落とす男
その男はよく物を落とす人だった。
子供のころから鉛筆、消しゴム、上履き、体操着……
大人になって財布、携帯、ハンカチ、書類……
落とさなかった物はない、そう人に言われていた。
開き直って落とすのは当たり前だと男は思った。
男は楽天的な性格も幸いし開き直ってから日々楽しく生活していた。
そんなある日のことだ。
休日に男は日課である趣味の散歩をしていた。
平日の人のまばらな公園を歩いていた。
そしてベンチで缶コーヒーを飲みながらベンチで休憩する。
いつものことだ。
その男の前に一人の若い女が小走りに通り過ぎていく。
何となく通り過ぎる女を目で追っていく。
すると女が肩にかけていた鞄の紐からキーホルダーが落ちた。
ボーっと見ていた男だったが慌ててキーホルダーを拾い上げ女へと声をかける。
振り向いた女へ走ってきた男がキーホルダーを差し出す。
女はハッとした顔を見せたあと安心したように笑顔になった。
化粧っ気のない女だったくりんとした癖毛や小さな鼻が可愛らしい。
男はペコペコ礼を言ってくる女に何となく照れてしまってその場をそそくさと後にした。
帰り道、男は気分がよかった。
ひとつ。自分以外に物を落とす人間を初めて見たこと。
ふたつ。可愛らしい女性と話せたこと。
散歩道中に少額だけ入った小銭入れを落としたことも気にならなかった。
次の休日、男は少しだけ下心を持って散歩へ出かけた。
いつもの道を歩きいつものベンチで休憩していた。
またあの女に会えるような気がした。
男の予感は的中した。
女がまた現れてそして男に気付いた。
女もまた男を捜していた。
ふたりは公園のベンチで話し込んだ。
男は女の屈託のない笑顔に、女は男の楽しげな雰囲気に惹かれた。
やがてふたりは交際した。
ふたりの人生は順調だった。
男は相変わらず物はよく落としたがそれでも愛するものがいればそれで良いと幸せだった。
それでもやはり落としてばかりではいつまでも貧乏だ。
どうにかして落とさない対策を考えた。
そして絶対に落とさないカバンを作った。
まず身体にがっちりと固定して手から落とすことがない。
次にカバンを開けるには指紋認証と暗証番号を必要する鍵をつけた。
出すのに少々手間取るが男は物を落とすことはなくなった。
次第に普通の生活でも物を落とさなくなっていった。
そしてついに男は落とさないカバンをつけずとも生活できるようになった。
ふたりは結婚し子供にも恵まれた。
男は幸福だった。
自身の欠点である落とし癖も治り家族もできた。
これ以上は望むものはなかった。
ある日、男は久しぶりに物を落とした。
会社の機密事項だった。
男は責任を追及された。
まず懲戒免職、そして次に損害賠償だった。
会社を揺るがす情報だっただけにその額は莫大だ。
幸福だった男の人生は崖から落ちるように転落していった。
職を失い莫大な借金を背負った男はまず妻を説得して離婚した。
自分を幸福にしてくれた家族に不幸を与えたくなかった。
そしてがむしゃらに働いた。
一生かかっても返せそうにない借金は債務整理で大幅に減ったがそれでも多い。
家族にも一切会わず寝る以外の時間を全て勤労に使った。
借金の返済はもちろんのこと、今は疎遠した家族が十分に暮らしていける金も稼がなければならない。
病気を患っても病院には行かず男は気にせず働き続けた。
そんな生活を続けて十数年、ついに男は借金を完済した。
男の人生にはなにもなくなった。
家族もいない、働く目的もない。
男は燃え尽きていた。
男は何もない部屋で一人細々と暮らした。
部屋にあるのは唯一愛用していたカバン。
開けるだけでも一苦労の身体に固定する物だ。
カバンを撫でるたびに男は昔を思い出す。
長年会ってないせいで記憶は既に希薄だが幸福だった感情だけは覚えていた。
燃え尽きた男はだいぶ昔の趣味だった散歩を再開した。
随分通っていないが身体は道を覚えていた。
十数年の歳月で景色は大きく変わっていたが公園はまだあった。
少しだけ縮小されたが森林の綺麗な散歩道は変わっていない。
男はベンチを見つけると休憩した。
身体に固定したカバンから缶コーヒーを取り出すと一口飲んで一息ついた。
そんな男の前にふたりの女が通り過ぎた。
その一人、年老いた女が肩にかけていた鞄の紐からキーホルダーが落ちた。
落ちたのはボロボロのキーホルダー。
見覚えがあった。
何十年も前のこと同じようなことがあった。
男キーホルダーを拾い上げる。
それを見た男は何かが切れたようにボロボロ泣いた。
男は女へと声をかける。
振り返ったふたりの女は泣いている男の姿に驚いたが
年老いた女は男が身に付けていた固定するカバンを見て涙が込み上げてくるのを感じた。
そして年老いた女は男を抱きしめた。
いつまで泣いていたのかわからない。
公園が暗くなるころ、ようやく泣き止んだ男にふたりの女が寄り添っていた。
一人は年老いた女。
白髪まじりの髪に皺の多い顔は厳しい人生を生き抜いてきた証だ。
もう一人は若い女。
化粧っ気のない女だったくりんとした癖毛や小さな鼻が可愛らしい。
男は久しぶりに笑った。
笑うことは忘れていなかった。
その夜、男は幸福な食卓で食事を取った。
かつて当たり前だった日常が目の前にあった。
落とすことで手に入れた幸福だった。
そして未明、男は息を引き取った。
病気を患いながらなおも働き続けた身体はもう限界だった。
男の幸福は、またも落とすことで失われてしまったのだ。