腐肉を食らうもの
龍司は星歌を置いて路地へと駆けていく。道は右に折れており、曲がり角に近付くと淡いながらも饐えた異臭が漂う。最下層の錆臭さとは違う、有機的な臭いだった。
右折する際に入口の方を振り返ると星歌は壁にもたれて、龍司を見送っていた。腕を組み、手を振る事はない。不貞腐れた様子で、かなり不満なようだ。
ギチギチ、と蟲が啼いた。曲がり角の先は道が左に折れてクランクになっている。正面には隅が汚れでくすんだドアがある。だが、蟲はケガレを察知するのであって、汚れに反応しているわけではない。ひたすらに蟲はクランクの先へと行きたがっている。
「それにしても、くせぇな……」
歩を進めると異臭が強くなり、自然と足も鈍る。生ごみの臭いをより強烈にしたような臭気だ。目に涙が浮かび、さらさらとした鼻水も出てくる。
二つ目の曲がり角の先は行き止まりになっていた。厳密に言えば左右のどちらにでも抜けられるのだが、空調の室外機やペール、配管が道を塞いでしまっている。
そして行き止まりには特筆すべきものが置かれていた。簡単に言ってしまえばケガレを捧げられた祭壇である。壇上には赤黒い血液を並々と湛えた盆があり、その血液からは八百屋で見かけた事のある葉が飛び出ているのが見える。辺りに漂う匂いからして禁葷食の一種であるニンニクなどの仲間だろう。血の水面から顔を覗かせているのは緑の葉だけではない。白い断面を見せている骨、血と同じ色のぶよぶよした塊。
祭壇で捧げられているのはどう考えても供物ではない。いや、もしかしたら逆にこうでなければならない供物なのかもしれないが。いずれにせよ、目の前にあるものは蟲使いが浄化せねばならないケガレだ。まさにケガレの盛り合わせである。
右手に絡まった蟲は極上の馳走を前にして、龍司の【支配】(コントロール)から脱け出そうと身を捩る。硬い甲殻を纏った胴が腕を締め付け肉に食い込む。纏った他の蟲たちもざわつき、全身がくすぐったい。
「本来ならまず調べなきゃいけないところだが、仕方ねえか」
龍司は身体から力を抜き、蟲たちを自由にする。主からの許しを得た事で、龍司の全身から蟲が飛び出ていった。祭壇に殺到する様は、まるで黒い怪物だ。
盆の中身に蟲たちが食らい付き、空にしていく様を見ながら龍司は考える。祭りの日に、なぜこのような冒涜的な供物が捧げられているのか。ハレの日にケガレを振り撒く意味を考えても、答えはすぐに出そうもなかった。臭くて思考に集中できるはずもない。
蟲たちはあっという間に馳走を食らい尽くすと、辺りに漂う臭気すらも取り込もうと飛び回る。地を這う蟲も、残飯がないか辺りをうろつく。
「……一気に増えたな」
蟲の塊は供物を食らって一回り大きくなっていた。供物を食らい、互いに交じりあう事で蟲の数は急激に殖えている。食欲を持て余しているのか、塊の至る所で共食いが起きている。
「適当な数に減るまで少し待たねえと。こりゃ手に負えねえわ」
今でこそ殖えているが、食らい合う速度が上回れば個体数は減少に転じる。結果としてより強かな個体が生き残り、精強な蟲の群れになるのだ。
龍司は蟲の塊を避けて行き止まりの祭壇に寄る。祭壇自体は至って凝った意匠もない質素なものだ。供物のように気を衒った(てらった)様子もない。
「一体【萍水】を穢してどうすんだ。病が流行でもすれば医者は儲かるかもしれねえが」
航空都市は完結した系であり、どこかが穢れれば連動して全体が穢れる。それを望むのは都市を巻き込んで自殺したがるようなものだ。とは言え、ちょっとやそっとのケガレでは都市自身の自浄作用と蟲使いたちの働きで浄化できてしまう。目的がわからない。
「どうせ愉快犯か何かだな。無視するに限る」
「蟲使いだけにか!」
「……おいおい」
通ってきた曲がり角から、顔を覗かせる星歌の姿に龍司は失笑する。五分も待てないのか、こいつは。蟲の方が星歌よりも数倍は辛抱強い。
星歌はどうも蟲の塊が怖いらしく、これ以上は近寄ってこない。互いの甲殻を顎で搗ち割り、共食いをする蟲に近付かないのは正解だ。
塊自体は先ほどよりも小さくなっており、蟲の数も減っている。ただ、蟲の持つ毒はより強くなり、食らい合う前と生命力の総和は変わらない。もしもこのまま食らい合いを続けさせ、残った一匹――蠱と呼ぶ――を呪いに用いれば強力な蠱毒が出来るだろう。しかし蟲使いは蠱毒の術者ではなく、むしろ蠱毒を阻止する側の人間だ。
龍司は自分の力量で抑えられる数まで蟲が減ったのを感じると、蟲を一気に【支配】(コントロール)する。明確な方法はない。ただ、思えばなんとなく蟲を抑えられる。この特殊な力は蟲使いとしての必要条件であり、土赤の血が持つ特質であった。
龍司の【支配】を受けた蟲は、彼の装束の隙間を埋めるように潜り込む。五秒と経たぬ内に蟲は姿を布の下に隠し、目で分かるのは右手にいる胴の長い蟲だけだ。
食欲を満たして穏やかになったのか、蟲の動きはどことなく緩慢で、龍司に触れる脚の動きも優しい。
「ねえ、それどうやってんの?」
「なんとなくやってるから言葉にするのは難しいな。強いて言えばパッてやってギュッて感じか?」
ボディランゲージを交えた龍司の説明は星歌を納得させるには至らず、彼女は小首をかしげるだった。
「まあ、別にどうでもいいんだけどね。あたしにも出来た所でやりたくないし」
「そりゃそうだ。好んでやるような事じゃねえな」
苦笑しながら龍司は星歌に同意する。
「じゃ、露店を回ろう? ここを出てすぐにかき氷屋があったからあたしはいちごで!」
「あいよ、俺はレモンにでもするか」
昼の見回りは喧嘩の仲裁と祭壇の処理以外にこれと言った仕事をせず終わった。見回っている時に、星歌が一人であるいていた迷子の童女を見付けたぐらいだ。迷子センターに連れて行ったら後は係員の仕事である。おやつの時間に入ると、夕暮れあたりまでの休憩を姉から言い渡された。龍姫は星歌と軽く挨拶を交わすと、入れ替わりで見回りに出ていった。龍姫の後ろには柴犬のキンゴが尻毛を揺らして付いていく。
「優しそうな人じゃない、龍司のお姉さんって」
「いや、あれは余所行きの仮面だ。お前も猫被ってただろ」
龍司は姉についての印象を否定するついでに、わざわざ言葉を付け足す。余計な事を言ったと龍司が気付く前に、星歌の苦言が飛ぶ。
「初めて会う人に礼儀正しくしただけじゃない。なんで猫を被ってるとか言われなきゃいけないのよ。別に媚びてたわけじゃないっての」
「二人とも俺の知らない感じで喋るから驚いただけだ。言っておくが、俺はお前の礼儀正しい姿なんて見た事ないからな。俺と会った時の事を忘れたわけじゃないだろ?」
龍司の失言は一度では止まらない。
「あたしのおごりでいいからかき氷の早食いしてみない? ざっと十回ぐらい」
「あー、別にそういうつもりはなかったんだけど……すまねえ」
龍司は休憩の間にも見回るつもりだったが、歩き疲れたと言う星歌の要望で委員会の仮設テントにて休んでいた。【萍水】を照らす太陽は傾き始めてはいるがまだ十分に明るい。夕暮れが近付いてきたからか、祭囃子に紛れて聞こえてくる子どもたちの声は甲高いものではなくなっている。祭りに繰り出している子どもの年齢層が上がっているのだ。
「ねえ、六時から綾日姉さんが演奏するんだけど、差し入れするのに付いて来てよ」
「六時か。演奏は聴けそうにないし、それぐらいなら付き合おうか」
「じゃあ、とりあえず鯛焼きと人形焼とたこ焼きに焼きそばでしょ? あとは杏飴、綿菓子、それからそれから――」
龍司は星歌が差し入れのラインナップを数え上げるのを聞きながら、懐の財布へと手を伸ばす。果たしてこの中にはいくら入っていただろうか……。