夏の終わり
野球を始めたのは九つの時だった。親友に誘われ、ルールもよく知らないままボールを握った。当時運動不足だった俺にとっては練習一つでも辛く厳しいものだったのだが、それ以上に楽しいという単純な気持ちが強く心に芽生えた。
それから十年。
全国高校野球選手権大会決勝。俺は今、その舞台に立っている。
甲子園のマウンドの湿った土を足で均して踏み締め前を見据えると、そこには逞しくなった親友の姿と、ミットを構える捕手の姿があった。
晴れやかな舞台だっていうのに、雨が降るなんてツイてないな。俺は小声で呟いて口角を上げた。
曇天の空の下。ユニフォームは水分を吸ってすっかり重くなってしまっている。だが、気持ちは明るく体は軽かった。
あとアウト一つ。大きく振りかぶって硬球を投げる。この球とは出会ってまだ三年しか経っていないが、驚くほどしっかりと指に馴染んでいた。
一球目、ストライク。スパンッと音を立てて捕手のミットに収まった。打者は動きもせずに球の軌道をじっと見つめている。思わずよし、という声が出た。俺の球は剛速球だと誰かが口にしていたのを聞いたことがある。それだから、動けないのも当然だと思った。
試合は既に佳境に入っていた。俺達の高校がリードしていて、あとアウト一つさえ取ることが出来れば全部終わる。
もう少しだ。足を上げて投球フォームを作る。今まで投げ抜いてきたこの体は、十年前とは比べ物にならないほど頑強に成長していた。
指先に力を込める。肩は力を抜く。その二点にだけ気をつけて、後は思いきり腕を振り抜くのだ。そうすると球は勝手に勢いをつける。
二球目もど真ん中に鋭く入った。息をつかずにすぐさま三球目の準備に取り掛かる。この集中力が継続している間に早く決着をつけてしまいたい。
大丈夫だ、焦ってはいない。恐ろしいほど自分の心は落ち着いていた。だからこそ勢いがある今のうちに投げてしまおう。そう思った。
雨は今までよりも勢いを増して体に当たってくる。それを振り払うように、勝利への道を切り開くように、俺は腕を振る。
三球目も猛々しい唸りを上げて打者の胸元を抉った。……ように見えた。
目に映ったのはミットに包まれる球ではなく、美しく宙に飛んだ白い球。違う道を進んだ親友のバットが、俺の投げた球を捕らえたその瞬間。
長い距離をボールが飛ぶ。風も何もないのに高く飛んでいく。
雨止まず
道消え夢は雲隠れ
頬に伝うは
溢れた思い
ボールは虹のように弧を描き、輝きを放ちながらスタンドに吸い込まれていった。歓声がどこか遠くに聞こえる。視界がさっと暗くなった気がした。力が抜けて、膝が地につく。
全てが終わった。喉が、目が、熱い。さっきまで笑えたのに、今は顔を上げることも出来ない。
雨が降り続けている、そのことが唯一の救いだった。顔が濡れていても、それのせいに出来るから。近くで俺を呼ぶ声がする。整列をしなければいけない。頭ではわかっているのに、体が言う事を聞かない。
どうしてすぐ傍に地面があるのだろうか。本当だったら、青空が見えていたはずなのに。どうして。
負けたんだよ。
誰かがそう言った声がした。
負けたのか。
自分で口に出すと、息をするのが余計苦しくなった。しばらくは立ち直れないだろう。この悔しさはきっと一生忘れない。
俺は、暫くの間その場で涙を流し続けていた。