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冬に聞こえる

作者: satuki

冬は好きだ。

全てが眠りにつく。

次の季節を待つために、生物の大半が眠りにつく。

その静けさが好きなのだ。

あらゆる生物が活気づいて声を上げているより、眠りついている方が、その生命の息づく音を感じられるのだ。

雪を踏む音がこちらに近付いてくる。サクサクサクと小気味よく雪が砕ける音は、その人がその命を奪っているかのような錯覚に陥る。

彼女は門の前で待っている僕の前に来て、あいさつ代わりのキスをした。

彼女が門に手をかけてスライドさせている様子は、僕の心の壁をどかす一連の作業に似ている。そっと伸ばしてくる白玉色の手を、割れ物を扱うようにそっと包んだ。少し痩せすぎているように感じる頼りのない体つきの彼女は、いつもどこか力の抜けた目をしている。抜けているとか、足りないとか、ひどい噂を耳にすることもある。それは確かに僕も感じるときはあるけれど、返ってその方が力が入らなくて楽なのだ。

好きな人の前で気張るのも大切だけど、たまには力を抜いている時間も必要だと思う。

彼女は朝日。僕にとってそうであるのではなく、彼女の名前が朝日なのだ。

「簡単で覚えやすいでしょう?」

のんびりとした口調で彼女は言った。簡単な自分によく似合っていると。

部屋に入ると、朝日は体を密着させてきた。

いやらしい足の絡ませ方や、抱きつき方を覚えたのはいつだったか、もう思い出せない。

「この時が一番落ち着く…」

親の体にさばりつく猿のイメージが脳裏をよぎる。きっと彼らもこの気持ちを知っているのだろう。心臓の鼓動する音が互いにだけ聞こえ、服を脱げば体温を感じられる。言葉よりも正確な自己表現だと思う。

目や表情も、見ていて分かることは多い。でも、体と体が引っ付いている時が一番分かりやすい。どちらにしろ、言葉を用いらないということは共通している。

口から出るものほど汚いものはない。嘘を付きたくない連中もいるけれど、全く嘘を付かない連中もいない。必要な嘘だってあるし、付いちゃいけない嘘だってある。それらをいつどのように使うのかは、個々人の判断にゆだねるしかない。でも、嘘ばかりを付いていると、その内どれが本当で、どれが嘘だったのかすら分からなくなる。だからそういう時は、言葉をひねり出すなんてしてはいけない。

目を見て、顔を見て、体を引っ付けるのだ。そうすれば分かることも増えてくる。

「私が今したいこと、分かる…?」

吐息混じりの甘い声が耳に届く。ほんのり紅潮した顔が、訴えかけてる。心音が早くなり、体が火照ったように熱くなっている。

「したいの…?」

「それを女の口から言わせる?」

いたずらをする子供のように、彼女は意地悪そうな顔をして微笑んだ。

人は突っつきあう生き物だ。誰をみてもどれを見ても、絡まないという過程をすっとばして仲良くはならない。そういう意味では僕らのこの関係も、それらの過程を踏んでいたのかもしれないと思う。

劇的でダイレクトな攻撃はしなかったが、陰険で地味な攻撃を、互いに仕掛けていたように思う。それで今は、客観的には爛れた関係に見えるまでには距離を縮められた。それがいいことなのかどうかは他人の判断に任せてしまえばいい。多少なりともこちらに影響は出るだろうけれど、他人に媚びを売るような態度が、朝日は大嫌いなのだ。お高く止まっているとは思うけれど、コウモリだとか風見鶏だなんて言われるよりもずっといいと思っているだろう。

でも、僕は、そういう手段を取ることの出来る人の方が、今の世の中、上手く渡っていけるのかもしれないと、最近では思うようになってきている。

僕は以前はもっと社交的な人間だった。子供の頃は、友達が沢山いた記憶が、ぼんやり霞みがかかるように残っている。でも、どういうわけか、どこかの段階で、友達が自分を裏切ったと思うような事態に陥ったり、逆に僕自身が友達との関係を壊してみたいと思ったこともあった。そういう傲慢なことを願えるほど、当時の僕には友達がいたと思う。退屈な毎日に飽き飽きしていて、決まり切った日常を、少し崩してみようかなと思っていた。そして気が付けば、孤立していた。その時、気が付いた。当たり前のことを当たり前のように続けていける忍耐力がある人間が、一番偉いのだと。

誰にでも優しいというのは、裏を返せば意志がない、弱い、無責任なんて言葉が次々出てくる。それを気にしない輩は、手当たり次第に優しい態度を取って痛い目にあったことがないのだろう。生きていれば、一度は必ず、否が応でも向き合わされる現実だ。

僕はそれ以来、他人と一緒にいて落ち着いていられないし、そもそも何を話せばいいのか分からなくなってしまった。だからいつも黙っている。事となりを見て、黙っている。他人がいると、何か話さないといけないのではないかという変な緊張感があって、嫌なプレッシャーを感じてしまう。

朝日もその類の人間だ。彼女と会った初日に言われた言葉は今でも忘れられない。

『気持ち悪いよね…』

自分の外見に自信なんかなかったから、唐突に話を振られた時は、少し身構えてしまったけれど、後々、それが違うことが分かってきた。彼女は群れるのが気持ち悪いと言ったのだそうだ。これは彼女と話すようになってから、その時のことを話題に出したところ、淡々と答えてくれた。

『君が外見に自信がないように、私だって自分の顔に自信なんかないわよ』

気後れすることもなく、朝日は言った。彼女は女性としては珍しく、大なり小なり、女性同士の仲間というのは作らない主義らしい。その理由は、サークルみたいなコミュニティーを作って、仲良くしているかと思えば、影では罵りあっている。しかもそれは、身内のコミュニティーですらあるのだという。

それが気持ち悪いと彼女は言っていたのだ。

『なんであんなことをするのかな?』

僕のボヤいた言葉に彼女は即答した。

『そんなの一生分からないわ』


**


あの時の言葉を思い出す。

仰向けに寝転んだ彼女に被さるように上に乗り、顔の左右に、両手を伸ばして見下ろしていた時そっと彼女に言う。

「僕には分かるよ…」

彼女の目つきが険悪なものになった。まるで苦虫をかみつぶした時のように、嫌悪感をむき出しにしていた。僕といるときにはあまり見ない表情だったから、僕は少し身構えてしまった。

彼女の眼が言っている。

――あんたもあんな連中と同じなのか――

それでも僕は、もう一度声に出した。

「僕には分かるよ」

ドンッと上に被さっていた僕を突き飛ばして、朝日は言葉を紡いだ。これ以上ないくらい、嫌な言い方で。

「何が?」

何を言われているのか、きっと彼女には分かっていたに違いない。

「皆、不安なんじゃないかな。いつ誰に攻撃されるか分からないし、一人だと寂しいだろ?

 誰だって自分が一番かわいいんだよ。その為のシールドとして、人間関係を築くんだ。子供の頃は、そのシールドを両親がしてくれていたけれど、大人になっていくと、自分のことは自分でしなくちゃいけなくなる。面倒だけど、落ち着いて暮らすには、多少の煩わしさが必要になってくるんじゃないかな」

「私は誰にも守ってもらえなかった。仲良くなっても、誰も…」

「それは君がそう思っているだけか、そういう人が寄ってくる質だっただけだよ」

「どうして?どうして、私には守ってくれる人が寄ってこないの!?

 私がどんなに苦しかったか、どれだけ寂しかったか、誰にも分かってもらえなかった…」

「それが『普通』なんじゃないかな?」

朝日の顔が青ざめて、本当に気分が悪い顔をしていた。

「僕らは当たり前にしなきゃいけないことを投げ出したんだ。逃げたんだよ。嫌なことから目を背けて、楽な生活を選んだんだ」

「うるさい!!黙れ!!」

耳を塞いで俯いてしまった朝日の過去に、一体何があったのかは分からない。

けれど、自分のことを理解してくれる人なんか、結局のところはいないし、自分を最終的に守れるのは、自分だけなんだ。他人に押し付けたり、他人に期待してはいけないことなんだ。

「自分のことを思いやって大切に出来るのは、自分だけなんだよ?」

ブツブツと念仏のように何かを唱えている彼女が、とても脆く見えた。

その腕を取ろうとすると、払いのけられしまう。

そっと彼女の顔を包み込むように両手で覆うと、その頬に涙が流れていた。

「助けてよ…」

その一言のために、彼女は僕に近寄ってきたのかもしれない。それでも、僕は嬉しかったから、今も彼女と一緒にいる。

「それは君の問題だよ。最後に自分を助けてあげられるのは自分だけだ。」

「助けて…」

大粒の涙が彼女の頬を濡らしていく。

握っていた腕をよく見ると、自傷行為の後が、今もまざまざと残っていた。最近切った後も、何箇所かある。深くはないが、白玉色の肌に乗せられた、薄紅色の線は、妙に痛々しく感じられる。彼女の叫び声が、そこに残っている。

「手助けはしてあげられるけれど、最後は自分の力で立ち上がらないとダメだ。

 言っている意味は分かるね?」

うなり声を上げてその場にへたり込んでしまった彼女に、かけてあげられる言葉はもうあまりない。

「とりあえず、寝た方がいい。」

軽すぎる。彼女の上半身は、両脇に手を通して持ち上げると、容易く腰が浮いた。最後に折れたままの足をベッドに乗せると、その上から布団をかけた。まるで、マネキンをベッドに寝かせているような気がするくらい、今の彼女はボロボロだった。

泣いている顔を見せたくないのだろう。すぐに僕の視線の死角になる方向へ顔を隠してしまった。子供のようで、そして当時の自分を見ているようでもあった。

「寝付くまで、一緒にいようか?」

「優しいね…」

鼻水まじりの声で彼女は呟いた。

「ならざるをえなかったからなったんだよ。それって優しいっていうのかな?」

今、こうして彼女に気を使っている僕も、優しい自分を演じているだけかもしれない。彼女に好きでいてもらうために、わざと好感を持たせようとしているのかもしれない。

「優しいよ…」

それでも、彼女はそれを肯定した。僕が単に気を遣いすぎるだけなのかもしれないのに、今の自分を見捨てないでいてくれていると思えるのかもしれない。


―ありがとう―


その言葉の後、しばらくしてから、彼女の寝息が静かに聞こえてきた。

その場の床に腰を下ろして口にしてみた。

「ありがとう…」

息絶えていくように、深い眠りに落ちていく。どうかこれが夢であれば、なんと心地いい時間だろう。

視線を落として、自分の左手首を見る。そこには彼女のものと似た傷跡が、粛然としてそこにあり、叫びたかった感情がその時の気持ちのまま形として残っていた。

僕と彼女は非常に似ている。僕がそう思っているだけかもしれないけど、この傷を付ける時の、焦り、不安、恐怖、そしてまだ自分が生きているという実感だけは、きっと彼女も経験したはずだから。でも、僕は彼女ではない。一緒にいて、手を繋いであげられる時間が長くても、僕は彼女になれないし、彼女も僕のことは理解できない。

それでも一緒にいたいのは、お互いが寂しがり屋だからだろう。

学校では一人きりでいて、誰とも会話もしないし、勿論、遊びに行くような友達なんか一人もいない。それを当然のように装っていられるのは、生き意地汚い人間の関係に疲れてしまったからだろう。だから、そういう時、誰か一人でも、自分を隠さずにいられる人がいれば、そこで少しだけ休んでいけばいい。

罵りあっても、貶しあっても、褒めあっても、泣き喚いても、それで疲れがとれるなら、僕は彼女のそばにいたい。


**


朝日が起きたのは、なんと次の日の夕方だった。熟睡とかいうレベルではない。完全に気絶モノの睡眠時間だ。

起きてから彼女がまずしたことは、おはようのキスでもなければ、慌てて化粧を直すことでもなかった。彼女は勝手に僕の部屋の冷蔵庫を開けて、缶ビールを一気に喉に通した。客観的に見て、もう完全にアル中のおっさんだ。

その間、僕は茫然と彼女の行動を見ていたわけだけれど、彼女は気にも止めず、一直線にそこに向かったのだった。僕の部屋なのに…。

「君も飲む?」

僕の部屋だぞ!!

なんだか昨日のセンチメンタルを返してほしくなった。

「今日は大学が休みなの」

理由になっていない。大学が休みだと、君は僕の部屋で、朝一番に缶ビールを開ける女なのか?

ただ、昨日の崩れるような泣き方をしたせいか、まぶたは腫れぼったくなっているし、化粧も殆ど落ちている。玄関を開けるときにも気が付いていたが、彼女の肌は本当に白い。白玉色というよりも、若干青白くも見える。きっと血圧が低いんだろう。

「これからどうするの?」

一応、朝日は僕の彼女なわけだけれど、特に理由もなく僕の家を訪ねてくることは、度々あることなので、そのまま自分の家に帰るものだと考えていた。

彼女の家は、自転車で三十分ほどの田舎にある。僕の家も十分田舎なのだが、ベッドタウンと噂されるような、中途半端に便利な所にある。駅は徒歩五分でいけるし、アパート、マンション、スーパー等、一応、生活を送るために必要なものが全部そろう。

しかし、朝日の家の周りは、一面田んぼだ。このことからも、僕の住んでいるベッドタウンが、いかに小さなエリアを指しているかは容易に想像が付くだろう。当然、車なんて近代的な乗り物も殆ど必要なく、何のアイデンティティーにもならない。しかしどういうわけか、交通量はそこそこある。スーパーの駐車場は割合広いし、そこに止めている車も、毎日のようにほぼ埋まっている。対して、朝日の家は、民家はちらほらあるが、スーパーがない。近くのスーパーはどこも自転車で往復するには不便だし、他の駅と、僕の住んでいる町の、丁度中間辺りに位置しているので、どっちへ行こうが、かかる手間は同じなのだ。

「家に帰るのは億劫だわ…」

多分、寝すぎたせいで、体がダルいんだろう。それに外は一面の雪景色だ。申し訳程度にある田んぼが、白く染まっている。きっと風も冷たいだろう。アスファルトは滑るだろうし、そんな中を自転車をこいで帰らせるのも心配といえば心配だ。

「もう少し寝るわ」

冬眠だ。完全に冬眠の準備をしている。しかも僕の家の中で。缶ビール一本分のエネルギーで冬眠したら死んでしまうだろう。

僕は彼女の布団をはぎとり、空気の入れ替えをした。僕の吸っているタバコのせいで、空気が淀んでしまっていたからだ。朝日はこの匂いが好きだというが、僕以外タバコを吸う家族がいないので、かなり煙たがられている。

「ほら、起きて起きて」

朝日の脇に手を通して、向い合せに体を起こす。腫れぼったい瞼以外は真っ白で、視線は完全に僕の顔を捉えていた。かなり機嫌が悪そうだが、自分の家のように僕の部屋に居座り続けられたら、家族が不振に思うだろう。

「あんまり顔を見ないで」

朝日は眠たいのか、機嫌が悪いのか、それともその両方なのか分からない目つきで睨んでいる。

「起きたばかりだから、血圧が低いのよ。体もダルいし、何も食べたくないわ」

病人のようなことをいう彼女を、一応ベッドの上に座らせて、僕はコーヒーを入れに行くことにした。

特別、朝日に出て行ってもらいたいわけではないのだが、さすがに何の連絡もなく家に帰らなかったら、彼女の親だって心配するだろう。

彼女は割合体が弱い方だ。冬は風邪を一回はひくし、夏場は日向に長くいられない。春か秋が一番体調が良いのだが、その季節には大抵惰眠をむさぼっている。何もやる気が起きなくなるらしい。つまり、通年通して、彼女が活発に行動する時期というのは、殆どない。

最近では、こういう女性を『干物系女子』というみたいだが、彼女はその典型だ。しかし、干物系女子は昔からいただろうし、今、そういう女性に視点があっているのは、おそらくただの流行りだ。ブームが過ぎたら、ただのやる気のない女性として認知されるようになるだろう。

こういう、『○○系女子』とか『○○系男子』という、一種の流行りみたいなものは、どうにかならないだろうか。たとえば、『干物系女子』だって、流行りが過ぎれば、ただのだらしない女の子だ。流行り廃りに流されていると、生活も不規則になるし、付き合っている異性から見れば、「結局、この子はどういう子なのだろう?」ということになるじゃないか。

こういう無駄な思考をしている内に、お湯が沸騰した。インスタントのコーヒーを入れて、彼女のところに戻ると、化粧は直っていた。腫れぼったい瞼も目立たなくなっていたし、顔つきもだらしなくない。

空気の入れ替えをしたせいか、部屋の気温はひどく下がっているようだ。窓もいつの間にか閉めてあった。きっと目が覚めた彼女が、耐えられなくなって閉めたのだろう。

マグカップを手渡すと、朝日はそれを両手で包みこむように持った。手を温めているのだろう。渡す時に少しだけ触れた彼女の手が、ひどく冷たかった。

「ねぇ…」

コーヒーを飲むよりも、手を温めるカイロがわりにしながら、彼女はボソリと声をかけてきた。

「お腹すいた?簡単なものなら作れるけど」

「君はどうやって優しくなったの?」

僕はバツが悪そうに額をかくと、「別に優しいわけじゃない」と一言添えた。

「きっと僕はまだ逃げてるんだ。人ってさ、簡単に喧嘩するじゃない?怒鳴りあったり、男同士だったら、殴りあったり。そういうのが嫌なんだよ。痛いのは嫌だし、気分だって良くないだろ?

 こう見えても、僕は子供の頃は癇癪持ちでね。些細なことで頭にきて、人を殴ったり、喧嘩したりで、よく母親に迷惑をかけてた。その繰り返しで、学校での生活は散々だった。

 話は変わるけど、外国のある映画の紹介で、『人はぶつかり合って、分かりあっていく』言うナレーションが入るんだ。一応、借りて見てみたんだけど、その映画のテーマは、人間同士のぶつかり合いっていうよりも、どちらかというと、黒人差別について取り上げた映画だった。」

僕は視線を落したまま、マグカップの中に溜まっているコーヒーを見ていた。自分のことを話すのは苦手だったから、こういう話をするのは、家族か彼女くらいだ。

「結局、最後には、白人の警官に、黒人の男性が撃たれて、その男性が、ある黒人警官の家族だったんだ。」

自分の手の冷たさで、適温になったのか、少しずつ彼女がコーヒーを啜る音が聞こえる。僕の視線は、まだコーヒーカップに向いていた。

「それを見て思ったのが、結局分かりあえないってことだけだった。自分の思いこみや意見を他人に押し付けて、自分が正しいんだって主張することのどこに、何の意味があるのか分からなかった。どうして、ぶつかり合う必要があるのか、どうして戦うことが前提にあるのか、僕には今でも理解できないんだ」

「君は、私と喧嘩してて何も得られていないって思うの?」

「ぶつかり合う相手が違うよ。君はそこら辺を歩いている人に因縁を付けられて喧嘩することと、交際している異性との喧嘩を同じものだと思ってるの?」

「戦わないよりは好き」

「僕は穏やかに生きていたいだけだよ。誰にも迷惑をかけないように、静かに慎ましく生きたいんだ」

彼女はここで、今日初めて笑顔を作った。でも、その笑顔は皮肉めいた笑顔で、決して好感の持てるものではなかった。

「生きるってことは、誰かから何かを搾取して得られるものでしょう?お金だって、食べものだって、着るものだって、価値のあるものを、利益を見越して得るでしょう?誰にも迷惑をかけない暮らしなんてどこにもない。

ささやかな幸せさえあればいいって言ってるように聞こえたけれど、その幸せも、誰かから搾取した幸せで、どこかで誰かが不幸になってることに変わりはないわ。

生きていくってことは、誰かを不幸にするのよ。戦うっていうのは、何も殴りあうだけじゃない。社会と戦うという見方も出来るでしょう?生きるために、誰かが不幸になっても、自分のために戦うのよ。この社会はエゴで出来ているって、どこかの本で読んだことがあるわ」

早口でそういうと、彼女はゆっくりと立ち上がって、僕の前に歩いてきた。僕は椅子に座っていたから、彼女がどんな表情をして、自分を見下ろしているのか分からなかった。それが余計に僕を不安にさせた。

ふと、ひんやりした彼女の右手が、僕の左頬に触れた。優しい触り方だった。まるで壊れ物に触れるみたいに、撫でるように触れてきた。

「君はまだ、上手い戦い方を知らないだけなのよ。極端な話、卑怯でも、卑劣でもいい。手を上げることだけが戦い方じゃない。何も得られないから戦わないっていうのは、『自分は何もしないから、君たちも手を出さないでくれ』っていう君のエゴじゃない」

「頭では分かってるよ…。そんなこと、言われなくても」

「今の会話は、何も得られなかった?」

「これは喧嘩だったの?」

ふと頭を上げると、彼女は微笑んでいた。そして、僕の頭をくしゃくしゃとかきまぜるように撫でると、「私は頭にきてた」と、耳元で囁いてきた。

「昨日のお返し」

意味が分からなくて、僕は再びベッドに戻った彼女を眼で追った。

「君ははっきり言ったでしょ?『自分を助けられるのは、最後は自分だけなんだ』って」

ああ…、僕自身、はっきり言ってしまっているじゃないか。遠まわしだけど、僕は彼女に『戦え』と焚きつけてしまっていたのだ。


**


そのあと、コーヒーを飲んでいる内に、彼女の頭がさえてきたので、一度、自宅に連絡を入れることにしたらしい。何やら口論になっていたみたいだが、その理由はあえて聞かないでいた。

彼女が電話をしている間、僕はさっきまでの会話を反芻していた。

僕は分かっていることが多い割に、現実に直面すると、どうしても考えた通りの思いは沸いてこなくなる。

結局、僕には経験値が足りないのだ。例えるなら、頭でっかちの人形みたいだ。頭(理解していること)と、体(経験)のバランスが悪いのだ。考えてばかりではいけないんだな、と納得した。

彼女の電話が終わり、少しむくれ面の顔のまま、またベッドに腰掛けた。

「十五分くらいで迎えに来るってさ」

「怒られたみたいだね」

「別にいいじゃん。彼氏の部屋で一晩くらい…」

「いや、不安にさせるから、せめて連絡は早めにしとこう?」

すると、彼女は枕を掴んで僕に向かって投げつけてきた。

「母さんと同じこと言わないでよ!!」

彼女は生物学的に見て、どこからどう見ても年頃の女の子だし、両親だってそりゃ心配するだろう。ましてや、泊った家が友達ならともかく、異性の家だなんてなったら、大騒ぎだ。

彼女は自分が体の弱い(ついでに線の細い)女性であることをしっかり知ってもらわないといけないかもしれない。

僕だって健全な男性だ。昨日のようなことがなければ、自信なんてない。曲がりなりにも付き合っているんだ。することだって、いずれすることになるんだろうから、危機感くらいは持っていてほしい。


**


これは、ただの付き合っている男女の雑談話。生きていれば誰もが抱えるトラウマや心の傷に触れるだけの、少し痛いだけの物語。精神的に若干弱めの男女の痴話喧嘩。

冬に聞こえただけの、二人だけの会話である。

(終わり)



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