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戸惑う日々、「山腹」にて

作者: 湯田十三

♦♦ 夏のホラー2018提出予定作品(#2-1)です。ホラー自体私の守備範囲ではないのですが、精一杯書きました。構想一月、創作十五日の問題作です。

   初日:七月十三日(水)、快晴

 ♦

 最近の俺は暇を見つけては、この月初めから新しい勤め先になった、辰巳リゾートホテルの敷地や施設を散策というか、探索して回っている。

 東京の山の手と下町の境界をなす段丘の端に生まれて育ち、都心部に建つ大型シティーホテルに勤務していた俺が、辰巳明男社長のヘッドハンティングを受けてこの小さなホテルへ移って来た。

 リゾートに特化した立地のために周りには自然しかないのだが、根っからのインドア派な俺は、ホテルに付属している施設を使うゴルフも乗馬もテニスも水泳にも全く興味は湧かず、しかも三十二歳になった今も独り者なので、散歩するくらいしか暇の潰しようが無いのだ。

 ♦♦

 俺の職種はバーテンダーなので、基本的には夜間だけ営業する本館三階のバーで十七時から二十五時までの勤務をしている。

 実は昼夜を問わず営業している本館一階ロビー横にあるラウンジでも酒類の提供をしているので、早番・遅番各一名のバーテンダーが勤務している。早番の勤務時間は八時から十七時、遅番は十二時から二十一時で、それぞれ休憩時間が一時間ある。

 しかしながらラウンジでは、難しいカクテルのオーダーなどほとんどなく、あってもスパークリングを含むワインの相談くらいで、下手をすれば珈琲や紅茶、フルーツジュースしか出ない日もあるのだ。

 そのため、チーフで管理職の俺は、ほかに四人いるバーテンダー~勤続二十四年で年齢四十九歳というベテランの「石田勇さん」、系列ホテルから異動して二年、バーテンダーとしての通算経験は四年で二十八歳の「山川恭一君」、石田さんに弟子入りする形で三年前に採用された二十六歳の「佐々木進君」。一昨年に志願して調理場から来た二十二歳の「木村雄二君」~に任せているのだ。

 このため四人の部下には「一階の早番」、「一階の遅番」、「三階の遅番」をなるべく均等になるように割り振ってある。

 また、週休日は二日ずつになるように週単位のシフトを組んである。

 ちなみに俺の週休日は比較的に暇な火曜日と木曜日に設定してあり、この日は必ず石田さんがバーの勤務に就くようなシフトにしてある。

 その反面、金曜日から月曜日は多客日であるため、俺のほかにも若手の中から誰か一人がバーの勤務に就くようにし、補助業務をしてもらいながら、同時にOJTが実施できるように工夫してある。

 ♦♦♦

 水曜日の今日は出勤日であるが、遅くとも十七時のバー営業開始までに出勤をすれば良いのだ。

 少し遅め九時四十分に起床してシャワーを浴びて、髭剃りと洗顔、歯磨きを済ますと制服に着替えてから整髪して、宿舎である旧館三階にあるP416号室を出る。

 空腹を覚えながらも、まずは本館一階にあるラウンジへ行き、早番である佐々木君にバックバーや冷蔵庫の中の在庫状況などについて質問し、彼の健康状態もそれとなくチェックする、彼の表情はいきいきとして、答えも正確で問題はなさそうだ。

 管理職としての責務を果たすと旧館一階の社員食堂へ行く、この時間の社員食堂は空いている、早番の社員はすでに出勤したし、のんびりと賄いの朝食を食べているのは、週休日の独身者か深夜勤明けのフロント係員と警備係員くらいである。

 俺は白飯に豆腐と葱の味噌汁、焼鮭、法蓮草の煮びたし、胡瓜の浅漬けという、見習い調理員が作った、旨くもない賄いを持て余し気味に摂りながら、今日の行動計画を考える。

 この十日余りで辰巳リゾートホテルの敷地はほぼ歩き尽くしたので、今日からは時間の許す限り、親会社の辰巳興業が所有する周辺の山野を探索してみようと思っている。

 朝食を摂り終えた俺は宿舎に戻り、制服を脱ぐと正午近くまで午睡をする。

 十一時五十分に再び制服を着るとラウンジへ行った。遅番の木村君が出勤しており、健康状態も良好なのを確認すると、「今日は敷地西側にある私道を行けるところまで登ってみようと思っています。遅くとも十六時までには帰ります。」と言い置いて、佐々木君を連れて再び社員食堂へ行く。部下のバーテンダー達は俺がホテル周辺の探索を続けていることを知ってはいるが、同行させられるのを嫌ってか、一様に素っ気ない態度をとる。

 昼食を食べ終わった佐々木君は一時間の休憩時間であるため、食後の珈琲を飲み始めた。

 ♦♦♦♦

 俺は彼をその場に残して宿舎に引き上げると、私服に着替えて、特に足拵えをしっかりして、念のため水筒と乾麺麭をナップザックに入れて担ぎ、ホテル敷地の西側に沿って走る私道のうち、右手に曲がって裏山を登る方向に歩き出した。

 ちなみにこの私道も辰巳観光の親会社である辰巳興業が所有しており、左手に曲がると緩やかな下り坂が続き、麓まで降りると湖畔を走っている国道に合流する。いわば唯一のアクセス道路なのである。

 坂道を登り始めて分かったのは、全くの未舗装で所々に待避所があるという程度の幅員しかなく、自動車が行き交うことなど考慮していないということだ。ちなみに轍はほとんど見られず、雑草が伸び放題で両側からは樹々の枝が伸び放題に被さっている。

 だんだん上り坂の角度が急になり、遂には直攀が難しい程になると、つづら折りに変わり四回半左右にうねったところで、樹木がなく開けたテラスに出て、行き止まりになった。

 時計を見ると十四時十分で、登り始めたのが十二時四十五分だから、休みなく登って八十五分掛ったことになる。

 念のため周囲を探すが続きの道の様なものは遂に見つからなかった。そこで手頃な大きさの岩に腰を下ろして、水筒の水を飲む。麓の方向を望むと、眼下に辰巳観光のリゾート施設やホテルの建物などが見えて、さらにその下には陽光を受けて光る湖とその畔を並行して走る、国道とローカル線の線路が見える。 辺りは人跡がなく、樹々を揺らす風の音と途切れ途切れに野鳥の声が聞こえるだけだ。

 二度、三度深呼吸をしてもう一度水を飲んだら、登ってきた道を下る。膝を痛めないようにゆっくりと降りるが、それでも所要時間七十五分で、十五時二十五分にはホテルに帰り着いた。

 ♦♦♦♦♦

 十六時二十分まで一憩した俺はシャワーを浴びて、制服に着替えると社員食堂へ行き、夕食を摂ってから、本館三階のバーで開店準備をする。

 今日は水曜日であるため、結局五組十一人の利用客しか来ず、少し手持無沙汰であったが、最後の客が引き上げた二十四時十分から後片付けを始めて、余った時間を使って在庫調査をして明日の当番である石田さんが不足分を発注するように指示書を書いておいた。



   二日目:七月十四日(木)、晴れ

 ♦

 九時二十分に目が覚めたが、今日は週休日なので私服に着替えてラウンジへ行き、早番の山川君の健康状態をチェックすると、社員食堂で遅めの朝食を摂る。

 その後はもはや日常となりつつある午睡をして、十二時十分にラウンジへ行くと、遅番の佐々木君の健康状態をチェックして、「今日は敷地東側にある林道を行けるところまで登ってきます。十七時までには帰ります。」と言い置いて山川君と社員食堂で賄いの昼食を摂った後、一旦宿舎に戻った。

 ♦♦

 しばし休憩したら足拵えを整えると水筒と乾麺麭をナップザックに入れて担ぎ、ホテル敷地の東側にある古い林道らしき急坂の上り口へ行き、十二時五十分に登り始める。右手~東側~斜面の下、すぐそばに沢があり絶えず水が流れているので、どこかに水源があるのだろうと思う。取りあえず下草の少ない所を選って慎重に登る、昨日の私道と違い使わなくなってから大分経っているようで、時々進路を見失うが、少しでも歩き易そうな所を掻き分けて進むと、意外に早く断崖絶壁の下に到達してしまった。

 現在時間が十三時四十五分だから五十五分しか登っていないことになる。焦っても仕方がないので、太い樹の切り株に腰を下ろし水を飲む。昨日の開けたテラスと違い麓側は鬱蒼とした天然林で、眺望はほとんどないと言って良いくらいだ。一方の山頂側は四十メートルほどの切り立った岩場で、相当の装備をしなければ、取り付く島もない。

 ♦♦♦

 そこで沢の水源を探すべく、東側の緩斜面を滑らない様に注意深く下っていくと、水音が微かに聞こえる、と思ったらすぐに沢の右岸に辿り着いた。

 さらに崖の東側を迂回するように沢伝いに登ると、小さな滝があり、その脇を攀じ登ると小さな池があった。時計を見ると十四時二十分だ、途中休憩を含みホテルからここまで九十分掛った計算だ。

 流れ込む沢がないその池の水は無色透明で、良く見ると真ん中付近の三、四か所から細かい気泡が湧いているので、ここは伏流水の出口だと思われる。

 池の水に手を浸すと夏だというのに、痛くなるほど冷たく、手で掬って飲むと無味無臭である。

 ♦♦♦♦

 ひとまず所期の目的を達成したので、帰りは沢伝いに降ることにする、所々に岩があり登りに使った古林道よりさらに歩きにくいが、迂回を余儀なくされるようなことはなく、かえって沢の上空には樹木の枝が少ないので見通しは利く。

 結局、敷地西端のスタート地点からやや麓側の平地へ十五時四十分に辿り着いたので、休憩を取らずに下って八十分を要した計算だ。

 出勤時間までは余裕があるので、ゴルフコースの東端に続く、高さ二~四メートル程のだんだん高くなる岩壁沿いにホテル方向へ緩傾斜を登って行くと、一か所だけ縦二メートル弱、横一メートル強の長方形の穴が開いていた。中を見ると五メートルほど奥まったところに赤錆びた鉄の扉があった。鍵が掛かっている訳ではないので、取っ手を引くと、大して重さは感じずに簡単に開いた。

 上体だけ入れて中を覗いたが、左手~つまり山頂方向~へ入り口と同じ大きさの、明らかに人工的に掘ったであろう洞窟が続いているが、外光が全く届かないので、その先はどうなっているか皆目分からない。今日は諦めて、そのうちに、それ相応の装備を整えて探検(?)してみようと思う。

 こうしてホテルに帰り着き、社員食堂で夕食を摂り、宿舎に帰ると、昨日と今日に記しておいた野帳の整理をして早目に眠った。



   三日目:七月十五日(金)、雷雨

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 今日は出勤日なので制服に着替えて九時十分にラウンジへ行き、早番の木村君の健康チェックをした後、社員食堂へ行き朝食を摂った。

 朝から雨が降り続き、七月の半ばだというのに肌寒い位だ。外歩きには不向きな天候なので、ホテルの中を見て回ることにした。

 まず本館地下一階にある総支配人室へ行く。草野明雄総支配人は辰巳社長以外では、俺にとって唯一の上司であり、年齢は五十歳代後半で俺の父親と同世代だが、三年前に系列ホテルから栄転してきたと聞いている。総支配人室のドアを四回ノックすると「どうぞ」という声がドア越しに聞こえたので、静かにドアを開けて中に入ると三十度の礼をする。

 総支配人は自席で書類を読んでいたが、それをデスクに置くと、「戌亥チーフ、何か御用でしたか?」と訊いてくる。「大したことではありませんので、お忙しければ出直しますが。」というと、「明日・明後日と社長がお見えになるので、先月・今月の営業成績などを再確認していたところですが、急ぎではありませんのでお話をお聞きしましょう。立ち話も何ですから、ソファーへどうぞ。」と誘われる。

 「昨日ホテルの敷地を散策していましたら、ゴルフコースの東のはずれに洞窟の入り口の様なものを見付けたのですが、総支配人は何か御存知ではないかと思って伺いました。」「ああ、そのことですか、私もここは古くはないので詳しくは知らないんですが、このホテルは戦前・戦中には林業をはじめ、不動産業や銅鉱石の採掘業を行っていた地方財閥の保養所だったと社長からお聞きしたことがあります、そのことと関係があるのかもしれませんね。明日・明後日と社長がお見えになったらお訊きになればよろしいかと思います。」「そうですか、それでは機会を作っていただいて、明日にでも社長にお訊きすることにいたします。お忙しいところお邪魔いたしました。」とソファーから立ち上がり再び三十度の礼をすると総支配人室を辞した。

 ♦♦

 次に同じ飲食部門の管理職である本郷衛士料理長のところへ行く、彼も総支配人と同様に五年程前に系列ホテルら栄転して来たと聞いている。年恰好は俺と同じだが、もしかすると少し齢上かもしれない。調理場の入り口に立って料理長を探すが、彼は本来被るべき料理長の帽子であるグラン・ボネは邪魔になると言って被らず、見習いが被るようなペッタンコのシェフズハットを愛用しているので、忙しく動き回る若手に混じると見付けにくいのだ。

 ふいに肩を叩かれたので振り向くと件の料理長だった。「何だ戌亥チーフでしたか、部外者が覗き込んでいるので注意しようと思っていたところですよ。」「済みません部外者が覗いていて、料理長にお話をお聞きしようと伺ったものですから。」「チーフ、それは違いますよ。バーテンダーは我々料理人が供する食事をさらに素晴らしいものに昇華させてくださる、いわば仲間ですから、遠慮なさらずにいつでもお出でください。と言ってもここで立ち話も何ですから、私の控え室へどうぞ。」と誘ってくれる。調理場の角を三畳程に仕切った小部屋があり、小さなデスクとパイプ椅子数脚が置いてある。料理長は椅子を二脚引っ張り出し拡げて対面に置くと調理場が見渡せる方に座り、「どうぞ」と席を勧めてくる。「それで、お聞きになりたいというのは何でしょうか?」「はい、私はここへ来たてで知らないことばかりなので、同世代の料理長に敷地の東端で見つけた洞窟のようなもののことをお訊きしようと思ってきたのですが。」

 「ああそのことですか。この別館の地下は昔、防空壕として掘られたものでどこかに避難路があるようだということを赴任してきた当時の前任者から聞いています。しかもここは地下一階ですが、さらに下に二階分あって、今はボイラー室や受電室・汚水処理施設などの設備関係に使われているようですが、そのどこかに脱出口が隠されているとも聞いていますが、私は見たことがありません。ところで私も戌亥チーフにお訊きしようと思っていたことがあるんですがよろしいですか?」「それは何でしょうか?」「失礼ですがチーフは何年のお生まれですか?」「私は五十五年ですけど、本郷料理長は?」「私は二歳下です。」「そうでしたか、私はてっきり歳上でいらっしゃると思っていました。といってもここでは料理長の方が先輩ですから今後ともよろしくお願いいたします。」「かえって歳上のチーフにそう言っていただくと心苦しい限りです。私の方こそよろしくお願いいいたします・」「それではお邪魔しました。」礼を言って小部屋を辞して宿舎へ帰った。

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 十一時五十分まで宿舎で午睡して、制服を着ると、ラウンジへ行く。

 遅番の石田さんの健康状態をチェックするとともに、昨夜のバーの営業状況と依頼しておいた在庫品の発注状況を確認した。全て今日の夕方に納品になるとのことだったので、今日は早めにバーへ上がろうと思う。

 石田さんに礼を言うと、木村君と昼食を摂りに社員食堂へ行き、食後は彼と別れて宿舎に戻った。

 十五時四十分に三階のバーに出勤すると、間無しに注文していた酒類が届いたと会計係から電話があったので、問屋の配送員にバーまで運び上げる様に依頼してもらった。

 十分程すると台車一杯分の酒瓶を積んで押す男がバーへ入ってきた。「こんな天気の時に無理を言ってすみません。」「いいえ、こちらも商売ですから、お気になさらずに。ところであなたが新しいチーフですか。」「はい、戌亥岳と申します。今月から勤めておりますので、よろしくお願いいたします。」「申し遅れましたが、私は田中健司と申しまして、北八洲酒販でこちらのホテルの担当を任されておりますので、これからもちょくちょくお邪魔すると思いますが、こちらこそよろしくお願い申し上げます。それでは検品をお願いいたします。」そう言う彼と二人で、伝票と現物の突合せをしていく、全て揃っているのを確認したので、受領書にサインをして渡すと、礼を言った田中は台車を押して帰って行った。

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 届いた酒瓶を磨きながら所定の場所へ並べ、並べ切らない物は整理してバックヤードへ置いておく。作業の途中で山川君が出勤してきたので、健康チェックをした上で、手伝ってもらう。

 雷雨にもかかわらず金曜日の今日は、八組三十九人と利用客が多く、木村君も私も忙しい思いをしたが、二十五時過ぎに後片付けを終わらせると、達成感がある。木村君と宿舎に戻ると彼の部屋の前で「お休み。」を言うと、私も自室に帰って熟睡した。



   四日目:七月十六日(土)、晴れ

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 今日も出勤日なので制服に着替えて、九時十五分にラウンジへ行き、早番の佐々木君と会話をしながら健康チェックをすると、「今日は社長がお見えになるけど、緊張せずに普段通りの勤務をしてください。」と逆にプレッシャーを掛けるようなことを言ってしまい後悔するが、後の祭りだ。社員食堂で賄いの昼食を摂ると、制服のまま、宿舎で待機することにした。

 十時ニ十分、内線電話が鳴り、「午後二時頃に辰巳明男社長が視察に来て一泊する。」と総支配人から改めて連絡があった。

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 十三時五十分に再び内線電話が鳴り総支配人から、「辰巳社長が本館三階の305号室でお呼びなのですぐ行くように。」との指示があった。

 俺は身嗜みを再確認すると、305号室へ向い、そのドアチャイムを押した。するとドアが開き、辰巳社長が顔を出して「戌亥さん、忙しいだろうに呼び立て済まないね。お入りなさい。」と招じ入れられる。

 中に入り改めて最敬礼すると。「頭をお上げください。私に最敬礼は不要だよ、会釈で充分です。」と言われてしまった。

 頭を上げると、どうぞお掛けくださいとソファーを勧められる。」遠慮勝ちにソファーに座ろうとすると、「飲み物はコーヒーで良いですか。」と訊かれる。どう答えたものか思案していると、「遠慮しないでください。私は客ではないし、ルームサービスを頼むだけだから。」と言いながら内線電話を架ける社長の姿を恐縮しながら見ていた。

 「これでよしと。」というと社長はソファーに座り、「遠慮しないでくださいね。」また言われてしまったので、降参して少し深く腰掛け直した。

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 総支配人をはじめ従業員は口を揃えて「辰巳社長は厳しい人だ、怖い人だ。」と言うが、俺はそう感じたことがない。現に今も、まるで親戚の叔父さんのように接してくれている。初めて会った時もそうだった。俺がバーテンダーをしていたシティーホテルのバーへ末娘を連れて訪れ、創作カクテルやシングルモルトウイスキーを静かに楽しんで、さりげなくチップを渡してくれた。その後は自身が所有するホテルでもないのに月に二~三回は通ってきて、時々は当時高校生だった末娘を伴っていた。挙句の果てに俺を引き抜き、このホテルのチーフバーテンダーにしてくれた。

 その時は俺の「一番小さいホテルのチーフバーテンダーなら移っても良い。」という我儘に二つ返事で応じてくれた社長の真意は今でも計りかねているのだが、社長は意に介さず、相変わらず優しく接してくれている。

 ♦♦♦♦

 ドアチャイムが鳴ったので俺が出ると、ケータリングカートを押した佐々木君が立っていた。招じ入れると、彼は社長に最敬礼した後でコーヒー二杯をサーヴして、「失礼いたしました。」と挨拶して帰って行った。すると社長が総支配人室と思われるところへ架電して、「専門技能者であるバーテンダーにウエイターでもできるような仕事させるもんじゃない。三時になったら君とルームサービスの責任者が食器を下げに来なさい。」と静かだが怒りを含んだ声で命令していた。社長の怒りの一端を見て、俺は初めて怖い人だと思った。

 ソファーに座り直した社長は、すぐに笑顔になり。「戌亥さん、元気にしていましたか。新しい職場には慣れましたか。何か不自由に思ったらいつでも直接電話をしてください。」とまるで、下にも置かないという話しっぷりに面映ゆくなる。

 「社長、一つだけお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか。」早く辞去したい俺はコーヒーを飲むことも忘れて畳みかける。

 「何でもお聞きください。」「実は先日、ホテルの敷地を散策していましたら、東端の方で洞窟の入り口らしきものを見付けたのです。草野総支配人にお聞きしたら、よくご存知ではないとおっしゃりながらも、『このホテルがかつては地方財閥の保養所であったことや、その財閥が銅鉱石に掘削をしていた。』ということなどを教えてくださいました。また、本郷料理長は『別館の地下はかつて防空壕だったことや地下二階か三階に避難路の入り口が隠されていると聞いたことがあるが、料理長自身は見たことがない。』と話してくれました。これらは本当なのでしょうか。」

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 社長は俺の話を聞きながら、コーヒーを一口飲むと、居住まいを正して俺を見据えた。ただし怒りではなく嬉しくて堪らないといった眼だ。「さすがは戌亥さん、あなたは相変わらず探求心が旺盛ですね。バーテンダーとして、またホテルマンとして得難い資質です。私達が見込んだだけのことはありますね。」そこまで一気に話すとまた一口珈琲を飲む辰巳社長。

 俺は前のめりになりながら話の続きを催促しようとすると、「それでは最初からお話ししましょう。まず、草野君が言ったとおり、このホテルの前身はある地方財閥が役員や上級職員向けに作った保養所でした。今は貸別荘にしている四棟のコテージは当時としては最先端を行くもので、役員専用だったようです。またその財閥は最初、この辺り一帯の山林を所有して林業を基幹としていましたが、銅鉱石が存在することが判ると、その掘削や銅の精錬も手掛けるようになり、軍需産業の一端を担っていたようです。ところが終戦後の経済変動に付いていけず昭和二十六年に倒産したのです。どういう伝手があったのか分かりませんが、当時米軍に焼かれずに済んだ東京の小さなホテル二棟を細々と経営していた私に話が来たので、周辺の土地や立木など一切合切含めて、三百万円を出して買い取ったものです、さあ冷めないうちに珈琲をどうぞ。」と言いつつまた一口珈琲を含む社長。俺もつられてコーヒーを飲むもののその香りを楽しむような余裕はない。

 「それから本郷君が話した防空壕の話も本当です。戦争も十九年になるとサイパンが陥落して、東京をはじめ地方都市も頻繁に空襲されるようになり、この保養所を作った財閥もいざというときのために防空壕を各建物の地下に作り、その間の連絡通路や、さっき話した銅鉱山の廃坑道を利用した避難路を作ったと聞いています。旧館の地下は基礎がしっかりと造られていたので、そのまま厨房やボイラー室などとして活用していますが、それ以外は手付かずです。」ここまで話した社長はやおら立ち上がると内線電話を架けてルームサービスに珈琲二杯の追加注文をした。

 ♦♦♦♦♦

 社長は話し疲れたのか二、三回深呼吸をすると、「その連絡通路の出入口が地下三階の汚水処理室の奥にありますが、知っているのはごく一部の施設係員くらいでしょう。実は近いうちに現在の本館の上の段に二回り以上大きい新館を建てて、コテージも五~六棟新築しようと思っています。その際には荒天時の連絡通路や災害時のシェルターとして地下の再整備も検討しています。でもその前にまずは現状を調査する必要があると思っています。」ここまで話すと、ドアチャイムが鳴った。

 俺が出ると、何と草野総支配人がケータリングカートを押し、後ろから石垣舞宿泊部長が付いてきている。二人は俺に会釈すると、部屋に入り最敬礼をしたまま社長に詫び言を述べている。社長は「分かってくれれば良いんだよ、草野君、石垣さん。」と寛恕したので、石垣部長が新しいカップアンドソーサーに珈琲二杯をサーヴして替わりに前の分は下げ、再びの最敬礼の後で退出していった。

 社長は俺には最敬礼は不要と言いながら、総支配人達のそれは当然のこととして受けている、もしかすると二重人格なのではと疑ってしまう。

 「その調査を私がするのは駄目でしょうか?」「戌亥さんあなたが穴に入るのですか?それはお勧めしません、折角このホテルにお出でいただいたばかりですので。どうしてもお入りになりたいのであれば、信頼できる若手社員を複数名連れて入ってください、それと呉々も無理はしないでくださいね、何が有るか分かりませんから。」「承りました、やはり少し調べてみたいので、仰せのとおりの条件で無理のない探索をさせていただきます。どうも失礼しました。」とお答えしてから立ち上がり軽く会釈をし、305号室を辞した、結局珈琲は一口しか飲まなかったし、社長が言った「私達が見込んだ」の「達」という言葉が気にはなった。

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 一応社長の承諾(?)を得たので、俺の週休日も勘案して明後日から早速取り掛かることにして、探検隊員の確保については明日総支配人に相談してみようと思う、俺は今日でも良いのだが、さっきの今では総支配人に逢うのが心苦しいので。

 一旦宿舎に戻った俺は探検に必要な物をリストアップしてみた。ナップサック・水筒・ヘルメット・キャップランプ・懐中電灯・予備バッテリー類・雨合羽・非常食・方位磁針・メジャーくらいか、本当は水準器も欲しいところだが、以前ゴルフ練習場を覗いた時に、そこにいた小平美保という練習生にロストボールを貰ったことを思い出したのでそれで代用しようと思った。

 そうこうするうちに十六時二十分になったので、社員食堂で夕食を軽めに摂った後、少し早めにバーへ出勤した。今夜の相番は期待の新星である木村君だ。俺より先に出勤して丁寧に掃除をしていた。

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 十七時四十分、今日の口開けのお客は、何と辰巳社長と私服に着替えた草野総支配人、石垣宿泊部長であった、どうやら社長も叱り過ぎたと思っているらしい。

 俺はどうということも無いが、木村君はガチガチに緊張している。カウンターの隅に呼び「木村君、眼の前に居るのが偉い人だと思うから緊張するんだよ。長身の社長は涸れかけた糸瓜、丸顔の総支配人は西瓜、色白の石垣部長は白瓜ぐらいに思っていれば良いんだよ。ただし言葉遣いと所作は丁寧にね。」と助言すると、木村君は総支配人が注文したマンハッタンを作り始めた。社長が「戌亥さん、ビッグフォレストはできますか?」と訊いてくるので、「社長と初めてお会いしたときに作らせていただいた思い出のカクテルですが、残念ながらグリーンキュラソーと鮮やかな色をしたスロージンがもう手に入らないので作れなくなりました。何か別の物をお願いいたします。」「そうか、残念だね、それでは、赤いダイキリをください。」「承知しました。」通常のダイキリは砂糖かガムシロップを使って白色にするのだが、グレナデンシロップに変えると赤色になるのだ。石垣部長は「私も同じ物をお願いします。」と無難なオーダーをした。

 私がシェイクして二人に供すると「相変わらず旨いね、戌亥さんが作るカクテルは。次は木村君に頼もうかな。」と社長が言うので、木村君と立ち位置を入れ替えた。

 すると総支配人はグラスを置き、内ポケットから四つ折りにした紙片を渡してくれた。開いてみると達筆で、「7月18日、8時30分 別館1階社員食堂」という集合日時・場所のほか3人の名前が書いてある、そのうち真ん中の名前が二重線で打ち消してある。残った名前は「警備係 黒田栄治」「宿泊係 飯村順平」となっている、ちなみに真ん中で見え消しになっているのは「フロント係 細野 健」である。

 俺は総支配人に頭を下げたが、「戌亥さんそれでよいでしょうか?社長からも『できるだけ助力をするように』とのお言葉をいただきました。」

 俺は社長の方へ向いて、四十五度の礼をしたが、社長は右手を上げて俺を制した。場の状況が分からずにキョトンとしている木村君には「ジンフィーズをください。」とバーテンダー殺しの科白を吐いた。俺は背筋が凍る思いで見るとはなしに見ていたが、シェイクしてソーダを満たして何とか型通りの造りをしてサーヴしている。社長は一口飲むと木村君ではなく、俺に向かい「水準以上の味だよ、若いのに立派なものだ。」とさりげない言葉遣いで誉めた。

 もちろん社長が立場や仕事に対する姿勢から、ここで世辞など言う筈がないので、本心から出た感想なのだろう。十日あまりで大した指導もしていない俺まで晴れがましく思った。それを聞いていた総支配人が「木村君、私にも同じ物を作ってください。」と厳しいオーダーをした。

 もっとも総支配人自身は先程の石垣部長と違い、これがバーテンダーに嫌われる注文方法だとは気づいていない様である。もっとも本当に鬼畜なのは社長が連続してジンフィーズをオーダーすることなのだが。

 俺が木村君と立ち位置を入れ替えて、社長の表情を窺うと苦笑している。もちろん社長は総支配人が禁じ手を打ったと思っているのだろうが、悪気が無いので黙っているつもりのようだ。

 グラスを空けた社長の次のオーダーは「シングルモルトをストレートで、それとチェイサーをたっぷりとください。」であった。俺は社長と初めて会った晩に受けたオーダーを思い出して「マッカランの18年でよろしゅうございますか?」と提案すると「懐かしいね、それをお願いします。」と俺の顔ではなくバックバーかもっと遠い所を見ている。注文通りのボトルを取り、ショットグラスに注ぎ、エビアンを満たした八オンスタンブラーを添えてサーヴすると「次は紗弥子を連れて来ようかな。戌亥さんは紗弥子のことを覚えていますか?」と訊くので、「もちろんです、清楚で美しいお方ですので忘れることなどありません。お嬢さんがバーにいらっしゃるだけで周囲が明るくなりましたね。」「お世辞でも、嬉しいことを言ってくれるね、今は女子大生だが、ゆくゆくはここの経営を任せようと思っているんだ、戌亥さんその時はよろしくお願いしますよ。」「私なんかでお役に立てるのでしょうか。」「あなたには期待していますので、努力をしてくださいね。」俺は返答に困り、最敬礼をした。

 無頓着な総支配人は木村君が作ったジンフィーズを旨そうに飲んでいる。石垣部長は何かノンアルコールでと言うので、シンデレラを作ってサーヴすると、喜んで飲んでくれた。

 ここで「支払いは私の部屋付けにしておいてください。」と社長が言って三人はお帰りになった。

 社長はお客を呼び込む能力があるのだろうか、この後、利用客は途切れることがなく、俺が勤め始めて最高の十四組五十三人を記録した。さすがに若い木村君も疲れたようで、ビトウィーン・ザ・シーツ二杯を作り、二人で乾杯してから宿舎に帰った。



   五日目:七月十七日(日)、快晴

 ♦

 今日も出勤日なので制服に着替えて、九時五分にラウンジへ行き、早番の山川君の健康チェックをし、昨日が週休日だった彼に「社長が滞在中だ。」とだけ伝えて、社員食堂で朝食を摂った。

 宿舎に戻るが、昨夜が激務だったため節々が痛む、木村君は大丈夫だろうかと心配になるが、彼はラウンジの遅番なので正午前に様子を見に行き、もし疲労がひどい場合は今日が週休日の石田さんか俺と相番の佐々木君に代わってもらうことにしようと思いながら午睡をする。

 十一時三十分に木村君の宿舎へ行き体調はどうか質問すると、「昨夜は緊張していて、何が何だかよく覚えていませんが、大して疲れてはいません。」という返事で顔色も良いので安堵して、「今日は市役所近辺に買い物に行き十六時までに戻ります。」と話して昼食を摂りに社員食堂へ行き、食後は宿舎で私服に着替えて、社員駐車場に向かった。

 ♦♦

 新参者の俺に指定された駐車場所は一番奥の列の49番である。初めて持った愛車はトヨタ・ターセルの中古車で色はライトブルーだ。これはこのホテルに採用された今月一日に、ホテルの送迎車に便乗して麓の街へ日用品を買出しに行った際に、街外れにあった中古車屋に寄り、即決で購入した物だ。

 運転免許証自体は大学生の時にアルバイトの合間で何とか取得していたが、東京では自家用車を持たなければならない様な環境になかったので、引っ越しなどでレンタカーを数回運転した程度で、本格的な運転はほとんどしていない。しかしここはホテル周辺でも麓の街へ行ってもさしたる交通量はないので、ペーパー・ドライバーが運転習熟するにはもってこいの場所だ。

 ホテルの敷地の西側の道へ出て、十三日とは逆に左折すると片側一車線ながら舗装してあり、所々がつづら折りになっていて、緩やかな下り坂が続く。その道をエンジンブレーキを利かせながら五分程降っていくと麓で湖畔を走っている国道に合流する。

 この国道を右に行くと十分程で、この車を買った街に着く。そこは元々、我がリゾートホテルを含む行政区画の中心地として町役場があったが、三年程前に近隣の四町村が合併した際に、これから向かう人口や連坦戸数が一番多かった町に市役所が置かれた際に、その市域の一部となり、かつての町役場は市役所の支所として活用されている。

日用品などの買い出しでは不自由しないが、今日買い込もうと思っている物には登山用品や防災用品が含まれるため全て揃うか、いささか心許ないので少し遠いが、市役所の斜め向かいにある大手資本の大型小売店を目指すことにする。

 国道はやがて湖畔を離れ、十五分弱でかつては村役場があった小さな集落を過ぎ、さらに十五分強で中心市街地に入る。右手に新築の市役所が見えてその斜め向かいにある大型小売店ATOMの駐車場に車を入れると日曜日のせいか結構混んでいる。駐車場の一番はずれに空きスペースがあったので、そこに停めて店舗へ入る。

 五階建てと地方都市にしては比較的大きな店舗で、大型懐中電灯三個、予備の単一電池十二本、水筒ニ個、雨合羽三着、方位磁針、五.五メートルのメジャー、非常食として乾麺麭六袋、缶詰を各種取り混ぜて十二個を買い込み、店舗を出ると小公園を挟んだロッキーという登山用品を豊富に取り揃えているスポーツ用品店へ行き、登山用ヘルメット三個、キャップライト三個、予備電池六個、ナップサック二枚を買い込み、元来た道を通ってホテルへ帰った。

 宿舎で俺のナップザックと水筒やゴルフボールを含めて、装備品を三分割しておく。

 ♦♦♦

 十六時二十分、制服に着替えて夕食を摂りに行くと、その足でバーに出勤する。今夜の相番である佐々木君も間無しに出勤して来て、二人で開店準備をする、俺はグラスを磨き、佐々木君は掃除をする。

 そこへ草野総支配人が入ってきた。「戌亥チーフ、これが明後日の分です。」と言いながら、昨夜と同様のメモを手渡してくれる。拡げて見ると、「7月19日、8時30分 別館1階社員食堂 「警備係長 大江葉太郎、乗馬係 武智 壮」と書いてあるのでお礼を言うと、「社長は先程お帰りになりましたが、『無理はなさらないように。』との御伝言をお預かりしております、私からも呉々も慎重に行動していただくようにお願いします。」「はい、肝に命じます。」それで納得した総支配人は帰って行った。

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 今夜も昨夜の様に忙しいのかと身構えたが、結局九組二十二人と、暇でもなく忙しくもなく、合間に佐々木君に技術指導ができるくらいの利用客数で助かった。それでも疲労が抜けきらない俺は佐々木君に後片付けを頼み、二十五時十分に宿舎に引き上げた。



   六日目:七月十八日(月)、晴れ

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 今日も出勤日だが、総支配人経由で第一次探検隊員(?)の二人に八時半集合をお願いしてある手前、早目の七時四十分には起床して、洗顔・髭剃りをすると私服に着替えてラウンジへ行き、早番の石田さんに「今日は午前中から外出をしてきます。おそらく昼過ぎまで帰りませんので、遅番の山川君の健康チェックをお願いします。」と言い置いて社員食堂へ向かう。

 賄いの朝食を摂ろうと席に着くと、警備係の黒田栄治君と宿泊係の飯村順平君が挨拶に来たので、一緒に食事を摂りながら、今日の行動計画を説明した。その内容はおよそホテルの業務とは全く関係ないものなので、二人は怪訝そうな顔をして、特に色白の飯村君は疑りの目で俺を見ている。そこで伝家の宝刀である「辰巳社長の依頼」を口にすると不承不承ながらも納得したようだ、正式な依頼を受けてはいないが、社長が許可して「最大限の助力をするように。」と総支配人に指示をしたのであるから、あながち「嘘」でもない。

 食事を終えると、二人を俺の宿舎に招き、日当一万円を入れた封筒とともに、各自の装備を手渡す。屈強な黒田君はナップザックを軽々と背負い、懐中電灯を肩から下げて、ヘルメットとキャップライトを手に持ってすくっと立ち上がった。一方飯村君には荷が重いのかフラフラしているので、一旦ナップザック降ろさせて、中の缶詰や電池を俺の方へ移した。靴を見ると、黒田君はスニーカーだが、飯村君は革靴なので、履き替えてくるように頼んで、彼の宿舎の前まで付いて行く。

 飯村君の足拵えができたところで、いよいよ出発だ。ゴルフコースの端に沿い、極力目立たない様に例の扉の前まで進む。

 扉の前で、ヘルメットとキャップランプの装着を命じると、俺が先頭を歩き、真ん中の飯村君には距離の概測をするために歩数のカウントを、最後尾の黒田君には念のため後方の警戒を命じて、まず先頭の俺だけが中に入り、赤錆びた扉を引いた。方位磁針を見ると穴の奥は北微西を示している、時刻は九時二十分だ。

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 肩から下げた大型懐中電灯で中を照らしてみると前回見たとおり緩やかな下り坂で、左に曲がっているので懐中電灯の光が届く範囲が限られる。後続の二人に「ひとまず安全なので入ってきてください。念のため各自の懐中電灯を点けて、扉は閉めてきてください。」と後続の探検隊員達に指示をする。すぐに両君が追い付いたが、「慎重に行こう。」と自分をも戒める。

 洞窟の壁を懐中電灯で照らしながら相変わらず緩やかな下り坂進む、ほとんどが岩を手掘りした様であり、自然の裂け目を活用しているところもあった。途中の二か所で土が剥き出しになっていて、崩れた土が床面に落ちていた。やがて傾斜がさらに緩くなり、ついには平坦になった。飯村君に確認するとここまで二百十歩なので、百五十メートルくらいか、野帳にメモする。

 懐中電灯でさらに先を照らすと平坦な直線に見えるし、洞窟の大きさも変わらないので、前進を再開する。

 しばらく進むと懐中電灯が照らす前方に白っぽい壁が見えた。「何だ行き止まりか。」と落胆気味に進むと、急に左右の壁が無くなった。

 立ち止まって、懐中電灯で照らすと、右にも左にも今まで歩いてきた洞窟より二回り位大きな洞窟が続ており、壁面は漆喰か三和土を塗り込めたのか白っぽくなっていた。さっき見えたのはこの壁だったのだ。

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 洞窟が太い洞窟に突き当たり丁字路なっている。

 方位磁針を出してみる。ほぼ西を指している。入口では北微西を指していたから、ほぼ九十度左旋回してきた訳だ。ここでも歩数確認すると先程の地点から百二十歩とのことなので九十メートルくらいか。

 一方、突き当たった洞窟は二回り程大きくて、縦三メートル弱、横二メートル強はあって、同じように蒲鉾形をしている。

 違うところは、漆喰か三和土できれいに内塗りがなされていて、岩が直接見える部分がない。右に行くか左に行くか迷うが、左~南~へ行くことにする。洞窟の真ん中まで歩くと急に躓いた、足元を照らすと鉄道の線路のようなものがある。回りを照らすともう一本レールが通っており、疎らな枕木の上に並行して敷かれているのが分かった。

 メジャーを取り出してレールの幅を図ってみると六十一センチあった、ヤード・ポンド法に換算すると約二フィートだ。

 レールがあるので足元に気を付ける様に後続に注意すると、慎重に進む、しばらく進むと線路がY字形に分かれている地点に着いた。飯村君の歩測によると先程の交点から九百四十歩であり、七百メートルくらいか。

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 そのY字の真ん中の比較的歩き易い所を進むと、その二組の線路の間になだらかな登り坂があり、やがて幅が三メートル程ある混凝土の歩廊のような物の上に出た。屈んで側面の高さを測ると七十五センチあった。おそらくここで貨物の積み卸ろしをしていたのだろうと思う。この歩廊の先端まで飯村君の歩測では二百十歩あり、百五十メートルくらいか。歩き易い歩廊の上を歩くとコンクリートの壁に突き当たった歩廊はT字形になり、左側には錆びたドラム缶が六本立ててあり、微かに石油のような臭いがする。一方右側には小さな小屋があり、古ぼけた壁掛け電話と得体の知れない機器が所狭しと並んでいる。歩廊の長さは飯村君の歩測に寄れば二百九十歩、つまり二百十メートルくらいであろう。

 なおもコンクリートの壁面をよく見ると小屋の向こう側に黒く塗られた扉が見えた。そこまで歩き観音開きの扉を引くと、騒音と悪臭が漂う。扉の向こうは社長が言っていたとおり汚水処理場だった。悪臭を避けるように地下三階の廊下に出ると、俺の宿舎へ急いだ。

 時計を見るとまだ十時三十分であり、野帳によると今日の歩行距離はわずか約千五百メートルに過ぎないが、無理はしない方が良いと思い、念のため探検隊員の両君には「会社が正式に発表するまで、今日見聞きしたことは他言しないように。」と守秘義務を申し渡して、貸与していた装備品を返却してもらうと解散した。

 ♦♦♦♦

 十一時五十分に制服を着ると、ラウンジへ行き、石田さんに早目に戻ったことを話すと、昼食を摂りに行く。

 宿舎に戻り午睡をして十六時四十分、バーへ出勤する。今日の相番は山川君で既に到着して掃除を始めていた。

 今夜は七組十八人の利用客で、山川君への技術指導が充分にできた。二十四時五十分に後片付けが終わり、少し早めにに宿舎へ帰った。



   七日目:七月十九日(火)、小雨

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 今日は週休日なのだが探検に行くので七時二十分に起床して、洗顔・髭剃りをして私服に着替えてラウンジへ行く。

 早番の木村君の健康状態を把握してから、「今日はこの後、外出して夕方まで戻らないので、遅番の山川君やバー勤務の石田さんにも伝えておいてください。」と言い置いて、社員食堂へ行く。

 すると警備係長の大江葉太郎君と乗馬係の武智 壮君という第二次探検隊員の二人が来たので、一緒に朝食を摂りながら今日の行動計画を説明した。小柄だが良く日焼けして筋肉量の多い武智君はやる気満々で、大柄で色白の大江君はおっかなびっくりといった表情だ。食後に俺の宿舎へ行き、日当と装備品を渡す。二人とも昨日の飯村君の様にヨロつくことはない。

 ここで一つ思案する。今日は小雨が降っているので、安直に地下三階の汚水処理室から入れば濡れずに済むが、随行する探険隊員は昨日と違う。旧館地下からの秘密ルートをあまり大勢に教えるのも如何かと思い、雨合羽を被り、小雨をついて例の崖に向かった。幸い雨足は弱く、雨合羽がすぐ乾く程度だ。

 ♦♦

 八時五十分、崖に穿たれた穴の前でヘルメット・キャップランプの装着と懐中電灯の点灯を命じた。俺が先頭になり鉄扉を引き中に入ると、最後尾の大江君に扉を閉めてくるように命じた。ここから丁字路の交点までは勝手知ったる他人の家だが、何が潜んでいるか判ったものではないので、懐中電灯の光に浮かび上がる前方へ全神経を振り向けて進むが八時五十五分、昨日と同様に交点に達した。

 ここで真ん中の武智君には歩数のカウントを最後尾の大江君には後方警戒を命じて、昨日とは反対の右~北~へ歩き始めた。

 しばらく歩くと武智君が突然「ヒェー」と奇声を上げた。「どうした?」と訊くと、「水滴が首筋に入りました。」と答える。

 立ち止まり、ここまでの歩数を尋ねると「六百十歩です。」、距離でいうと四百五十メートルくらいだろうか。野帳にメモする。懐中電灯で照らして天井や壁を見るといつの間にか塗り込めがなくなり岩が剥き出しになっている。ついでに光を当てて探険隊員両君の表情を見た。豪放磊落と思っていた武智君が肩を竦めた弱り顔であるのに、小心者だと思っていた大江君は自信満々の表情で頼もしい限りだ。人は見かけによらないとはこういうことだろう。トンネルの間口は変わらないが、先程から軽い登りのように感じるので、ゴルフボールを置いてみた。すると、ゆっくりと後方へ転がり出した。かといって、加速度がつく程ではなく、枕木に当たるとポコンポコンと弾んだが、四本目を越えられずに止まった。

 ボールは最後尾の大江君が拾い、放って寄越したが、意外なことに俺が差し出した手にストンと入った。

 ♦♦♦

 再び歩き出す三人だが、武智君が急に饒舌になる。「戌亥チーフこのトンネルはどこへ繋がっているんでしょうか、いつまで歩けばいいんでしょうか。そろそろやめて帰りませんか。」「武智君、それが分からないからこうして歩いているんだよ。何せ辰巳社長の御依頼だから、簡単にやめる訳にはいかないよ。それより歩数はちゃんと数えているかい。」「指で数えているから間違いないです。」「今何歩だい。」「ええーと、二百八十歩です。」およそ二百メートルといったところか。野帳にメモしてから、「それじゃあ、ここから数え直して七百歩になったら小休止にするから、黙って間違えないようにカウントしてください。」とおしゃべりに釘を差して歩き始める。

 黙々と歩く三人、時折天井から水滴の落ちる音がする。「七百になりました。」武智君が嬉しそうに報告してくる。約五百メートル歩いたことになる、「それじゃあ小休止にしよう。」俺はポケットから塩飴を出して二人に渡す。それぞれ水筒の水を飲み、飴を舐める。

 十分休んで「武智君、七百歩毎に休憩するから声を掛けてくれ。」と命じて九時二十五分に歩き始める。

 そのうち左右の壁に裂け目があり赤土が露出しているところが見られるようになったので、歩きながらメモする。

 「チーフ七百になりました。」武智君の報告を聞くと、停止して野帳にメモをし、十分間の休憩を取り、九時五十分に再出発をする。

 ♦♦♦

 こうして七百歩~約五百メートル~歩いては十分休憩を八回繰り返したところで十二時十分になった、穴に入ってから三時間以上経ったので、「そろそろ昼食を摂ることや引き返すことも考えなければならないな。」と考えながらも歩き始める。しかし次の七百歩目に辿り着く前に景色が大きく変わった。「武智君、何歩だい。」「五百四十八歩です。」四百メートルくらいだ。

 目の前の線路は丁度ホテルの地下三階に突き当たったと同じようにY字型になり、そのうち左側の線路が再びY字形に分岐して、都合三組の線路になっている。最初のY字を跨いで進むと六十七歩、つまり五十メートル位で、例の歩廊と同じように登り坂の端に到達した。やはり歩廊の幅は三メートルくらいあり、少し進むと右の線路にも左の線路にも黒々としたトロッコが放置されていた、トロッコの長さは一台七メートルくらいで右側の線路には八台、左側の線路には六台あった。よく見るとその向こうの線路には機関車らしきものが三台ある。おそらくトロッコを押したり引いたりしていたのであろう。歩廊の端から端まで歩いてみる歩数は二百四十歩あった、百八十メートルくらいか。歩廊の向こう端にやはり小屋のようなものがあり、いろいろな機器が置かれていた。向こう側の坂道を下ると三組の線路は二つの逆Y字でまた一組の線路に纏まり、先へ伸びている。

 ♦♦♦♦

 時計を見ると十二時二十分、足場も良いので歩廊の上で、昼食・大休止とする。昼食と言っても持って来たのは、乾麺麭と鋤焼きをはじめ鮭や鯖や果物の缶詰と水筒の水だけ、十五分で食べ終わり、ナップザックを枕に歩廊の上で横になって体を休める。

 尿意を催した俺は歩廊から降りて、機関車の様子を見がてら洞窟の端まで行き、立小便をした。ところが足元に水たまりができて左右どちらにも流れて行かないのだ、つまりここはほぼ水平にしてあるということなのだろう。一方、三台ある機関車からは、やはり微かに石油の臭いがするので、重油か何かで動かしていたのだろう。

 ホームに戻ると、探検隊員達に「ここから引き返そう。」と提案すると、大江君は不満げ、武智君はニコニコ顔と正反対の表情をしている。俺ももっと先に進みたいが、進めば進むほど危険な目に合いそうだし、洞窟の中で夜明かしをするのは勘弁して欲しいものだ。

 ♦♦♦♦

 十三時五分、帰途に就く。帰りは三十分歩いては五分休憩にして、今度は逆順で大江君に先頭を歩いてもらう。

 無言で歩く三人、天井から水滴が滴る。三回目の休憩時に遠くから「ゴーッ」という重苦しい音が聞こえたかと思ったら、洞窟全体が激しく揺れて、三人ともその場にへたり込んだ。後ろを見るとガラガラガラと岩の割れ目から人間の頭くらいの岩がいくつも転がり出している。懐中電灯で前方を照らすと、かなり先の土が露出したところから、大量の土砂が崩れ出しているのが見える。俺は「全速前進!」と号令を掛けると、土砂崩れ現場の手前まで枕木に足を取られそうになりながらも走った。もちろん俺の前を大江君も武智君も走る。土砂崩れは腰の高さまで積もっており、三人は四つん這いでその上を突破した。直後に再び地鳴りが聞こえたので、「走れ!」と号令をかけて走り出す。再び激しい揺れに襲われ、へたり込む。後ろを照らすと土砂崩れはもう少しで天井に達する程になっている。

 もう休憩を取るどころではない、一目散に走り続ける。さすがに一時間近く走ると息が切れて休憩を取らざるを得なくなる、「止まれ!三分だけ休憩する。」というと水筒の水を飲み深呼吸をする。

 十四時、再び走り始める。息が切れて再び休憩を取ろうかと思ったところで、やっとホテルの地下三階に着いた。三人して俺の宿舎に上がる。守秘義務は一応課すが、この二人は誰彼なく話すだろうなと覚悟する。それにさっきの激しい揺れが、山の神の祟りか何かではないか気に掛かる俺であった。

 ♦♦ 拙い上に短編という割には少し長めの作品を最後までお読みいただきありがとうございました。厚かましいお願いですが、感想や評価をいただければ幸いです。


                                 湯 田 十 三  拝


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