科学の暴走を止めるには自然哲学の確立しかない、(私の自然哲学)
自然哲学?
そうです、今ではあまりなじみのない「哲学」の分野ですよね?
でも昔は、、というか
そもそも哲学の始まりは、、
この自然、、世界、、宇宙をどう説明するか。
から、、始まったんですよ。
古代ギリシャの最初期の哲学者たちは、
世界最初の哲学者と言われるのがミレトスのターレスです。
かれはこの世界は何からできてるのか?
と、考えて、万物の根源(世界を構築している根本)は「水」だと考えたのです。
なぜ水なのか?水はどのようにも形を変えてなんにでもなるからだと
彼は、思ったようです。(詳しい理由は不明です)
のちのエンペドクレスは万物の根源は
火・水・空気。土の4元素から構成されると、唱えています。
このような古代ギリシャに芽生えた自然哲学は数学や物理学とともに
発展していきました。
古代ギリシャでは哲学者は、科学者であり哲学者でもあったのです。
たとえがピタゴラスの定理で有名な、ピタゴラスは哲学者としては、
実に美しい哲学を打ち立てたのです。
宇宙は音楽の諧調で運行し、星々はその特有の音楽を奏でる、、というのです。
その根本は数である、つまり宇宙は数学的な秩序で運行しているというのである。
これって今でも正論?ですよね。
このように古代では、数学も天文学も、哲学も、音楽も、みんな総合的に
とらえられていたんですね。
現代の様にみんな分離してばらばらで、総合できないという悲しさ?はなかったのです。
星々が音楽を奏でてるってなんて素敵じゃないですか?
今の天文学のコンピュータの数字びっしりでは、こういう夢は皆無ですものね。
さてこういう古代ギリシャの自然哲学の大成者が「アリストテレス」です。
詳しくは
世界の名著9 ギリシアの科学「アリストテレスの自然学」(藤沢令夫訳) をお読みください。
古代の自然哲学の金字塔がここにあります。
しかし、、その後、、ヨーロッパは、キリスト教の神だけが称揚されて
天文学も物理学も医学も、すっかり退化してしまったことはご存知の通りです。
中世ではむしろアリストテレスなどの自然学を受け入れていた「アラビア世界の方が
ヨーロッパよりミずっと進んでいたという事実ですね、
キリスト教の弊害?と言って過言ではないでしょう。
ガリレオが「それでも地球は動く」というまで、ずっと愚かな。天動説だったわけでですからね。
アレクサンドリアの、当時の世界最大の図書館を焼き討ちして、古代の貴重な蔵書をすべて焼き尽くしたのもキリスト教徒たちですよ。この図書館には異端派の本がある。キリストの教えに反した本がある、、というのがその理由です。こうして古代の知識の詰まった蔵書がすべて失われたのもキリスト教徒の不寛容、異端排斥のせいだったのです。この態度が後々の、宗教裁判や魔女狩り、異端審問という世紀の
蛮行、、愚行に、道を開くことになるのです。
これらのすべてがキリスト教の犯罪?なのです。
この様に宗教というのはキリスト教に限りませんが、偏狭で不寛容で異端排斥でこういう蛮行を繰り広げざるを得ないのがその本性なんですよ。これが、宗教の怖さですね。
さてこうしてヨーロッパでは自然哲学も、天文学も、物理学も、医学も、すべたキリスト教のために
押しひしげられ、歪曲されて、退化してしまったのですが、
自然哲学がやっと息を吹き返したのが、、デカルトあたりからですね、
彼の「哲学原理」はまさに「自然哲学」の復興そのものだからです、
この本で論じられているのは
第2部、物質的な事物の原理について
第3部 目に見える世界について
第4部、地球について
という項目を見ただけでもわかるように「自然哲学」そのものだからです。
デカルトはこの本で世界を説明するというあの、古代ギリシャ以来の、
哲学の王道に回帰しているのです。。世界の説明(解明)もできなくてなんの哲学の存在意義がありましょうや。
こうしてデカルトに限らず、ガリレオ。ティコブラーエ。ケプラー、ジョルダーノブルーノなどにより、
自然科学も復興してきたのです、決定的だったのがフランス革命でしょう、これ以後、キリスト教の桎梏も緩み、ある程度自由に科学研究できるようになったのですから。
そうして例えばニュートンの「プリンキピア」などという画期的な数学所も刊行されてニュートン力学が確立したというわけですね。
まあ、しかしその後自然科学は細分化してしまい、
枝分かれしてもはや総括的に科学をまとめ論じ総合させるということができなくなったのは人間にとっての最大不幸でしょうね。
化学はひとえに、真理真実追及だけを求めて、、その真実がもしかしたら?人類を滅ぼすものであっても、研究するという、恐ろしいことになっていってしまったことは皆さんもご存じのとおりですよね。
科学的真理が、果たして人類にとって、滅亡の序曲になってシムかもしれないという今やそういう分岐点にまで来てしまった。それが科学の現在でしょう。
具体例では
原子爆弾
クローン人間
遺伝子操作
サリンなどの毒ガス
果たしてこんなものが人類にとって何になるというのか?
滅亡への序曲でしかないじゃないか。
これからこういうものを上回るような危険物質が発明されるかもしれない、
仁丹粒くらいで、世界を破壊できるような物質が発明されるかもしれない、
これは決してSF小説だけの空想でなんかないですよ。
明日にも実現するかもしれないというほど今の科学は進化失恋です。
こういう野放しの科学について総合的に総括して人類的な視点から
論ずるのが、自然哲学なのです。科学哲学とも言います。
だが現代科学はあまりにも分化しつくして、もはやそういう細分化した科学を総合的に
総合できるのは不可能ともいえるのでしょう。
自然哲学が個々の科学の進歩に、追いつけなくなってしまった?
本来なら自然哲学が個々の科学の上位概念を形成して科学を総括して
科学を人類のしもべたらしむべきなのですが、今の現状は個々の科学がかってに進歩して
のばなし状態で、、人類滅亡兵器や究極の世界破壊兵器を研究しているという危険さの中に置かれているということなのです。
かくして今や化学は自由に人類抹殺物質を研究もできるし。
人間の複製をつくる研究も野放しです。
ある日、、あなたとそっくりなクローン人間が来て、あなたを抹殺してあなたになりかわるなんてSF小説張りの事件が起こるのかもしれない。これも今や夢物語ではないのです。
この様に科学の野放しは非常に危険レベルまで来てるのです。
昔は、、、科学の進歩は、万々歳でしたが、、
今はもしかしたら?科学の進歩は人類を破滅させるかもしれない、、という瀬戸際にまで来てるという恐ろしい事実ですね。科学の進歩が神ルにの生存にとってかえって邪悪であり、不要だということさえいえるのです。
こういう、困った時代に突入しているのですね、それが科学の今です。
今から100年前、科学の進歩は即人類の幸せという方程式でしたが
今では科学の進歩はむしろ人類の滅亡への序曲かもしれない、、という風に激変してしまったのです。
ですから今こそ
科学を論じ統括して総合的に科学とはそもそも人類にとって、吉なのか?
凶なのか?
と言う見極めをするような
「自然哲学」が必要なのであろう。
だが、、その機運も
やろうという哲学者も
まだ出てきてはいない。
でも誰かがやらなければ、、人類はおのずから生み出した科学の魔物によって
滅亡しましたとさ、、、という伝説(神話)になって滅び去るしかないのであろうから。
科学の真理は、必ずしも、人間にとって、「よいことずくめ」ではないのだから。
邪悪な科学研究は歯止めをかけなければ、、人類が滅んでしまう。
仁丹粒一個くらいで世界を破壊できる物質が発明されたら?
そんな研究は悪魔の発明でしかないということです。
それを持った人が世界を支配して独裁者になれるのですからね。
あるいはすごい感染力の、、すごい毒性の新型病原菌を発見したら?
これをばらまけば、、世界はあっという間にパンデミックですよ。
数週間で世界人口は半減でしょうね。
「科学のために人類が滅亡してもよいのか?」
「人類を滅ぼすような科学的真理でも自由なのか?」
科学のために人類が滅亡してもよいのか?」
「人類を滅ぼすような科学的真理でも自由なのか?」
「人類を滅ぼすようなん科学はいらない」
こういう厳しい現実が今の科学の実態なのです。
この危機を超克できるような「自然哲学」の構築こそ喫緊の哲学的な課題でしょうね。
確かに科学そのものは、、別に人類のためにだけに存在してるわけではありません。
宇宙の真理はむしろ人類の存続に対して冷酷です。
宇宙の大きな流れの中では人類の存続など、どうでもいいことなのです。
だが、、人類にとっては大問題、
存続できないような科学的真理が
人類を滅ぼすような科学が許されたら、、オシマイですからね。
ここが科学の真理とのジレンマ?です。
その命題はこういい現わさられるでしょう。
「真理のために、人類が抹殺されてもいいのだろうか?」
これからの自然哲学の命題もまさにその所に集約されるでしょう。
科学的真理が、、もしも、、人類に死刑宣告したら?
そのとき人類はたとえそれが科学的真理であろうとも
ノーと言えるのか?
いや、
ノーというべきなのか
あるいは
それが科学的真理ならば
甘んじて人類は滅亡
抹殺されてもかまいません。
というべきなのか?
科学哲学(科学についての哲学)のパラドックスであり
永遠の命題でしょうね。
人類を滅ぼすような科学的真理でも
人類は受け入れるしかないのか?
それともそんな科学的真理を
断固拒否して
捨て去るべきなのか。
科学にそもそもが、
善も悪もないのですから科学的真理はまさにそうあるという冷厳なる事実ですから。
その科学的真理の善悪判断は人がするしかないわけです。
価値判断を、科学自体ができるわけがない、
その科学の善悪判断は人がなすべきことである。
これからの自然哲学のカテゴリーがまさにそこにあるのです。
「モラル(人類愛・道徳)無き科学研究は、ただ悪魔の発明をもたらすだけ」
これが今現在の科学おかれた、瀬戸際の真相なのです。
極端な話、人類が絶滅してしまったら?
科学の進歩も
科学の真理も
宇宙の真理も
もう何の意味も持たないでしょう?
人間があっての上での科学であり
人間が先で、、そのあとに科学の真理、、でしょう。
そういう意味では科学は人間のしもべでなければならないということです。
人間が科学のしもべになって、、科学の魔物によって滅亡してしまった、、なんてことがないように
くれぐれも科学の暴走には、手綱を緩めてはならないのであろう、
遠い未来の地球で、、
高層建築が見上げるばかりに聳えた世界で、
しかし、、どこを見回しても人間の姿はなくて
その代わりに、精巧なロボットたちが
かいがいしく動き回ってその人類滅亡後の世界を
維持管理している、、なんて
空恐ろしい光景が決して来ないように、、
くれぐれも今こそ心して科学の悪魔を
封じ込めなければならないのだ。
おまけ
実は私が自然哲学(科学哲学)に目覚めたのは
田辺元の
「科学概論」と「最近の自然科学」という古い哲学書からでした。
この2冊の本はともに昭和初期の刊行ですからそうと古い本になります。、
田辺元という人はいわゆる京都学派で戦前の大哲学者でした。
神田の古本屋で今から40年くらい前に私が某大学の哲学徒だったころに
店頭にたなざらしになってるのを見つけて買ったものです。
確か、一冊100円?
でも内容は相当深くてのめりこんで読んだ記憶がありますね。
この2冊の本はその後の、私の、浮世の流浪生活で何回目かの引っ越しの時にどっかに紛失してしまいしたがね。もういちど読んでみたい、、、そんな本でした。
それからも一人私に自然哲学の意義を教えてくれたのが
石原純、、という哲学者でした。今ではすっかり忘れ去られた哲学者ですよね。
この人の「相対性原理」という解説本でしたね。1921年刊行の古い本です。
これも神田の古い本屋で見つけました。たなざらしで確か100円?
これで相対性原理の概要を理解したのでした。
ほかには、、「現代の自然科学」 岩波書店 1924(通俗科学叢書 第2編)という本ものめり込んで読んだものでしたね。
まあいずれにしても古い本ばかりですよね。この2冊の本もその後の流浪生活で、いまは行方不明です。
それにしてもこれらの本は若い哲学徒だった私に
自然哲学なるものの存在意義を教え、かつ、
決定的な影響を当ててくれた本であることは間違いありませんでしたね。
懐かしい、もう一度読んでみたい。