第2話
ユーグの視点になります。
「あなたと離婚する気はありません。いい加減、目を覚まして、あの売女のところから、私のところに帰ってきて。私はあなたを今でも心から愛していて、あなたの帰りを待っています」
妻の忠子からの手紙の文面の冒頭は、いつもと同じだった。
手紙を読み終えた私は、想いを巡らせた。
いい加減、目を覚ますのは、妻、忠子の方だ。
もう、私は、君のことを愛していない。
だから、もう離婚してくれ。
確かに妻、忠子を大事にしろ、と非難轟々の目に遭って私は当然の身だ。
何しろ、忠子には、私との間の総司という息子までいるのだ。
それなのに、ジャンヌと私は関係をもってしまい、アランを始めとする12人もの子ができた。
倫理的にどうなのか、と叩かれて当然だ。
だが、あの地獄の中で気づいたのだ。
決して許されないことだが、自分は、妻の忠子ではなく、ジャンヌを愛していることに。
そして、ジャンヌはそれに応えてくれた。
あのヴェルダン要塞攻防戦の地獄の日々。
あれから約20年が経つが、あの最前線の攻防戦に参加した日本海兵隊員の中で、あの日々を忘れられた人間は一人もいないだろう。
そして、最初は妻のことを思い浮かべ、妻の下に生きて帰ろう、と自分は祈念していた。
だが、数日を過ごす内に、ジャンヌの下に生きて帰りたい、と自分は願うようになったのだ。
その時に、自分は気づいた。
自分が、今、愛しているのは、妻ではなく、ジャンヌだという事に。
普通に考えれば、馬鹿げたことだった。
妻の父は、海兵隊の将官であり、最後は帽振れにはなるだろうが、大将昇進は間違いない、と周囲から見られていた。
この妻の父の援けがあれば、自分の才能も相まって、自分も将官昇進は間違いなかった。
それなのに、自分が、妻を捨てて、身寄りのない元娼婦のジャンヌの下に走る。
自分が、海兵隊を辞めないといけないのは間違いないし、自分の明るい未来が全く見えなくなる。
でも、幾ら、相手が愛してくれていても、自分が愛せない女と豊かに暮らすよりは、貧しくとも相思相愛の二人で暮らすのが正しい、とあの時の自分は思ったのだ。
考えてみれば、自分が、ジャンヌより前に関係を持った3人の女性、その3人との全員の関係がそうだったような気がする。
自分が最初に関係を持ったのが、村山キクだった。
キクは、横須賀の芸者で、自分に秋波を寄せており、自分の欧州出征が決まったことを聞き、更に、その頃、自分がりつと忠子のことで思い悩んでいたことを、無言の内に察して、自分を慰めてくれたのだった。
そして、産まれたのが幸恵だった。
キクが何故、幸恵を産むことを決意したのか、キクに言わせれば、自分の我が儘から、とのことだが、自分が戦死すると考え、せめて命を伝えたい、と本当はキクが思ったからではないか。
だが、皮肉なことに、自分は生き延び、15人も子がいる。
次に関係を持ったのが、篠田りつだった。
幼馴染で、周囲からもお似合いと言われ、海軍兵学校入学前に、自分から、将来の婚約を、りつの両親に申し入れる程だった。
だが、自分が海軍兵学校に入ると、りつは、段々、連絡しなくなった。
こちらが手紙を書いたら、最初の頃は、返事をすぐに書いてきていたのに、いつか、返事が2回に1回になり、卒業間際には、3回に1回という有様になった。
当然、夏休み等に帰って、りつに会おうとしても、自分に会ってくれない。
自分は愛していたのに、りつは愛していないのか、と考えていたところに、柴五郎提督が、忠子との縁談を持ちかけてきたのだった。
そして、自分は、忠子との縁談を受け入れることにし、りつに別れを告げたら、りつは逆上した。
りつに言わせれば、生活費を稼ぐのに忙しくて、どうしようもなかった。
私は、あなたをずっと愛していた、と強く、りつは言ってきた。
だが、もう手遅れで、自分のりつへの愛は冷めてしまっていた。
りつに別れを告げたあの時、何故、りつを自分は抱いてから別れてしまったのか。
あの時、りつの目が、狂気を帯びているように、自分に見えたからだ。
りつは、別の女に、あなたの初めてを奪われるのは我慢できない、せめて、私を抱いてから別れてくれ、さもないと殺す、と強く言い、自分が断ったら、本当にやりかねない権幕だった。
そして、千恵子が産まれたのだった。
だが、ヴェルダン要塞攻防戦が一段落するまで、千恵子が産まれたことを、自分は知らなかった。
妻の忠子との関係だが、はっきり言って、初対面時には、自分は好意を持った。
そして、忠子によれば、自分に一目ぼれしたそうだ。
だから、そのまま行けば、幸恵や千恵子のことはあっても、何とかなったかもしれない。
実際、忠子は、結果的にだが、りつと共同戦線を組んで、自分に帰国をずっと促しており、幸恵や千恵子とも嫡母関係を築いている。
しかし、ジャンヌとの出会いが、自分を変えてしまった。
マルセイユのあの街頭でのジャンヌとの初対面の時のことを、自分は今でも明確に覚えている。
6月のヴェルダン要塞攻防戦で、大量の死傷者を出し、海兵同期生の1割が既に名誉の戦死を遂げたことを知った自分は、半ば捨て鉢になり、荒んでいた。
いや、周囲の大半がそうだった、と自分は覚えている。
祖国日本の為に、と言われて、フランスまで遥々と赴き、実戦に投入されて、実質2月程で、同期生の1割が死んでしまう。
この頃は、世界大戦の終わりが全く見えない頃で、皆、戦死しないと祖国日本に帰れないのでは、という幻想に多くの同僚や部下達が怯える有様だった。
世界大戦が終わった後に書かれた日本海兵隊員の回想録では、大抵、勝利の日を確信し、ずっと勇敢に戦い続けた、と書いてあるが、そんなのはヴェルダン要塞攻防戦に参加した将兵の多くからすれば、戦場宣伝からくる嘘っぱちに過ぎない。
「ここはお国を何千里、離れて遠きヴェルダンの~」
日露戦争時に作られた軍歌「戦友」を上記のように変えて、多くの将兵が口ずさんでいた。
祖国日本のために、その掛け声を、多くの将兵が(内心では)信用しなくなっていた。
そんな時に、自分はジャンヌと出会い、惚れ込んで、足抜けさせた。
更に、世界大戦が終わったら、現地除隊してしまおう、と決めた。
そして、自分は何とか生き延びたが、海兵同期の3人に2人は欧州で戦死した。
今、日本の首相になっている、当時の自分の上官だった米内光政中佐(当時)には、かなり止められた。
「海兵隊に残れ。君なら将官を望める。何故、自分の将来を棒に振るのだ」等々。
しかし、祖国日本というものに、自分は帰るつもりは無くなっていた。
そして、自分は現地除隊して、退職金を妻、忠子に全額送った。
更に、ジャンヌと半ば駆け落ちして、自分はフランス外人部隊の門を叩いたのだった。
フランス外人部隊は、軍人として実績のある自分を歓迎し、ユーグ・ダヴーという別名を与えてくれた。
それから、20年余りが経つ。
幸恵は、結婚して、娘が産まれ、自分は祖父と呼ばれる立場になった。
日本にいる自分の子どもの幸恵、千恵子、総司と、自分は顔を合わせたことはない。
3人は、自分のことをどう思っているのだろうか。
きちんと養育費は送り続けた(更に忠子には婚姻費用分担金まで送った)が、3人に自分は、良い印象を持たれてはいないだろう。
でも、後悔はしていない。
全てを選んで幸せになれない以上、少しでも良い幸せを掴むしかない。
それが、人の人生だと自分は想うのだ。
ご感想をお待ちしています。




