第3話 なんか、体が変かも……!
翌日学校に行くと、金曜日ということもあって朝からみんな元気だった。ボクも今日一日頑張ればという気持ちを声に乗せてクラスメイトに挨拶をした。
「おはよう宏人」
「ああ、おはよう。郁美」
ボクは隣の席の笠木宏人に声をかけた。
宏人は中学からのなじみで、ボクの親友だ。ボクは、親友だと思ってる。恥ずかしくて本人に言ったことはないけど。
宏人はボクに挨拶を返すと、綺麗な姿勢を保ったまま、窓の外に視線を戻した。
宏人は元々口数が多い方じゃないし、表情もコロコロ変わるというわけじゃない。どちらかというと寡黙だけれど、すごく優しい奴だし、たまに笑ってくれるとこっちまで嬉しくなってくる。どこか放っておけない部分もありながら、そのクールな顔立ちは学校でファンクラブができるほどだ。
「昨日のテレビ見た? 新しく始まったドラマがすごく面白くって、ほら、なんか掃除屋さんのやつ」
「見てはいないが、気にはなっている」
「そうなんだ。じゃあ今度一緒に見ない? サイトに登録してるから、スマホで一話見れるんだ」
「楽しみだ」
表情は変わってないけど、宏人は本当に楽しみにしてくれている。長年の付き合いから、分かるのだ。
宏人の横顔を見ていると、鼻が高くて、目が鋭くて、カッコいいなと思う。昨日すれ違った人の中にはいない、唯一無二の良さが出ている。
「どうした?」
ボクの視線に気付いた宏人が、視線だけをこちらに向けてくる。
「はあ、ボクも宏人みたいにかっこよくなりたいなって」
「俺のどこが格好いいのかは知らないが、郁美も充分格好いいと思う」
「そんなことないよ、ボクなんて全然。宏人みたいにクールじゃないし、背も高くないし」
「俺が俺を知らないように、郁美も自分を知らないだけだ。他の人から見れば、また違うものになるだろ」
「そういうもの?」
「ああ」
「……そっか、なんか元気出た。ありがと宏人」
宏人はどういたしまして、とかそういうことは言わない。ただ目だけで返事をする。そのこちらを優しく撫でてくれるような距離感と空気感がボクは大好きだった。
「おいっす姫っち!」
浸っているボクを、ぶち壊すような大きな声と共に、背中をバチン! と叩かれた。
「柿音さん! ビックリした、いきなり叩かないでよ。あと、その姫っちっていうのやめて」
「えー、なんでよ」
「かっこよくないし……」
「んなことないってー! カッコいいってー、かっこ可愛いってー!」
柿音さんは白い歯を見せて快活に笑っていた。
柿音美香。彼女はボクの後ろの席で、その名前の通りオレンジ色の髪が特徴的な子だ。髪の色をめぐって先生と口論をしているのはもはやこのクラスの伝統芸能で、なんだかんだで柿音さんの方が折れるのがまた面白い。で、一ヶ月くらい経つとまた髪を染めて登校してくるのだ。
そんな柿音さんはボクのことを姫っちと呼ぶ。元々人をあだ名で呼ぶ癖があって、ボクも例外ではないというだけの話なんだけど。
「ひろぴこもおはよう。今日も相変わらずブアイね」
「ブアイ?」
「無愛想ってこと。イースター島所属」
それってモアイじゃ、というツッコミは華麗にスルーされた。柿音さんは今日も相変わらず元気だ。
ボクが一限の準備をしていると、襟足にふわっとした感触がする。柿音さんがボクの髪を後ろからいじっているのだ。
「なんで姫っちってこんな髪サラサラなん? シャンプーなに使ってんの」
「ブーケなんとかってやつ。お母さんのだからよくわかんないけど」
「へー、お母さんの使ってんだ? うちはお母さんの使うと怒られるから考えられないや」
「ボクの家はむしろお母さんのシャンプーしかないからさ、お父さんも同じの使ってるはずだし。ボディソープもそうだよ」
「そうか、これは姫っち母の香りなのか」
すんすんと、耳の裏で音がする。柿音さんの鼻息がかかって、ちょっとくすぐったい。
柿音さんはカニの身でも剥くみたいに、黙々とボクの後ろ髪をいじっている。感触的には、何度も三つ編みにしようとして諦めているようだった。
髪をいじられるのは特に嫌ではなかったし、ちょっと気持ちよくもあるのであまり強くは言わない。でも、人が増えてくるとさすがに恥ずかしいので周りが騒がしくなってきたのを頃合いにボクは机に突っ伏した。
「ひろぴこは炭のシャンプーとか使ってそー、銭湯とかに置いてあるやつ」
ボクが逃げたからか、それとも飽きたのか、柿音さんの矢印が宏人に向いた。
「そうだが」
「え、まじ」
冗談で言ったつもりだったのか、宏人の返答に柿音さんは本気で驚いていたようだった。
「それはもうおじさんじゃん。うちはツバキ使ってるー。匂いが好きなんだよねーギシギシしないし」
ツバキ! あれいいよね、ドライヤーすると髪がさらさらになって! 弱酸性で泡立ちもいいから髪へのダメージも少ないんだ。柿音さんの言う通り香りもよくって、自然なフローラルな香りがいいよね!
……もちろんそんな言葉は飲み込んだ。だってあれは女性用のシャンプーで、男が好き好んで使うものではない。ボクも宏人を見習って、炭のシャンプーにしよっかな。
ボクは適当に愛想笑いで返した。宏人もあまり興味はないようで、机から本を取り出して読み始めた。柿音さんも反応が返ってこないのは分かっているようで、ボクたちが相槌を打っているだけでも嬉しそうに話していた。
かと思うと、突然立ち上がって黒板の前で集まっているグループの元へと走って行った。
柿音さんはそもそも、話すのが好きなんだろう。
見ていて楽しい子なのだった。
「郁美」
柿音さんがいなくなってから、宏人がボクの名前を呼んだ。
「昨日はどうしてたんだ? 放課後姿が見えなかったが」
まさか昨日のことを聞かれるとは思わなかった。どう説明しようか迷って、
「さっさと家に帰ったよ。午後が体育で疲れたし、早めにシャワーも浴びたかったからさ」
誤魔化すことにした。
帰る途中女の子が男に絡まれているのを見て助けに入ったら返り討ちにあってその男たちの家に連れて行かれてあんなことやこんなこと(王様ゲームとかコスプレとか!)をされました、なんてカッコ悪くて言えないし。
「そうか。ならいいんだが、あまり一人で危ないところへは行くなよ。最近このあたりは治安悪いようだから」
「え、そうなの?」
「先週ホームルームでも言ってただろう。このあたりで不審者が出たって。何か事件が起きたというわけではないのだが、見かけても近づかないほうがいい」
「ええ、知らなかった」
「郁美はもう少しホームルームをきちんと聞いた方がいい。大事な報告もあるのだから」
「だって先生の話って長いし、疲れてその時間ってちょうど眠くなるから」
「だとしてもだ。俺は郁美に危険な目に遭って欲しくないんだ。頼む」
宏人が真っ直ぐボクを見ている。
こういうところなんだよなあ。
「分かったよ。宏人がそこまで言うなら」
「眠かったら俺に話しかけてくれ。眠気覚ましの会話くらいはしてやれるはずだ」
「うん、その時はお願いするね。ありがとう宏人」
ボクが納得したのを見て、宏人は満足したように頷いた。
本当、いい友達を持ったな。
宏人の言うとおり、なるべく一人で出歩くのはやめて早く帰るようにしよう。
丁度ボクたちのホームルームが終わったあたりで先生が教室に入ってきた。
みんなが席に着いて、柿音さんも少し遅れて僕の後ろに戻ってきたようだった。
先生が今日の予定と、それから来月に控えた冬休みのことについても話す。
その間、ボクはどうしてかジッとしていることができずに、体をフラフラと揺らしてしまっていた。
「ちょっと姫っち、どうしたの? 顔赤いけど、体調悪い?」
柿音さんが後ろから声をかけてくれる。
「ううん、大丈夫。体調とかは全然大丈夫なんだけど」
「なんだけど?」
どう、説明すればいいんだろう。
朝起きた時はなんでもなかったのに、さっきから妙に、太ももというか、足の付け根というか、そのあたりがムズムズする。くすぐったい感覚にも近くて、でもちょっと苦しくて。
宏人も、心配そうにこちらを見ている。大丈夫だよ、と手で合図しておいた。
いけない、こんなに動いたら後ろの人は邪魔だよね。
幸い、ムズムズには波があって、今はそこまででもなかった。それに、内股になれば多少は和らぐので、とりあえずはそれで凌ぐことにした。
「と、こんなところなんだが。咲明日はまだ来ないのか」
先生は息を吐くのと同時、いまだ空席となった場所を見る。
点呼の時にすでに確認済みなんだけど、今日も咲明日さんは遅刻しているようだ。
咲明日梨々愛。一番後ろの席の、言ってしまえば少し不思議な子だ。咲明日さんはあまり人と群れずに一人で行動していることが多い。成績もいいし、見た目だけなら柿音さんの方がよっぽど問題児なんだけど、こうして今日のように遅刻を繰り返しているせいで咲明日さんは先生たちからも目を付けられている。
僕は咲明日さんと話したことはまだないので、彼女がどういう人なのか詳しくは知らない。あの柿音さんですら、スルーされまくって辛いと愚痴をこぼしていたくらいだから、気難しい人なのかもしれない。
そんなことを考えていると、教室の扉が無造作に開けられた。
クラス全員の視線がそちらへ向く。
咲明日さんだ。
遅刻してきたことなんて気にしていないとでもいうような無表情を貫いている。まつ毛はとても長く、その下にある瞳はナイフのように鋭い。端正な顔立ち、そしてシルクのカーテンのように靡く髪。抜群のスタイルと、優雅な歩き方。咲明日さんは、誰もが目で追ってしまうほど、悪魔的に綺麗な人だった。
「こら咲明日、いい加減遅れて登校してくるのはやめなさい。もう十分早く来れば済む話なんだから。遅刻三回で欠席一回扱いなのは咲明日も知っているだろ? 先生だって好き好んで生徒を留年させたいわけじゃないんだ」
担任の保内先生は努めて優しい口調で言った。保内先生はまだ二十代と若く、ボクたち生徒の目線で話してくれることもあって生徒からは絶大な信頼を得ている先生だ。ボクも保内先生のことは好きだし、何度もお世話になっている。
でも。
「すみません、荷物を持ったおばあさんを助けていたらこんな時間になってしまいました。次からはそういう人がいても無視して自分のことを優先します」
咲明日さんにとってはそうではないらしい。皮肉とも取れる言い方で、保内先生を困らせていた。
「咲明日はもう少し姫川を見習ったらどうだ。なあ姫川」
「えっ?」
突然名前を呼ばれたのでビックリする。
「姫川は一限が始まる前からすでに教科書とノートを準備している。ああやって前向きに取り組んでくれると先生たちも嬉しいんだ。姫川は本当に、先生の自慢の生徒だ」
先生がボクを見ている。とはいえ、なんと返事をすればいいか分からず、照れるしかなかった。ボクの照れ笑いを見ると、先生は表情を綻ばせた。
「咲明日も、頼むな。分かったらもう行っていいぞ」
「はい」
先生から解放された咲明日さんが、相変わらずの優雅な歩きで自分の席を目指す。
ボクの席を通り過ぎようとして、ふと目が合った。
違う。咲明日さんが立ち止まって、こちらをジッと見下ろしていたから、ボクも気になって顔をあげてしまったのだ。
「あなた……」
咲明日さんが驚いたような顔でボクを見ている。対するボクも、同じような表情だろうか。なんで咲明日さんがボクをジッと見つめているのか、意味が分からなかった。
しばらく視線を交差させる。
咲明日さんの鋭い瞳は、何度も削られ洗練された、水晶のような輝きに満ちていた。
先に視線を外したのは咲明日さんだった。咲明日さんはそのまま自分の席に戻っていく。
それから少し経って、一限が始まった。
ただ、その間もずっと後ろの方から視線を感じたままだった。