秘密基地
――こちらは、航空都市【萍水】広報です。十二時をお知らせ致します。本都市は肥州上空を航行中。現在、発令されている警報・注意報はありません。以上、【萍水】広報でした。
眼下に流れる雲を眺めながら、蟲使いの少年は溜め息をついた。航空都市【萍水】の最下層、地上に一番近く、廃棄物などが行き着く場所。彼の周りに散在するガラクタの山にあるプラスチックやセラミックの製品は砕け、金属は酸化している。色彩は最悪だった。
彼は錆びついて赤茶けた欄干に身を預け、足元を流れる風景から周囲のゴミに目を移す。この区画は人の立ち入りが禁じられているわけではないが、人気があるような所ではない。公式には住居を持たない人間は【萍水】に一人たりともおらず、誰かが此処に住み着いているわけもないのだ。
「嫌になるよなぁ……」
少年、土赤龍司はもう一つ溜め息をつくと、転がっていたワッシャーを欄干の向こうに蹴とばした。航空都市である【萍水】は地上五千メートルから八千メートルを活動圏としている。そこから落とされる金属の輪は小さくとももはや凶弾だ。――どうせ人には当たりやしない――と彼は誰かを傷害する可能性など考えもしない。
クソが。誰が聞いてるという訳でもないが、小さく悪罵を吐きながら今度はビスを蹴とばす。ビスは欄干の支柱とぶつかり、軽い金属音を響かせると雲に呑まれていった。
「龍姫の奴、何もあそこまでキレることはねえだろうが」
彼は先刻まで、蟲使いとして師事している八つ上の姉から、指導を受けていた。蟲使いの【萍水】での役割は、蟲によるケガレの発見と浄化だ。一つの完結した系として設計されている航空都市における浄化装置であり、土赤家が代々担ってきた役割だ。
彼も土赤家の跡取り息子としての自分を自覚している。さらに言えば、姉の龍姫が龍司を叱責するのも自らの不甲斐無さが故だと分かっている。しかし、姉への反抗心は抑えられなかった。婿養子を迎えて龍姫が家を継げばいいとすら思った。そしたら俺はこんな事をしなくても済むのに。
「あー、家に戻りたくねぇ。でも掃除やんねぇと……。説教が一時間より短いといいなぁ……」
衝動的に姉の扱きから逃げ出したものの、冷静になれば後悔ばかりの幼稚な行動だ。何一つ、自分にとって利益にならない。だが龍司はそんな過去の自分を「一人で怒りを鎮める為に必要だった」と肯定した。
そして、三度目の溜め息をつくと彼は最下層へと降りてきた通路と反対側へと、ガラクタの山々の奥へと入っていく。姉から逃げてこの場所へ来ると、いつも確認せずにはいられないモノがあるのだ。――俗に「エロ本」と呼ばれる思春期男子の聖書だ。
誰も立ち入らない場所、その奥に彼の秘密基地がある。果実が腐敗しているのか、エステルの臭気が立ち込める一角を彼は曲がった。その先にあるドラム缶の壁を乗り越えると、幌の掛かった場所が見えてくる。そこは龍司の秘密基地だ。
ブルーシートが近付いてくると、秘密基地に置いてある聖書の事がより強く頭に浮かび上がってくる。心なしか息が弾み、体温は上昇。今日はどれで致そうか――
下世話な欲望が龍司の心を占めていく。そう、このシートを捲れば桃源郷なのだ。
「……ん?」
彼は違和感に気付いた。欲情した龍司の嗅覚は間違いなく女子の匂いを捉えていて、それはこの秘密基地に相応しくないものだ。そして此処に到って気付くと言う事は、どう考えてもこの匂いの主が近くにいるということ。ブルーシート一枚で隔てられたこの向こうに。
「そこにいんのは誰だ!」
「ひぇっ!?」
龍司の目の前には、彼のコレクションの一つを手にした少女がいた。背中をドラム缶の一つに預けながら、膝を抱えるように座っている。彼女はうなじの辺りで結った艶やかな黒髪を揺らしながら、彼の性癖が反映されているそれを尻の下に隠した。ちらりと覗く表紙に描かれているのは、やたら肉感のある肌に食い込む縄。
よりにもよって、興味本位で買ったそれかよ。龍司は心の中で毒づく。
「あ、えっと……。そっちこそ誰よ!?」
「お、俺か!? 俺は土赤龍司……で、お前は誰なんだよ、なんで此処にいんだ!」
龍司は彼女を観察しながら問い質す。目の前にいる女子は普通じゃない。彼女の服装は【萍水】の街中で見るようなものではない。布地にコブの浮いた和装は模様もなく地味だが、胸元に嘴の太い鳥が刺繍された金襴の羽織はこの秘密基地に似つかわしくない気品を漂わせている。
どう考えても名家の娘さんだ。
「あたしは鵤星歌。あたしの事は知らなくても、伊月姉さんと綾日姉さんの事は知ってるんじゃないの?」
目の前の娘さんが得意げに胸を張る。
「はあ? お前の事もお前の姉の事も知らねえよ!」
鵤星歌、鵤伊月、鵤綾日。何処かで聞いた事があるような名前だった。しかし龍司はそれ以上の感想を持たず、そこを掘り下げるつもりもなかった。相手が誰であろうと、この秘密基地から追い出すことには変わらない。ここは女人禁制なのだ。
「『はあ?』ってあんたねぇ。もしかしなくても世間知らずじゃないの? あたしの姉さんたちを知らないって有り得ないでしょ。【萍水】が飛んでいられるのってあんたの知らない姉さん達のお陰なのよ?」
「知らねえもんは知らねえとしか」
知らないと言ったものの、龍司の脳はすぐに彼女に関する記憶を引き出してきた。――やっべぇ、こいつマジでお嬢様だ。龍司は星歌と名乗った少女の胸元に目線を移す。もしかしなくても、あの鳥が家名にもなっている鵤ってわけか。どんな鳥かは名前だけしか知らねえけど、意外に間抜けな面構えだな。
龍司が鵤の刺繍をまじまじと見つめると、星歌は頬を紅潮させながら胸元を両手で隠す。性的な理由があったわけではないのに、このような反応を返されると龍司はからかいたくなった。
「在りもしないてめぇの胸なんか興味ねえよ」
「それぐらいはあたしも分かってるよ。この鵤を見てたんでしょ? スケベ」
このアマ、一筋縄じゃいかねえ……。
「で、この鵤を見て何か思い出したのかしら」
「はいはい、すいませんでした。私が無知でございましたよ、『巫女様』」
龍司は目の前の少女に片膝を立てて跪く。それに機嫌を良くしたようで、星歌は朗らかに笑った。龍司は星歌の笑い声に嘲りの気配を覚えるも、それを表に出しはしなかった。からかうのは今ので最後だ。これ以降の軽率な言動は洒落では済まないかもしれない。
でも、これだけは聞いておかなければならないだろう。
「それで、『巫女様』は――」
「星歌でいいよ。スケベに畏まられても気持ち悪いし、家名で呼ばれるのも好きじゃないし」
ふっ、と鼻で笑われるのも堪えよう。特訓中の龍姫の畜生を扱うような態度よりも随分と人道的じゃないか。口を開くことすら許されない師弟、もとい姉弟関係からすればぬるい。
「――星歌さんは何故このような掃き溜めにいらっしゃるので?」
「ほら、あたしってあんたが言うところの『巫女様』じゃない? だから大地から【萍水】に力を汲み上げる詩なんかを、今度のお祭りで吟じなきゃいけない訳よ」
龍司が足元に視線を伏せていると、星歌が姿勢を正しているのが衣擦れの音から分かった。いいから俺の聖書から退け。お前のような色気のないアマが尻を載せていいものじゃないんだ。
視線を上げて星歌の方を窺うと、彼女がかるく胡坐をかいているのがわかった。和装の彼女がそんな恰好を取ろうものなら、白い太ももなんかが見えたりする。――世の中、悪い事ばかりじゃないな。
「それで特訓なんかしちゃおうかなぁ、と思ったわけ。で、努力してる姿なんて人に見せるもんじゃないしさ、人目に付かなくて大きな声を出しても問題なさそうな場所を探してたらここに辿りついたのよ」
「なるほど。【萍水】の最下層にいる理由は分かりました」
「いや、ごめんねぇ。人がいるとは思わなくて――」
「もう少し深く聞きたいのですが、俺の秘密基地に忍び込み、あまつさえエロ本を読み耽っていたのは何故でしょうか」
さあ答えやがれ。龍司はしてやったり、と会心の笑みを浮かべる。今は相手が巫女であろうと関係ない。いや、むしろ巫女だからこその質問とも言えるだろう。いつの間にか、姉への鬱憤は晴れていた。
「社会的に死にたい?」
「あっはい、すいませんでした」
おいおい、軽率な言動は洒落にならないと真っ先に考えただろう。なんで俺はこんな簡単に忘れてしまうんだ。彼女の笑顔が怖い。
ひたすらに平身低頭で切り抜けるしかない。龍司は立てていた片膝も折って、人生で姉にしかしたことのない土下座をしていた。相手が巫女とは言え、両親には見せられない情けない姿だ。屈辱以外の何物でもない。
「本当に悪いと思ってる?」
「ええ、はい。本当の本当にすいませんでした。調子に乗りすぎました」
「なんでもする?」
「いや、なんでもはちょっと――」
「なんでもする?」
「なんでもします」
もうどうにでもなれ。龍司が唯々諾々と言葉を返すと沈黙が場を支配した。稍あって不安から龍司が顔を上げると、星歌が不遜に告げた。
「あたしの特訓に付き合え、スケベ」