祭囃子と喧嘩
祭りの活気で【萍水】は満ちていた。【萍水】は雑に行ってしまえば空を飛ぶ街である。商業区画を解放して行われる祭りは、商店街の店のみならず、一般からもお祭り野郎が露店を出しているのだ。
辺りには焦げた醤油の香ばしい匂い、カカオ特有の甘い香りなどが漂って食欲を刺激する。何処かから囃子の音色も聞こえてきて、時折子どもの吹く毛笛や水笛が風情をさらに醸し出す。
露店の主たちはみな法被を着用しており、その背中には「萍水祭り委員会」の文字が入っていた。祭りは【萍水】をあげての行事なのだ。龍司は委員会の一員でもあるが「野暮ったい」の一言で法被を脱ぎ捨てている。
「あー、早速だよ。ケガレが出るの早いなぁ……」
火の灯っていない提灯の下をくぐり抜けながら、龍司はぼやく。彼は祭りのメインストリートを巡回せず、露店の裏を回っていた。
ギチギチ、と龍司の右手に絡まった蟲が啼く。艶の皆無な黒い甲殻、幾つもの節が連なっている長い胴体、節から伸びる短い脚。龍司を見た人は鳥肌を立てながら彼から離れていく。便利だ、と龍司は思う。――ご協力どうも。
龍司の行く手には人だかりが出来ており、どうも蟲はそこに行きたがっているようだった。龍司が蟲をアピールしながら人々の傍に寄っても、こっちを向いていなくては退いてくれない。
「すいません、蟲使いです。何かありましたかー?」
龍司が声を一団に掛けても無しの礫である。大衆に呼びかけても、誰も答えようとしないのは仕方のない事だ。まさか自分個人が対象であると思ってすらいないのだから。
「いったい何があったんですか?」
龍司は右手の蟲を背に隠しながら、手近にいた高身長だが小太りの男性に話し掛ける。男性は人だかりの中心からこっちに目を向けると、口を開いた。
「喧嘩ですよ、喧嘩。うちは喧嘩祭りじゃないんですけどねぇ」
「なるほど、ありがとうございます。ちょっと危ないんで少し離れていてください」
「前にこれだけの人垣があるんで平気ですよ」
「いえ、俺から離れていただけますか」
龍司が右手の蟲を掲げると、男性は得心がいったようですぐさま龍司から離れていった。蟲は今にも人垣を越えて中心へと駆けていきたそうだが、龍司がそれを抑えていた。
「どーも、蟲使いです! お願いですから道を開けてください!」
問い掛けであった先ほどの呼びかけと違い、今度の呼びかけは警告の色をはらんでいた。蟲を隠すように動いていたが、今はむしろ蟲を見せ付けていく。人払いとしての効果は抜群で、あっという間に喧嘩の当事者までの道が出来た。
「ご協力感謝しますー、どうもどうも」
慇懃無礼な態度で人だかりの中心へ、しっかりと石畳を踏みしめて歩く。行先には額から流血しながら相手のマウントを取っている茶髪の若者と、馬乗りされながらも抵抗している黒髪の若者がいた。組み敷かれている若者は至る所に青痣を作っていると言うのに、剛毅なものであった。両者ともに息が荒く、非常に興奮しているようだ。
「なあ、お前らこんな所でどうしたんだ? 男同士で貝殻繋ぎなんかしちゃってよ」
「ああん、テメェ、ホモか!? 冗談だろうが殺すぞ!」
「…………」
マウントを取っている若者は体勢的にも余裕があるのか、龍司の煽りに反応してこちらに意識を向けてくる。下にいる若者は余裕がないのか、それとも聞こえてすらいないのか、龍司を気に掛けもしない。
「まあ、なんだ。ケガレって奴が出てるから俺が処理しなきゃならんのよ。そこらに飛び散った血を蟲に食わせるだけで済むから。別にお前らの浄化とかしないから」
龍司の衣服の隙間という隙間から蟲が這い出てくる。それを見た若者は怯んだ様子を見せるも、威勢は衰えない。
「ナニモンだよテメェ。すっぞ? おおん?」
「さっきから言ってるだろ、蟲使いだって。右手のコレ見てよ」
「ンなこたぁ聞いてねえンだよ。蟲使いだからどうしたってンだ。やっか? あ?」
「いや、だから蟲使いだからケガレを処理するんだって」
龍司は蟲たちに飛散した血を食わせようと、適当な蟲の塊ごとに指示を飛ばす。翅のあるものは耳障りな羽音を立てながら、羽のないモノは這ったり跳んだりしながら若者たちの血へと殺到する。
「別にンな虫ケラなンざ怖かねえぞ!」
馬乗りになっていた茶髪の若者が組んでいた手を払い、龍司へと向かおうとする。蟲は踏まれてはたまらんと、龍司への道を空ける。道は黒く蠢く蟲で縁取られており、本当に苦手な人は通ろうともしないだろう。
「こいつらの中には致死性の毒を持つ奴もいるが」
「チシ……先に言えやコラァッ!」
茶髪の若者は龍司から距離を取ろうとするが、既に人垣の内側には蟲の海が出来ていた。
「おとなしく従っていただけるようでなにより。適当に救護係なりにかかってくれ」
血を食い尽くした蟲たちは龍司の衣服に帰っていく。路面には血痕は残っておらず、綺麗に掃除されていた。
龍司は右手に例の長い胴を持つ蟲が戻ってくると踵を返して人垣を出る。右手の蟲はまだ食い足りないのか、ギチギチと啼き続ける。
「まだ祭りは始まったばかりだ。いくらでも食えるだろうさ」
龍司は身体の緊張を解すように至るところの筋を伸ばす。情けない吐息が口から洩れる。
「あー、怖かった」
「へぇ、蟲使いって喧嘩の仲裁なんかやるんだ」
唐突に話し掛けられる。龍司は後ろを振り向くと声の主を見付けた。
「ケガレってぶっちゃけよごれのことなの?」
「ああ、まあ、それで合ってる事にしていいよ。……浴衣か。あまり変わり映えしねえな」
龍司の前には星歌が立っていた。半幅帯よりも楽な兵児帯を締め、和服には違いないが普段よりもよりラフな格好だ。普段から着ている羽織は置いてきたらしい。なるほど、和服に関しては金髪巨乳よりもこちらの方に分があるかもしれない。
「まあ、パッと見は変わらないよ」
「パッと見が変わらなくても……?」
龍司は胸のあたりを見てから腰のあたりを見る。よく分からないが着用しているのか?
「死ね。肌着を付けないのは伊月姉さんぐらいだし」
「ほう、これは良いことを聞いた」
「スケベは二度死ね。冷やしパインあたりを奢って死んで、杏飴を奢ってもう一度死ね」
露骨に奢る事を要求されている。仮にも仕事中であるというのに。三日間の飲食代として出る手当のお陰で、龍司の懐にはある程度の余裕があるが、せめて気持ちよく奢りたい。
ギチギチと嫉妬したかのように蟲が啼く。どうやら、ケガレには事欠かないらしい。
「いきなりだが俺は仕事だ。適当に買って食っててくれ」
龍司はポケットから財布を取り出すと、紙幣を取り出す。
「別にお金がないわけじゃないし、いらない」
星歌に渡そうとする前に、彼女の手で紙幣を掴んだ手を抑えられてしまう。まるで居合を先の先で潰された気分だ。
「そうか、じゃあ俺は行くから」
紙幣をしまうと龍司は蟲を頼りに駆け出し、すぐに祭りの喧噪の中へと消えていく。その背後には星歌の姿があった。
蟲の示したケガレの在り処は、露店が出ている通りから外れた路地だった。路地は露店の列で通りからはよく見えない。人の流れを上手く横切り、龍司は露店の裏手に回る。
「此処の奥か。暴力沙汰は勘弁してくれよ」
「ほっほー、如何にもって雰囲気だね」
背後から聞こえる緊張感のない星歌の声に、龍司は呆れる。ついさっき若い男の取っ組み合いを止めていたのを見ただろうに。この巫女様は身の危険を察知する能力が欠けている。
「まさかとは思うが、付いて来る気か?」
「大丈夫だって。これでも舞踊やってたし動けるよ!」
そう言うと星歌は大股を開いて見得を切る。龍司は間髪を入れず得意げな彼女の頭を小突く。
「はしたねえ恰好をすんな。いつもの事だけど」
「……ごめんなさい」
「そんな恰好で危ないかもしれない所には連れていけないから、ここで待ってな」
「あまり待たせると逃げたと判断して追うからね」
「なるべく早く戻るから」
まるでお守りをしている気分だ。弟妹がいたらこんな感じなのだろうか。