バターになってしまった虎のように
隣では年下の彼がもう寝息を立てていた。若い頃野球で鍛えた肉付きの良い逞しい体が、月光に照らされていて美しい。健康的で、ぞくぞくするほど官能的だ。
彼の体がベッドに描く、艶やかな曲線。その中に潜む男性的な荒々しさ。特に肩甲骨がたまらない、と私は思う。セックスの後に眠っている彼の後ろ姿を眺めるのは私のひそかな楽しみだ。盛り上がった背中は被虐心を誘っているかのようにすら見え、うっとりしてしまう。彼と付き合って五年になるが、出会ったときから今に至るまで、私の中の彼はこの背中だ。何処にいても、どんなときでも。思い出すのはこの背中である。ここに彼と私の五年間が詰まっている、そういっても過言ではないと思う。
少し顔を近付けると蚯蚓腫れの様な傷がうっすらと見えた。これはきっと行為の最中に私が付けてしまったものに違いない。
彼はいつも子供のように私を抱く。甘えているのに抱くと言うのもおかしいが、抱かれるのではなくて、抱くのだ。彼は震えるようにして私に覆いかぶさり、私はそれを素知らぬ顔で受け止める。甘える彼を、冷たく突き放すようにさえ見える態度で。しかし結局それは最初だけである。声が漏れる頃になると、私はだんだんと自分の輪郭や、自分という存在を見失っていってしまう。次第にベッドの上にいることも忘れ、太平洋だとかアルプスだとか、そういった広くて大きな場所に二人で立っているような気持ちになる。太古の男女がそうしたように私たちは夢中で交わるのだ。揺れるベッドを舟に見立てて、快楽の海へ漕ぎ出していく。
そのうちに、声すら私の意思を離れて行って、全然知らない人のものみたいになる。遠くから聞こえるように感じる、といったほうが正確だろうか。声はただの音に変わり、いつしか林の中で聞こえる小鳥のさえずりのような、そんな気にも止まることはないが、なくてはならないものに変わっていく。そして、彼も彼でなくなる。私たちはドロドロに溶けて、混ざり合う。口から、手から、性器から。小さい頃母から読み聞かされた童話に出てきた、ぐるぐると木の周りを走るうちにバターになってしまった虎のように。意識さえ溶け合って、一つの獣になるのだ。お互いをむさぼり合っているのか、自分自身をむさぼっているのかもわからなくなった頃、舟代わりにしていたベッドはその役目を終えて私たちといっしょに沈んでいく。私は彼の背中を探し、必死でしがみ付く。他に頼るものなんてない。あの背中だけが、私が捕まることのできる唯一のものだ。息が出来なくなって失神しそうになったとき、やっと私たちは果てることが出来る。それがベッドの上での行為だったいうことを再認識するのは、お互いの満足そうな顔を見て、小さな旅を終えたことに気付いてからだ。そんなことを五年間の内で幾度となく繰り返してきた。
しばらくするとトイレに行きたくなって、私は静かにベッドを下りた。彼を起こさないように、ゆっくりと。ワンルームなので、扉を閉める音にすらも気をつけなくてはいけない。彼は私にとって何でもないような小さな物音でも、すぐに目を覚ましてしまう。そして、その度に「足音が大きいよ」とか、「どうしてそんなにガサツなんだ」のような、自分の神経質さを棚に上げた文句を言う。その声は掠れていて、私はいつも、まるで小鳥みたいだなと思う。彼はいつだって、可愛いのだ。
トイレの中には、春の匂いが立ち込めていた。私は煙草に火をつける。彼と同じ銘柄に、下北沢で買ったおそろいのライター。換気扇はごうごうと回る。匂いはここから滑りこんできたのだろうか。ふうっと、少し芝居がかった動作で、換気扇に向かって煙を吐いた。一瞬だけ広がった煙は、瞬く間に吸い込まれて消え失せてしまった。賑やかな静寂だけがぽつりと残る。私は思う。こんな夜は彼と出会った日の事を思い出させる、と。
あれは大学に入ったばかりの五月だった。堅苦しい入学式と詰まらないレクレーション。そして新入生歓迎会という名のおぞましい催し。あの日の私は、憧れていた東京が、蓋を開けてみれば田舎者が集まるだけの場所だったということに気付いて愕然としていた。二年間も浪人してやっと入った大学なのに、まさかこんなにも程度が低いだなんて。学問の徒であろうとする人なんて一人もいないようにすら感じられた。私は何度田舎に帰ろうと思ったかわからないほど、しょげていた。
東京生まれの人もいくらかはいたけれど、都会生まれということを必死に演じているようにしか見えなかった。大阪生まれの人だってちっとも面白くなんてなかった。先輩も同級生も皆、自分を大きく見せることに必死になっている人ばかりでうんざりだった。私はそんな虚勢じみたものにはとんと興味がなく、葉っぱの裏に隠れるカタツムリみたいに会場の隅っこで座っていた。
最初に話しかけてきたのは、彼の友人だった。確か石田、という名前だったと思う。もう顔も覚えていないが、笑った口元が下品でラクダみたいだと思った事だけは覚えている。石田くんは少し酔っているらしく、これからクラスみんなで行くらしい二次会の事を、そんな私が全然興味の無い事を、楽しそうに話していた。私は全く聞いていなかったし、嫌悪感すら示していたつもりなのだけれど。彼はそんな態度に気付きもしなかったらしい。
それでも傍目には私が随分と嫌がっていることが見て取れたのだろう。石田くんの後ろから背が高い男の子が近付いてきて、酔っている彼に声をかけた。鼻も口もあるべきところにしっかりと収まっている優しそうな人だった。垂れている目も、その印象に拍車をかけていた。少し足が短くてがに股だけれど、女の子にモテそうな人。それが私の恋人の第一印象だった。
私は石田くんを指差して、この人のお知り合いですか、と聞いた。十分に言葉を選んだつもりだった。間違っても私が好意を持っているだなんて思われないように、十分に。彼はそんな私の心を見抜いたのかもしれない。クスッと笑ってから石田くんの肩を持つと、踵を返してしまった。そのとき私は見てしまったのだ。あの、背中を。
一瞬だった。私はどうしようもないくらいに恋に落ちてしまった。マリーアントワネットと、Laduréeが生み出したマカロンとが出会ったように。あまりにも運命的で逆らえないものだった。彼も私も逃げられない、そう思ったのだ。
トイレを終えて、扉の外に出る。幸いなことに彼は起きていなかった。しんとした真夜中では流れる水の音が思いのほか大きくて、起こしてしまったのではないかとひやひやしていた私は、ほっとしてトイレの電気を消した。光に慣れてしまったからか、一瞬部屋の中が真っ暗に見える。ぼんやり暗闇を眺めていると、ふいに、一人ぼっちになってしまったかのような心細さが去来した。それは憂いにも似ていて、私は「またか」と思う。こういうことは子供の頃から度々あった。何でもないようなきっかけが、私を一匹の魚にしてしまうのだ。深海に棲んでいて、いつも一人で泳いでいるような、そんな魚に。私は息を止めて、彼が助けてくれるのをじっと待った。孤独を振り払うためには、孤独に耐えるべきだ。救いの手が差し伸べられるのをじっと待つべきなのだ。
数秒経って、暗闇の中に彼の背中が淡く浮かび上がった。月光に照らされたそれは大理石の彫刻のようで、触れれば溶けてしまうかと思うほどの繊細さを纏っていた。ああ、クリームみたいだ、と私は思う。
躓かないように気をつけながら彼に近付く。彼は小さな寝息を立てている。私は起こしてしまわないように、腫れた傷口にゆっくりとキスをした。冷たい皮膚の中で、そこだけが熱を持っている。このまま溶けてしまったら、むしゃむしゃと全部舐めとってあげるのに。その手も、足も、血管の一本一本も。そんなことを思いながら深く、深くキスをする。
幽かに、グレープフルーツの味がした。そういえば今日の入浴剤はグレープフルーツにしたんだっけ。私は少し嬉しくなって、傷口に舌を這わせる。ぼこぼことした感触が砂利道の上を自転車で走っているようで気持ちいい。
「ん……」
彼が呻く。その声が可愛くて、私は次第に楽しくなる。先ほどの不安はいつの間にか消えてしまった。どんどん車輪を回してしまおう、そんな事を思う。そして、傷口だけではなく首筋も耳までも舐めていく。たくましい背骨の上から下へ舌を滑らせているとき、彼はふいに呟いた。
「変な夢を見たよ」
私はちょっとびっくりする。文句を言わないなんて。起こそうとしていたのだけれど、起きてほしかったわけではなかった。今日は小鳥ちゃんじゃないのかしら、心の中でこっそりとそんなふうに思う。
「どんな夢?」
出来るだけ冷静に私は聞き返す。心臓の音が彼に伝わらないように少し身を離しながら。彼は目をこすりながらぐずぐずと言った。
「なんかさ、君と俺が知らない家に二人でいるんだよ。それで、辺りは窓から見渡す限りずーっと荒地なの。俺はなんだか怖くなって、君に早くここから出ようよって言うんだけど、君はいつもの調子で珈琲を飲んでるんだよ。いつもの君のままなんだけど、それがまた怖くてさ。俺はたまらなくなって玄関を探すんだけど、どこにもないんだよ。入口も、出口も。だから、窓から逃げようとしたの」
「それで?」
「サッシに足をかけたとき、上からすごい音がしたんだ。見上げると爆撃機っていうのかな、そんなのが飛んでるんだよ。それで俺は君に逃げろって叫ぶんだ。でも、後ろを振り返ると何故か君は何処にもいなくなっちゃってるんだ。湯気を立てたままの珈琲だけがあるの。俺は君はもう死んでしまったんだろうかって思って怖くなって、必死で家中探し回るんだけど、そのうちに爆弾が落ちてきて死んじゃうんだよ。たぶん俺だけ死んだんじゃないかな。そこで、目が覚めたんだ」
言い終えた後、彼は弱々しく私の方を見た。私が生きているか、確かめるような目で。それはまるで小鳥のようで。
少し見つめてから、私は彼にキスをした。余裕のある、大人のキスを。年下の人にこんなに胸が痛むなんて。私は心の中で呟く。まったく、なんて愛しいのかしら。