十七歳、春
「ツバコー、ファイっ」
「ファーイっ」
「声出せー」
「ファーイっ」
蒸し暑い体育館に、野郎の野太い掛け声と女子の甲高い合いの手が混ざりあって響く。
声を張るのは苦手ではあるが 小学校の入学とほぼ同時に入ったクラブチームの時から染み込んでいる、この典型的な体育会系の雰囲気そのものは嫌いではない。梅雨時や真夏のサウナのような熱気や、バッシュやらボールやらのゴムの匂いや埃っぽい体育館の空気にも、愛着に似た親近感すら湧いている。
あと一年で、この場所ともお別れだからかも知れない。
試合に勝てば、長く居られる。負ければ即引退、三年弱の部活生活がその瞬間に終わる。
中学の時は、高校でも続けると決めていた。引退の時は、寂しさよりも悔しさの方が上回っていた。
もっと、やれたはずだった。もっと、上に行けたはずだった。
その思いが、このチームで、このメンバーと、バスケをやるうえでの土台になっていた。
現実的に、自分自身はもちろん、チーム全体の実力不足はこの二年で身に染みていた。まだまだ、超えなければならない高い壁は山ほどある。だからこそ、適当に諦められる訳などなかった。
もっと高い場所へ、もっと、熱い闘いへ。
新学期開始早々容赦なく詰め込まれた六時間分の授業を終え、ホームルームのために担任が教室に戻ってくるまでの数分の間に、制服のワイシャツを脱いで下に着込んでおいたTシャツになっておく。流石に教室内で下を履き替えるわけにはいかないが、十五時半からの練習前に少しでも体を動かせるよう、いつもどおりの時間短縮作戦だ。
間延びした帰りの挨拶と同時に、スポーツバッグを引っ掴んで教室を出る。いつもなら部室まで二分、教師に見つからないで走れば三十秒、残りの着替えを済ませて部活開始の十五時半まで残り十分。大して広くない校舎の敷地を外周して、ウォーミングアップしてから体育館に戻るには充分だ。
だが、今日は違った。
「アキト、これからクラブ活動だよね。案内よろしく頼むよ」
今日一日、俺の新しいクラスメイト件ハウスメイト、そしてチームメイトとなる予定のアメリカ人留学生、クロウはことある事に俺に話しかけてきた。最初は始業と終業のチャイムの音が母国のそれとは違うと感動し、休み時間は、授業中に出会ったわからない日本語をいちいちメモして意味の解説を求めて来た。昼飯時は購買のメニューの多さにまた感動し、しまいにはあちらには存在しないらしいホームルームについて質問攻めにされる有様だった。
「楽しみだなあ。今日はジャージもシューズも持ってきてないんだけど 、プレイはできるかな」
「ジョーがいいって言えば、できるかもな」
「さっきのキャプテンだね」
「キャプテンは日本語で?」
「船長、だと船だから...統率者かな?」
「間違ってはいない。主将だ」
「シュショー?」
「主、将」
綺麗に発音されるカタカナ語とたまにイントネーションのずれた日本語の混じったクロウの相手をするのはなかなか新鮮で、普段他人との会話など面倒であるにも関わらず、そんな風に思うことがないのは自分でも意外だった。当たり前で退屈な日常の、どんな小さな出来事にでも目を輝かせて興味を持つコイツのおかげで、部活以外はほぼ暇つぶしに等しかった学校での時間が、なんだかいつもと違うように思えていた。
「ところでアキト。君たちのチームは強いのかい」
「強くはない」
「そうなの?」
「少なくとも、チーム全体としては完成には程遠い」
「Oh...」
即答した俺の応えに、クロウは目に見えて失望したようだった。外国人のリアクションが日本人よりも分かりやすいっていうのは本当らしい。それとも、コイツが特にそうなだけか。
「がっかりしたか」
「少しね」
やはり、お国柄なのか正直だ。建前で隠すことなんてしない。俺は意識して唇を釣り上げ、言ってやった。
「本当かどうかは、自分の目で確かめてみろ」
「え?」
「弱い、とは一言も言ってないからな」
「Awesome!日本のクラブ活動はすごいね!軍隊みたいだ」
アップと基礎連を終えての五分休憩中、予想通りクロウは大はしゃぎだった。聞くと、クロウのいたアメリカのクラブではウォーミングアップやシュート練習は来た奴からバラバラで個人的に行い、ゲーム形式の練習で初めてチームとして動くのだという。
「あとさっきの、みんなで出していた声、あれはどう言う意味?」
ドリンクのボトルを傾ける俺にも構わず、クロウは興奮して聞いてくる。落ち着いて水分補給する暇すらない。
「声?」
「ツバコーとかファイッとか」
「ああ、あれは」
「ツバコーは俺たちの学校の名前、椿ノ宮高校の省略。ファイっはファイト、英語のfightをエールみたいな感じで言ってるんだ」
クールダウンから戻ってきたジョーが代わりに説明してくれた。ようやく、スポーツドリンクがまともに喉を流れていく。
「おもしろいなあ。それから、女の子たちも一緒なんだね。日本のチームはみんなそうなの?」
「いや、ウチは特に女子が少ないから一緒にやってるだけ。今年なんて三年は二人だけで、二年もギリギリで四人しかいないし」
「そうなんだ。全員では何人いるの?」
「男女で四十人くらいかな。五月になれば新一年生が入ってくると思うけど」
もともと世話好きなジョーにとってみれば、留学生の相手は特に苦ではないらしい。会話の弾んでいる二人をそのままに、一足先にシュートの練習でもしようと、近くにあったボールを拾う。一面コートのサイドラインから少し進んだ辺りでゴールを見据え、両膝を落とした時だった。
「晃斗先輩、スリーの練習ですか?」
肩よりも下から届いた声の元には、長い髪を団子のように結った女子がボールを抱えながら立っている。顔をまともに見なくても、すぐにわかった。
「ああ」
「見てていいですか?私、スリーって正面からしか打てないの」
「いいよ」
短く応えてから、再びゴールを見上げて膝から全身を伸ばし、手首を使ってボールで放物線を描く。二秒遅れて、ボールがネットにハマり、突き抜けて、床に垂直に落ちる音が響いた。
「ナイッシュ!」
満面の笑みを見せたその後輩に釣られ、自然に口元が綻ぶ。意識して表情を作り、また短く礼を言う。
「どうやって打てば横からでも入るんですか?」
「正面と同じだ。多分、ゴールの見え方が変わるから惑わされているんだと思う」
「自分では同じように打ってるつもりなのに、なんか伸びちゃうの。でも逆に意識すると届かなくて。何かコツみたいなのってあるんですか?」
基本的に、ものを教えるのは得意ではない。それなりに雑誌や動画で研究はしているが、理論を頭に入れるというよりも、何度も何度も繰り返し練習して身体で覚えるスタンスの方が性に合っている。と言うより、もともと言葉を並べ立てて説明すること自体、苦手だった。
「ない、な」
「えー」
不満そうに唇を尖らせながらも、後輩は笑っている。ここで引き下がってしまっては、格好がつかない。
「ちょっと打って見せてくれ。何かわかるかも知れない」
実際にまともなアドバイスなんてしてやれる気は微塵もしなかったが、何もしないよりはましなはずだった。彼女が放ったボールは、ゴールを越えて派手な音とともにバウンドする。タメは充分だったし、腕も伸びて手首のスナップも利いていた。ただ、確かに違和感はあった。彼女も、なんとなく感じてはいてもはっきりした要因がわからず困っているのだろう。
「どう?」
「そうだな。あえて言えば」
「すごいね、君!女の子なのにワンハンドでシュートできるんだ」
相変わらず興奮気味のクロウが、間に割って入ってきた。いきなり両手で握手をされ一瞬ぽかんとしながらも、彼女の方はありがとうございます とにこやかに応えている。言われてみれば、女子は両手でのシュートが普通なのだから、初めて見て驚くのは当然だ。
「僕はクロウ・エヴァンス。アメリカでもバスケットをやってたんだ。君の名前は?」
「黒羽ルナです。二年生です。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね。ところで」
ちら とクロウが意味ありげに俺を見る。
「君はアキトのガールフレンドなの?」
耳を疑った。ついでに、コイツの神経も疑った。沈黙を破ったのは、ルナの笑い声だった。
「まさか!違いますよー」
続いて、いつの間にいたのか、背後でジョーが噴き出すのが聞こえた。殴りたくなるのを堪え、舌打ちで勘弁してやった。
即答はわかる。俺たちは中学のバスケ部から一緒なだけで、別に付き合ってなどいない。
だが、「まさか」とまで言われればさすがに気分はよくない。有り得ない、可能性はゼロと言われているのと同じだ。人格否定と言っても過言ではない。
怖い怖い などと言いながらジョーが部員に集合をかけ、コートの中心に小走りで逃げていく。クロウの方はまたね とウィンクを残して、壁際の見学ポジションへと戻っていく。
「晃斗先輩、怒った?」
横に並んだルナが、上目遣いに顔を覗かせる。三十センチも身長差があるので当然だが、あまり心臓にはよくない。
「別に」
「ごめんなさい。だって、急に言われたから」
「わかってるから。いいって」
団子に触れないように、頭を軽く撫でる。昔と同じように、ルナはガキみたいに喜んで笑う。その顔を見るだけで、それまでぐだぐだ考えてたことなどどうでもよくなり、大抵のことは許せてしまうのだった。
出会ってから五年が立つが、俺たちの関係は大して変わっていない。単に俺が成長していないだけか、変化を求めること自体が不毛なのか。それ以前に、俺は本当に変化を望んでいるのだろうか。
ジョーがホワイトボードに書いているフォーメーションの図に集中すべく、短く息を吐く。今やるべきことは、夏のインターハイ予選の準備、そのためのチーム作り、そして個人でのパワーアップだ。
よそ見をしている暇なんて、ない。