エンド
飛べばすべてが終わる。落ちるんじゃない、飛び出すんだ。
前から目星をつけていた赤いビルの屋上に入るのは思いのほか簡単だった。エントランスをくぐりエレベーターで十七階まで昇り、さらに一階分の階段を上ると屋上のドアがある。幸い施錠もされておらず真奈美は迷わず屋上へ出た。
死にたいと思うことは度々あっても実際に死ぬことは出来なかった。この苦しみを誰かにわかって欲しくて毎日夜になるとリストカットをした。真奈美の左の腕には手首から肘の近くまで無数の傷跡が刻まれている。でもこの傷はSOSどころか真奈美に死を決意させる材料となってしまった。
淵の段差に上ろうとしたが強風に制服のスカートを巻き上げられ、一瞬足がすくんだ。しかし真奈美はすぐに思い直し段差に上がった。突風が吹いてバランスを崩したって関係ない、過程はどうであれどうせ死ぬんだから。
背後からドアが開く音が聞こえ、真奈美は体を震わせながら振り返った。そこには五十代くらいの男が立っていた。男は真奈美に目を向けたまま静かに扉を閉めた。
「君……」
「こ、来ないで!」
男は一度その足を止めたがまた一歩二歩と真奈美に向かってゆっくりと進んだ。
「来ないでって言ってんでしょ! それ以上近づいたら、と、飛ぶんだから」
取り乱した真奈美は男に背を向けて大空にそう叫ぶとようやく男は歩みを止めた。
「じゃあおじさんがここから動かなかったら君は自殺したりしないかい?」
男の薄くなった毛髪は風に揺れ、頼りなさそうな姿をより際立たせている。
「そこ、立ってみると思ってたより高いだろう。おじさんも一週間立ってみたからわかるんだ」
真奈美が男の言葉にゆっくり振り返ると、男は頭を掻きながら話を続けた。
「最近は景気が上向きだなんてよく聞くけどおじさんの会社は全然持ち直さなくてね、この年でリストラされちゃったんだ。三十年間ずっと会社のためにがんばったけど、ね」
一言ごとに男の頭が下がっていく。
「退職金が出たら奥さんに離婚届突きつけられて……あっさり離婚だよ。これまで守って来たつもりだったものが一気に無くなって、またこれから二十年とか生きるのがめんどうだなって思ったらそこに立ってたんだ」
真奈美は一度息を飲むと自分の立っている場所を確認した。
「君はどうしてそこに?」
真奈美は服の左腕の袖をまくり上げ、乾いた傷跡を見つめながら答えた。
「あたしは……友達とケンカしてから口きかなくなって、そしたらクラスのみんなにシカトされるようになってた。何となく手首切り始めたら気分は落ち着いたけど、この前クラスの子に傷跡みられちゃって……みんなが気持ち悪いってコソコソ話してるのが毎日毎日耳に入るの。もう、嫌なの。生きてく意味がわかんない」
さっき会ったばかりの見知らぬおじさんだが口に出して理由をはっきり言ってみると真奈美は妙に気が楽になった。今まで誰にも話せなかった、誰も気づいてくれなかったことだから。
「おじさんなんで飛ばなかったの。……怖くなった?」
「いや、あの日その場所に立ってからいろいろ考えたんだ。そしたら死ぬことよりもどうしてもやりたかったことが頭の中で強くなってきてさ。どうせ死ぬつもりなら最後に一個くらいやりたかったことをしてからでもいいんじゃないかって思い直したんだ。君にもあるんじゃないかな、一つくらい」
やりたいこと、真奈美は空を仰ぎながら思考を巡らせた。来月は苦労してチケットを取ったバンドのライブがある。本音で向き合える友達が欲しい。まだ誰とも付き合ったことないんだから彼氏だって欲しかった。そう言えば看護婦さんになりたいってずっと夢だったんだ。
一つ、また一つと浮かぶ希望が真奈美の中から溢れ、水滴となってこぼれた。
「君の悩みはいくらでも打破できる望みがある。今だけの環境のために君が命を絶つのは馬鹿馬鹿しいと思わないかい?」
男は顔にうっすらと笑みを浮かべてゆっくり真奈美に近づいた。
「もう気づいているだろう。君はもう死のうとしたことを後悔しているんだ。そんな涙を流しているようじゃ絶対に飛べないよ」
男がそう言い終わると突風が真奈美の体を外に押した。真奈美はキャッ、と小さな叫び声を上げてその場に座り込み、淵にしがみついた。駆け寄った男も体を支えて安堵の息を吐いた。
自分はまだ生きたい。自殺なんてしたくない。そう思うと真奈美は小さく声を出して泣いた。
青かった空はすっかりオレンジ色に染まっていた。男と真奈美はあれから数時間、他愛のない話をしていた。同じ場所から自殺をしようと思った同士だ。真奈美の高ぶった気持ちも次第に和らいだ。
「そろそろ行こうか」
男は淵に立ち上がり一つ伸びをして平地に降りた。真奈美も真似をするように淵に立ってグッと背筋を伸ばした。
「そう言えばおじさんのやりたいことって何なの?」
平地に静かに降りながら男の背中に尋ねた。振り返った男は笑顔だった。
「おじさんのやりたいことはね、」
「えっ」
男は外に向かった真奈美の両肩を力いっぱいに突いた。突然の衝撃にバランスを崩した真奈美。一歩引いた踵には淵のブロックがぶつかる。勢いを止められない上半身はそのまま後ろに倒れ込み、真奈美は信じられないと言った驚愕の表情のままビルから下へ墜ちた。
男は地上で広がる血の海を見下ろしながら、堪え切れない様子で笑った。
「おじさんはね、人を殺してみたかったんだ。誰でもいいから、ね」
読んでいただいてありがとうございました。
ある意味今っぽい話にしたつもりです。
近々改稿いたします(笑)