腹だった。
そしてそれはポラリラ国側も同様だった。
なぜなら両国は同盟国であり、尚且つヴェルデンの方が力を持っている。
同盟の破棄どころか戦争の火種になりかねない愚かな行いをした王子をすぐさま廃籍し、その恋人ともども国外へと放り出し、誠心誠意セイレン側に謝罪をしてきたことでなんとか事態は収束した。
が、元婚約者とその顛末よりもオリヴィアが真っ先に気にかかったのは、レイのことだった。
サノラマで療養している時も、彼女は一度も現れなかった。見舞いに来た子供たちに尋ねたが、それとなくはぐらかされてしまったので気になっていたのだ。
王都へ戻ってすぐ、まずは心配をかけてしまったことを謝り、それから改めてレイのことを尋ねると、ジューダスは言い淀むように唇を歪ませていたが、やがて観念したように苦々しい表情になった後教えてくれた。
「お前が助けたおかげで、レイには怪我はなかった。だが────あのあとレイは、お前が意識不明の間に、探さないでくれと書かれた置き手紙を残し、行方をくらましたそうだ。このことは、お前が療養中にそのことを知ってもしも容体が急変したら大変だと、あえて伏せられていたらしい」
「そんな……!」
言葉が続かず黙ってしまったオリヴィアに対し、ジューダスは更に言葉を続けた。
「ただ、オリヴィアが目の前で斬りつけられたのを間近で見たことで、レイは魂が抜けてしまったようだったと他の子供が言っていたそうだ」
その時、オリヴィアは初めて自分の過ちに気付いた。
自分を助けたせいでオリヴィアが死んだり、傷を負えば、その分レイの心に負い目が生じるのは分かりきっている。
だからこそ、あの時最後に彼女に対して言うべき言葉は、「私は絶対に大丈夫」だったのだ。
再び心に傷を負ったレイがどこへ向かったのか分からないが、良い状況ではないのは確かだ。
「オリヴィア、お前が気に病むことではないし、勿論レイが悪いわけでもない。全ては忌々しい蛮族どものせいだ。お前は民を守る者として自分にできる最大限のことをしたんだ」
黙りこくり罪悪感に支配された娘に気付き、ジューダスが気遣うようにオリヴィアの頭を撫でる。
「さあ、もう少し休みなさい。レイのことは、儂が責任をもって探すよう指示しておく」
動かなくなったオリヴィアを優しくベッドに横たわらせ、ジェーダスはお休みのキスを額に落として部屋を去る。
けれど心が晴れることはない。いまだに痛みを伴う傷も、彼女にとっては苦痛のうちに入らない。無人になった部屋でオリヴィアは、そっと涙を流す。
神様お願いです、どうか、どうかレイが無事でいますように。
そう心の内で神に祈ることしか、その時のオリヴィアにはできなかった。
けれどレイが見つかったという情報はどれだけ待っても入ってこない。
最悪の状況が頭をかすめるが、すぐに首を振って否定する。大丈夫、どこかできっと生きている────そう願うしかなかった。
それから一年が経った。
オリヴィアの顛末は国中に知れ渡り、身を盾にして子供を守った王女として国民からの人気は高かった。だが、こと貴族においてそれは当てはまらない。
オリヴィア自身はそれを気にしてはいなかった。
この傷は彼女にとって何も恥ずべきものではない。だから卑屈になることもなく、堂々としていたが、オリヴィアは気付いてしまった。
他の貴族や他国の者たちが、傷が残るオリヴィアを醜いと密かになじり、それを耳にした家族が心を痛めていることを。
それに服の下からちらりとこの傷が目に入る度、ジェーダスは目の前で娘を守れなかった罪悪感を、それ以外の家族も、オリヴィアよりもよっぽど傷付いた顔を見せるのだ。
彼らの気持ちは痛いほど分かる。けれど、関係のない第三者からの陰口よりも、家族からの向けられるその視線の方が、オリヴィアにはよっぽど堪えた。
傷が癒えることがない自分がここにいる限り、おそらくずっと付きまとうのだろう。
だから自分から提案した。
第二王女オリヴィアは療養という形で王都を離れ、そのまま表舞台から姿を消したということにしたいと。
この傷では誰かに嫁ぐのも難しいだろうし、それに元々王女として振舞うのは、オリヴィアの性格的に性に合っていないこともあり、できれば王都から離れた王族の直轄地で過ごしたいとジェーダスに言ってみた。
その要望はすぐに通り、かくしてオリヴィアは直轄地の一つに居住まいを移し、王族の代理としてその地を治めるウィンニー家の屋敷に預けられた。
皆と離れてしまったのは少し寂しかったが、そこには彼女を縛るしがらみは何もなく、自由にのびのびと過ごすことができた。
勿論ただ居候するだけではなく、彼女も裏では積極的に領地経営へ関わり、そのおかげで以前にも増してその地は賑わいを見せ、金銭的にもかなり潤っている。
そして、預けられたその地は、王都にいる貴族達からは田舎だと馬鹿にされるものの、実は貿易の拠点として発展しており、出入りする商人と仲を深めつつ彼らのネットワークを借りて、オリヴィアは密かにレイの情報を集めるようになっていた。
ついでにいうと、レイとは関係ないものの他にも色々な情報が入ってくるようになり、気付けば密かに国内の動向を探る役割を担うようになっていた。
レイを攫った集団以外にも存在していた人攫いのグループを、オリヴィアがレイを探す傍ら手に入れた情報により壊滅状態に追い込むことにも成功している。
そんな役割を果たしつつ、以前よりも身軽な立場になったオリヴィアは、レイに似た人物がいると聞けば、変装をしたうえでどこへでも足を運んだ。残念ながら成果はまだ出てはいないが、彼女の中に諦めるという単語はないのだ。
「オリヴィアどうしたの? パレードはとっくに終わったよ」
ノアに声をかけられ、はっと意識を今に戻す。どうやら長いこと感傷的な気分に浸っていたようだ。
「ううん、何でもない」
にこりと笑いながらそう答えると、オリヴィアは外から視線を外してノアの横に座り、冷めてしまったコーヒーを啜る。
そんな彼女にノアは一瞬何か言いたげな面持ちを見せたが、すぐにそれは心のうちにしまい込むと、明るい声で尋ねた。
「ところで今回城に遊びに行くのはいつなんだい? 会うのは随分久しぶりなんじゃない?」
いつもは離れ離れだが、こうして何か行事があると、オリヴィアは一国民に紛れ、ノアが所有するこの家に泊まり、秘密裏に王族の面々と面会するのが常だった。
別に悪いことをしているわけではないのだが、オリヴィアが城に戻ってきたとなると嬉々として攻撃してくる貴族達がいるのは確かだ。その相手をするのが地味に面倒なのである。それに、秘密裏に動くのに、今のオリヴィアを知られていない方が好都合だ。
あと単純に、締め付けの激しいコルセットと動きにくいドレスを着用するのが嫌なのだ。
すると尋ねられたオリヴィアは表情を緩め、パンっと手を叩く。
「そうなの! だから会えるのがすごく楽しみなの!! それに、レイチェル姉様がこの秋に他国へ嫁いでしまうし……」
「確か海で渡った先にある国だよね。こちらにはもう戻ってこないし、会いに行くにはちょっと遠いね」
「だけどどうしてもって時は船に乗って会いに行ってもいいかなって」
その言葉にノアは立ち上がると、跪き、そっとオリヴィアの手を取った。
「勿論その時もこの私がお供いたしますよ」
褐色の髪とアメジストがはめ込まれたような美しい瞳を持つこの美形は、王国から正式に任命されたわけではないが、本人が望んでオリヴィアの下に就いている、いわゆる私的な騎士のようなものだ。
以前は王国の騎士団に所属していた人物であり、オリヴィアの兄ハロルドの友人でもある。彼女を溺愛するハロルドが、実力は折り紙付きのノアなら王都を離れる妹を任せられると思い、騎士団をやめてふらふらしていたノアに声をかけたのが始まりだった。
オリヴィアがどこかへ行くときは必ず一緒に来てくれるので、当然この誘いも受けると思っていたが、オリヴィアは少し意地悪気にクスリと笑う。
「じゃあそれまでに船酔いは直さないとね。しかも王都から二週間の船旅らしいわよ?」
「ま、まあ、なんとかなる、かな。いやなんとかしないとな。まずは慣れるため数日船に乗ってみて……あー、それだとオリヴィアを傍で守る人間がいなくなるし、けれど当然私が行かないなんて選択肢は万に一つもないし、これはハロルドに頼んで船酔いが治る秘薬か何かをあいつの伝手でどっかから入手してもらって、もしくは横流ししてもらったりとか……」
「ちょっと待って落ち着いて!? 大丈夫よ、すぐってわけでもないし、そもそも行くかどうかも分からないから! だから今からそんなに頭抱えて悩まないで!?」
急に青褪め狼狽するノアに、今度はオリヴィアの方が慌てふためく。なんでもそつなくこなせる器用なノアがたった一つ苦手なのが船だと兄から聞いてはいたが、まさかこれほどまでとは。
オリヴィアにそう言われ、はっとしたように我に返るノア。
「あ、ああ、うん、すまないね。私としたことがつい動揺してしまったよ。任せて! それまでに修行でも何でもして、きっと克服してみせるから」
あれって修行とかでどうにかなるものなのかなと思いつつ、オリヴィアは曖昧に微笑み、話を変えることにした。
「えーと、それで次にみんなに会う日なんだけど。明日の昼頃にどうって連絡があったわ」
「ふむ。……それでオリヴィアの今日の予定は?」
その質問に、待ってましたとばかりに彼女の瞳が輝く。
「お城では宴会、そして王都では、みんなで勝利のどんちゃん騒ぎ! 今日はあの大通り沿いにたくさん屋台が出るらしいの!! ベリー熊の串焼きとかナッツコーンのバター焼きとか、大蛸と王様イカの香辛料炒めとか紅姫リンゴのクリームサンドとか! とにかく美味しいものがたくさん並ぶから、それをできる限り制覇したいじゃない!?」
「えー、ああ、うん、そうだね。君は食べ物に目がなかったね。私は食に興味はないからなぁ。勿論付き添うけど」
「ちなみに今日はあの幻のお酒と評される『千年酒』が、中央広場で夜から先着順に振舞われるって……」
「よし行こう、すぐに出よう」
オリヴィアが食べ物なら、ノアは酒に目がない。
ノアは手早くフードを被って目立ちすぎる端正な顔立ちを隠すのと同時に、万が一にもオリヴィアの正体がばれないように同じように彼女にフードを被せ、待ちきれないとばかりに彼女の手を引っ張った。
「さあ行こう! いざ祝宴に!! はぐれないようにしっかり握っててね」
「ノアこそ、お酒にふらふら誘われて私を離さないでよ!」
こうして興奮しきった二人は声を弾ませながら、夕闇が落ちていく王都の中心地へと意気揚々と向かったのだった。
○○○○
「ううぅ、もう食べられないよぉ」
鼻をくすぐる匂い、口の中ではじける肉汁、目にも鮮やかなデザートの数々……。限界まで食を満喫したオリヴィアの胃は、翌日の朝になってもまだはちきれんばかりに物が詰め込まれていた。
ベッドの上でのたうち回っていた彼女を見ながら、相方はいつも通りコーヒーを優雅にすすりながら呆れたようにため息をつく。
「いくらなんでも限界ってものがあるでしょう。まさか本気で全制覇狙っていたなんて」
「悔しい……! 半分も回れなかった」
「君は将来フードファイターにでもなるつもりかい?」
涼しい顔で返すノアに、オリヴィアは不満げに口を尖らせる。
「ノアだって昨日浴びるほど飲みまくったっていうのに、なんでいつも通りなの!? しかも起きてから普通に日課のトレーニングこなしちゃうし。一体どうしたらそんな強靭になれるの?」
「私はね、酒豪ぞろいのあの騎士団の中でも特に酒が強いって言われていたんだよ。団員二十人斬りの記録は、未だに破られてないんじゃないかな。それに私は君の護衛でもあるんだ。酒如きに呑まれて鍛錬できないなんて、護衛として失格じゃないか」
ぐうの音も出ない正論に黙り込むオリヴィア。敵わないと悟ったのか、そのまま布団をかぶりミノムシ状態になる。が、すぐに鎧は引き剥がされた。
「こら、いつまでも寝てたら、それこそ消化されないで今日は何も食べられないよ! 白湯でも飲んで薬も飲んで、少し回復したら、時間まで一緒に運動しよう」
「剣の鍛錬とかは無理よ」
「そんなことをオリヴィアに求めるわけないじゃないか。散歩でもしようってことだよ」
「うぅっ」
仕方がないので彼女は体を起こすと、ノアが運んでくれた白湯を口にして、そのまま薬も一緒に流し込む。口にへばりつくほどの苦さだが、良薬は口に苦しともいう。程なくしてオリヴィアの胃が、消化活動に向けて動き出した。
と同時に、なんだかお腹が空いてきた気がする。
「下に行ってマチルダから何か食べ物もらってくるね」
「……ほどほどにしなよ」
呆れかえったノアをその場に残し、オリヴィアはさっきとは打って変わって軽快な様子で階段を降りると、ノアの不在時にこの家の管理を任せられているマチルダがキッチンにいた。
「おはようマチルダ!」
「おや、オリヴィア様、もう体は平気なんですか?」
「ええ、もらった薬を飲んだらなんだかすっきり! それで悪いんだけれど、何か食べ物はあるかしら?」
「若いっていうのは羨ましいですね。私も昔は胃もたれもすぐ治って食事ができたんですけどね」
そう言いながらマチルダは、大きな体を屈ませると棚の中を漁り、フルーツを取り出した。
「まだ本調子じゃないでしょうから、この辺がいいかと思います」
「ありがとう」
彼女に桃を剥いて切り分けてもらったオリヴィアは、カウンターに座り口いっぱいにほおばる。桃の甘みが全身を駆け巡り、まるで桃に包まれたかのような気分になる。
胃もたれ状態だったことも忘れてあっという間に食べ終わると、マチルダは驚きで目を丸くした。
「あんまり一気に食べると、また胃を痛めちゃいますよ」
「らいじょうぶ!」
口いっぱいに桃を加え満面の笑みのオリヴィアは、とても幸福そうな顔をしている。
「仮にも一国の王女様が、口に物入れたまま喋らない」
いつの間にか降りてきていたノアが、眉をしかめながら軽くオリヴィアの額を指で弾く。
「っていうかもう食べたの? 私も一口欲しかったな」
「今ノアの分も剥いてあげるよ」
「本当? 悪いねマチルダ、いつもありがとう」
ノアが礼を言って微笑むと、マチルダはひときわ大きい桃を手に取ってにかっと笑った。
「相変わらずノアは麗しいね。そうやってあんまり色んなお嬢ちゃんに愛想振りまくんじゃないよ。勘違いする娘も出てくるからね」
「はははは、大丈夫だよ。それに今の私の一番はこのオリヴィアだからね」
オリヴィアの右横に腰掛け彼女の頭を優しく撫でるが、当の本人は別のことに気を取られていた。
「私のよりも大きい……」
「はいはい、ちゃんと君にもあげるから。まったく、君ってば王女様だってのにどうしてそんなに食い意地が張ってるのかな」
「言っておくけど、こんな姿見せるのは家族とか以外ではノアの前だけだからね」
さらりと出た言葉だったが、思わずノアはオリヴィアを抱き締める。
「そうだね、それだけ私のことを信頼してくれてるってことだもんね。……君はハロルドから託された大切な存在だ。どんなお願いも聞くし、何でもしてあげるよ。勿論、この大きな桃だって好きなだけ」
「まったく、オリヴィア様とノアは相変わらずだね。ほれ、いつまでもじゃれ合ってないで、さっさと準備した方がいいんじゃないですか? 陛下たちに呼ばれているんでしょう?」
呆れ顔のマチルダに言われ、ようやく今の時間に気付く二人。起きたてのオリヴィアの支度には時間がかるので、今から取り掛からなければ間に合わないかもしれない。
「さて、お散歩はまたの機会だね。これ食べたら準備するよ」
「はーい」
そして最後の桃の欠片をしっかり咀嚼してから飲み込み、オリヴィアは手を合わせる。
「ごちそうさま! マチルダ、本当にありがとう」
「あいよ」
それから部屋へと戻りながら、そういえば顔を洗ってなかったことをオリヴィアは思い出す。案の定ノアには叱られながら洗顔を済ませ、今日の服を決める。首まで詰まった深緑色の普段着用のワンピースは、一般市民が着る量産型のものだ。
そして化粧を施している間に、ノアが手慣れた様子で彼女の髪を結い上げる。
まるでどこかに仕える侍女の仕事着のように地味ないで立ちだが、それでもノアは会心の笑みを浮かべた。
「今日の君も王都で一番綺麗だよ」
ノアの口から、さらりと気障な台詞が飛び出す。
「ありがとう、私もそう思ってる」
だがそれを返すオリヴィアの反応は至って普通である。いちいちノアの言葉を真に受けていたらきりがないのだ。
対するノアは、赤と黒を基調としたジャケットと真っ白なスラックスに身を包んでおり、ノア自身の美貌も相まって、誰もが目を引く華やかさがあった。
「あなたも素敵よ。それこそ、世の女性を虜にしている『白銀の死神』様といい勝負なんじゃないかしら」
「分かってないなぁ。そこは私の方が上だって言ってくれないと」
通常運転の会話を繰り広げていると、ふと目に入った時計の針に、ぎょっとしたように顔を見合わせる。
「お二人とも! お迎えが来ておりますよ!!」
マチルダの声に二人とも急いで階段を降りていく。
「多分数日あっちに泊まることになると思う。留守を頼んだよ」
「お任せくださいませ」
「行ってきます、マチルダさん!」
「ええ、お気をつけて」
それぞれがマチルダに声をかけ外へと出たら、そこには豪華な馬車が止まっていた。獅子と盾が描かれた紋章が掲げられているこれは紛れもなく、王家のものだ。
二人が中に乗り込むと、マチルダに見送られ、馬車はすぐに目的地へと向けて出発した。
「やっぱり王族専用の馬車は、庶民用のものと違って乗り心地がいいね。お尻が痛くない」
ふかふかの椅子にはしゃぐノアだったが、それ以上に嬉々としているのはオリヴィアだった。
「何を話そうかしら。領地であったこととか……あ! 例の白銀の死神様に会った感想を聞いてみたいかも!」
指折り数えて話す内容を考えているオリヴィアに、ノアはすかさず口を挟んだ。
「まずは君が屋台で食べすぎてベッドでのたうち回ってた話をしないと」
「それは! ……ノア、内緒にしてて? また父様に怒られちゃう」
また、と言うところから、こういった事態は一度や二度ではないのだ。
「さて、どうしようかなぁ」
「ひどい! じゃあ代わりにあなたの恥ずかしい話をばらしてもいいのね!?」
「ご自由に。そんな話を君が知っているのならね」
言われて何か思い出そうと記憶を辿るが、特に弱みになりそうな出来事はなかった。
そんなやり取りをしている間にも滞りなく進み、あっという間に王城の正門前へと辿り着いた。
馬車が止まってしばらくすると、扉がノックされる。ノアが少し開くと、門番の男が立っていた。ノアはにこりと笑い、予め用意していた手紙を彼に差し出す。
「私はノア・サリバン。本日ハロルド殿下と謁見予定の者です。同行者は侍女一人です」
すると、手元の封書の内容と顔を何度も見返していた門番が急にはっとした表情になり、即座に敬礼のポーズをとった。
「あなたがかの有名なノア殿でしたか! 以前所属されておりました騎士団での伝説の数々、噂は聞いております! お会いできて光栄であります!」
「嫌だなぁ、今の私は騎士団員でもなんでもない、一市民ですよ? そんなにかしこまる必要なんてありませんから」
「今は騎士団を辞められて、放浪の旅に出られているとか」
「そうそう。今日はその報告も兼ねて、ハロルド殿下に呼ばれて遊びに来たってわけですよ」
オリヴィアの元にノアがいることは公にはされておらず、表向きにはそういうことになっている。ノアの抜群な知名度とハロルドからの手紙のおかげか、門番はちらりとうつむき加減の同乗者を一瞥しただけで、すぐに中に通してくれた。
「さすがは王家の紋章が押された手紙だ。効果は抜群だね。君の確認も特にされなかったし」
「やっぱりあなたって有名人なのね」
「私は長らく王都の騎士団の花形だったからね」
「自分で言っちゃうところがあなたの凄いところだと思う」
「だって事実だから」
ともかく、ノアの存在のお陰で、侍女に扮したオリヴィアは堂々と正面から入れるのだ。
やがて馬車が完全に止まると、再び扉が開かれた。
ノアの後に続きオリヴィアが降りると、待っていたのは、昔の彼女とお揃いの見事な黄金色の髪とエメラルドグリーンの瞳の青年だった。顔立ちもどことなくオリヴィアに似ており、もしも彼女が目線を上げて顔を露にしたら、二人が兄妹だということが誰の目にも分かりそうだ。
青年はオリヴィアを見て一瞬感極まったように駆け出しそうになったが、すぐに強靭な自制心でそれを抑え込み、代わりに嘘くさい笑顔でノアへ向き直った。
「やあノア、久しぶりだね。会えてとても嬉しいよ」
目の前の美丈夫の心の内が手に取るように分かったノアは、あまりのおかしさについ吹き出しそうになっていたが何とか堪えたようで、同じく笑顔で返した。
「それは私の台詞だよ。まさかハロルド殿下直々に迎えに来てもらえるなんて」
そう、彼こそがオリヴィアの兄で、ノアに超絶シスコン野郎と評されるハロルドその人だった。
彼は、別にお前を迎えに来たんじゃないと目で訴えつつ、その反対の台詞を口にした。
「君に一刻も早く会いたくて会いたくて、仕方がなかったんだよ」
この場合の『君』とは、当然オリヴィアのことである。彼女もそれは分かっていた。緩む口元を抑えながら、謁見場所である部屋へと向かう二人の後をついていく。
長い長い距離を進み続けてようやく辿り着いたのは、王族の住まう城内の最奥部分。最も警備が厚く、そこに入れるものは城内の人間でもごくわずかだ。
ここより奥の人間はオリヴィアのことを皆知っており、その為彼女もその中ではオリヴィアとして過ごすことができるのだ。
そこにいたのは、オリヴィアが愛してやまない人たちの姿だった。
「お姉さまーっ!!」
たまらず駆け出してきたのは、妹のマリアだった。
「マリア、久しぶりね! 前に会った時よりも大きくなってる」
しっかりと妹の体を抱き止め、オリヴィアは幸福に満ちた様子で顔をぐにゃりと緩ませた。それから順番に、姉のレイチェル、ハロルドと顔を合わせていき、最後に両親である国王陛下ジューダスと妃殿下パメラの元に立つ。
「お父様、お母様、二番目の娘のオリヴィア、ただいま帰りました」
喜びを隠せない様子で満面の笑みを浮かべるオリヴィアに、少し目を潤ませながら二人は優しく抱き締めた。
「お帰りなさい、私たちの愛しのオリヴィア」
「また一段と黒く焼けたな」
「お父様もお母様も、お元気そうでよかった」
あの事件の後、一番憔悴していたのは両親だった。
だが、彼女が王都を離れてのびのびと生活していると報告を受けてから、それに倣って二人とも元の姿に戻り、現在は何なら昔よりもふくよかに成長している。
オリヴィアと同じく食べるのが大好きな両親なので健康には気を付けてほしいと思っているが、同時に元気な証拠なので本当に良かったとも思っていた。
それはオリヴィアの兄妹たちも同様で、時間が解決してくれたからなのか、オリヴィアの傷が見えても以前のように悲痛な面持ちを見せることはなくなっていた。 なので王都へ戻ってきても問題はないのだが、如何せん今の場所が居心地が良すぎることもあり、また、レイを見つけていないので、もうしばらくはこのままでいいかとオリヴィアは思っている。
ひとしきり再会の喜びを分かち合ったのち、オリヴィアを除く王家の面々は、ノアへと視線を向けた。
「ノアにも礼を言うぞ。お主が傍にいてくれているおかげで、遠く離れた娘の姿が見えなくても安心できるというものだ」
陛下の言葉に、片膝を立て跪いていたノアが、目線は下げたまま更に頭を垂れる。
「もったいないお言葉でございます。ですが礼を言わなければならないのは私の方です。このような素晴らしいオリヴィア王女殿下を守護するために私にお声かけしていただいたこと、心より感謝いたします」
ノアの返しは、特段おかしなところはなかった。だが言葉が終わるや否や、場の空気が一瞬にして変わる。
オリヴィアとノア以外の皆が落ち着かないよう互いに目配せをしあい、困惑気な様子を見せる。
「あ、あの、お父様、お母様それにみんなも……。一体どうしたの?」
「申し訳ありません。私が不敬にあたる言動をしてしまったのならば謝罪いたします」
慌てる二人に、ジェーダスがいやいやとばかりに首を振る。
「なに、すまないな。二人に何かあるわけじゃない。ただノアの言葉で、オリヴィアに尋ねたいことがあったことを思い出してな」
「私に?」
何が何だかさっぱり状況が掴めないオリヴィアは更に頭を悩ませ、目をぱちくりさせる。
どう話したらいいものか、と口を濁したジューダスに代わり、ハロルドが代わりに説明する。
「オリヴィア、君は『白銀の死神』と呼ばれるシーレンという青年を知っているかい?」
「ええと、シーレン様ってその、今回の討伐の際に最も功績を上げたお方、よね?」
「名前に聞き覚えは? 見たことはある?」
「噂で聞いた以外に聞き覚えはないし、昨日パレードに参加されているシーレン様は見たけど、遠目だからはっきりと顔はよく見えなかったわ」
「じゃあ子供の頃はどう? 例えば君がついていった父様との視察で会った子供の中にあんな感じの容姿の子はいた?」
ハロルドが言っているのは、オリヴィアが傷を負ったあの視察のことだろう。
全ての記憶がはっきりとしているわけではないが、それこそ東方から来たあの少女みたいに、シーレンもまたこの国ではあまり見られない色合いの髪色だ。それほどに目立つ容姿をした男の子がいれば、少なくとも記憶には残っているはずだ。
「……会ったことはない、はず。顔が分からないからやっぱり断言はできないけど」
聞かれたことにはすべて答えたが、ますます皆が訝しげな表情になる。
「ねえ、そのシーレン様と私に何か関係があるってこと???」
もしかしたら近くで見たらシーレンのことを思い出すのかもしれないが、それ以前にどうしてこのような不可思議な空気になるのかがやっぱり分からず、ノアにも目で尋ねるが、それはあちらも同じだったようで、わずかに小首を傾げてみせた。
折角の再会なのに、いつまでもこんな微妙な雰囲気になっているのは困るなとオリヴィアが思っていると、ようやく事情を説明してもらうことができた。
「実はそのシーレンなんだけど────」
そしてハロルドは、つい先日大広間で繰り広げられた、シーレンとジェーダスとのやり取りをそのまま伝えた。
「私の騎士になりたいって? あのシーレン様が? しかも昔会ったことがあるって……」
聞いたことで、謎が解決するどころか新たな謎が生まれ、オリヴィアは余計に頭がこんがらがってきた。
「このシーレンっていう男、調べてみたけど、一体どこから現れたのか、そもそもどこの出自なのかまるで分らないんだ。その上君の記憶にもないとなると」
ハロルドが苦虫を噛み潰したような表情を見せる。
ここでようやくオリヴィアは、皆の様子に合点がいった。
国の英雄だが全てが謎に包まれている青年の申し出に、もしかして何か裏があるのではないか。もしくは、オリヴィアに何か危害を加えるつもりなのか。そういった類のことを心配しているのだ。
心遣いは大変嬉しい。けれどオリヴィア自身は、皆が思っている以上に強いのだ。
彼女は明るい口調であっけらかんと言い放った。
「では私をその白銀の死神様に会わせてください」
簡単なことだ。今は思い出せないだけで、一度顔を合わせたら、彼が言っているように本当に昔会ったことがあるのかもしれない。それに、何か企んでいるとしても、やはり直接会って確かめないことには何も分からない。
オリヴィアとしては、ノア一人でも十分に強いため特に騎士が必要だと思ってはいないが、彼が褒美としてそれを望んでいるのであれば、できるだけそれに近い形で望みは叶えるべきだと考えている。
「うむ。これは儂らではなく、お前自身に判断してもらうのが一番だろうな」
ジューダスは初めからそのつもりだったようで、特に驚きもせず頷く。他の面々もおおむねそのようだ。
ただ一人声を上げたのは、ハロルドである。
「僕は反対だ。だって全く情報が出てこない人物っておかしくない? 確かに彼は一見オリヴィアを慕っていそうだったけど、そんなうさん臭い男とオリヴィアの面通しを許可するなんて」
「ならばノアを同席させよう。お前の友人は、死神にも匹敵する腕を持つ、そうだろう?」
何かあっても、ノアならオリヴィアを守り切れるだろうと、ジューダスは暗にそう告げる。
「ノア、現役から引いた身であるが、当時の騎士団最強の異名を持つ腕は衰えてはおらんな?」
ジェーダスの問いにノアは間髪を容れず答える。
「勿論でございます陛下。オリヴィア様に仕えて数年、これまで一度たりとも鍛錬を怠ったことはございません」
「だ、そうだ。それに、オリヴィアの意志を尊重すべきではないか?」
低く唸り声をあげてしばらく葛藤をしていたハロルドだが、最終的には了承の意を示す。
「分かったよ。……ノア、万が一にも僕の妹に何かあれば」
「その『万が一』の事態が起こらないよう努めるのが私の役目です、殿下」
頼もしい答えに、ジューダスも満足げに頷き言った。
「では早速面会の日時を決めよう。手筈を整えたのちすぐに知らせる」
○○○○
そして二日後。
面会はその日の夕刻からだと言われたのだが、まだ太陽が真上に上がりきっていない時間帯から、オリヴィアは姉のレイチェルと妹のマリア、そして彼女たちの侍女に取り囲まれていた。
「オリヴィアにはオレンジが似合うんじゃないかしら?」
レイチェルがふんわりしたドレスをオリヴィアにあてがえば、
「でもでもお姉さま! オリヴィア姉様にはこのピンクの方が似合うと思うの!」
負けじとばかりにマリアが、別のドレスを差し出す。
その中心で、困ったように首を傾げるオリヴィア。
先ほどから二人の姉妹は、これがいいとかあれの方がいいとか、非常に熱心に今日のオリヴィアの装いを選んでいるのだ。
当の本人は置いてきぼり状態で。
「ねえ、確かに王女殿下としてシーレン様の前には立つけど、パーティーに出るわけじゃないし、色んな人に見せるわけでもないから別に適当でいいと思うんだけど────」
「分かってないわねオリヴィア!」
「お姉さまは分かっていないわ!」
息ぴったりでオリヴィアに反論する姉妹。
「公式じゃないにしろ、お姉さまは王女様として人前に立つのよ? それも、ちょーー久しぶりに! 気合も入るってもんでしょう!?」
「マリアよく言ったわ、その通りよ。うふふふ、腕が鳴るわね。いいみんな、オリヴィアをこれでもかってくらいに美しく、可愛らしい王女様に仕立ててちょうだい!!」
白熱する周囲に耐え兼ね、オリヴィアはノアに助けを求めるように視線を送るが、
「王女姿のオリヴィア様なんて、私がお仕えしてから一度も見ていないので楽しみです」
彼女の視線を軽く受け流し、微笑みながら手元の書物に目線を戻すノア。
こうなってはおとなしくされるがままになる他なかった。
そしてああでもないこうでもないととっかえひっかえされること、おおよそ半日。
「ああお姉さま……なんて綺麗なの」
「力作だわ。これがあの山猿みたいに真っ黒だったオリヴィアだとは誰も思わないわね」
「山猿って……。まあ確かにあんまり王女様っぽくはない見た目だったけど」
不満げに口を尖らせるオリヴィアだが、鏡に映る自身の姿を見て、確かに別人に生まれ変わったなとある意味感心する。
パサつき気味の髪は香油を塗りこまれたことで艶が生まれ、日焼けした健康的な肌は不自然じゃない塗り方でおしろいが使用されたことで、雪のように白い、とまではいかないが一般的な貴族令嬢並みにまでになった。
きちんと施された化粧は童顔気味の顔立ちを大人のものへと変化させ、オリヴィアの持つ愛らしさと綺麗に融合してより魅力的に仕上がっている。
最後まで揉めていたドレスは、淡い黄色と白を基調とした上品なデザインが採用された。傷は見えないようになっている。
今ここに立つのは、誰が見ても一目で分かる、紛れもなくオリヴィア王女殿下その人だった。
「とても綺麗ですよ、オリヴィア王女殿下」
完成した姿を目にしたノアが、オリヴィアの手を取り、目を細め艶やかに微笑む。その色香に、オリヴィア以外のその場にいた人間は思わずその場でよろけそうになる。
「死神様もすごい色気をお持ちだったけど、ノアの破壊力も相変わらずね」
「お姉さま、よくそんなお色気爆弾と一緒にいて平気な顔してられるわね。私なら三日もたない自信があるわ」
「お色気爆弾って言い方は、ちょっと嫌ですね」
二人の王女に苦笑気味に返せば、その表情もツボに入ったようでやはりくらりと倒れ込みそうになり、無論傍にいた侍女達にも被害は拡大する。
オリヴィアは一緒にいすぎて感覚が麻痺している────そもそも彼女はノアに対してよろめくとか色気に当てられたことは一度もないのだが────のでいつも忘れてしまいそうになるが、ウィンク一つで世の女性を虜にし、騎士団時代はノア目当てで訓練に人が押し寄せ、終わった頃には死屍累々、というのが今も王都で語り草になっているほど。
……という噂をオリヴィアは思い出したので、ノアにこれ以上色香を無作為に振りまかないよう言いつけ、彼女たちの動悸が収まるまで静観することにする。
そしてようやく終息した頃合いで、扉がノックされた。ノアが対応して確認すると、用意が整ったという知らせだった。
「参りましょうかオリヴィア様」
ノアにそう言われ部屋を出る前に、オリヴィアは姿勢を正すと改めて二人の姉妹に向き直った。
「レイチェルお姉さま、それにマリア。私の為に色々していただき、ありがとうございます」
「あとで死神様の感想聞かせなさいよ? そこのノアとどっちがイケメンだったかとか」
茶目っ気たっぷりに返すレイチェルと、同じことを言いたげだと言わんばかりにうんうん頷くマリアに曖昧な笑みを返しながら、オリヴィアはノアを従え部屋を後にした。
待ち人はまだ来ていなかったが、部屋の中には、事情を知っている、実力派揃いの兵士が数名配備されていた。どれだけシーレンという青年は警戒されているんだと、オリヴィアは苦笑混じりに、おそらくこの配置を指示したと思われる長兄の顔を思い浮かべる。
「私だけでは頼りないってことかな。まったくハロルドの奴、何年近くで見てきたんだ」
ノアも同じことを考えたのか、彼女にしか聞こえない声量で不満げに漏らす。
もうすぐ夜に差し掛かろうとする時間帯。紅の空が眼下の王都の街並みに溶けていき、黒く染まりつつある。けれど街並みが同じように暗くなることはなく、むしろ夜闇に負けじとばかりにいたるところに明かりが灯され、昼間とは違った装いに生まれ変わろうとしていた。
風に乗って太鼓や人々の歓声がここまで聞こえてくる。どうやら勝利の祭りは今日も続いているらしい。
それだけ蛮族の討伐の成功が、この国にとって大きな出来事だったことを物語っている。
その一番の立役者が、件のシーレンなのだ。
富でも名声でも欲せる立場にありながら、オリヴィアの下に就くことを望んだ青年は、どんな人物なのか。
「オリヴィア様、来ます」
兵たちの間に緊張感が走る。
敏感に感じ取ったノアがすぐに反応し、彼女に耳打ちをしたと同時にゆっくりと扉が開かれる。
療養中の奥ゆかしい王女殿下を演じるつもりはない。オリヴィアは堂々としたいで立ちで出迎えた。
入ってきた青年は、噂通り、見事な白銀の髪をしており、窓ガラス越しにわずかに入る沈みゆく太陽の光によって照らされ、キラキラと宝石のように煌めいていた。だが、それが覆いかぶさっているせいで顔がまるで見えず、今の段階で知っている人物かどうか判断できない。
まずは顔を見ないと。そう思い、オリヴィアは跪くシーレンに、こちらを向くよう命じる。
しかし反応がなかった。
もしかして聞こえなかったのだろうかと小首を傾げたオリヴィアに代わって、ノアが強い口調で命じる。
「オリヴィア王女殿下の命だ。さっさと顔を上げろ」
わずかにシーレンの体がピクリと反応する。それでもすぐには動かなかったが、諦めたような感じでようやく彼の顔がオリヴィアの前に晒された。
髪がかかる額の下の、幾重にも重なる長いまつ毛と青色の切れ長な瞳、紛い物と見間違うほど高く精巧な鼻筋、薄く色付く形のいい唇。上から順に露になった顔立ちは確かに噂通り、いやそれ以上の美貌だった。
この場にいた全員が相手が男性だということも忘れごくりと唾を飲んで凝視しているほどだ。
オリヴィアもまた、吸い込んだ息を吐き出すことすら忘れ、瞳を大きく開いて微動だにしなかった。一見すると彼に見惚れているようだ。
しかし彼女は決して美しさに目を奪われていたわけではなかった。
忘れもしない。どれだけ歳月が経とうと、決して忘れることなどできなかった人物。
声も見た目も何もかもが違うが、それでもオリヴィアは気が付いた。
目の前の人物が、一体誰であるのかを。
本当なら再会の抱擁をする為すぐにでも駆け出したいが、それはできなかった。
彼女は必死で今の状況を整理し、内心で冷静になるよう自分自身に言い聞かせる。
とにかく今は、この場を切り抜けなければ。
葛藤すること、わずか数秒。
オリヴィアはゆっくりとシーレンの元へ近付くと、言葉を発した。
「私の名はオリヴィア・ヴェルデン。この国の第二王女よ。今は傷を負ったことを理由にここより離れた地で静養しているわ」
シーレンは一瞬その瞳に動揺ともとれる揺らめきを見せる。だがすぐにそれを収めて元の凪いだ色合いに戻すと、再び頭を垂れ名乗り、大広間でジェーダスに発言した内容と全く同じ言葉を述べ、オリヴィアの下に就きたいことを直接本人に申し出る。
「ごめんなさい、私、あなたのことを覚えていないの」
「いいえ、殿下が謝る必要はありません! 私が勝手にお慕いしていただけのことですので」
勿論オリヴィアの言葉は偽りだ。しかし衆人監視の元状況を切り抜けるのは、とぼけるしかない。彼女の演技に不自然さはなく、誰も真実に気付きはしないだろう。
それからオリヴィアはいくつか形式的な質問を行い、それに対してシーレンが答えるという会話が続く。
「この国の英雄となったシーレン様にここまで言っていただけるなんて、私も嬉しいわ。ありがとう。それであなたを私の騎士にするかどうかなんだけど……少し時間をもらってもいいかしら」
「勿論です。どのようなお返事をいただこうと、私は殿下の意志に従います」
こうして二人の対話は滞りなく終了した。
けれどオリヴィアにとって彼への本題は、その後にあった。
シーレンの傍を離れる刹那、彼女は彼の耳元近くで、空気に溶けてしまいそうなほどの声色でそっと囁いた。
「今夜十二時、中庭の薔薇園の中にある東屋で待ってる」
シーレンがピクリと反応したことを確認すると、振り向くことなくオリヴィアはその場を後にする。
さほど長い時間その場にいたわけではない。
それでも対面を終えた今、緊張感と疲労感とその他ごちゃまぜの感情に呑まれ、その場で立っていられないほどの眩暈を感じるがなんとか気合いで部屋まで戻る。
そして到着するや否や、すぐに一番手近のソファにダイブした。
「折角のドレスがぐちゃぐちゃになるよ。もう少ししたらハロルドたちとディナーなんでしょう?」
「うぅぅぅ」
呆れ眼のノアにそう言われるが、オリヴィアは唸り声をあげただけでぴくりとも動けなかった。
あの場では何とか取り繕えたが、今になって、押し寄せた真実の波に呑み込まれて溺れてしまいそうなほどに頭の中が混乱してきた。
しかしいつまでも困惑しっぱなしというわけにもいかない。どうにか冷静さを取り戻したオリヴィアは、改めて状況を整理することにした。
シーレンと名乗ったあの美貌の青年を一目見た瞬間、体中に電気が走って思わずその場に倒れてしまいそうなくらいの衝撃を受けた。
だってあれは間違いなく、オリヴィアがずっと探し求めていた少女、レイだったのだ。
どうして髪の色が違うのか、そもそも性別すら違っているのだが、ともかくあれは間違いなくレイだとオリヴィアの心が告げていた。
やはり生きていたのだ。行方知らずの間どのように過ごしていたのか分からないが、生きていたという事実に安堵し、そして歓喜し、同時に合点がいった。なぜ自分の元に就きたいと願い出たのかも。
おそらくオリヴィアが自分を庇い傷を負ったことへの贖罪的なものだろうと。
全てを分かったうえであの場でそれを言わなかったのは、周囲の兵たちの存在があったからだ。
彼らがいては都合が悪い。あそこでの話は確実にハロルドに伝わる。それが一番困るのだ。
ハロルドもあの件で責められるべきは蛮族だと分かってはいるが、傷ができるきっかけになったレイのことを、多少なりともよくは思っていない節がある。もしもシーレンがレイだと分かれば、妹思いの兄がどんな行動をとるのか。少なくともいい方向には動かないだろう。
だが兵たちはハロルドの命で動いている。いくら王女殿下であるオリヴィアが退出を命じたところで、職場を放棄することはできないだろう。
そこで苦肉の策として、知らないふりをして話を進めるほかなかった。そして最後に、彼にしか聞こえない音量で、伝言を残した。
彼は来てくれるだろうか、いやそもそもちゃんと聞こえていただろうか。顔を背ける刹那何か言いたげな表情をしていたので、伝わっていると信じるしかない。
部屋にかかる時計を見ると、約束まであと数時間ある。それまでに夕食や湯浴みを済ませて、就寝する────ふりをして、こっそり部屋を抜け出して東屋へ向かう予定である。
その為には、このノアを欺く必要があった。
そんなノアをそっと覗き見ると、鼻歌交じりにハーブティーの準備をしているところで、ここまで香りが漂ってくる。
そろそろ起きなければ、また小言を言われるだろう。そう思ったオリヴィアが起き上がった頃合いで、ノアがティーセットを携えてやってきた。
「感心だね。私が何か言う前に自分から起きるなんて。とりあえずそのぐちゃぐちゃの髪の毛は、これを飲んでいる間に直すよ」
注がれていく鮮やかな赤色のお茶に蜂蜜を回し入れた後、オリヴィアの前にカップを置くノア。そのまま彼女の後ろに回ると、髪の毛をほどきながらほぐしていく。ノアにされるがままになりながら、オリヴィアがカップの中身を口に運ぶと、花の味わいと蜂蜜の甘さが体中に染み渡っていく。その美味しさに思わず彼女の口からほうと感嘆の言葉が漏れだす。
「やっぱりノアの淹れてくれるものはなんでも美味しいのね。それだけじゃない、腕もあって容姿端麗、気さくな性格で誰とでも仲良くなれるし、優しいし手先も器用。完璧すぎてむしろ怖いほど」
「嫌だなぁ、そこは怖がらないで素直に褒めてくれていいんだよ? まあ、オリヴィアは超が付くほど不器用だけどね。君が髪の毛をいじると、芸術的な鳥の巣ができるし」
オリヴィアの髪に櫛を通しながらノアがニヤリと笑っているだろうことは、顔が見えなくとも分かる。
そう、ノアは不気味なほど完璧なのだ。万が一にも不自然な行動をとれば、即怪しまれるに決まっている。いつも通りに自然にと暗示をかけるオリヴィアだったが、彼女の髪を複雑に編み込んでいたノアが、そういえばと口を開く。
「夕飯の時、くれぐれもハロルドには気付かれないようにしなよ。もしも君がシーレンと知り合いで、その上深夜に密会するなんてことがバレたら、あいつの頭がプッツンといくのは目に見えてるからね」
「大丈夫よ、その辺はうまくやるから。さっきだってうまく演じられてたでしょう?」
「感情が顔に出やすい君にしては上出来だったんじゃないかな」
「そう! あの時は内心焦ってたけど、なんとか表情に出ないように頑張って………」
と、ここではたと、オリヴィアは気付く。
「…………ねえノア。もしかしてあなた、私がシーレンのこと知ってるって気付いたの?」
ちょうど髪留めをパチリと留めて手を離したノアはオリヴィアの前に回ると、指で丸を作って見せた。そしておかしそうに肩を震わせ、ふふっと笑う。
「伊達に何年も君の傍にいたわけじゃないよ。いつもと様子が違ったし。それから彼と話をしている時、私の位置からオリヴィアの顔は見えなかったけど君にしては珍しく声が緊張で硬かったし、シーレンの方は表情に動揺が見えたからね」
当たり前のように言い放つノアに若干の恐怖を覚えながら、肝心なことをオリヴィアは尋ねる。
「で、でもどうして今夜会うって分かったの? 私ものすごい小さい声だったし、そもそもあなたの位置から聞こえないんじゃ」
「数十メートル離れた先での会話が聞こえる私の耳の良さをなめないでほしいな。あのくらいの距離なら、何て言ったのか一言一句違わず聞き取れるよ」
さらっと放たれた発言に、オリヴィアは若干どころではない尋常な恐怖を覚えた。本能的に手で両腕をさすりながら、信じられないとばかりに目を見張る。
「怖い、本当に怖い、超人過ぎてもはや怖いって感想以外出てこないくらい、純粋に怖すぎる……!」
「お褒めに与り光栄でございます、姫」
「褒めてないからっ!!」
恐怖から来た寒さを紛らわせるように、ハーブティーを一気に飲み干す。もはや味など分からない。
しかしノアにばれてしまったとなると、問題はノアがこの話を誰かにするかどうかだ。もしくはオリヴィアの密会を止める行動に出るか。
しかし彼女の考えを先読みしていたのか、ノアは先手を打ってきた。
「私はハロルドの友人ではあるけど、同時に君の友人でもある。シーレンが君に害をなすつもりはなさそうだから、君のすることに口出しするつもりはないよ。勿論、ハロルドにも黙っとく。ただ深夜に出歩くのは危険だし、東屋まで私が連れていくよ。そうすれば途中で人と遭遇してもごまかしが利くしね」
「…………えーと、ともかく、あなたが私の味方だってことは分かったわ」
完璧すぎる回答だった。相手がノアでよかったと思うと同時に、敵に回すと恐ろしいと、しっかりと心に焼き付けておくことにした。
○○○○
夕食時、予想通りシーレンのことを聞かれ、会ったことがあるらしいが覚えていない、と嘘を伝えたが、疑われてはいないようだった。
とりあえずシーレンの処遇は、最初に言った通りオリヴィアに任せると告げられた後は、二人の姉妹がシーレンとノアのどちらの方がカッコいいかという議論を繰り広げながら、晩餐はお開きになった。
ちなみに勝敗はつかず、今日のところは引き分けだそうだ。
「ところで君はどっちに票を入れたんだい?」
深夜の密会に赴く支度の途中、ノアが当然自分だよねとばかりにウィンクを一つ寄こしてきたが、オリヴィアは首を横に振った。
「二人ともカッコいいのタイプが違うし。そう比べられるものでもないでしょう」
「確かに。……どちらかというと、むこうはカッコいい、と言うより美しいの表現の方が合ってるかもしれないね。なにせ毎日鏡で美しいものを見慣れているこの私が、一瞬目を奪われたほどだから」
いつもなら、自分の顔がそれだけ美しいって言えるなんて自己愛が過ぎるわ、などと返すのだが、今日ばかりは違った。代わりに立ち上がると、どことなくそわそわした様子で足早に部屋の扉の前まで移動する。
「もう時間よ。早く行きましょう」
今回のオリヴィアはここに来た時と同じような地味な服装だ。正直あの服装は息苦しかったので助かった。
さっきまでの王女様仕様とは全くの別人だが、果たして自分だと分かってくれるだろうかと一抹の不安はある。そもそも来てくれているかどうかが一番の懸念なのだが。
するとオリヴィアがいつもと違うといち早く察したノアは、彼女の傍まで来ると、軽く肩を叩きながら明るい口調で言った。
「ま、大丈夫でしょう。もし来てなかったとしても、オリヴィアの言葉がよく聞き取れなかったって可能性もあるし」
会いたい気持ちと、来てなかったらどうしようという不安の気持ちが入り混じって落ち着かない心地だったオリヴィアだが、ノアのこの言葉に少し救われた。
「それもそうね。もし今日いなくても、もう一度言伝して会えばいいんだし」
「そうそう、それくらいの軽い気持ちでいかないと」
ノアにはシーレンの正体を告げた。性別や見た目が過去と違うのはよく分からないが、オリヴィアがそうだと言うのならそうなんだろうと信じてくれて、その上で、今日の再会を楽しんだらいいよと言ってくれた。
ある意味ノアに知られてよかったのかもしれないとオリヴィアは思っていた。今もこうしてオリヴィアに寄り添ってくれて、少しでも心配事を減らそうと努めてくれる。
オリヴィアの表情の陰りが薄まったところで、ノアは手にした燭台に火を灯し、そっと扉を開けた。
廊下は仄暗く、壁にかかった燭台の炎がぽつりぽつりと点在しているだけ。見回りの兵はいるのだが、オリヴィアを守る自分が知っていないとという名目で、巡回経路と時間を予めノアが確認してくれており、今は近くにいないということも分かっている。
「暗いから気を付けて」
ノアの手を取り、オリヴィアは何とか足を進めていく。そしてようやく中庭に出られるところまでやってきた。
今夜は満月の上天気もいいので、十分に庭を見渡すことができる。明かりを消すと、ノアは約束の場所まで最短距離でオリヴィアを引っ張っていく。おかげで無事目的地周辺まで辿り着くことができた。
シーレンは現在、王城の敷地内にある、客人用に用意されている大きな屋敷の一室に滞在している。だが敷地内は広く、もしかしたら東屋の場所が分からないかもしれないと今更ながら不安を覚えていたオリヴィアだったが。
「もう来てるみたいだね」
二人のいる場所から東屋は見えないのだが、どうやら気配を感じ取ったらしいノアがそう伝えると、そっとオリヴィアの背中を押した。
「私はここで誰か来ないか見張っているよ。……さあ、行っておいで」
「ええ、行ってくるわ」
オリヴィアはノアをその場に残し、むせかえるほどの香りに酔いしれながら花々が咲き誇る道を進んでいく。
すると突然視界がぱっと開けた。
美しく咲き乱れる赤や黄色やピンク、白色の薔薇を背景に、簡素な造りだが明媚な木目調の東屋が建っている。そしてその前にいたのは、美麗な風景に負けないくらい見目の青年だった。
彼もどうやらオリヴィアが来ていることに気付いていたのだろう、まっすぐに彼女の方を見つめていた。
「オリヴィア様……」
名前を呼びその場に跪こうとしたが、それよりも、たまらず駆け出したオリヴィアが彼のところに到着する方が早かった。
「レイ!!」
オリヴィアは自分の身長よりもはるかに高い彼に、思い切りジャンプしながら抱きついた。
予想外の動きと予想外の名を呼ばれたからだろうか、破格の強さを持つはずの青年は驚きのあまり抱き止めることができず、その場で押し倒されてしまった。
「オ、オリヴィア様、そ、の名前は、まさか」
まだ混乱が解けていないのか、しどろもどろしながら口をパクパクさせた青年に対し、オリヴィアは満面の笑みで言った。
「勿論覚えていたわ! お帰りなさい、レイ!」
その瞬間、時が止まったように彼の表情が固まる。
そこでオリヴィアははたと今の状況を悟る。
嬉しさのあまり飼い主を慕う忠犬よろしく駆け出して抱き着いてしまい、勢いそのままに地面に転げさせてしまったが、もしかして怪我をしてしまったのかもしれない……というか実は、彼はレイではなかったのだろうか。
とりあえずここから急いでどかないと、と思って立ち上がろうとしたオリヴィアだったが、彫刻のように美しい瞳から涙が流れ出ていることに気が付いた。
「!? ご、ごめんなさい、やっぱりどこか打った? 痛かったかしら!?」
慌てて立ち上がり怪我の様子を確認しようと彼の身体を起こそうとしたが、彼は首を横に振る。
そして自分の力で身体を起こすと、頬に伝う涙はそのままに彼は言った。
「あの時、私のせいでオリヴィア様は傷を負いました。傷を作るきっかけを作った私の顔など、思い出したくもないかと思いましたので、正体を隠し、命を差し出すつもりでオリヴィア様に仕え、私の一生を捧げようと考えておりました。ですが、あなたは私に気が付いて、そして、お、お帰りなさいと言って……」
そこから言葉は一度途切れ、唇から嗚咽がこぼれ出す。
「も、申し訳ありません、私が、泣く立場などではない、のに……」
「そんなことない! あなたが謝ることも、そもそも悪いことなんて何一つしてないんだから!」
自分よりもはるかに大きな体躯をしているのに、蹲り泣きじゃくる彼の姿は、初めて会った時と変わらないくらい小さく見えた。
オリヴィアは尽きることのない涙を流し続けるレイの体に手を回し、優しく抱き締めながらもう一度言った。
「レイ、お帰りなさい」
「先ほどは醜態を曝してしまい、申し訳ありませんでした」
目を真っ赤に腫らしてはいるが落ち着いたらしいレイとオリヴィアは、東屋の中に場所を移していた。
小さなテーブルと椅子があるだけのこの場所で、二人は改めて互いに向き合う。
ちなみに最初レイは、王女殿下と同じ席になどとてもつけないと、地べたに平伏する勢いだったのだが、何とかオリヴィアはそれを止めた。そして、あまりかしこまらずに昔みたいに接したいと頼み──半ば命令に近い形で押し切ったのだが──ようやく今の形になった。
謝罪をするレイに対し、オリヴィアは気にしないでとばかりに軽く笑うと、
「謝らなくていいってさっきも言ったでしょう? それに醜態だなんてそんなこと思ってないわ」
そこで今度はオリヴィアが、夕方の件について謝罪する。
「私こそごめんなさい。今日あなたに会った時に、シーレン様がレイだってすぐに気が付いたんだけど、事情があって知らないふりをしてしまったの」
「それこそオリヴィア様が謝られることではありません! もともと私がレイだと気付くとは思っておりませんでした。私の容姿はあの頃と随分変わってしまいましたから」
「……それどころか私、いえ私だけじゃなくて、皆レイのこと、女の子だと思っていたもの」
「見た目があんな感じでしたし、孤児院には来たばかりでしたから。それにあの頃は大人に触れられるのが怖くて、湯浴みも特別に一人でさせてもらっておりましたので」
そう答えて少し微笑むレイの姿は、昔にほんのちょっとだけ見せてくれていたレイそのままの笑顔だった。だがそれもすぐに消え、代わりに悲痛を滲ませた表情に変わる。
「それよりもオリヴィア様、体に消えない傷跡がついたせいで縁談も破談になったと。それに体調も芳しくないと耳にしました」
「破談はいいのよ。むしろそのおかげで浮気相手がいた王子様に嫁がずに済んだんだもの。それに体調に関しては、表向きはそういう体を取っているってだけで、まったく何ともないから気にしないで。むしここでお姫様やっていた時よりも気持ち的にはずっと楽なの」
「ですが醜い傷跡がついたのは間違いなく私のせいです! 申し訳ありません、私のような者を庇わなければ……」
「レイ、私さっきも言ったわよね? あなたは悪くないって」
少し怒気のこもった声でぴしゃりとレンの台詞を止めると、オリヴィアは立ち上がり、そしてその場でボタンを外し始めた。
「!? オ、オリヴィア、様、なな、何を……」
しどろもどろになりながらも慌てて止めようと立ち上がりかけたレイを、オリヴィアは声だけで制す。
「そこにいて」
上を全て脱ぎ終わり、裸体が露になるが、オリヴィアは恥じらわずまっすぐと立つ。
夜の光の中照らし出されたオリヴィアの体には、生涯消えない傷跡が刻まれていた。声も出せず黙って見つめるレンに対し、オリヴィアはにこりと微笑みながら言った。
「あなたは────いえ、みんなこの傷を醜いって言うけど、私はそうは思わない。これはあなたを守れたっていう、いわば勲章のようなものなの。私はあの時の自分の行動を、何一つ悔いていない。だから、醜いなんて二度と言わないで。それに、自分のことをそんな風に卑下してはいけないわ。少なくとも私は、あなたが生きていてくれてとても嬉しいんだから」
言いたいことを言い切ったオリヴィアは、どうやら分かってくれたらしい表情のレイを目にした後、いつまでも裸のままではいられないので服を着ると、再びレイの正面に座り直した。
が、改めて向き直ると、さっき裸を見せたことが急に恥ずかしくなり赤面しだすオリヴィア。
頭に血が上ってつい服を脱いでしまったが、さっきの状況を第三者の視点で見れば、深夜に庭で裸を見せつける危ない女、である。
「ご、ごめんね、傷はともかく貧相な体を見せつけてしまって」
これじゃ痴女って言われるかもと焦るオリヴィアだったが、それ以上に顔を赤らめていたのはレイの方だった。
「い、いえ、あの、貧相なんてそんなこと思ってないですから!! むしろすごく綺麗で、その……」
その言葉で更に気恥ずかしさが増したオリヴィアは、それを誤魔化すように言葉を紡いだ。
「あ、あのね、私に傷を作らせてしまったと、あなたが気にかけてくれるのも分かる。でも私は今の自分が決して不幸だと思っていないし、もし私の為に何かしたいと言うのなら、私のことで責任を感じないでほしいかなっていうか」
「それは……はい、十分伝わりましたので」
まだ熱が完全には引いていなかったが、そう答えるレイ。だがその後で真剣な表情に変わると、切実にといった目でオリヴィアを見つめ、真摯な声で訴えた。
「オリヴィア様、いくら傷を見せるためとはいえ、今後はあのような行動は控えてください。特に相手が異性なんて絶対に駄目です」
「あ、はい、ごめんなさい」
これまでやったこともないし、勿論今後するつもりもない。今日のことは心の奥底に黒歴史として封印しておこうと決意したオリヴィアだった。
早く忘れるためにも違う話題に切り替えたいと考えたオリヴィアは、気になっていたことについて尋ねてみることにした。
「ところで、レイの髪の色が前会った時とは違うんだけど、これって染めてたりするの?」
「いいえ、これは、色が変化したといいますか」
レイがついと自身の髪を触る。細い指に絡んだ髪は、月の糸のように繊細で美しい色をしている。
「東方出身の人って、色が変化するものなの?」
少なくとも例の乳母の髪は、そのままの色を保っていた。
しかしどうもそうではないらしく、レイは首を横に振る。そして彼が何か言う前に、一度質問をしてしまったからだろう、オリヴィアの中に抑えていた好奇心が一気に口から噴き出した。
「それから今までどこで何をしていたの? あとどこでそんなに強くなったの? もしかしてどこかに籠って修行とかしてた? というかいなくなってた間、困ったり辛かったりしたことはなかった???」
矢継ぎ早に繰り広げられる彼女の疑問の勢いに押されたのか、困ったような表情になるレイはうーんと少し考え込む様子を見せた後、
「少し長くなるかもしれません。それでも構いませんか?」
オリヴィアの答えは決まっていた。
「勿論!」
夜はまだまだ長い。幸いここに人が来る気配はないし、ノアも見張ってくれている。オリヴィアの様子を確認したレイは、ゆっくりと語り始めた。
レイはここより遥か東に位置する国出身の人間だった。だが彼が五歳の時に、家族と移住する為にこの国にやってきた。
のどかな村に住み着いて穏やかな日々を過ごしていたが、その数年後に状況は一変する。両親が相次いで病死し、天涯孤独となった彼はその村で邪魔者のように扱われ、それが嫌で逃げ出した先で悪名高い人攫いの集団に捕らわれてしまったという。そしてレイは奴隷として闇取引で売買され、家畜以下の生活を強いられた。
後にその集団は全員取り押さえられてレイも劣悪な環境から助け出されたが、人と対することが怖く、帰る場所もないレイは、いつ死んでもいいと、むしろ早く迎えがきて両親のところへ連れて行ってほしいと願っていたほどだ。
そんな時に出会ったのがオリヴィアだったらしい。
そこでオリヴィアと出会って少しずつ心を通わせたことで、他人への恐怖も薄れ、自分という存在と生きる希望を取り戻していった。
「あの時オリヴィア様に出会えたから今があるんです」
レイが懐かしむように目を細め、微笑する。が、オリヴィアはばつの悪そうな表情で頬を掻く。
「レイのことを女の子だって思ってたのはごめんなさいって感じだけど……」
「それは仕方がないですよ」
その時のレイは、オリヴィアが性別を勘違いしていることに気付いていても訂正する気力もなかった。また、男の子だと伝えることでオリヴィアが離れるかもしれないと考えたらしい。
真実を伝えることもなく別れの日がやってきたが、その時に起こったのがあの襲撃事件だった。
血の海に沈んで生気が失われていくオリヴィアを間近で見たことで、彼女が自分のせいで死んでしまうかもしれないと思い、何も考えられず、その時は茫然とするしかなかった。後にオリヴィアには大きな傷が残り、それが一生消えないということも知った。
誰も自分を責めなかったが、あんなに優しくしてくれたオリヴィアが傷付いたのは間違いなく自分のせいだと感じたレイは、生きる価値もないと思い、死に場所を求めて孤児院から姿を消した。
「髪の色が変わったのはその頃ですね。後に知り合った医者に診てもらいましたが、おそらくその時のストレスが原因ではないかと言われました」
「それはもう、元には戻らないの……?」
「あれから年数が経ちましたが、戻る気配はありませんので、おそらくは」
皆から美しいと称賛される髪色は、彼の苦しみの証でもあるのだ。子供の頃の彼の髪は漆黒に少し灰色が混じっていて、グラデーションとなった色が風で揺れるのを隣で見るのが好きだった。
けれど今その面影はない。あの事件はそれほどまでに彼を追い詰めていたのだ。
レイの言葉に思わず唇を噛みしめたオリヴィアだったが、レイはそんな彼女を見ると、
「オリヴィア様、そんな顔をしないでください。私は別に気にしていません。むしろ髪の色が変化したぐらいで特に身体に異常をきたしたわけではありません。それに鏡で見るたびに、あんなことが起こらないようにもっと強くならないと、と気合が入りましたので」
そう言ってふわりと微笑むレイは、あの頃のうずくまっていた子供ではなかった。彼は彼なりに乗り越えたのだろうと、そうオリヴィアは感じた。
ようやく彼女の表情が和らいだのを確認できたレイは、孤児院を出た後の自分についての話を始めた。
着の身着のままで街を出て、行くあてもなかったレイだったが、楽には死ねない、苦しみながら死ぬのが自分には合っているという想いが胸を占めており、死に場所を求めて彷徨っていると、やがて国境付近にある山へと辿り着いた。
山の中は鬱々とした粘り気のある空気が満ちており、ここで野獣に生きながら喰われてしまうのがふさわしい運命だと信じて深い山道を行き────そこでガゼルという名の、一人の行き倒れた老人を見つけた。
死にゆく身だが、かといって倒れている人をそのまま放置してはおけず、おそるおそる老人に声をかけると、ものすごく酒臭い。よくよく観察してみれば、赤ら顔でいびきをかいて寝ているようだった。
なぜこんなところでと思ったが、やはり放ってはおけず、揺さぶり起こし、完全に大人への恐怖心は消えてはいなかったものの、体を支えながら山道を登った先にあった家まで送り届けた。
そのまま泊まるよう言われたレイは、気付けば子供一人で山の中にやってきた理由を尋ねてきたガゼルに、全てを話したそうだ。
上手に喋れていたかは定かではない、途中つっかえたり泣きじゃくったりしてしまったところもあったが、それでも黙って話を聞いてくれたガゼル。
そして最後まで話を聞き終えた後、彼の口から出たのは、レイが死ぬのを止める言葉ではなかった。
「ガゼルは私に言ったんです。『死にたがりの子供を自己満足で助けて怪我をしたオリヴィア様は、なんとも滑稽な王女様だ』と」
レイはわずかに怒りを滲ませた声で言った。
「確かに、私はある意味自己満足であなたを助けたと思うし、そう言われても仕方がないわ」
対してオリヴィアは冷静な声色で返す。かといってあの時見捨てるなんて選択肢はなかった。たとえそれが滑稽で愚かな行為だとしてもだ。
「それであなたはどうしたの?」
オリヴィアの問いに、レイは唇を噛みしめた。
「私は何と言われても良かったんです。だけどあなたのことをそのように言われて。……けれど私が死んだところでオリヴィア様の傷は治らないですし、オリヴィア様が命を賭して守ってくれたのに、その行為すらも意味がないものとなってしまうと。あの時の私は、ショックで気が動転し、そんな簡単なことにも気付けませんでした。それを、ガゼルの言葉が私に教えてくれたんです」
自死に何の意味もないという現実を突きつけられ、愕然とその場に崩れ落ちてしまった。混乱する頭で、それなら代わりに自分には何ができるのかと考えた時に、すとんと一つの目標に辿り着く。
ならば、元凶である蛮族を滅ぼしてしまえばいいと。
それは非常に困難なことだが、同時にこの国────ひいてはオリヴィアの為になる。彼女を傷物にした責任は、自分が強くなって戦いに赴き、彼らの命をもって償うしかないと。
「そのことをガゼルに話したら、ならば自分が協力してやる、と力を貸してもらえることになったんですが……」
と、ここで不意にレイの表情が陰る。理由はこの後彼が語った修行の中身を聞けば、納得できるものだった。
協力を申し出たそのガゼルという人物、名前以外何もレイに明かさず、年齢も経歴も家族構成も、そもそもなぜそのような山奥に住んでいるのかも全てが不詳だった。そして常に酒を摂取しており、酔っ払っている姿しか見たことがなかったが、その彼がとんでもなく強かった。
あらゆる武術に精通しており、子供の頃のレイはおろか大きくなって彼の元を離れるまで、レイは一度も勝てなかった。
そんな彼に、蛮族を倒せるようになるためには、想像を絶するほどの努力が必要だと言われたレイ。それでも強くなりたかったレイは、どんなことも乗り越えてみせるとガゼルに宣言したのだが。
その後レイが語り出した修行内容はあまりに過酷なものであり、それでも、基礎体力がなく筋力もないレイが、早く一人前になるには負荷をかけるしかなかったし、レイもそれを承知で最後までガゼルの修行に食らいついた。
自分にできるのはそれしかない、全てはオリヴィアを傷付けた奴らへの復讐のために、と自身に言い聞かせながら鍛錬をこなし続け、わずか数年でおそろしいほどに強く成長した。
体つきは以前の貧弱なものとはまるで違っていて、もともと筋肉が付きにくい体質なのもあり筋肉隆々とはいかなかったが、全体的に引き締まり、たくさん栄養も与えられたので身長もしっかり伸びた。
体術、剣術、弓などの扱い方も学んだが、特に秀でていたのは剣術だった。相手の攻撃を受け流しながら隙をついて素早く急所に当てることができ、これならガゼルを除いて右に出る者がいないだろうと太鼓判を押され、レイが蛮族討伐の旅に出る日、ガゼルに、自信を持って行ってこいと送り出された。
そして討伐隊の一員に志願して手腕を振るい、後の活躍は人々がよく知るものである。
「蛮族を討伐してから、ガゼルさんには報告しに行ったの?」
弟子とも呼べるだろうレイの活躍を聞いたらさぞ喜ぶだろうと思いオリヴィアがそう尋ねると、レイは首を横に振った。
「それが………近くを通ることがあったので立ち寄ったのですが、小屋にはもう誰も住んでいませんでした。麓にある村の住人に聞いたら、私のすぐ後に彼も出ていかれたみたいで、消息は分かりません。ただ、私がもし尋ねてきたら、旅に出たと伝えてくれと言われたと。まあ、私をしごいている時から、ガゼルは放浪癖があって長いこと同じ場所にとどまらない、と聞かされていたので予想はしてましたけどね」
「そっか。また会えるといいわね」
「ええ、今度こそガゼルから一本取らないといけません」
そう言ってにこりと微笑んだ。
それからも会話は尽きることなく、気付けば夜が明けるまで二人で話し込んでいた。
時間が過ぎるのはあっという間だった。
気付けば空の向こう側がうっすらと白んできている。それは今回の密会の終わりが近いことを告げていた。
「レイ、今日は来てくれて本当にありがとう。あなたに会えてよかった」
「それは私の台詞です。オリヴィア様はやっぱり昔と変わりません」
そう言って微笑むレイは、昔とはずいぶん変わってしまった。けれど悲しみと絶望に染まり、笑うことさえほとんどできなかった昔よりも、今の彼の方がずっといいとオリヴィアは思えた。
たくさん辛いことがあって、それでもそれを自分の力で乗り越え、蛮族を打ち滅ぼすという目的を果たした。もう十分すぎるほど苦しんだのだ。
だからこそ、オリヴィアはレイの気持ちに応えることはできない。
少しずつ光の世界が広がり彼の端正な顔立ちを照らす中、オリヴィアは彼とまっすぐに向き合う。
「ねえレイ、あなたは私への償いの為に、命を懸けて主を守る騎士になると申し出てくれたんだと思う。だけどね、これ以上あなたが私の為に人生を捧げる必要なんてない。レイは十分頑張ってくれた。これからは、あなたがしたいことをして生きてほしい。だから……ごめんなさい、私はあなたを私の騎士に任命することはできない」
そして幸せになってほしかった。今度こそ、何のしがらみもなく彼の人生を歩んでほしい、それがオリヴィアの望みだった。
けれどオリヴィアの言葉を聞いたレイは、顔色一つ変えずそれを受け入れる。
「オリヴィア様、私はあの時申し上げました。どのようなお返事をいただこうと、私はあなたの意志に従います、と。ですから謝らないでください」
「でも私があなたの願いを叶えてあげられないのは事実だから……。あ、でも、あなたに他の願いがあるならその成就には私も協力する。生き別れ状態になったガゼルさんと会いたいなら、必ず探し出してみせるから!」
ちなみに王家の力をもってしてもレイを見つけることはできなかったのだが、それはこの際横に置いておく。
「他にも何かあるなら遠慮なく言って!」
今度は自分が彼の手助けをする番だ、とオリヴィアは思っていた。償いの為ではなく彼自身が最も望んでいることは、全力で叶えてあげたい。オリヴィアの瞳がキラリと輝く。
「例えば正式に騎士団に入団してレイが騎士団長の部隊を作るとか? あなたにならきっと部下はついてくると思う。他にも大きな屋敷が欲しいとかお金持ちになりたいとか。それか美味しいものをたくさん食べたいとか……っていうのは私の願望だった。えーと他には……」
オリヴィアが次々と思いつくままに上げていく案を聞きながら、レイは考え込むように眉間に皺を寄せながら戸惑い気味に呟いた。
「私のしたいこと………」
けれどすぐには思いつかないようで重いため息が彼の唇から漏れる。
「申し訳ありません。その、自分のしたいことというのがあまり分からなくて。なにせ私のこれまでの人生は、全てあの忌々しい蛮族を殲滅するためにあり、その後のことなど何も考えておりませんでしたので」
彼の本心に、オリヴィアはしばらく難しい顔をして考え込む素振りを見せる。
と、そこであることを思いつく。
「ならとりあえず、私と一緒に来ない? 私がいるところは自然もたくさんあって、ごはんも美味しいしとてもいいところなの。お世話になっている屋敷の人たちも領民もみんないい人だし。そこで一緒に生活しながら、あなたがしたいことを考えてみるのはどうかなって」
この言葉に、驚いたようにレイは目を丸くして、オリヴィアを凝視する。
「で、ですが……私が一緒では迷惑には」
「そんなわけないじゃない! むしろあなたと一緒に過ごせるなんて、私はとても嬉しい! だってあなたとはもっといっぱい話したいことがあるんだから。……それで、もしもあなたの気持ちが変わらないっていうことなら、その時はあなたを私の騎士にしてもいいわ」
時間が経っても彼の決意が変わらないのなら、オリヴィアはこの国の救世主となったレイの願いを叶えようと、そう思った。
だからとりあえず、一緒に行きましょう?
そう言って手を差し出したら、レイの瞳がわずかに潤み、けれど彼はこくりと頷くと、おずおずとオリヴィアに手を伸ばす。
そんな彼の手を、オリヴィアは太陽のように明るい笑顔を浮かべ、ぐっと力強く握ってみせた。
○○○○
その日のうちにシーレンの正体がレイだったことを、オリヴィアは家族に話した。そして自分と一緒に連れていくことも。
だが、やはりハロルドだけは反対の声を上げた。それでもオリヴィアは誠心誠意説得し、ようやく許可が下りた。
おそらく後から加勢してくれたノアの力も大きいのだろう。なにせノアはノアにしか知りえないハロルドの秘密を知っているようで、それを黙っている代わりに……と脅迫めいたことを言っているのがオリヴィアの耳にちらりと聞こえてきていた。
そうしてレイはオリヴィアたちと一緒に、彼女の住む領地へと旅立つことになった。
レイを見つける、という目的は果たしたので、別に王都へ戻ってきてもいいのだが、今のオリヴィアにとっては、やはりここから遠く離れたあの地の方が居心地が良い。
それに、レイの居場所を知るためにと立ち上げ、現在オリヴィアが管理している情報網は、国内情勢を知る上で十分に役立つものとなっているので、表舞台に戻らなくとも、十分にこの国の役に立てる。
王都からオリヴィアの住む直轄地まではなかなかの距離があるが、基本移動は徒歩か乗合馬車である。そのことにまずはレイは驚いていた。
けれどレイが今一番気になっているのは、ノアの存在のようだった。
「やあ、私はノア。元王国騎士団の騎士で、今はオリヴィアの個人的な騎士……とはいっても、実情は友人兼世話係兼護衛ってとこかな」
王都を旅立つ前、ノアの家にレイを呼び寄せ、改めて自己紹介をするノアの隣で、オリヴィアはそれを肯定するようにうんうんと頷く。
「私には侍女はつけていないから、髪の毛を結ってもらったり着にくい服を身につける時は手伝ってもらったり、お茶を入れてくれるのもノアよ。他にも色々と手助けしてもらってるの」
「あとたまに一緒に入浴して背中を流したりね」
「えっ、あ、入、浴……ですか!?」
するとなぜだかレイの顔が青ざめ、むしろ血の気が完全に引いて真っ白になりながら、ショックを受けたような表情でわなわなと唇を震わせる。
「あ、その、つまり、お二人は、ここ、こ、恋人同士で……」
「全然違うわよ」
「え、違うけど」
二人同時にレイの言葉を否定すると、ますます訳が分からないという顔でオリヴィア達を見比べる。
そこでオリヴィアはようやく彼の困惑の理由に思い当たった。
「あー、えっと、多分勘違いしていそうだから言っておくけど、ノアは女性よ?」
そう、髪型といい服装といいどこからどう見ても麗しい男性にしか見えないが、ノアの性別はれっきとした女性である。
隠しているわけでもなく、当然彼女を慕う人たちはそのことを知っている。
なぜそんな紛らわしい格好をしているんだと以前に尋ねたら、返ってきた答えは極めてシンプルなものだった。
「だって私の美貌を最も引き立てるのがこの格好だから」
と。
信じられないと驚愕のあまり目を極限まで見開くレイを前に、ノアは笑いながら、
「勘違いしちゃうのは仕方ないよね。我ながら今の格好が様になっているって自覚はあるし。あ、ちなみに私の恋愛対象は男性だよ。……だからオリヴィアとどうこうってことは絶対にないから心配しなくていいよ」
すると今度はレイは、何故か顔を赤らめてもごもごと口を動かす。
「わ、私は別に、そのような、心配など……」
「そうなの? あんなに熱の籠った視線を向けてるくらいだからてっきりそういうことなのかと」
「それは!! あくまでお慕いしているからであって、私のような人間がそのような不埒な感情をオリヴィア様に向けるなんてことは」
「えー、でもレイが積極的に迫れば結構いい線行くと思うんだけどなぁ。とりあえず美味しい物でも目の前にぶら下げてあげれば勝手に好感度は爆上がりするから試してみたらどう?」
「ですから、そ、そういう気持ちでは、その……」
もはや全身が茹で上がった蛸のように真っ赤に染まり何も言えなくなってしまったレイを助けるべく、オリヴィアはノアを軽くたしなめる。
「ノア。レイをからかって遊ぶのはやめて」
「あはは、ごめんごめん。反応が面白すぎて、つい」
「あと、私への扱いが雑だと思うの。そんなほいほい食べ物に釣られたりなんてしないわ。大体レイに対しても失礼でしょう? 彼にだって好みはあるはずだし」
とここで、何か閃いたらしいオリヴィアがぽんっと手を叩き、彼の恋人を探す手伝いをするのもいい考えじゃない!? と弾んだ声で提案すると、なぜだかレイの顔が愁いを帯びる。
何か変なこと言ったのかと首を傾げるオリヴィアに、ノアは密かにため息をつくと、誰にも聞こえない声で小さく呟いた。
「これは先は長そうだなぁ」