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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

週1習作

距離

作者: 美よ十

 教室の中は、オレンジの絵具を空気に溶かしたかのように、淡い色で満ちていた。

 手元のスケッチブックも一面橙色に染まっている。私は鉛筆をくるくると回しながら顔を上げ、右斜め前の席に座る彼女へ目を向けた。

 彼女の長い黒髪はふんわりと照らされ、毛先から教室の空気に溶け出しているように見えた。私はしばらくそれをぼうっと眺めて、鉛筆を持ち直すと、目の前の光景をスケッチブックに写し取り始める。

 ここには今、他に誰もいない。私と彼女の二人だけだ。

 彼女の髪はほとんど揺れもせず、すとんと下りて幾房かは肩にかかり、残りは椅子の背の辺りまで流れている。時折彼女がペンケースを開けたり、問題集をめくったりするときだけ、思い出したようにすうっと動くのだ。

 鉛筆を傾けて柔らかく滑らせる。溶け出しそうな不確実な輪郭。私は絵の中の彼女の髪を、微かな風を受けているかのように優しく広げた。最近はますます彼女の姿が浮き上がってくるようで、目で見えるものと描くべき印象がどうにも一致しないのだった。

 いつ頃から彼女と放課後の時間を共有するようになったのか、私もよく分からない。

 もともとは、自分の絵の練習に集中していた。家で描いていると親がうるさいので、放課後残るようになったのだった。

 ふとある日、自分以外にも人がいることに気付いた。

 さほど会話したこともない、その程度のクラスメイトだった。ひとたび気付いてみれば、彼女は私がいるときは必ず教室にいて、そこに座っていた。

 席は斜め前だから、ちょっと手を伸ばせば肩も叩けそうな距離だ。でも彼女は、いつもいやに熱心に勉強しているものだから、私は特に声をかけるでもなく、時々絵の練習の手を止めて、彼女の後姿を眺めるだけだった。

 彼女の髪は時間と季節とによって、色合いを変えた。夕暮れには儚く空気と混ざって消えてしまいそうな弱い色。まだ明るければ生き生きと瑞々しい果実のような艶。暗くなって、教室の蛍光灯だけが頼りになる頃には、平坦に照らされた、薄っぺらいポスターのような色。

 私はデッサンの練習が行き詰まると、彼女の髪が、時計の針が回るのに伴って様々に姿を変えるのを観察した。時々は、それをむしろデッサンに使った。彼女の後姿を描くのは練習という気がしなかった。何枚描いても飽きるということがなく、ほんのわずかでも彼女という存在を表現できることが心地よかった。

 同じものを色々な角度から繰り返し描き写すのは、本来好きではなかった。ただ上達するためだけの訓練。やらなければ夢が叶わないことも分かっているし、夢のために努力を惜しむつもりもないけれど、時々私の体がただの一本の管になって、目から入った情報が脳へ行かずに、そのまま腕に伝わって紙面に出力しているような、空しい感覚に襲われることがあった。

 でも、彼女の絵は違う。一枚一枚、全てが彼女を表すために欠けてはいけなくて、鉛筆の全てのストロークに心の底から意味を感じる。

 だんだん外が薄暗くなり、未練がましい夕焼け色を無慈悲な白色光が追い出しにかかる。私は今描いていたページをめくって、くっきりと人工的に明示された彼女の後姿を新しく描き始めた。

 いつしか七時の最終下校のチャイムが鳴った。

 彼女はすっくと立ちあがり、手際よく問題集やノートをたたんで鞄に押し込んだ。私もスケッチブックを閉じ、鉛筆をがさがさ筆箱に放り込む。

 彼女は後ろの扉から出ていった。黒髪の余韻がその辺りに残っているようだった。私は彼女の席を大回りして避けながら、前の扉に向かい、ぱちんと教室の電気を消した。


 月がかわって、席替えになった。

 彼女が隣の席に荷物を置いたので、私はあっけにとられて彼女の顔を見た。愛想のない角縁眼鏡の奥で、黒々とした洞窟の入り口のような瞳があった。

 その目がちらりとこちらを向くので、私は慌てて目をそらした。それから、何でそらしてしまったんだろう、と後悔する。

 もう一度彼女の方を盗み見ると、彼女はもう、何でもないような顔で前の方を見ていた。

 私はその日の授業中、彼女にいつどうやって声をかけるべきか、そもそもかけない方がいいのか、そればかり考えて、何も手につかなかった。休み時間すらぱらぱらと教科書をめくっている彼女だから、なかなか話しかけられない。

 その日から、彼女は私の隣で勉強した。後姿でなく横顔が見えるようになった。

 彼女の肌は黒い髪と対照的に白くて、辺りの色を全て吸い取っているようだった。

 けれど、彼女のデッサンはできなくなってしまった。それどころか折角の彼女を眺めることすらできなくなった。あまりまじまじと見ていると、向こうから声をかけられてしまうのではないかと怖かった。そのくせ無理やり見ないようにしていると、なおのこと彼女の存在が立ちのぼってくるようで、とてもデッサンどころではないのだった。


 ある日、私は筆箱を開けて、消しゴムがないことに気付いた。

 授業が始まりそうだったので、クラスの違う友達に借りに行く時間はない。

 私は散々迷った末、隣の彼女に声をかけた。

「消しゴム? うん、いいよ」

 彼女は微笑して、私の机の上にビニールをかぶったままの消しゴムを置いた。私が困惑しているのを察したのか、彼女は自分でビニールを剥いで、もう一度机に置きなおす。

「ごめんね、今のを使い終わったら開けるつもりだったから」

「本当に使っていいの?」

「もちろんいいよ」

 さらりと答えて彼女は会話を終わらせた。すぐに授業が始まって、私はそれ以上、彼女に何を言うこともできなかった。

 その日の授業が終わると、私はすぐに、さらのままの消しゴムを彼女に返した。

「あれ、使ってよかったのに」

「あんまり書き間違えなかったから、本当に大丈夫。突然ごめんね、ありがとう」

 彼女はまた微かに笑みを浮かべている。

「いつも、絵、描いてるよね。気になってたんだ。絵、好きなの?」

 ずっと彼女の後ろに座っていたから、認識されているとは思ってもみなかった。私はおずおずと答える。

「まあ、好き……だとは思う」

「ふうん。やっぱり、将来は画家とか?」

 私はどきっとして、一瞬口ごもる。

「画家っていうか……画家、ではないかな」

「でも絵を描く仕事でしょう」

「それは、そうなんだけど」

「すごい。やっぱり美術の大学とか行きたいんだ」

「そんなんじゃないよ」

 思いがけないほど強い否定の言葉が飛び出た。微笑んだまま小首をかしげる彼女に、私は無理やり笑い返して、逆に聞いた。

「そっちこそ、いつも頑張って勉強してるよね。どこか目指してる大学とかあるの?」

「うん、まあ、ね」

 彼女の答えはごく曖昧なものだった。

 しばらく沈黙が下りた。まだ教室にはたくさん人がいて、ざわめきが私たち二人をうわっと包んでいるかのようだった。あるいは今目の前にいる彼女がざわめきに取り込まれ、私からどんどん引き離されていくようにも思えた。

 そのうちに彼女が口を開く。

「ねえ、今日もこれから練習するんでしょう。消しゴム、まだ貸してあげてもいいよ」

 私は返答に詰まった。けれど、なんだか今日は、彼女と二人ではいられない気がしていた。

「ごめん、絵に使う消しゴムって、普通のとは違うんだ。練り消しゴムっていって」

「あ、聞いたことあるかも。そっか、それじゃあ――」

「だから、ごめん。今日は帰るね」

 私は彼女の返事を待たず、教室を飛び出した。


 私は確かにもともと、美術系の大学を目指していた。

 しかし、家があまり裕福でなかったことと、親が安定した職に就けとうるさいのもあって、美術系の予備校に通うのは絶望的だった。予備校なしで美術大学に行こうと本気で思えるほど、私は自分の腕を信じてはいなかった。だから、プロの芸術家は諦めた。

 雇われで絵の仕事をできる職業を考えて、専門学校に行ってアニメーターになろうと思った。アニメやマンガも好きではあったが、特別なセンスがなくても、絵を正確に描く力があればやっているのではないかという打算もあった。

 デッサンは馬鹿みたいに練習した。模写もやった。退屈に思うことがあっても、どのみち普通科の勉強には戻れないので、やるしかなかった。絵の道に進むと決めてから成績は下がる一方で、今ではどこから手をつければよいのか分からなくなっていた。だから私は絵を描き続けるしかないのだ。

 それなのに、あの日以来、まったく筆をとる気が起きない。

 あれ以来彼女と言葉を交わしていないが、隣で授業を受けていても、以前の熱に浮かされたような気持ちはすっかり失せていた。彼女の後姿に感じていた色彩はすっかり褪せて、背景と同化しているようにすら見えた。私は放課後残らなくなったので、夕焼けに照らされる彼女をもう何日も見ていない。


 一週間、二週間と経って、一枚も絵を描けずにいた私は、ついに挑戦することをやめた。

 意外と絵なんて描けなくても生きていける。そう気付いてしまった私は、専門学校のパンフレットを段ボールの中に並べて、デッサン用の鉛筆と消しゴムと一緒に封印した。色鉛筆もマーカーもまとめて紙袋に放り込んだ。そうしたら、机はずいぶん綺麗になって、ほとんど何も残っていなかった。

 私はあまりにも大きな喪失感に、しばし呆然とした。本当に私には絵しかなかったのだ。

 これから何をすればいいのだろうか。専門学校に行かないなら、普通の勉強をしなければいけないのだ、と思い当たるまで、またしばらくかかった。空虚な机の上に、学校の教科書を広げてみる。スケッチブックの定位置だった場所に、罫線ノートが陣取る。あまりに嘘くさい光景だった。ここで勉強はどうしてもできそうになかった。かといって、勉強以外にこの部屋でできるようなことは思い浮かばない。

 仕方なく、私はリュックにノートと教科書と問題集とを入れて、バスで街の図書館へと向かった。学生向けに自習スペースが開放されているはずだった。

 夕方のバスは、ちょうど部活帰りの学生がたくさん乗っていて、混雑していて座れなかった。同じ高校の生徒もいた。抱えたリュックがやたらと重かった。

 図書館なんて、人生で数回しか訪れたことはなかったが、夕日に照らされて佇む、優しそうな白い壁には見覚えがある気がした。私は軽く頭を振って、苦々しく記憶を追い払う。第一、築何十年かのこの建物で彼女を連想しては、失礼というものだ。

 自習室は嫌な沈黙で満ちていた。まず空調がちゃんと動いているのかと思ってしまうほど、空気が重く固まっていた。ブラインドの下りた窓が夕陽色に輝いているのも、息の詰まるようなこの空間が外と隔絶されているような印象をますます強めている。四角い白塗装の長机が一糸乱れることなく整列し、そこに座っている学生も一様に下を向いて、頭のてっぺんだけが蛍光灯に照らされた、まるで陰気な人形の群れだった。

 私は正直帰りたかった。どこかの席に座ってしまえば、私もこの群れの一部になってしまうのだと思うと、それは尋常ではない不気味なことに思われた。だが、バス賃を払ってわざわざ来たのだから、何もせずに引き返すという気にもなれなかった。できるだけ明るくて目立たないところに座ろうと、壁際をすごすご歩いて窓辺へ向かう。

 できるだけ相席になりたくないので空いている机を探していて、窓際のとある席へと視線を向けた瞬間、私は思わず息を止めた。

 奇妙なことに、ほとんど同時に彼女は顔を上げ、私に気付いた。目が合うや否や、彼女は教科書と一緒に積んであった赤い表紙の分厚い冊子を、今まで見たこともない速さで取り上げて、足元の鞄に放り込んだ。私はその本の表紙を読めなかったから、一体何を気にして彼女がそんなに慌てたのかは分からなかったが、さほど気にするようなことだとも思えなかった。

 どうして彼女はここにいるのだろう、と私は考えた。彼女はまだ制服を着ていたから、学校が済んでからすぐ来たのに違いない。彼女はいつも、教室で自習していたのに。

 彼女はようやく少し動揺も収まったようで、ふ、と小さく息を吐いた。そして今度は多少落ち着いた目で私を見つめた。暗い色の彼女の瞳は、今はブラインド越しの控えめな夕陽に、ふわりと光っていた。

 今回は間違えなかった。

 私は口を閉ざしたまま、彼女の二つ隣りの席に腰を下ろして、それきり目を合わせなかった。

お題:青春×陶酔


毎週日曜日に習作を投稿していく予定です。

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