第七話 灰
幼いアンガーが見つめているのは大きな岩の上。それは他の者が上がる事は許されない王座である。
気高く勇ましい白い鬣が、火のようになびく。百獣の白王、クラウド。アンガーの父。眩しい陽の光に目を渋らせ草原を見渡す姿は、森羅万象を愛おしく思う理想の王様そのもの。
そしてまだまだ小さく弱々しいアンガーの絶対の存在だった。負ける事など有り得ない、折れる事のない心を体現した唯一無二の父は、アンガーの誇りだった。
「いてっ!」
瞳を輝かせ、固まるアンガーにちょっかいを出した子ライオン。
「何ぼけっとしてんだ!」
兄のウーラノス。長男だ。
「痛いよウーラノス!」
やり返そうと、飛びつくアンガー。
「母さん達の狩の時間だ。見に行くだろ?」
そう言って横から入ってきたのは、次男ニエーバ。
「行くさ! こいつが邪魔しなきゃね! 」
兄を追いかけるアンガー。
「何何! 私も混ぜて! あはは! 」
笑って駆けっこに参加してきたのは妹のラニ。
「あー辞め辞め。まーた俺がラニを怪我させたって怒られるんだからな」
ウーラノスが止まり、勢い余ってぶつかったアンガー。その背中にラニも衝突した。
鼻を打ったラニが、涙目でアンガーを見る。
「え!? 俺!? 」
「うわーーーーーーん! 」
「ええええ! ごめんよ〜! 」
ラニは大袈裟に泣き出す。焦るアンガーをウーラノスは笑った。
「っは!! 今日は俺に罪は無いのだ!」
「兄さんが、急に止まったからでしょ? 悪いけど母さんには俺が言うからね」
笑うウーラノスを横目に言うニエーバ。
「は! お前! ・・・ 俺の今日の肉ちょっとあげるか・・ 」
「ダメ」
うつむくウーラノス。少し微笑むニエーバ。
これがいつもの日常。なんやかんやで仲の良い家族。王家と言えど一般と違いないごく普通の生活。しかしそれ以上の幸せなど、ここでは存在しないのだ。
王が目を瞑った。
その瞼の裏に広がるのは、子供がじゃれ合い、大人が寄り添い合う姿。太陽は金色に世界を照らし、その温もりに包まれ輝く大地。揺れ動き、咲いては散る、生まれては死ぬ、限りある全ての命の死活の上に、ほんの僅かに存在する幸せを見る。
そして轟いた。偉大なる王の声。それはきっと世界の裏まで届くだろう。
サバンナに住む全ての生き物が、その声を聴いて立ち止まる。
王の言葉。膨れ上がる感情に形ある文字はいらなかった。
ただその命の光熱の昂揚を、全ての生き物が感じていた。
「アンガー兄ちゃん、どうして泣いてるの?」
兄の涙を見て、自分が泣くのをやめたラニが言う。
「えっ? 」
アンガー自信気づかなかった。ただ震えていた。心と心臓が、共鳴していた。
「なんでもないよ! やっぱ父ちゃんはすごい! 俺もいつかあんな風になりたい! 」
「ふふ! 私もー! 」
すっかり元気になったラニも続けていった。
「ラニは、女の子だろ? 」
ニエーバが微笑んで優しく言った。
「お前じゃ無理だな! 俺がなるんだからな! 」
ウーラノスはそういうとまたアンガーの顔に軽いパンチのような猫のジャレ合いを持ちかけた。
「負けるもんか! 」
アンガーは有り余るオーラを漲らせてまた追いかけた。
家族、兄弟、みんながいるこの当たり前の現実が、どれだけ幸せな事だったのか。この時のアンガーはまだ知らない。
「くそ、なんでこんな時に思い出すんだ」
空とアンガーの家。梁の上の隅。いつもの寝場所にアンガーはいた。
「ごめん・・・ ごめん空」
うずくまり、頭を両手で押さえた。
「父ちゃん、どうして・・・ 俺、戦えないよ・・・」
外は珍しく雨が降っていた。屋根や、木の葉に打ち付けられる雨音が、アンガーをより深い過去に浸した。
どうして守ってくれなかったの?
アンガーの意識はまた、幼い自分へと移った。
「凄かったね。母さん達の狩り」
「逃げれるわけがねーよ。狙われたら終わりだね」
一緒に草木の茂みから見ていたウーラノス兄弟。
長男と次男の会話が続く。
「この間もうちの群れ《プライド》を横取りしようって若い奴が父さんと決闘しに来たらしいよ」
「ぇえ? 俺聞いてねぇよ! どうなった? 」
「俺も聞きたい! 」
アンガーも食い気味に聞いた。
「言うまでもないでしょ? 当然、父さんの圧勝さ。一撃で帰って行ったってさ」
自分の事のようにニエーバは自慢した。
「うわあー! まじで見たかっ・・・ 」
「うるさい! ラニが起きちゃう」
興奮したウーラノスをニエーバは抑制する。
「父ちゃんは、最強だね」
アンガーは嬉しそうに言った。
「ああ、ここらはそのおかげで平和になった。親父が死ぬまではずっと安泰だろーぜ」
「死ぬなんて言うなよ。縁起でもない」
「おしっこーーーーー!」
会話を押しのけてラニが叫んだ。
「おっしこ行こうね」
アンガーはラニを連れて茂みを出た。
「ま、それまでには俺もでっかくなって一族繁栄の為に戦うさ。さっそく親父に強さの秘訣でも聞いてこようぜ」
「たまには長男らしい事言うじゃない」
「たまにだからいいんだよ。それが俺のオスの美学」
「はいはい。かっこいいかっこいい」
楽しい会話を繰り返しながら、ウーラノスとニエーバは、父の元へと向かった。
その晩、家族は王の座の周り集まっていた。
夜空に輝く満天の星を眺める時間。大切なひと時だ。
「親父、強くなるにはどうしたらいいんだ? 」
王座に重い体重をどっしりのせて寝そべる父に、早速ウーラノスは尋ねた。
少しの間沈黙が続き、クラウドは口を開いた。
「勝つ事だ」
「勝つためにはどうしたらいいのですか? 」
ニエーバは続けて聞く。
「負けない事だ」
「じゃあ負けない為にはどうしたらいいの?」
アンガーは聞いた。
「生き抜く事だ」
ラニは寝ていた。
それを見たウーラノスは、自分の番だと気付いた。
「生き抜く為には・・・」
「もういいでしょ。父さんは疲れてるの」
母親のレインが話のノリを切った。
「いいんだレイン」
クラウドは笑って言った。
「ウーラノス。お前は長男だ。その矜持をもってみんなを守る事が勤めだ。恵まれた体格に見合うように誇り高く戦え」
「わかった」
素直に頷くウーラノス。
「ニエーバ。賢いのは母さん似だ。その冷静さで家族と王を支えるのが勤めだ。生き抜く術を考え抜きなさい」
「はい! 」
姿勢を正し、良い返事をした。
「アンガー。お前は優しすぎる。しかし、それがお前の良いところでもある。その愛情で、悲しみも苦しみも全部、包み込んであげなさい」
「うん」
「ラニ。お前は・・・ 」
スヤスヤと眠るラニを見て微笑むクラウド。
「アンガー、ラニを頼んだぞ」
「うん」
アンガーも微笑んで言った。
「さぁもう寝なさい。母さんはまた狩があるから」
レインが大きな腕で子供達をすくうように集めた。
「はーい」
兄弟は集まって体を寄せ合い眠りについた。
「おやすみ、私の空達」
クラウドとレインも寄り添った。きっとこの温もりは、愛以外の何物でもないのだろう。
冷える夜空の下、美しい無限の星々にも負けない光は、確かにそこにあったのだ。
夜が明けてもまだ眠いくらいの時間、ニエーバの声が、兄弟を起こした。
「なんだようるせーなー」
「決闘だよ! 今日こそ見ようよ! 」
「何! 流石我が弟! 行くぞ! 」
飛び上がって起きたウーラノスと共に、決闘の場へ走って行った。
「えっどこに行くのー? 」
まだ起きたばかりのアンガーは、走って行く兄弟の後ろ姿を睡魔のボヤのなかで見ていた。
しかし眠りの誘いに勝てず、また目を閉じてしまった。
アンガーは瞬きをしたつもりだったが、次に目を開けた時はもう昼になっていた。
「えっ嘘。ラニ起きて! 行くよ! 」
「何処行くのー? まだ眠いよー」
アンガーはすぐに体を起こし、ラニの首元をくわえて引きずるように歩いていった。
丘を越えて、草木を抜けた先に、兄達の背中が見えた。
「どうなったの! 遅れちゃった! 」
アンガーは到着と同時に聞き、ラニを下ろして決闘の現場を目視した。
そこには、白いライオンが二頭のライオンの下敷きになっていた。白い毛の合間に見える赤いところは、酷く割れているようだ。
「えっと・・・」
アンガーは言葉を詰まらせた。
「負けたよ。親父は死んだ」
「兄さん、なんてこというんだ。縁起でもない」
「ニエーバ・・・ 」
「兄さんは、本当に性格悪いよね」
「黙れニエーバ」
「父さんが、負ける訳・・・」
「しっかりしろニエーバ! 」
ウーラノスはニエーバの頭を叩き怒鳴った。
兄の激昂にアンガーはビックリして身をうずくめた。
「いいか。もう、今までの暮らしは終わった。すぐ逃げるんだ! ニエーバ! お前が弟達を連れて行け! 」
「何言ってる・・・ 」
「親父は歳だった! 度重なる決闘の怪我で弱ってた! お前だって知ってるだろ! 」
「あぁ、ああぁ」
動揺するニエーバをなんとか正気にさせたいウーラノスは続けた。
「親父は、死んだんだ! 」
その時、クラウドを殺したライオンの一頭が、こちらに気づいた。
「ちっ!。アンガー、ニエーバを連れて行け! 」
「えっと・・・ その・・・ 」
「早く! 」
「ああわかった! 」
状況の整理が出来ないまま、ニエーバを強く押して動かし逃げ始めた。
「ラニ! しっかりついてこいよ!」
「兄ちゃん! なんか怖いよ! 」
「だ、大丈夫! なんとかなるって! 」
そう言って振り返り、ウーラノスの方見ると、あのライオンはもうウーラノスの前にいた。
ウーラノスは、そのライオンのめまぐるしい早さの一撃をくらい、ぐるぐる回りながら目にも留まらぬ早さで真横に吹っ飛んで行った。
ただただ瞳孔を限界まで開き、言葉の出ない恐怖と共に、とにかく走った。
何が起きてるんだ? 一体。いきなりどうしたんだみんな。
状況を理解する暇もなく、アンガーは振り返らず走る。走るしかなかった。
一度でも後ろを見てしまったら、また何かがあっけなく消えてしまいそうで。
でも見ない事には何もわからない。
決死の覚悟で振り返ると、ニエーバは立ち止まっていた。
それを見てアンガーの感情はすぐに爆発した。
「何をやってんだああああ! 」
すぐにニエーバのところへ引き返そうとした。
「くるな! お前はラニを守るんだ! 」
「ニエーバは俺たちを助けるんだろ!? 」
「これがそれだ! 」
アンガーは立ち止まって言い返せなかった。偉大な父との約束だからだ。
「このままいけば草木の茂るところがある。そこならなんとかなるかもしれない! 行け! 」
「でもニエーバは・・・ 」
「お前は優し過ぎるんだ! 」
そう叫んだニエーバの前に、奴は追いついていた。
「時には怒らなきゃいけないときがある事を覚えとけ」
そう言葉を残してニエーバは、ライオンに向かって飛びかかった。ニエーバの体程の大きさの顔面に向かって。
すると彼の頭は、すっぽりとライオンの口に入ってしまった。そしてゴキッという鈍い音と共に、ライオンの口から血が噴き出した。
「うわああああああああああ! 」
アンガーはとっさにラニをくわえて走り出した。ラニに揺さぶられながらも必死で駆ける。
しかし直ぐに奴はもうそこまで来ている。そう全身が毛を逆立てて反応していた。
ダメだ・・・ 死ぬ!
背中に近づく大きな爪を感じながら、丘の頂点から飛んだ。暗い瞼の裏で、大きな腕に叩き落される自分を連想した。
一瞬だった。今までの幸せが崩れるのは。
当たり前だと思っていた日常が、消えてしまうのは。
何で? 何が起きたの? 何のせいなの? 誰が悪いの?
世界はこんなにも恐ろしかったのか。
それと同時だった。口元で揺れていたラニが、自力でもがき始めたのは。
くわえている感覚が薄れて、すっぽりとラニの首の肉が口から抜けた瞬間に、尋常でない程の焦りを感じた。
空中で下に落ちて行くラニをもう一度くわえようと、首を伸ばして噛み付こうとするが届かない。
流れが緩やかになり始めた時の中で、ラニは言った。
「兄ちゃんは、生きなきゃダメだよ」
悲しみをこらえた笑顔を見せるラニの顔を見て、アンガーはより一層急いてくわえようと空中でもがいた。
「ダメだ!そんな・・・」
頼むから。消えないで。
「生き抜く為には・・・」
ラニは喋り出した。
「生き抜く為は、逃げる事だよ」
それは地獄への入り口へ落ちていくラニが残した最後の言葉だった。大きな大きな魔物の口の中へ、吸い込まれていく。
「ああああああああああああ! 」
そのままアンガーは地面に着地して、茂みまで駆け抜けた。
ライオンがラニを砕くのを囮にして。
茂みに入り、草木の深い所まで潜ってアンガーは、倒れるように転がった。
流れ続ける涙の水滴の中には、一刻前までの家族の姿が写っていた。
ほんのニ、三分。たったそれだけの出来事で、何年も守られて来た営みはあの顎に砕かれた。
なんて脆かったんだ。命も、家族も、王も。
どうして負けちゃったんだ父ちゃん。
オイラは、オイラは・・・
「立派なプライドを持つ王様になるんじゃなかったのか」
馴染みのある声が、梁の上で泣いていたアンガーへと意識が戻された。
頭を起こし玄関を見ると空がいた。またボロボロの姿で、雨に濡れた薄い血に塗れて。
「・・・ 」
かける言葉など何一つも無かった。アンガーは自分の行った事の意味を誰よりも知っていた。
生きる為に逃げた。逃げる為に殺した。
殺した、つもりだった。




