水無月を買いに。
あ
まい
小豆が
しっとり
ういろうに
乗ってる
三角の
和菓
子
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「水無月、買おてきたで」
中学生となった息子は俺の声を聞いたとたん、無言となった。いや、どうやら「だだいま」と言った直後から押し黙っていたようだ。そして、台所に入るや否や俺に一瞥をくれ、無言で立ち上がり立ち去ってしまった。
「タダシッ! あんた、お父さんが仕事の前に買いにいかはったのに、何ちゅう態度や!」
妻の剣幕を完全に無視して、台所と居間を仕切るドアがピシャリと閉められた。行き場をなくした妻の視線がこちらに向けられる。怒りと、それと同じくらいの悲しみと疲れがあい混じったような薄灰色をした瞳を受け止め、ゆっくりと頷く。同時に、肩をすぼめて妻に言う。
「まあ、思春期の微妙な年頃やからなぁ……俺が同じ歳の頃は……」
着地点を失った心の行き先を探るように、ゆっくりと会話をつなげてゆく。テーブル越しに妻と二人、息子が籠った居間を見やり、小さなため息をつく。
「去年までは喜んで一緒に食べていたのに、ね」
俺に伝える訳でもなく、妻の口から小さく漏れた。
換気扇の音が、静かに響いていた。
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六月三十日。
ちょうど一年の半分を迎える日。
毎年のこの日、わが家に必ず登場する菓子がある。六月の古き名をそのまま冠した「水無月」という。ういろうの上に甘く煮込んだ小豆を載せた和菓子だ。そして、水無月のカタチは決まって三角形をしている。
「夏越の祓って、いうねん」
一年の折り返しとなる六月三十日。これまで過ごした半年への感謝と、これからの厳しき夏への無病息災を願って水無月を食べるのだという。
十数年前、京都出身の妻と初めて過ごしたこの日。彼女の口からその風習を知って、彼女の指先から健康と幸せを願う甘さを頂戴した。
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雨が漏れだしそうな梅雨空を背に自転車を飛ばし、行きつけの和菓子店への道を往復した。台所のテーブルにはパックに収められた三切れの水無月。俺と奥さんと、そして息子のために買ってきたものだ。
砂糖を含んだ深い茶色の小豆が描くしっとり柔らかな表面と、すべてを拒絶する中学男子のまなじりのように空間を切り裂く三角形の切っ先。
水無月を眺めていると、ふと、ひとつの想い出が駆け出した。
その記憶は甘い凹凸を乗り越えはしたが、鋭角のコーナーを回りきれずに、空中へと弾き出された。
三年前の六月三十日。
あの日も、今にも雨が降りそうだった。
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「みんな好きやから、『みなずき』やねんな」
分かりにくい駄洒落をのたまった九歳の男児。春が来たからという理由で強制的に丸坊主にされた四月の状態から、やや草原を取り戻した頭を小さく揺らして母親の注意を引く。さながらツバメの雛が巣に舞い戻った親鳥に向かって頭を振りアピールするかのようだった。
「六月の終わりに食べるから、水無月なんよ」
母親が説明するのを聞き終えてから、俺が指示を出す。
「タダシ、水無月買って来てくれへんか」
にわかに少年の瞳が輝き出した。十歳には一つ足りない小学四年。行きつけの和菓子店は家から自転車で五分ほど。小学校区内にあり、車の通りも少ない。少年の「仕事」としては打ってつけだ。もう「初めてのお買い物」という歳でもないだろう。
その日は雨が振りそうだった。ドアの向こうに広がる、低い雲に蓋をされた梅雨の空気はじっとりと湿ってはいたが、少年の使命感はその重さを軽々と吹き飛ばした。
「ほな、行ってくるわ!」
快活な声を残して、20インチの自転車が街へと駆け去った。
△ △ △ △
早く帰ってきなさいよ。と母の声。
寄り道したらあかんで。と父の声。
ペダルを踏み込む両脚に力が入る。
頬に当たる風がいつもより心地よかったのだろうか。少年は満面の笑みでアスファルトを進む。
ほどなくして和菓子店に付いた。
ガタガタガタ。店頭の自動ドアが重ねた年月を語るような音を立てて開いた。
ほどなくして、少年の笑顔は一瞬にしてガラガラと崩れ去った。
水無月は売り切れていた。
萌黄色のエプロンをした店の女性が、すまなさそうな顔をしていた。目尻に少し光を湛えたように見えたのは、少年の表情を鏡のように映していたからだろう。
「そうですか。ありがとう、ございました」
店員が声を掛けるよりも早く、少年はそう小さく言い残して自動ドアから駆け出していった。駅前の老舗にはガタガタという音だけが残された。
雨が降ってきた。
僕は、約束を守れなかった。
熱かった頬が空の涙に濡れそぼる。
仕方ない、帰ろう。
冷たくなった自転車のハンドルを握った。
その時。
ふと、思い出した。
この駅前のお店は和菓子を売っているだけだ。
そして、数百メートル先に本店があったはずだ。
少年は多量の水滴にも構わずサドルにまたがった。雨脚は強くなっている。それよりも強く、少年の両脚はペダルを踏み込む。雨粒が髪にぶつかり額を、顔を洗う。でも、涙なんか流している場合じゃない。もはや決死の形相を乗せた20インチが駆け抜けた。
だが、残念ながら水無月は本店も売り切れていた。
カウンターに並べられた色とりどりの和菓子の数々。しかし、肝心の水無月の姿が、ない。
「水無月、ありませんか……」
少年はうわごとのようにつぶやいた。
濡れそぼった少年の姿を見て、若い店主の男はまず驚いた。そして、すっかり火の消え去ってしまった灰色の頬と瞳に胸が締め付けられた。
「いや、ここにありますよ」
とっさの機転で、店主は背後の冷蔵庫から一箱の水無月を取り出した。
それは、彼が自らの家族とともに食べようと取っておいた最後の品だった。
少年の瞳と頬に再び灯がともった。ポケットから無造作に差し出された千円札を受け取り、釣り銭とともに水無月を手渡す。大事なものを抱えるようにして受け取った少年の両手は冷え切っていた。
「ちょっと待って……」
店主は少年の身体をタオルで優しく拭った後、傘を手渡した。
「傘はいいです。ありがとうございました」
御礼の言葉とともに飛び出した街は、すでに小雨となっていた。
△ △ △ △
「本店まで行ってな、残り一つやってんで!」
帰宅の直後、息子の口から語られる武勇伝。
雨の中、決してあきらめなかった姿の頼もしさ。
生乾きの頭の草原をタオルでごしごしと擦りながら、ちょっとだけ大人の季節へと足を踏み入れた我が子の成長をまぶしく感じた。
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三年後の今。
反抗期真っ盛りの少年は無言の季節を迎えた。水無月も一緒には食べない、という。仕方なしに俺はそのまま家を出て夜勤へと向かった。
帰宅した深夜3時。つまり、すでに夏越も祓われた七月一日の未明の台所のテーブルには、ラップに包まれた一切れの水無月が、ひっそりと置かれていた。
換気扇の音が低く響いている。心の奥底に溜まった澱も一緒に排出してほしいが、現実はそう甘くはない。麦焼酎パックのキャップを必要以上の力でつかんで回す。使い古されたマグカップに焼酎を数センチ注ぎ、氷を入れ、ザザザと水道水を注ぎ込む。
カラン。
十二分に湿度を保った梅雨時の室内に、乾ききった音が響く。切なさを打ち消そうと椅子にドカリと座り込む。直後に換気扇の重低音が空間を支配する。
テーブルの水無月は静かに鋭角を描いていた。
ため息の後、俺はグイと水無月をつかみあげた。
すると、一枚の白い紙が敷かれていることに気が付いた。
水無月と同じ形の三角形の紙だった。
そこには、鉛筆でしっかりとした文字が書かれていた。
父
さん
ぼくも
すきだよ
ありがとう
おサケは
控え目
にね
正
あの癖のある、あの見慣れた文字。鋭角よりも鋭く上昇した感情に、もはや目頭は制御を失った。感涙の土砂降りに濡れるまま、ぐいと焼酎の水割りを胃の腑に流し込んだ。
春から夏へ、区切りの祓。
幾年も幾年も、
季節は変わり人は新たな一歩を踏み出す。
水無月を鷲づかみ、遠慮なしにほおばる。
しっかりとした甘さを、心と身体で受け止める。
ああ、
今年の夏も、暑くなりそうだ。