第四十四話 心の波
後ろから激流のように迫ってくる溶岩に、焦りと恐怖が膨張する。
「空君! いいから早く逃げて! お願い! 」
空は黙ったまま、手を休めない。ボロボロになった左手で、また壁を殴る。
「空君! お願いだから・・・ 」
沸騰する感情が器を超えて流れ出る。
お願い・・・
壁に手を合わせ、空の殴る振動を微かに感じ取った。
なんで。なんでそこまで。
私なんかの為に・・・
わかんないよ私。何にもわからない。
「もうほっといてよ。もう、一人にしてよ」
泣き崩れながら叫んだ。
「もう変な希望持たせないでよ! 」
昂る感情で顔色が悪い。唇は赤く、震えていた。
「・・・このまま、逝きたいの」
空は手を止めた。
しかしまたすぐに振り被り、怒りの王打を打ち込む。
なんでだよ。
お前の声だろうが。
「逃げんなよ・・・」
激しい火花が顔を照らす。その火花に、空の涙が混じっていた事に気づいた。
確かにそう。
もういっそ、消えてなくなってしまえば何も感じなくて済む。何も考えなくて済むのに。
それでも、俺は生きた。君は生きてきた。
きっとただ、ほんの僅かに聴こえた、あの声の意味を知りたかったんだ。
「お前が叫んでたんだろうがあああああああああ! 」
攻撃が弾かれ膝を崩す。静かに乱れた息をする。
「胸の奥で・・・ ずっと叫んでいたじゃないか」
「そんなことない! そんなこと・・・ 」
涙ながら訴える伊都。
「俺には聴こえる。 ・・・聴こえたんだ」
「どうかしてるよ・・・ 」
「何一つ、蔑ろにされていい思いなんてないはずなんだ。誰も、置いていかない。どんな思いも、見捨てはしない。例え、神だろうが世界だろうが、お前を見捨てても。俺はお前を、独りにはしない! 」
また腕を振りかぶった。
「これからもずっと! ずっと、側にいるから! 」
燃え上がる思いが共鳴し、信じられない力を壁にぶち当てる。
「だから逃げるな! 向き合え! 疑え! 苦しくても、辛くても、それでもその小さな声を、拾い上げなきゃダメなんだ! 」
空の重い拳が、透明の壁を鈍く振動させる。
「何がお前を苦しめた! 何がお前を閉じ込めた! 」
大きく息を吸い込んで、弾け飛ぶエネルギーの中に叫んだ。
「お前は、お前にしか見つけ出せないんだあああ! 」
暖かく、それでいて厳しい思いを目の前にし、思考を停止した。ポロリポロリと涙は頬を伝い、過去が脳裏を巡る。
世界の全てが繕いで埋められて、本当の感情に向き合うことが許されなかった世界。
人生は、大成を残し、またそれを子孫に継がせていくためにある。
結果のみが人を判断する全て。
貴方のため。一族のため。
そこに感情は必要ない。個性は必要ない。
『私』は必要ない。
家族も、同級生も。
ただ目標を成すためだけのプロセスを歩む。
成績が良い人、家が金持ちの子。親が偉い人。賞を取った同級生。
結果を出した人は正しい。正しいから結果を出せる。
だからそんな人たちと交流を深めなさい。
いつか都合の良いことに使えるから。
そう教えられてきた。どこを見渡してもそんな世界だった。
私は楽だった。
悩みなんてない。悩む必要などない。
問題を客観的に見て、改善していくだけなのだから。数字が全てを物語るのだから、それ以外のことは考える必要はない。
たまに見る何者でもない民衆の一人が、
「頑張ったんだけどね、出来なかった」
そう泣いていた。
くだらないと、考える必要もなかった。
結果が出なければ意味など何もないでしょ。
私には一才関係なく、違う世界の話。
そう。たとえ、
野良猫を蹴り飛ばして、タバコを吸って、それをいじめられっ子の額に押し付けていても。
みんなで一人を殴っても。
それを咎めるものは誰もいない。
彼らは優秀で、権力を持っているから。
成績がいい人は、正しい人間。正しい人間がすることは正しい行い。
胸に残る、謎の感覚を無視して彼らと笑顔で付き合ってきた。
私は言い聞かせてきた
『正しく』生きていると。
何かを訴える違和感より、彼らの数字のみを信じてきた。
不思議だったのは、何もないただの平日、学校が終わって家にかえって、ベッドに横になる時。
ふと何故か、涙が溢れてる事に気付く。
どうしたんだ私。何が起きてる。
別に辛いことなんて何もなかったでしょ。
何も嫌な思いなんてしてないでしょ。
でもなぜか胸が騒めいて、酷く痛む。
言われたとうりにやってきたじゃない。
結果が全て。それ以外考える必要など時間の無駄
辛さとか苦しみとか、人の気持ちとか。
感情の波。その波の音色も。
考えるだけ無駄。悩む暇があれば、勉強しろって。
そんなものに囚われることは馬鹿馬鹿しい。
それはきっと間違ってない。
でも、
私は幸せが何かわからない。
自分がわからない。
自由がわからない。
みんなは、どうおもっているんだろう
何も思わないのかな。
人生は。
疑問は。
あの涙の意味は。
張り裂けそうな感情を顔に出した伊都に、壁に手を合わせて呟いた。
「君は分かっていたんだ」
あまりにも淡々と過ぎていく日々に。淡々とながれていく人混みに。
悩んでも同じだと一蹴される思いを、もう一度、考えようとしていた。
「君の中の君は、本当に大切なことを知っていたんじゃないのか? だから叫んでいたんじゃないのか。泣いていたんじゃないのか」
空の潤んだ瞳が、包み込むように伊都を写した。
「どうか。どうか、無くさないで欲しい。君が押し殺そうとした君を。向き合おうとした君を」
空の言葉を全身で感じとる。
「掴みようがないよな心なんて。痛くて、脆くて。でもね、目の前の現実に心が何かを叫ぶ時、傷ついた弱い自分から逃げちゃいけない時がある。向き合わなきゃいけない時がある。それが自分をどれだけ不安定にしたとしても。それは君という人間の、本当の意味を教えてくれる。そうして人は、はじめて心から笑える気がするんだ」
なんの力もないように見えた出会ったばかりの男の子。優しく淡いはずのその心の色。
どんな色にも染まってしまいそうな、曖昧で繊細な空色。
「君には、心の底から、笑っていてほしいんだ」
しかし、どんな色よりも濃く、力強く、そこに世界の断りを描いていく。
「・・・だから一緒に、戦ってくれないか? 」
「え?」
「自分の弱さに、打ち勝つ為に。一緒に戦って欲しいんだ」
照れ臭そうに、微笑んでいった。
伊都は震える声を絞り出す。
「どうして? どうしてそこまでして戦うの? 」
振り上げる左腕に、強大な力が流れていく。
「俺たちは、ちゃんと俺たちとして生きていかなきゃ、」
持てる力の全てを賭して打ち込んだ。波紋の広がる一撃は、凄まじい衝撃を弾かせる。
「命の火は、輝いちゃくれないんだ」
衝撃の音と空の言葉が、心を一掃した。
真っ白になった頭。宙を舞った涙。
理性ではない何かが、勝手に体を動かしていく。
ゆっくり、ゆっくりと、振り上がった伊都の右手が、軽く壁を叩いた。
か弱く、細く、今にも折れてしまいそうな腕。しかし今度は確かに、力強く壁を叩いた。
火が回るように徐々に、その手数を増やしていく。何度も何度も。連打したり、両手で叩いたり、ぐちゃぐちゃな心そのものを体現する。
今までの何もかも。
教えられてきたことの全てが、私を匿っていた。私を殺した。
私は、私。他の誰でもない、金持ちでも、お嬢様でもなくて。
泣き虫で、繊細な一人の弱い人間だった。
でもそれでよかったんだ。
小さな幸せを愛することのできる人であれば。
結果を出した人は全て正しい?
嘘だよそんなの
正しい人は、無闇に人を傷つけたりしない。
弱いものを蹴ったりしない。
私は言いたかった。
やめなよって。
私はその猫を見て、抱きしめてあげたかった。
何も変わらなくても、一緒に泣きたかった。
結果が出るか出ないかじゃなく、
意味があるかないかじゃなくて、
心の声に耳を寄せて。
いくつもの心の波の、振動のままに、揺れて揺られながらも、
頭じゃなく、心の奥底にある意思が導く選択を、選んでみたかった
それだけで
私は幸せだった
自分の叫び声が聞こえないほど、昂まった感情が限界を超えた力を生み出した。
右手で激しく叩いた壁に、亀裂が一瞬で広がる。
それだけで
私は自由だった。
枯れ果てそうなほど流れ続けた涙。葛藤の中、しみじみと湧いてくる感情を、伊都はしっかりと受け止めた。
私は、私にしか守れない。
私は、私にしか正せない。
私にしか見つけ出せない。
全部、私にしかできないんだ。
溶岩は、遂に透明な壁に侵入し、半分を燃やした。痛い熱気が伊都の背中を襲う。
「伊都」
クシャクシャな顔をじっと見つめて、微笑んだ。
「お前には、立派な翼がある」
息を大きく吸って、腕を引く。
「よくやった」
全身全霊、渾身の王打。
伊都が入れた亀裂に、外部から豪然たるエネルギーが爆裂する。
耐えきれなくなった透明な壁は、全体にヒビを通して、一気に砕け散った。
揺れ動く、鮮やかな油模様の透明なガラスは、まるでステンドグラスの雨のように。万華鏡のように。
散り散りになって神々しく舞い散る。
名を呼んで飛び込んできた一羽のオウギワシと、伊都の発光は、ガラスに反射して、美しい光のカーテンを靡かせた。
空の瞳には、鮮やかに輝きを放つ欠片を纏う、天の使いの白い影が映る。
なにものにも染まらぬ、純白の大翼が、伊都の背で広がり、髪の毛の一部が羽根になり、それが大きく曲がり輪をつくった。
一瞬の景色の中、大きな足で空の肩を持ち、溶岩の大波を間一髪で逃れ、大空へ飛びたった。
礼は驚愕し、慄く。
「あ、有り得ない・・・ こんなこと・・・ 」
伊都と空は碧空を豪速で駆ける。疾風勁草に、加速して波紋を後にする。
そのまま、戦闘機に追いつくと、上から機体に突撃し、次から次に。羽を折って落として回った。
「伊都! こっから俺を落とせ! 」
「え? 」
「あいつ、ぶっ殺してくる」
伊都の足の爪を無理に離れ、落ちていった。
高速で地上へ落下し、真下に見えるうつ伏せの礼の表情が見え、怒りが爆発した。
「糞野郎があああああああああ! 」
礼も上を見上げて立ち構える。
「ゴミカスガアアアアアアアアアアアアアアアア![#「!」は縦中横] 」
衝撃と波動が戦場を一風し、巨大なエネルギーが爆発した。
沈黙が続き、少しすると、飛び交った火山岩と、砂埃が薄れていく。
空の拳が礼の胸に食い込み、周りに巨大なクレーターを作っている。
峯呂はえぐれた地面の中に何やら光っているものを見つけた。近づいていくにつれて、それがずっと求めていたあの球体である事に気付く。
あの上のは、全部おとり・・・
呆れたような態度で、強く踏み付けて破壊。同時に、力尽きて倒れた。
口を大きく開け、白目を向いて意識喪失した礼。
深く沈んだ意識の底で、思い出す。
あの日、父の研究室で幼き自分が目にしていたもの。
母の名前が書かれたガラスのケージ。よくわからない液体の中に、それは浮いていた。




