第四話 着火
この大き過ぎる未知はまた空の心を刺激した。風は先程までとは少し違い、何処か尖っているように感じる。
先が見えない。どこまでがこのエリアなのか全くわからない。ただただ大小の丘がうねり、大地が広がっている。
はるか彼方に見える地平線の上には、森らしき影が見える。
腰くらいの丈の草が枯れた色をしていて、風に波打っている。薄く褪せた色の空は、とても広く巨大になった気がした。
そしておそらくこの世界で一番標高のあるであろう山が背景を飾っている。尋常でない存在感を放っており、威圧的に偉大さを物語る。空気が澄んでいるからか、山に生える木々の一つ一つがよく見える。それが一体となった巨大な緑の怪獣のようで、今にも近づいて来そうだ。
そして、そこら中に蠢く生き物がいる。とても遠い所にも近いところにも、たくさんいる。
牛のような生き物。おそらくスイギュウ。群れをなしてる。
牛とは少し種類が違うような、おそらくヌーというものも。
一見出来るのはシマウマ。首の長い斑点模様のキリン。あとはゾウ。あれは間違いなくゾウの群れだ。
それぞれが種族ごとに集まり、動いている。歩いては、グダグダしている。
これでもまだまだ言えないほど量の動物がいるようだ。
ヤギのような鹿のような奴。木には猿もいるようだ。
これほど力強い景色は初めて見た。
海や空の美しさとはまた違う。地を踏みしめて生きているもの達の心臓の鼓動が、大地を震わせている。
それだけの生き物がいる。いったいどれほどの大きさなんだ。この平原は。
いや、この世界は。
少しはここを知った気でいたが、未知の大きさこそ未知である事を眼前に叩きつけられ背筋がゾッとした。
ひたりと頬を汗が流れる。圧倒的なものというのは強制的に感動を伴う。それでいて恐怖となり得る。
大きな謎を収穫に、空は岩を降りた。
川の中に置いていた沈んだ籠を拾おうとして近づくと、籠の中に魚が泳いでいる。
「まじか!」
これはチャンス。絵に描いたようなチャンスだ。逃すわけにはいかん。
空は集中した。気づかれないように籠に手を伸ばし、そっと掴む。
そして引き上げた。ふつうに。
「うわまじで!? やった!」
籠の中をバタバタと跳ねる二十センチくらいの魚を捕らえた。嬉しさのあまり飛び跳ねて喜んだ。すると滑って転んだが、魚は落とさなかった。
「うっへっへっへ!」
早速戻ってアンガーに見せた。
「見ろよアンガー! 大漁だぜ! 」
勢いよくドアを開け靴を飛ばし床へ上がる。
「おおお! サカナ! 」
アンガーも興味津々で走ってきた。
「食べよう! 」
そういって名前のわからないヌメヌメの魚を掴んでみせた。
「どうやって食うんだ? 」
アンガーが淡々と言った。
「・・・」
空は黙った。火がない。生で食べるしかない。でも川魚ってそもそも生で良いんだっけ?
分からないことがありすぎて戸惑った。しかし食べなければいけない。どうにかして。
朝よりも強烈に体を支配していた空腹感で、空は考えることから逃げた。
「そ、そのまま食うんだ! 」
衝動的に魚の背中にかぶりついた。魚は驚いたようにビクビク動いた。
一秒後、手のぬめり、魚の動き、生臭さ、川の藻の匂い。全てが一体となって五感を突いた。
「おぅええええ! 」
魚を手放して床へ落とし、気持ち悪さで胃液を吐き出した。
魚の身は食べきれなかった。噛み切る勇気がなく、歯型を残しただけだった。
「あぁ、むりだ・・・俺には食えない・・・」
顎に垂れた唾液を手でぬぐう。
「じゃあオイラが食うぞ? 」
躊躇なくあたりまえのようにかぶりついた。一噛みで魚は真っ二つになった。ボリボリと骨まで食べている。
「す、すごいな。さすが猛獣様。あぁまだ気持ち悪」
吐き気が止まらない。その度に唾を吐いた。
「情けないぜ人間」
残りの半分も綺麗に跡形なく平らげた。
「んーオイラは魚よりも肉が食べたいぞ! 」
まだまだ収まらない食欲を目に写してアンガーが言う。
「なんだよー。喜ぶと思って折角取ってきたのに。」
「ライオンは肉食だぞ? 魚では満腹にはならんぞ! 」
「知るかよ。文句があるなら裏のサバンナでゾウでも狩に行けば良いだろう? 」
偉そうな物言いに、苛立ちを覚える。
「だから狩りに行くのはもっと大きくなってからなの! それに雄はしないものだ!」
「じゃあそれまで俺はお前の食事係を続けなきゃいけないのか!? 」
「お母さん達はずっとそうしてくれた! 」
「俺はお母さんじゃない! それに子供は母親を手伝うものだ! 」
「オイラはライオンだ人間なんかと一緒にするな!」
「そーかよ。ライオンはよっぽど偉いんだな。特に雄は一日中なーんにもせずにグダグダしてるだけだもんな。相当暇なんだろうな! 」
「なんだと! 侮辱したな! 」
ピリついた空気が漂う。
二人は立ち上がり、にらみ合う。
自分より大きな体をもっている空に対抗して、全身の毛を逆立てて威嚇する。
空の感情の昂まりを、先程の吐き気と、疲労と空腹が後押しした。湧き上がる怒りが、全身に麻酔をかける。猛獣がどうしたと言わんばかりに。
空はそのままジワリと一歩近づいた。するとアンガーは、以外にも一歩引き下がったのだ。
その時のアンガーの表情を見て、空は大きく動揺した。
どうしていいかわからなくなり、途端に家を飛び出した。
裸足のまま、やみくもに走り続けて森を抜け川まで来た。
「はぁ、はぁ・・・ 俺なにしてんだ。」
膝に手をついて荒い呼吸を整える。呼吸音が止むと、川のせせらぎが聞こえた。
また昨日と変わらない夕日が川を照らしている。
「なんであんな事いっちゃったんだ。・・・あんな顔、させるなんて」
まるで化け物を相手にしているような疑心の目と、恐れと防御を意味するように倒れた耳。
すぐに後悔した。
怖がらせるつもりはなかった。
心にも無い事をその場の感情だけで言ってしまった。
いや本当に心にも無かったのか?
私欲のために扱われる環境に覚えがあったから余計ムカついていたんじゃないのか。思い出と重なったんだ。
「アンガーも、あいつらと一緒なのか? 」
そう呟いた時、キリキリと腹部を違和感が突く。それはすぐにはっきりと痛みに変わった。
「いてててて! 腹いた! 」
茂みに入りズボンを下ろした。
下痢だった。ヤシの実が悪かったのか。魚が効いたのか。あるいはストレスか。
どちらにせよ、その腹の気色悪さにまた怒った。
「いてて・・・ もー、なんなんだよ・・・」
腹をさすりながら、爆発してしまいそうな感情も必死に収めようとした。
落ちていく陽は相変わらずだ。風も、川も、何事もないかのようにただそこにあるだけ。何も言ってはくれない。憎いほどに。
下痢が落ち着いて、その辺の葉っぱで尻を拭き立ち上がった。
自分の排泄物を沈んだ目で見ながら、これをアンガーに投げたら怒るかな。なんて考えていた。特に意味はない。
空は川の上流向かった。岩壁を登る途中で木の棒を拾う。
いいじゃないか。食事係くらい。まだ小さい子供なんだ。俺が変わってあげないとな。
上について、サバンナを見渡した。やる事は分かっている。
狙いは子供。近いのはヌー。
駆け足で近寄って行った。群れの背後まで近寄る。
あと数メートルの地点で草むらにかがんで様子を伺った。
走り出すと、棒を抱えて一気に距離を詰め寄る。
作戦どおり、棒の間合いに入るまで大人のヌーは気づく事はなかった。
「いける! 」
遅れて空に気づいたヌー達は一斉にこちらを見る。唸り声が、空を急かす。
棒で叩こうとふりかざし、狙いを探す。
一撃で行動不能にできる場所。どこだ。腹、頭、目、鼻。
頭だ!
狙いを定めて、ふりおろそうとしたが、そのヌーの表情は、またアンガーのそれを想起させる。
手が止まった。殺すのか? こいつを? 俺が? こんなに怖がってるじゃないか! でも・・・
その刹那、激しい衝撃が左から衝突して来た。世界が揺れ、視線が地面から遠く離れていく。
真っ白な世界に意識は途絶えた。
夜が明け、また日が暮れようとしている頃、アンガーはまだ怒っていた。
「帰ってこないのか。ふん! どこへでも行ってしまえ! あんなやつ。」
もう何回も同じ事を言った。
寂しくなんかない。普通に戻っただけだ。いつもの。
「寂しくなんか」
空が汲んで来た水の便が倒れ、床が濡れている。ほとんど乾いてしまいそうだ。アンガーは梁を降りてそれに近づいて擦るように舐めた。
「喉乾いたなぁ」
尻をついて座り、窓の外を眺める。小鳥が自由に木の周りを飛んでいるのが見えた。
でもワクワクしない。全然誘惑されない。なんか胸が痛いんだ。
「どう、したらいいのかな?」
ぼそっと呟いた時に、草を踏む足音が聞こえてきた。
誰かが近づいてくる! きっと空だ!
飛んで喜んだが、そうと知られるのが恥ずかしかったアンガーは、隠れるように梁を登り待機した。
まだかな。
足音は大きくなって来た。
「ギィィィ」
ドアが開いた。やっぱり空だ!
梁に隠れているが、尻尾は勝手に揺れていた。
「肉は、また今度にしような」
その声が聞こえた後、バタっと音がした。
アンガーが覗くと、血だらけで服がボロボロの空が床に倒れている。
表情をガラリと変え、飛び降りたアンガーは、空の顔に近づいた。寝ているのだろうか。
「な、なんだ! 狩にでも失敗したのか? 情けないなぁ」
ツンと横を向いて言った。
しかし返事は無い。片目を開けて空を見ると、ぐったりしていて動きそうに無い。
「空?」
ジワジワと恐怖がアンガーを襲った。
アンガーはよく知っていた。段々冷たくなっていくあれを。
まじまじと空を見て、頭、腕、腹、足、色んなところから出ている血の量がひどい事を知る。
「えっと・・・どうしたら・・」
空の体から一歩下がって、動揺する。
「どうしたら・・・よかったの?」
声と同時に、涙が滲み出る。
小さな脳で考えてはいた。一晩。なんで空は怒ったのか。しかしわからなかった。
人間と動物。その違いの壁は、簡単には壊れそうにない。
ボロボロと落ちる悲しみの雨。
「オイラは・・・・ 守らなきゃいけないのに・・・ 守れてないじゃないか!」
細胞に染み付いた本能が、目覚め始めた瞬間だった。
アンガーは涙を堪えてドアを開け、恐る恐る外に出た。危険いっぱいの世界へ。
何か食べたら良くなるはずだ!
それから探し回った。海に行き、森に行き、しかし見つからない。
最後に見た空の顔色がフラッシュバックする度に、足乗りを加速した。
家の近辺を猛ダッシュで走り回る。そして川にたどり着いた。
「サカナだ! サカナは食える! 」
しかしこの川はアンガーには苦しい深さだ。それでも迷っている時間はない。
一気に飛び込んだ。うまく顔を水面に出すことでいっぱいで、魚を捕まえるどころではなかった。でもそれではダメだ。
頑張って水中に潜り魚を追った。しかし浮いた体は流されていく。
飛び込んでは流され、岸まで泳いではまた飛び込んだ。何度も何度も。
着水の音だけが、夕暮れの森に響いていく。
「くっそ! なんで! どうして! 」
その時、飛び込んだ先で底にある石に頭をぶつけた。
浮かび上がり、必死で息をした。水で視界がぼやける。
またオイラは一人になっちゃうの? 父ちゃん。
古い思い出の一ページを思い出した。
「いいか、アンガー。雄は強さが命だ。たとえ何があっても絶対に負けてはいけない。母さん達はすごく頑張ってる。俺たちはそれに負けないように、命をかけて守らなきゃいけないだ。」
「何を守るの?」
王は振り返らず、背中で語った。
「全てだ」
ふらふらの体を踏ん張らせながら、また魚の泳ぐ場所まで川沿いを歩く。
そして泳ぐ一匹の魚に狙いを定めた。
守るんだ。全部。
目の輝きを変えた。一切の迷い無い、肉食獣の独特の戦いの空気。
空間を支配し、全てのものが止まったように見えた瞬間、勢いよく飛んだ。狙った魚まで無駄のない直線に。
水につかる。しかし水飛沫も、音もほぼ存在し無かった。
そして少しだけ伸びた気がした牙が、ガッシリと魚の体を捉えた。
そのまま水面へ戻り岸まで泳ぎ、草むらに魚を投げた。
「まずは一匹!」
金色に輝いて揺れる川面。黄金の太陽の愛を響かせる空。木々に止まる小鳥達。
周囲を囲む世界は、小さな白い命の戦いが終わるまで見守った。
ドアが開いた。暗闇からビショビショに毛を濡らしたアンガーが入ってきて、加えていた一匹の魚を床に置いた。
「ごめんね、お返しいっぱいしたかったんだけど。取れなかったよ。」
クタクタの体が崩れるように足を伸ばし床に腹をつけ倒れた。目を開けてゆっくりと空に視線を送った。
空は座っていた。あぐらをかき、木の枝を持って。
驚いたような顔をしている。
「と、とって来てくれたのか? 」
なにやらやっていた作業を中止して、停止したまま空がいった。
「へへ。死んだのかと思ったよ。よかった。そうそう。オイラが取ったんだ」
くたびれて力のない声でゆっくり囁くように言った。
空は驚いた顔をした後、微笑んだ。
「ありがとう。アンガーは優しいんだな」
「ごめん。家族を守るのがオイラの役目だったんだ。どんな時も、危険な目にあったらオイラが守るんだ。そんな強い王様になりたいよ」
「そうか。なれるさ。お前なら」
空はそういって木の棒を木の皮の板に突き立てて、両手の平で擦るようにゴシゴシ回した。
「何してるの?」
アンガーが寝そべったまま言う。
空は止める事なく回し続け、板に棒の摩擦を当て続けた。
板の摩擦点から煙が出始める。しかし手を止めることなく、神社にお参りするように手を動かし続けた。
「こいこいこいこいこいこい・・・」
まさに願う。何億もの命を繋いで来た母なる温もりを。
煙の量が一定に立ち登る。摩擦で削れた黒いおがくずに赤いひびが見えた。
「来た! キタキタキタキタ!」
出来立てホヤホヤの火種を葉っぱで移動させる。手元に集めておいた枯れた細い草の塊に乗せて包んだ。そして優しく息を吹きかける。
途絶えさせるな。消えるな。
目を離せば一瞬で死んでしまいそうな生き物を育てるように。
そして枯草の着火剤にいきなり現れた命。空の瞳を照らした。
「うお!ついたぞおおおおおおおお」
ボッと勢いよく燃え上がる炎は空の感情に薫染する。
小さくてまだまだ弱々しい。しかし今ここで息をしている。確かに生きている。
「熱! あっちぃ!」
手に持ったままっだったのですぐに小枝の集まりの中へ置いて、火が移っていくのをまった。
「そ、それはなんなの!?」
アンガーは驚いて疲れを忘れて起きた。
「火だよ。アンガー」
アンガーが近づく。今にも触れてしまいそうな距離まで来る。
「痛え! すっごい痛かった!」
飛び上がって下がった。
「はは。熱いって言うんだよそれ。近づき過ぎちゃだめだ。火傷するぞ」
「なんか変な臭いだな」
「そうか? あ、やっべ床が焦げてる!」
なにも考えず床で燃やしていた。
急いで空は燃えている小枝をもって熱いのを我慢し土間に落とした。
「この穴ってもしかして」
土間にあった謎の石の台。足元にある横穴に、火を少しずつずらしていれてみた。
「そうか。竈門、だったのか」
しっくりくる絵だ。そこが寝床だったかように落ち着いた火は、安心しているように見える。
空は準備していた大きめの枝を何本か焚べる。
そしてかまどの前の床の段に座った。アンガーも隣に来て横になった。
「火ってことは篝火?」
アンガーが聞く。
「どうだろうな。これがそうなのかは俺にもわからない。でもきっとこれは、その一歩なんだと思うよ。俺たちの始まりの火」
「あったかいね」
二人の心を柔らかな温もりが包む。バチバチと音を鳴らしながら、部屋をほんのりと照らし昨夜とは全く違う空間をつくる。しかし違うのは景色だけではない。
お互いに何かを知った。必要な何かを感じた。
その新たな決意と、刻まれた互いの存在の大きさは、二人の目に灯る光が語る。
やがて窓から僅かに溢れる焚き火の明かりが見えなくなる。それはまた変わらず登る陽の光のせいだろう。




