第三十八話 系
静かに波打つ渚に、人間二人と動物二匹。
会話の始まりもまた、静かだった。
「寒くないか? 」
遠くの海を眺めていた伊都に言うと、砂浜に腰を下ろした。
「え? う、うん。大丈夫だよ」
「ていうか、半袖半ズボンの俺が言ってもか」
「君よりは、私の方がちゃんと着てるよ」
少し笑んで言った。
月は鋭利な三日月になりつつある。
ぼんやりと海面が照らされただけの景色故に、他に余計なものが見えない。
だからこそ、ここが好きだった。
まるで心だけの世界のようで。
何も言わず、穏やかに隣に座っていた空を、伊都は横目に見た。
少し伸びた前髪が、夜風で揺れる。
隙間に見える瞳には、悲しみが宿っている。それでいて何故か、優しそうに微笑んでいるように見えた。
その雰囲気や、漂うオーラが、伊都の心に動揺を誘う。
込み上げてくる思いを、もう唇で留めていられなくなる。
「私のこと、みんな嫌い・・・でしょ」
「どうだろう。そんなことはないさ」
「自分勝手だって思ってるでしょ? 」
「・・・少しね」
伊都は、平然とした表情に切り替える。
「じゃあ追い出す? 」
「いーや? 」
「どうして? 」
「悲しいから」
伊都には疑問が増えていく。
眉を潜める。
「な、何で? 」
「お前が一人で歩いていく姿を想像すると、胸が苦しくてしかたない」
「そ、それってどういう・・・ 」
「なんでだろうなぁ。俺が聞きたいくらいだよ。・・・お前はさ、一緒にいたいか? 」
「・・・ べ、別に? どっちでもいいかな」
「そっか」
強がりを隠そうとした。
でもあまりにも簡単に受け入れてしまう空に、余計な寂しさが騒いだ。
釈然としない返答に戸惑う。
「わ、私、一人でもやっていけるし」
「そうだろうなぁ」
分からなかった。
空が言いたいことも。
自分が言いたいことも。
無言のまま少し経った。伊都にとって、その時間は苦しかった。
「ね、ねえ」
「ん? 」
「なんか、話してよ」
「んーーーー。なーんにも浮かばないなぁ」
空は変わらず、優しく穏やかに、ボーっと海を眺めている。
困惑して、胸の緊張が解けなかった。
早く、楽になりたかった。
「い、言わないの? 」
「なにを? 」
「空は、怒らないの? ルルちゃんが怒ってたこと。」
「ああ。怒らないよ」
「なんで? 私、嫌なこと、言ったんじゃないの? 」
「そうかもね」
「じゃあ、なんで? 」
隣にいるエールとアンガーは黙って聴いている。
「俺は、なんていうか。自分に自信がないからさ」
「どういうこと? 」
「自分を守るのが下手だから」
「そう・・・なの? 」
「お前に言われたことも、きっと真実なんだろうし」
「なんで言い返さないの? 否定されたらそれで終わり? 」
「長い間、自分を疑って生きていたら、そんな気持ちも消えちゃったよ。人や、世の中の声の方が、正しいんじゃないかって思ってしまうようになった。・・・お前なら、尚更ね」
「どうして・・・」
空から優しさが溢れる。
「一応仲間だからさ」
なんとなく暖かな気持ちが芽生えた。しかし、仲間という概念を知り得なかった伊都は、不安を募らせる。
「仲間・・・ 仲間って、どんなもの・・・なんだろう」
「んー、ケンカして、言いたいこと言い合って、慰め合って・・・とか? 」
「今日みたいに? 」
「まぁ、そうそう。でも・・・」
「なに? 」
「大切なのは、相手の心にも、自分の心にも、寄り添おうとする気持ちじゃないかな」
「寄り添う・・・? 」
「誰かの気持ちを、ちゃんと理解してあげること。そしてその気持ちを大事にしてあげること」
エールはゆっくりと目を瞑り、またゆっくりと開く。
その大きな瞳には、伊都の後姿が映っている。
「その為にはやっぱり俺、一度自分の心を疑わないとダメな気がするんだよ。本当に言っていいことなのか。言わなきゃいけないことなのか。自分が正しいのか、間違ってるのか。ちゃんと考えないと、言葉はすぐに、凶器に変わるから」
落ち着いた声で言った。
月明かりの水平線に、寄り添うように。
「自分を信じるのは大切だ。凄く。でも、自分を疑うことも、俺は同じくらい大切なんだと思う」
何故かわからないが、伊都はその言葉の重みを感じていく。自信やプライド、自尊心の欠片もない人間の言葉なのに。
ある種の、強さを、垣間見た気がした。
「・・・私」
空白だったパズルのピースが埋まる。その絵柄が、ゆっくりと馴染んでいく。
「なぁ伊都」
「うん」
「飛ぶのは楽しいか? 」
「うん。楽しいよ。気持ちがいいし、なんだか自由になれた気がする」
三日月を見上げて、綺麗な髪を夜風に靡かせる。
「現実でも自由に空を飛んでさ、住んでた街を見下ろせたら、どんな気持ちになるのかな。小さくなった世界を見下ろしたら、悩みや苦しみも、小さくなるのかな」
やっと零れた伊都の弱音を聞いて、彼女の背景を察した。
「そうだと、いいのにな」
アンガーも夜空を見上げる。星たちはいつもどおり、幻想的な瞬きを見せる。
「空? 」
「ん? 」
「わ、私、変われるかな? 」
意味を確かめるように、伊都は言葉を粒立てる。
「ああ。変われるさ」
「こんな私でも、人に優しく、なれるかな? 」
「なれるさ」
「いつか、本当の自由に、なれるかな? 」
「その時までずっと、そばにいてやる」
爽やかな夜風が、エールの羽毛を一つ無い上げる。
どこまでも飛んで、見えなくなっていく。
鼻をすすり、エールは涙を拭う。
「なんでお前が泣いてんだよ」
アンガーが言うと、
「・・・良かった・・・本当によかった・・・。伊都様がこんなに暖かな羽毛を持った方に会えて・・・」
抜けた羽毛はまた、月に導かれ、大海のうねりに乗った。
別のある日。島の反対に位置する荒地。火山灰で平地を造形している広い灰色の大地。その麓に、立派な一軒のログハウスがあった。
一階のベランダで、ある男と、また一匹の黒い動物がくつろいでいる。
「父さん、うまくやってるかな」
動物を撫でながら、男は呟く。
「待っててね母さん。もう直ぐだから。もうすぐで、全てが元通りになる」
男の瞳の中に映る景色はどこか遠い場所だった。
青ぐらい研究室の中、幼き自分が何かを見上げている場面。
涙が頬を伝う。持っていた人形が床に落ちる。
母さん、これでいいんだよね?
これで—
男が、宙に浮かぶ水晶に触れると、周囲の景色はガラリと姿を変えた。
夕暮れ時の森。静かな空間に小鳥の鳴き声だけが響いていた。
見たことがあるような川辺があり、そこで一人なにかしてる女の子を見つける。
女の子は大きな鳥と一緒に、鉄のフライパンやフライ返し、ヤカン、包丁など、様々な調理器具をカゴに入れていた。
川を渡り、家路を辿る女の子。
その背後に近寄る。
透明化していたその男が目視できるようになった瞬間、エールは振り返った。
「伊都様あああ! 」
周辺の木々から鳥の群れが飛び立つ。
籠から零れた調理器具を残して。




