不穏な影
小一時間経った頃、龍司は仮設テントで伸びていた。パイプ椅子の背凭れに身体を預け、半開きの口からは時折心労による青息吐息が出てくる。精神的疲労に見合ったものではないが、彼の前の机には豚肉の入ったお好み焼きが戦利品として乗っていた。食欲をそそるマヨネーズとソースの香りが辺りに漂っているが、これは姉への土産である。
「女が三人で姦しい、か。昔の人も苦労してたんだな……」
龍司の口から自嘲的な笑いがこぼれる。鵤家の三姉妹と、星歌たちの従姉妹に当たる楽人の三姉妹。言葉のキャッチボールなんてもんじゃない、言葉の中当てだ。
「せめて、いい身体の白人の美人さんがいたら目の保養になったんだけどな……」
龍司が脳内で洋物のエロ本を思い出していると、龍姫が仮設テントに帰ってきた。その手には金魚の入った言うなればビニールの巾着を提げていた。後ろにいる柴犬はひょっとこのお面を胴に巻かれ、さらにお面とお揃いの水玉模様の手ぬぐいを頭に被せられて間抜けな姿になっている。
「よっ、色男。彼女さんはどうしたよ」
「別に彼女じゃないです。彼女にするならブロンドって決めてますから」
柴犬のキンゴを撫でまわしながら、龍司は答える。キンゴの毛並は夕日を受けて黄金に見えた。キンゴはまるでお返しと言わんばかりに、龍司の顔を遠慮も無しに唾液まみれにする。後ろ脚で立ち上がると前脚を龍司の胸元に突き、そこから吐息も荒く舐め始めるのだ。よく世話をされているとは言え、犬の口周りはやはり臭い。
「あんたの理想が【萍水】にいるわけないでしょ。姉妹都市の【Flip-Flopper】にでも行ってナンパでもしてこい。英語を喋れるならな」
「ここから出ていくつもりもないので英語が喋れなくてもいいんです。で、星歌ならお姉さんが何かを演奏するからってそっちに行きました」
「ふうん、芸能関係の子なんだ」
「そりゃ鵤家の巫女さんですし」
龍司はキンゴのお面に手をかけると、優しく下半身から外した。そしてキンゴの脇腹に手を添えると、引っ繰り返す。そのままお腹を撫でまわすと為されるが儘だ。
「キンゴで遊んでないでさっさと見回りに行け」
「はい。あ、姉さんにお好み焼きがあるんで食べてください」
「さんきゅ、ありがたく頂くわ」
龍司が見回りを始めた頃にはまだ朱かった空は、間もなく群青に移り変わりすぐに宵闇が【萍水】を包んだ。宵闇の中で明るい提灯の暖かい光はメインストリートを照らし、その明かりの列は広場へと続いていた。広場は舞台を見ようと市民が詰めており、メインストリートにも負けない盛況振りだ。
舞台の上には巫女装束に身を包んだ少女が四人。鵤家の次女、綾日が調子を取ると都市に捧げる演奏が始まった。龍笛が響き、それから篳篥と笙が旋律に加わる。篳篥が悠々と鳴り響き、龍笛の音色が駆け巡るように絡む。そこで笙が神々しい音色で曲全体を締めると、聴者の胸にはえも言われぬ感情が湧く。磨かれた音楽は人の感情に作用するのだ。
曲が終わると【萍水】が呼応するかのように震動する。まるで都市が歓喜の声をあげるかのような現象に市民は感動し、口々にその想いを語り合うのだった。
「ん? あれは……」
龍司は見回りの最中、露店の裏を通る人影を見掛けた。特に容姿が不審なわけではなかったが、その人影は昼間に祭壇を見付けた路地にすーっと入り込んでいく。祭壇の事を無視すると決めたが、蟠りを捨てきれずにいた龍司は後を付ける事を決めた。
露店の間を抜け、路地へ入ると建物の窓から零れる光が目標の姿を浮かび上がらせる。龍司は服装に見覚えがあった。昼間、喧嘩騒ぎが起きた時に人垣の中心で組み敷かれていた男の服装だ。
龍司はきな臭い感じを覚え、足音を発てない歩き方をする。彼はこんな路地裏にいったいどんな用事があって入ったのか。ちょっと気になるじゃないか。男はこちらに気付いた様子もないのだ。
クランクの一つ目の角から相手を窺う。メインストリートからはもう彼の姿は完全に見えない。だからなのか、男は早足になって二つ目の角を曲がろうとした。
すると、男が狼狽する様子が見えた。早足だったのが駆け足になり、祭壇のあった奥へと消えたのだ。龍司は男の姿を見失うまいと、その姿を追って二つ目の角へと移ってそこから再び覗き込む。
質素な骨組みと空の盆を残し、供物は全て蟲が食らった。供物のない祭壇の前で男は腰を抜かしていた。頭を掻き毟る男の姿からは焦燥や不安といったものが感じ取れる。間違いない、こいつは祭壇に関係しているのだ。ならば、話を聞いてみるのもありだろう。
「どうも、お兄さん何やってるんです?」
あくまでフランクに何も知らない風を装って話し掛け、男との距離を詰めていく。緊張感からか、自分の足音が大きく聞こえた。
「ああ、いや、別に。抜け道をしようと思ってね」
男が左手で道を示す。昼間にそこを見た時、人が通るような道には見えな
かった。室外機や配管、ペールでまともに通れるようなものではない。身体を横にすれば無理矢理通れないこともないだろうが、少なくとも龍司は利用しようと思えなかった。
「お兄さんの後ろに変なものが置いてあるみたいですけど、それなんです?」
「あ、これか? さあ、僕にはちょっと分からないな……」
嘘吐きめ、そんなわけがあるか。はっきりと男が狼狽しているのを見ているのだ。白を切った事で祭壇について隠し事があると確信できた。
「申し訳ないが抜け道をしたいほど急いでいるのでね、失礼するよ」
暗がりの中で男の焦りが滲んだ声が響く。
「あ、待ってください! まだ聞きたいことが!」
「すまないね、ボクは忙しいんだ」
男が建物の隙間へと逃げ込む。龍司は透かさず駆け出し、男を逃がすまいと後を追う。怪しんでいたのがバレたのか、男は追跡を嫌うかのように隙間を荒らしながら走っていく。ペールが転がり、中に入っていたビンや缶が散らばって面倒だ。
「逃げられたな……」
龍司は隙間の入り口で呟く。よく分からないが、変な輩が祭りを台無しにしないようにしっかりと見張りをしなくてはならないだろう。イタズラにしても迷惑に過ぎる。龍司は龍姫に相談する事にし、悔し紛れに壁を殴ってからこの場を後にした。