悪魔のゲーム
第一章:放課後、秘密、甘い罠
「学級日誌を持ってきました。……先生、何をしてるんです?」
その日、僕――ヴェーラーは、理科準備室に日誌を届けに行った。
生徒にとって準備室は一種の聖域だ。中でも理科準備室は別格。見たこともない複雑なガラス器具、ホルマリンに浸かった怪しげな標本。どこか落ち着くようでいて、同時に不安を煽るような、もどかしい薬品の匂いが心をわくわくとさせる。
そんな空間の主が、メルク先生だった。
先生は理科の専任講師。とんでもなく楽しそうに実験を指導する人で、先週はグラウンドの砂場を火山にして、校長に大目玉を食らっていた。噂では、どこかの有名な大学の教授で、何か派手な問題を起こしてこの辺境の学校に流れてきたらしい。美人で、ミステリアスで、いつもいい匂いがする先生なら、そんな噂も信じられる。 僕は何かにつけて、先生のところへ行くチャンスを窺っていた。
「ん? これはね、悪魔のゲームだよ」
カーテンの隙間から差し込む西日を浴びて、先生の銀色の髪が黄金色に輝いている。その隙間から、特徴的な長い耳がぴょこっと覗いていた。先生は古い木製の長机で、一辺が五十センチほどある正方形のボードゲームに興じていた。
「君もやってみる?」
先生が隣の席をトントン、と指先で叩いた。僕はためらうフリをしながら、内心の歓喜を隠して腰を下ろした。先生のまとう甘く重たい香水の香りが、室内のグアヤコールの匂いと混ざり合い、僕の鼓動を容赦なく加速させた。
「ここにある赤、黒、青の3つの玉を上下に動かして、ゴールの状態にするだけの単純なゲーム」
先生が指差したホワイトボードには、簡素な図が描かれていた。
スタート ゴール
赤・・ → ・・青
・黒青 赤黒・
「じゃあ、やってみて」
促されるまま、僕は青い玉を上にずらした。すると、磁石で引かれたように黒い玉も一緒に上へ動く。
「あれ?」
予想外の連動に少し首を傾げ、今度は赤い玉を摘んで下に動かそうとした。だが、赤玉はびくともしない。それどころか、バネが弾けたように黒と青の玉が揃って下へ滑り落ちてしまった。 玉の動きの規則性が、全く理解できない。困惑する僕の耳元で、メルク先生が楽しげに囁いた。
「3つの玉は見えない力で繋がっていてね、ある一定のルールに従って動くのさ」
「どんなルールなんですか?」
僕が尋ねると、先生は待ってましたと言わんばかりに、軽く首を横に振った。
「そのルールが分からない。試行錯誤を繰り返して、法則性を見つける。それがこのゲーム」
先生のスラリとした指先が黒玉を上に押し上げると、青玉が追従して上に移動した。
「手詰まりになったら、ボードの下にあるこのボタンを押して。スタートの状態にリセットされるから」
カチ、とリセットボタンを押し、僕は思考を巡らせる。今度は赤玉から始めてみよう。
赤玉を摘んで下に押し下げる。今度はスムーズに動き、全ての玉が下段に一列に並んだ。
ホワイトボードのゴールを確認する。あとは青玉が上に行けばいいだけだ。
でも、そんなに簡単だろうか?
恐る恐る青玉に触れた瞬間、パチンと音がして、全ての玉が一斉に上段へと跳ね上がってしまった。
「……さっきと同じ、ループに戻っただけだ」
『下校時間になりました。校内で活躍中の生徒は速やかに――』
準備室のスピーカーから、無機質なアナウンスが流れ始めた。いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。結局、僕は一度もゴールに辿り着けなかった。
「じゃあ、今日はここまでにしましょうか」
何度もリセットボタンを押し、指先を赤くした僕は、立ち上がりながら一つの疑問を口にした。
「先生、そもそもこの『悪魔のゲーム』に、正解はあるんですか?」
その質問を聞いた瞬間、先生は白衣を翻し、とても楽しそうに「ククク」と喉を鳴らして笑った。
「正直に言うとね、私も解法は知らないんだ」
「えっ」
先生は悪魔のパズルを愛おしそうに箱へと仕舞いながら、僕を見つめた。
「パズルゲームに必ず正解がある、と思うのは人間の先入観に過ぎないよ」
僕は悔しさで唇を噛みしめた。なんだか、完全に負けた気がする。
「……また、来ます」
「いいよ。準備室の鍵は『秘密の場所』に隠しておくから、好きに使いなさい」
先生はそう言って笑ったけれど、僕は正解があるような気がした。根拠のない、漠然とした、ただの直感。
でも、僕としては正解なんて欲しくなかった。
だってその方が、ここに通うための、完璧な理由になるから。
第二章:ノート、羽ペン、秘密メモ
次にメルク先生に会えたのは、それから二週間も後のことだった。どうやら王都に出張されていたらしく、あの奔放な振る舞いに反して、本当に偉い学者先生なのだと思い知らされた。
僕は僕で、塾やら友人に誘われるカラオケの合間を縫って、五回ほど理科準備室に忍び込んでいた。その間に掴んだ収穫を伝えるため、僕は新調したノートを開いた。
「新しいノートを買ったんだね」
「実験の結果が、頭で覚えきれなくなってきたので」
メルク先生が、不意に右手を僕の前に突き出してきた。僕がキョトンとしていると、催促するように手を上下に振る。恐る恐るその手を握ると、柔らかく温かい感触が伝わってきた。
「いい心がけだ! よし、研究熱心な君にこのペンをあげよう。その実験ノートによく似合うはずだ」
手渡されたのは、漆黒の大きな鳥の羽だった。
僕はそれをくるくると回した。
「……何ですか、これ?」
「羽ペンだよ。憧れのね」
「これ、本当にペンなんですか? ただの羽に見えますけど……」
「古い映画で貴族が使っているアレさ。ずっと欲しかったから、自分で作ってみたんだ。鳥の羽の軸を熱処理して硬化させてある」
「作ったって……先生、どこでこんな不気味な羽を拾ってきたんですか?」
「王宮公園でお弁当を食べていたらね、乱闘になってさ」
「何と?」
「でっかいカラス」
僕は手の中の羽ペンを見つめた。先生からのプレゼントは天に昇るほど嬉しい。嬉しいけれど、呪われそうな見た目のこれを使って文字を書く勇気はなかった。なんとか先生の機嫌を損ねずに、やんわりと辞退する方法はないか。
「あ、ありがとうございます! でも……僕、インクを持ってなくて。せっかくですけど宝物として家にとっておきます」
「なんだ、インクがないのか。それは残念だな」
「ええ、そういうわけですので、使うのはまたの機会に――」
「よし、じゃあ今からインクを作ろう! 主成分は硫酸鉄で、そこへタンニンを――」
「先生!!」
ヤブヘビだった! 僕は慌てて遮った。
「インクの話はまた今度です! まずは、この数回で分かったパズルの報告をさせてください!」
「そうかい? まあ、君がそう言うなら聞こう。報連相は社会人の基本だからね」
社会人から最も遠い世界に生きていそうな先生は、お伽話のチェシャ猫のような笑みを浮かべた。完全にからかわれている。僕は小さくため息をつき、ノートを指差した。
「色々動かして分かったのは、赤・黒・青、どの玉から始めても、二手目か三手目には必ず無限ループに陥るってことです」
僕は実際にボードの玉を動かしてみせた。先生は腕組みをして、興味深そうにそれを覗き込む。
赤・・ ←→ 赤黒青
・黒青 ・・・
「それが君の結論?」
玉はたったの三つだ。どのルートを辿ってもすぐに無限ループが出現する。数回の実験で「正解はない」と諦めるのが普通の人間だろう。だが、僕は首を振った。
「でも、わざわざ『悪魔のゲーム』なんて名前がついているんです。そんな単純な底の浅さじゃないと思うんです」
「いい着眼点だ」
「だから、いろいろ試してみました。そのためのノートです」
僕は、ノートに書き殴った箇条書きを指し示した。
・横移動:どれもびくともしない。動かない。
・持ち上げ:無理。玉を引っ張るとボードごと持ち上がる。
・二個、または三個同時移動:ビシッと弾かれて拒否される。
「ふーむ。ヴェーラー君。ノートを取る姿勢は素晴らしいが、書き方には改善の余地がある。たとえば、実験の『日付』と『時間』。それが無い」
「何をしたかという内容さえ分かれば、日時は関係ないのでは?」
「もし、君以外にも挑戦者がいたとして」
先生の言葉に、心拍数が跳ね上がった。
僕以外の挑戦者? ……いや、冷静に考えれば当然だ。僕だけが特別なんて、そんな都合のいい話があるわけがない。
「一番先に正解した挑戦者には、私から特別なご褒美をあげる。そうだな、ほっぺにチュウとか。あ、今の時代はセクハラになるのかな?」
先生がわざとらしく唇を尖らせた。
先に言ってくれ! 話が違う。そんなご褒美があるなら、絶対に他の奴に先を越されるわけにはいかない!
「自分が『世界で最初に見つけた』と証明するためには、正確な日付と時間の記録が不可欠」
先生がパチンとウインクする。あ、また僕の反応を面白がっているな。
「でも、日付なんて、後からいくらでも書き換えられませんか?」
「毎回きっちりデータと日時がセットで記録されているノートAと、発見した日の日付だけがポツンと書かれたノートB。どちらのノートを信用するか? 私ならノートAを選ぶ。そういう話さ」
「……じゃあ、その、僕のライバルっていうのは、もういるんですか?」
「今のところは、まだいないよ。――『まだ』ね」
含みのある言い方に、胸がざわついた。
正直、実験ノートの正しい取り方なんて授業では教わらない。僕たちはいつも、黒板の文字を必死になって綺麗に写すだけだ。
「他にも、何かアドバイスはありますか?」
「5W1Hを意識するのは勿論だけど、単なる結果だけじゃなく『考察』……つまり、自分がどう感じたかをメモするのはとてもいい。たとえば、この記述なんて最高」
先生の、薄いピンク色のマニキュアが塗られた爪が、ノートの最下部をトントンと叩いた。
『先生のにほい、なんだろう? 甘くて、少し落ち着かない』
「ちなみに私の香水はね、パチュリという植物の精油をベースに、自分で抽出して調香したものさ。独特の墨汁のような土のような香りがするだろう?」
「あ、うあ……っ!」
顔から火が出る、とはまさにこのことだ。まさかそんな恥ずかしいメモまで見られているなんて思わず、僕は慌ててノートを胸に抱え込むようにして隠した。
「ち、違います! それはただの……その! 理科準備室の匂いがいつもと違うなと思って、純粋な環境変化の記録としてですね……!」
「ふふ、いいよ、言い訳しなくても。五感を鋭敏にして、小さな変化に気づけるようになるには日頃の訓練が欠かせないからね」
メルク先生は、僕の狼狽ぶりをこれ以上ないほど楽しそうに眺めながら、意地悪く微笑んだ。その時、室内に鋭いチャイムが鳴り響いた。
『メルク先生。お伝えしたいことがあります。至急、校長室までお越しください。繰り返します、メルク先生――』
「げっ、校長から呼び出しかぁ」
先生は「しまった」という顔をして、テヘ、と舌を出した。その仕草は、悪戯が見つかった子供そのものだった。
「まあ、今日はここまでにしましょう。僕も塾がありますし……あ、先生は先に行ってください。戸締りは僕がやっておきますから」
「悪いね、助かるよ! じゃあ、また明日!」
白衣を大きく翻し、嵐のように去っていく先生の背中を見送りながら、僕は思った。あの様子だと、また相当とんでもない実験をやらかしたに違いない、と。
第三章:密室、事件、熱力学
その日の夜、僕は一睡もできなかった。なぜなら「悪魔のゲーム」を箱に仕舞った明確な記憶が抜け落ちていたからだ。先生が飛び出していった後、夕日で染まった琥珀色の部屋で僕はパズルを解いて、先生にキスされる、そんな妄想に耽りながら部屋の片付けをして、鍵を閉めた。
「まさか、出しっぱなしにしてないよな……?」
翌日の午前中の授業は、全く頭に入らなかった。昼休みのチャイムが鳴ると同時に、弁当に誘う友人の声を振り切って、僕は理科準備室へと走った。
「……あれ、開いてる?」
鍵は確実に閉めたはずだった。恐る恐る扉を開ける。
「先生、いますか?」
静まり返った部屋の奥。長机の前で、白衣のメルク先生が硬直したように腕を組み、俯いていた。その視線の先には、やはり出しっぱなしになっていたボードがあった。
「すみません、先生! 昨日、僕がうっかり片付け忘れてしまって……」
言い訳をしながら近付いた僕は、先生のただならぬ気配に言葉を失った。先生は何も言わず、ただ、ボードの上を指差している。 その盤面を覗き込んだ瞬間、僕の思考は完全に停止した。
「あ……」
・・青
赤黒・
ホワイトボードに書かれていた「ゴール」の配置、それががそこにあった。
悪魔のゲームが、解かれていたのだ。
この瞬間、悪魔のゲームは「解けるかどうかも分からない理不尽な玩具」から、「明確に解が存在するパズル」へと収束した。
パンドラの箱の底に残ったのは希望だというけれど、その箱を再び開ける手段が分からない人間にとって、それは本当に希望なんだろうか。
その日の僕は、実験ノートにそう書残している。
「僕以外の……挑戦者が、ここに来たんですか?」
メルク先生は、ゆっくりと首を横に振った。
「このパズルの存在を知っているのは、私と……君だけ」
先生が一瞬、言葉を詰まらせたのが妙に引っかかった。
「じゃあ、誰かが鍵を破って侵入したんじゃ」
「それはない。この部屋の鍵の開閉履歴を調べたけど、昨夜は君が最後だった」
「開閉履歴? 普通の鍵にそんなもの……」
「あっ」という顔をして、先生は人差し指を自分の唇に当てた。
「他の先生には内緒だよ? 実はこの部屋には結界......いや、鍵を改造してあってね。ログが残るようにしてある」
つまり、この部屋は完全なる密室だった。
『密室悪魔のゲーム正解事件』
恐ろしく語呂が悪いな。
「ヴェーラー君、昨日の段階での最後の盤面はノートに記録してあるかい?」
僕はノートを開き、記憶を掘り起こして首を振った。
「昨日は、結果がループする事を報告して、その後は触っていないです」
「じゃあ、最後はループに入る二つの状態のどちらかということだね」
赤・・ または 赤黒青
・黒青 ・・・
「本当に、解けるんですね。このゲーム」
「……『知らない』と言ったら、嘘になるかな」
先生の声音には、いつにない躊躇いが混ざっていた。
「十年前に、私は一度だけ、このゴール状態を見たことがあるんだ」
十年前って。先生、一体いくつなんだ?
「このゲームを作ったのは、私の恩師の先生さ。パズル作りが好きな人でね……これはその人の遺作なんだ。ある日、私の机の上に、このゴール状態でぽつんと置かれていた。それ以来、誰も解法を再現できていない」
先生は、ひどく遠い目をしていた。その横顔があまりに切なくて、胸が締め付けられる。
「あ、ごめんごめん! しんみりしちゃったね」
先生がいつもの調子に戻ろうと笑顔を作った、その時だった。
チ、と小さな音がして、誰も触れていない青い玉が、滑らかに下へと動き出した。
・・・
赤黒青
僕と先生は、息を呑んで顔を見合わせた。
第四章:等価交換、特許、セフィロト
「要するに、放置プレイってことか?」
「『プレイ』をつけるな」
季節は流れ、学校は一学期の期末試験期間に突入した。当然、理科準備室への生徒の立ち入りは一ヶ月近く制限され、悪魔のゲームの検証は完全にストップしていた。それどころか、メルク先生の顔すらまともに見られない日々が続いていた。
「そのパズル、放っておくと勝手に動いて解けるんだろ?」
友人のフーヴァーが、購買の弁当を頬張りながら呑気に尋ねてくる。
「最初はそう思ったんだ。でも、違った」
「どういうことだよ」
「試験前に何度か、夜間に放置して翌朝確認する実験をしてみたんだ。確かに、勝手に配置が変わっている。だけど、毎回ゴールするわけじゃない。成功確率はだいたい5回に1回。ほとんどの場合は、例の無限ループパターンになる」
「うーん、気まぐれな悪魔だな」
しばらく顎をさすって考えていたフーヴァーは、やがて大袈裟に深く頷いた。
「分かったぞ、ワトソン君」
「さすがクラス一の天才! 何が分かったんだ?」
「人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない。何かを得るためには、同等の代価が必要。……これすなわち、等価交換の原則」
フーヴァーの箸が、僕のお弁当箱の中のミートボールを電光石火の早業で突き刺した。僕が楽しみに取っておいた最後の一個だ。
「おい! 何するんだよ!」
「真理に辿り着くための代価さ。お前のお姉ちゃんが作るミートボールは絶品だな」
「ちっ、いいから解説しろ!」
「要するにさ」
フーヴァーはモグモグと咀嚼しながら言った。
「そういう『仕様』のパズルなんだろ」
「お前なあ」
「いや、半分冗談で、半分本気だぞ。お前の話を聞く限り、それってパズルっていうより、シミュレーターぽい挙動だし。 知らんけど」
「何のシミュレーターだよ」
「メルク先生は理科の教師だろ? 物理とか、化学とか? 知らんけど」
「『知らんけど』って言えば許されると思うなよ」
「それよりさぁ」
フーヴァーが急に真面目なトーンになり、箸を置いた。
「期末が終わったら進路相談だろ。お前、もう決めたのか?」
「いや……まだ。自分が何をしたいのか、よく分からなくて」
「メルク先生に熱を上げるのは自由だけどさ、そろそろ将来のことも考えないと後で苦労するぞ」
「そういうお前はどうなんだよ」
「俺? 俺はプロゲーマーと決めている。二年後に世界王者に俺はなる。間違いない」
「……お前に相談した僕がバカだったよ」
「ため息つくなよ、ツキが逃げるぜ?」
そんな軽い会話を交わすうちに、昼休みはあっという間に終わってしまった。
実際問題、僕はあの悪魔のゲームに没頭することで、将来への不安から現実逃避していたのかもしれない。将来を本気で選択しなければならない時期が、すぐそこまで来ていることは分かっていた。
僕は実験ノートを開き、その日の考察欄に、パズルのことではなく、自分の割り切れない将来への不安をそっと書き記した。
第五章:ままならない現実、セレンディピティ、ブレイクスルー
「世の中、ままならないな……」
放課後、僕とフーヴァーは薄暗い図書室にいた。あの日、フーヴァーが言った「シミュレーター説」がどうしても頭から離れず、手がかりを探しに来たのだ。
期末テストが明け、ようやく実験を再開できたものの、現実は忙しい。テストの点数に一喜一憂し、夏休みの補習や家族旅行の計画に追われ、何より肝心のメルク先生が長期間の出張に出てしまっていた。戻ってくるのは九月になるという。先生のいない準備室は、ただの臭くて不気味な物置のように感じた。
「よし、準備できたぞ」
フーヴァーが図書室の検索用PCの画面を叩く。視聴覚室のPCと違って、ここの端末にはお堅い閲覧制限フィルターがかかっていない。生徒の一部から「セキュリティホール」と呼ばれている、学校唯一の自由なネット接続環境だ。
「えーと、メルク先生の『先生』ってこれじゃないか?」
フーヴァーが画面の一角を指差す。
「……パテント?」
「特許だよ。ここに『Tetsu Munekura』って名前がある。普通は先頭の発明者が一番偉いから、この人がメルク先生の『先生』だろう」
「特許って、発明の? 一体何の発明なんだ?」
画面を覗き込んだ僕は、羅列された文字列にたじろいだ。
「暗号化されている!」
「アホ、ただの外語だろ。……タイトルは『リテプアピセ及びテロラヒドロリテプルリトクラの製造法』。要するに、薬の作り方の特許だな」
「魔法の呪文みたいだな。どんな薬なんだ?」
「おっと、ミートボール分の仕事はここまでだ。気になるなら自分で翻訳して調べな」
「外語は苦手なんだけどな……」
「必要に迫られれば、人間クソ力で読めるようになるもんだよ」
フーヴァーに呆れられながら画面を下にスクロールすると、いくつかの図解が出てきた。 複数の円と線が複雑に絡み合い、上下に伸びていくその構造図は――まるで、神話に出てくる生命の木のようだった。
***
発見って、世界の危機を救う勇者が伝説の剣を引き抜くような、荘厳なBGMと雷鳴と共に訪れるものだと思っていた。けれど、現実はひどく地味で、不格好なものだった。
「あ」
夏休みに入っても、僕は外語の補習を口実に学校へ残り、一人で準備室にこもっていた。
その日も、相変わらず成果の出ない実験に落胆し、諦めてボードを箱に仕舞おうとした時のことだ。連日の疲れからか、指先が滑ってボードを落としそうになった。
「おっと……!」
慌ててボードの端と、赤玉を鷲掴みにした。無理な体勢でバランスを崩し、床へ激突しそうになるのを、不格好に膝を突きながらなんとか堪えた。
「危な……かった……」
心臓がどうにかなりそうだ。
メルク先生がここにいなくて本当に良かった。
大切なゲームに傷付けでもしたら、もう会う顔がない。
呼吸を整え、机の上に戻したボードを見たとき――僕は、奇妙な違和感に気づいた。
玉が、これまで一度も見覚えのない配置になっていたのだ。
・黒青
赤・・
「……何だ、これ?」
何十回、何百回と試行を繰り返した実験の中で、このパターンが出現したことは一度もなかった。 慌てて実験ノートを見返す。最近のページは、将来への不安や先生に会えない寂しさを綴ったただの日記帳と化していたけれど、過去のデータは嘘をつかない。
「やっぱりだ。この配置は初めて」
僕は今起きたイレギュラーのプロセスを、日付、時間と共にノートへ殴り書きした。そして、ボードのリセットボタンを押す。パチンと音がして、玉は初期配置に戻る。
「再現……できるか?」
まずは普通に、赤玉を下に、黒青玉を上へ動かす。――だが、黒青に指が触れた瞬間、全ての玉が磁を帯びたように弾け、上段へと跳ね上がってしまった。お馴染みの失敗ループだ。
赤黒青
・・・
「ダメだ。ただ動かすだけじゃ、あの配置にはならない」
再び、リセット。
僕は、さっき「手が滑って転びそうになった時」の、自分の不恰好な姿勢と動きを脳内で巻き戻した。
両手でボードを持ち上げる。配置に変化はない。
左手を離す。ボードが自重で傾く。重力がかかる。
その状態で、赤玉を掴んで引いた。ボードが奥に傾いた瞬間――黒と青の玉が、滑らかに上段に移動した。
・黒青
赤・・
「……本当なのか?」
何回も実験を繰り返すうちに、僕は随分疑り深くなっていた。
新発見の喜びよりも、先に疑問が思い浮かんだ。何度もリセットを押し、同じ手順を繰り返す。ボードを特定の角度に傾け、黒青の玉を『直接触れずに』重力だけでコントロールする。この物理的な「お作法」を守れば、100%の確率でこの新規ルートを再現できることが分かった。
そうした上で、また、新しい疑問が浮かんだ。
「じゃあ、この状態で、次に黒玉を動かしたらどうなる?」
興奮で震える指先を伸ばし、黒玉をそっとつつく。
パチッ。
・・・
赤黒青
「あ、元の失敗パターンに戻った……」
落胆しかけた。けれど、僕は見逃さなかった。黒玉が動いた瞬間、隣の青玉が、ほんの一瞬だけ「出遅れて」動いたことを。
何かある。絶対に、この先に正解がある。
鼓膜を震わせる鼓動を感じながら、もう一度リセットボタンに手を伸ばした、その時だった。
「ガララララッ!!」
理科準備室の引き戸が、壊れるような勢いで開け放たれた。
「こらぁ! 下校時間はとっくに過ぎとるぞ! 何をしとるか!」
竹刀を引っ提げた、生活指導の「ゴリラ」の怒声が鼓膜を震わせた。気がつけば、窓の外は完全に夜の闇に沈んでいた。僕は慌ててノートを鞄に押し込み準備室を後にした。
第六章:薔薇、指輪、プロセス、始まりの終わり
それからの夏休み後半、僕は外語の補習をフル活用して準備室に入り浸り、密かに研究を重ねた。
・・・ → ・黒青
赤黒青 赤・・
この段階からの変化も思った以上に難解だった。黒玉と青玉の「動く速度の差」を利用するために、ボードを傾ける角度、力のかけ方、それらを何十回、何百回と繰り返して記録した。そして――。 試行錯誤の末、僕はついに「ある方法」に辿り着いた。
9月1日。始業式。
新学期のガイダンスが終わり、教室は久しぶりに再会した友人たちの雑談で爆発していた。カラオケに行こうという誘いを、フーヴァーが「ヴェーラーはこれから大事な儀式があるから」と上手く引き剥がしてくれた。
僕は弾かれるように、理科準備室へと足を向けた。
重い扉を開けた瞬間、室内に満ちていたのは、いつものグアヤコール。
そして、気高く気品のある薔薇の香り。
「やあ、久しぶり。その顔は、何かいいことがあったね、ヴェーラー君」
そこに、相変わらず美人で、ミステリアスなメルク先生が立っていた。
出張前と何一つ変わらない、吸い込まれそうな笑顔。……けれど、一つ違いがあった。
先生が髪をかきあげた左手の薬指に、きらりと光るシンプルな銀色の指輪。
「お久しぶりです、先生」
僕は胸の奥がツンと痛むのを無視して、何も言わずに棚から「悪魔のゲーム」を取り出し、古い長机の上に置いた。先生に、僕のひと夏の成果を見せるために。
まず、赤玉を引き下げたままボードを奥に傾け、重力で黒青玉を上に移動させる。
それから、反対側に回り込んで、黒玉に息を吹きかける。
これが、僕が見つけた正解の手順。
呼気による微小な力が青玉を置き去りにして黒玉だけを滑らかに下にスライドさせた。
【スタート】 【ゴール】
赤・・ → ・・青
・黒青 赤黒・
カチリ、と美しい音がして、3つの玉が完全に固定された。
ああ、終わってしまった。
盤上のゴール状態をじっと見つめていたメルク先生は、驚きに目を見開いた後、心底愛おしそうに目を細め、静かに頷いた。
先生が右手を僕の前に突き出し、上下に振る。僕はその手を、しっかりと握り返した。
「おめでとう、ヴェーラー君。盤自体を動かすという三次元的なブレイクスルー。そして、一見無駄に見える黒玉の挙動。それがゴールへと導く経路だったんだね。見事な、本当に見事な証明だよ」
夕日を浴びて微笑むメルク先生は、これまでで一番綺麗だった。
「ヴェーラー君。君に、伝えておきたいことがあるんだ」
先生の左手、薬指の銀色の指輪が、夕日を反射して一瞬だけ金色にギラリと輝いた。
「……何でしょうか」
僕は背筋を伸ばし、冷静を装いながら、覚悟を決めてその言葉を待った。
「実は、玉の数がもっと多いゲームがあるんだけど、やってみない?」
「……え?」
先生の口から飛び出した全く予想していない告白に、僕は情けない生返事しか返せなかった。 先生は悪戯っぽく笑いながら、書棚から分厚い専門書を抜き出し、僕の目の前にドンと置いた。
その背表紙には、金文字でこう刻まれていた。
『プロセス化学総論』
「このパズルを解き明かした君なら、きっと素晴らしい研究者になれる。どうかな、進路の選択肢に入れてみない?」
悪魔のゲームは、僕の初恋と一緒に終わった。
でも、僕のままならない研究生活は、ここから始まったのだ。
(悪魔のゲーム おわり)
補足資料
作中の玉の動き。
第一章
第一試行
赤・・ → 赤黒青
・黒青 ・・・
赤黒青 → 赤・・
・・・ ・黒青
赤・・ → 赤黒青
・黒青 ・・・
第二試行
赤・・ → ・・・
・黒青 赤黒青
・・・ → 赤黒青
赤黒青 ・・・
以下繰り返し
赤・・ ←→ 赤黒青
・黒青 ・・・
第二章
赤・・ → 赤黒青
・黒青 ・・・
ここで放置した。
第三章
放置した結果
・・青
赤黒・
・・青 → ・・・
赤黒・ 赤黒青
第四章
赤・・ → 赤黒青
・黒青 ・・・
放置すると5回に4回はこの状態になる
赤黒青 → 赤・・
・・・ ・黒青
放置すると5回に1回はこの状態になる
赤黒青 → ・・青
・・・ 赤黒・
第五章
偶然の発見
赤・・ → ・黒青
・黒青 赤・・
失敗パターンの確認
赤・・ → ・・・
・黒青 赤黒青
・・・ → 赤黒青
赤黒青 ・・・
偶然の発見の再確認
赤・・ → ・・・
・黒青 赤黒青
・・・ → ・黒青
赤黒青 赤・・
黒を動かす
・黒青 → ・・・
赤・・ 赤黒青
第六章
赤・・ → ・・・
・黒青 赤黒青
・・・ → ・黒青
赤黒青 赤・・
・黒青 → ・・青
赤・・ 赤黒・




