第二十六話 厭忌
丸太に毛皮を巻きつけたような腕が振り下ろされると、次々に大木は倒れていく。息を殺して、影から影を移動していた空には、その意味が理解できた。
障害物を消す為だ。やっぱりあいつも俺たちとおなじ知性のある化け物だ!
暗がりからひょっこりと体を出し、化け物に気づかせると、また暗がりと木陰を利用して回り込むように移動し続けた。あまりわざとらしくないように必死に走る。
そうしながらも徐々に総司の場所から遠ざけ、安全を確保して行く。
大きな体のせいか、化け物はもともとの移動スピードが遅く、体の切り替えしも苦手なようだ。
意外と順調だぞ。これならうまく時間が稼げるかも!
化け物の位置を確認していると、上から雫が落ちてきたのが見えた。
ドラムロールのようにクレシェンドではなく、すぐに激しい雨へと変貌した。
足を取られないように気をつけないと。
(あーあ、疲れた)
いきなり聴こえた声は、心に直接語りかけてきた。
驚きと気持ちの悪さに鳥肌が立つ。
化け物は発光すると、やはり二つの塊に分離した。
一つは小さな人間に、一つは大きなヒグマに。
「もう出てきなよ。時間の無駄」
若く幼い女の子声だった。
「早く終わらせて家に帰りたいの」
戸惑った。
あんなに大きな化け物だったのに、めっちゃ小柄じゃねえか。でも熊はやっぱでかい・・・
見つからないように、ゆっくりと歩く熊と女の子の後ろ側へ移動しながら見張った。
「貴方は何の為に戦うの? 」
何言ってんだあいつ。また金目的の奴か?
「私には崇高な目的、使命があるの。もし貴方が、平和を望む清き心を持っているなら、快く譲ってほしい。この超越教に」
超越教? 聞いたことあるぞ。四、五年前の中国大陸消滅を機にできた宗教団体だったか? あんな事件誰も信じてないぞ、都市伝説かなんかじゃないのか?
「貴方のためでもあるの。平和な新しい時代を作る神様の手足となって仕えるの」
勧誘か? 世界観つよ!
「私欲は捨てて、アヌ様、いえ、神様に祈るの。繋がりを強く持つの! そうすれば貴方も救われる」
雨に打たれながら、女の子は演説のように喋る。しかし空は総司の容体と生き残ることで頭が一杯だった。
今なら女の子一人くらい抑えられるんじゃないか? 成功すれば一気に形成逆転だ!
ん? 一人?
気づいた時には遅かった。すぐ真横で、肩の高さ程の大きさのヒグマがこちらを見上げた。
匂いで辿ってきたのか! しまっ・・・
ヒグマの前足の攻撃は、まさに瞬間的だった。
空の左胸から脇腹にかけて、体が宙を飛ぶほどの威力で前足を叩きつけられた。
意識が消えかけた。大量のアドレナリンで痛みはなかったように感じた。
しかし息ができない。転がり込んでもがきまわり、景色の上下が理解できない。
殴られた脇腹を抑えていた手を見ると、赤黒い血でビショビショだった。
血の量と色を見て、傷口が浅くない事を悟った。
油断、したのか。俺。
側臥位になり、悶えた
ジワジワ伝わってきた激痛とショックで、心臓は飛び出しそうなほど脈を打つ。
「クハァ、カハァ・・・」
よくわからない音を出していた。恥ずかしいほど。必死何度も呼吸をするが、苦しさが消えない。
死を予感する暇もなく、ただ忙しさに駆られた。
ヒグマは空の首を噛むと引っ張って、暗がりから引きづり出した。
仰向けに動かされ、奇跡的に呼吸が出来た空は、喘鳴を立てて大量の酸素を吸い込んだが、血が口から飛び出てきてムセた。
足りない酸素を我慢して、苦しさを感じられる意識だけは途切れさせないように、血を外へ吐き出した。
「待ってプレア」
女の子はゆっくり近づいてくる。
脇腹の傷が妙に気になって、傷口に指を入れみた。しかしその穴に行き止まりがなかった。内臓らしきものに指先はあたり、それが形を変えた瞬間、無性に怖くなって震える手を抜いた。
「可哀想に。大人しく出てくれば、酷い死に方はせずに済んだのに」
くそ・・・ 嫌味だよな。お前の声だけははっきり聞こえる。
虫の息でなんとか持ちこたる。上から覗き込んでくる女の子と熊をみると、異常なまでの胸騒ぎが危険信号を出す。
スグニゲロ、タチアガレ、スキヲミセルナ。
女の子の顔が段々とボヤけてくる。視界が真っ暗闇とぼやけた景色を交互に入れ替わった。
「祈りさえすれば、貴方も、幸せになれたのに」
幸・・・せ?
幸せって、なんだっけ。
無意識に頭を過ぎる景色は、現実と夢を同化させる。
またいつものテーブルに座っている俺。母親が近づいてくる。
母親の優しい微笑みと、出された料理の馨しい香りまで現実のように感じた。
祈り・・・ 俺の願いって・・・
連想したのはこの景色だった。いつもの毎日。当たり前の朝。
俺はこんなにも、そこが好きだったんだろうか。
お母さん・・・
滲むように、それでいて正確に、高速であらゆる思い出が蘇る。
お母さんは、生まれた時から足が悪かった。度重なる手術を受けて、歩けるようになったけれど、痛みは酷く、足の長さが違うせいで正常には歩けなかった。
きっと、元気に動き回る人々の背中を眺めて過ごしてきたと思う。
俺が生まれて、物心ついたときから、お母さんは台所にずっと立っている記憶があって、そこでルンルンと料理を作っている姿が好きだった。
でも時々、とても寂しそうな顔をすることも知っていた。
毎日、日が昇り沈むまで、足の痛みはお母さんを苦しめる。
買い物に行く時も、ずっと痛そうな顔をしていた。地区であるスポーツ大会なんかはもちろん出られず、運動会も、一緒に走ったことはない。
何をするにしても、ついてくるその痛みは笑っているはずの顔に影を生んだ。
隣で眠るお母さんの、疼く足をさすりながら痛みに耐える姿に、俺はいつからか疑問を持つようになった。
なんでお母さんなの。
その時、初めて祈ることを知った。
別に神さまというようなものにではなく、運命や、幸運というざっくりとしたものに。
いつか、楽になりますようにと。
仕事はするが、家庭をかえりみない父親は、俺が中学の時出て行った。浮気だった。まぁ、働いているとは言え、金を家に多く入れる訳でもなかったことも知ってたし、別に寂しくもなんともなかった。
別に、俺は。
でも疑問は増えた。
幸せにしてくれるんじゃなかったの?
で、また祈った。
いつか、優しい人に出会えますようにと。
母が新しく始めた内職と、祖母と祖父の貯金のおかげで、まともな生活をなんとかおくれていたけれど、日に日に足の痛みは強くなり、お母さんを苦しめた。
どんなに体が悪くても、休むわけにはいかない。
どうにかしてあげたくて、手伝いはいろいろやってきたつもりだ。
でも根本的なことは何もできない自分が悔しくて、たまに無理に引っ張ってマッサージに連れて行ったりもしたっけ。店は閉まってたんだけど。
それでも申し訳なさそうに『ありがとう』と笑って言うお母さんの顔を、俺は見れなかった。
どうしてやることもできない自分が、情けなくて。
ただただ悔しかった。
歯痒かった。
時が経って、お金が貯まると、足の手術受けれるようになった。お母さんが子供のころの技術とは違って、ずいぶん進歩して足の痛みがほぼ百パーセント無くなるらしい。
子供のころの苦しかったリハビリ生活を思い出して、最初はとても躊躇していたけど、なんとか説得して、受けてもらった。
手術はすぐにおわった。ジュースを買って、病院の廊下をウロウロしている間に。
麻酔で眠るお母さんを見て、俺は涙が止まらなかった。
やっと、やっと解放されるんだね。
これから、生まれて初めて痛みがついてこない時間を送れるんだ。
お母さんはずっと言っていた。
両親に恩返しがしたいと。
母は養子だ。でも、じいちゃんもばあちゃんもすごく良い人たちだった。幼い頃からの手術もそうだし、大人になっても満足に働くことも出来なかったから、何も返すことができなかった。すごく迷惑をかけてきたと。
俺はお母さんが幸せになることを望んでいたから、孝行してやることがお母さんの幸せになるんだと思った。
やっと色々やりたかったことできるんだと。
でも、そんなお母さんの夢は当然の如く無視された。
退院して、まもなくじいちゃんが他界した。
追うようにしてばあちゃんも。
お母さんは、泣き崩れていた。後遺症で正座できないはずの床に、尻をついて。
俺は次から次へと、悲しみはやってくることを学んだ。
それは小さな小さな歪みが、俺の中に生まれた瞬間でもあった。
無性に、不幸とは何かと、知りたくなって、障害者についてのドキュメントを見た。
犯罪者についての記事を読んだ。
当たり前に幸せを謳歌する普通の家族を知った。
どれも不思議なほど、人生と前向きな向き合い方をしていた。
前向きに生きていかなくちゃと俺も思ってた。
でも、いつも前向きなはお母さんは、そのときだけは違った。
『もっといろいろしてやれたんじゃないかな。じいちゃんばあちゃんに。これからもっと恩返しできたんじゃないかな・・・ 』
今までずっと苦しめ続けてきた痛みがやっと消えたのに、今度は一生消えないかもしれない胸の痛みを抱えて生きていかなきゃいけないのか。
俺は爪が刺さるほど拳を握った。
そう・・・ だよな。そう思うよな。
前向きに生きる。なんて、都合はいいことばかりに目を向けて、苦しいもんに蓋してるだけじゃないか・・・
あの人の人生に、一体いくつ叶ったことがあったのか。
現実に意識が戻ると、目尻から涙が流れていた。
「幸せ・・・ なんてくそくらえ・・・ バカ野郎」
半分笑い、半分泣いた。
「はい? 」
血でヌメる口を開いた。
「信じるだけで・・・ 幸せになれるなら・・・ 」
誰も・・・
母親の悲しみに咲く笑顔が、力を絞らせた。
「誰も苦労しねえんだよおおおおおお! 」
ヒグマと女の子は瀕死の人間の想定外の動きに驚く。
空はうつ伏せになり、腕の筋肉をパンパンにして酷使して、体を持ち上げる。
「何が・・・ 幸せだ。何が、祈りだ・・・ 」
脇腹から、バケツをひっくり返したように血が流れる。体中の力も、魂も、一緒に流れ出ていくのを感じた。
しかし反対に、煮えたぎるような激情が、まるで外から注入されるように溢れてきた。
「どんだけ祈ったって、願ったって」
何にも・・・
「何も叶えてくれなかったじゃねえか! 」
体中に脈を浮き出し、膨らんで行く怒りとともに、起き上がり膝をついた。
ぜってぇ死ねねえ。死に切れねえ。
ここで生きて、生き抜いてちゃんと帰るんだよ!
「信仰を・・・ 侮辱したわね! 」
ヒグマは、太い鳴き声あげると、また殴りかかってきた。
腕で頭をガードしたが、横に叩き倒さた。
そこからは、腕の肉が削げ落ちるほど、何回も切りつけられた。
ズタズタの肉片が、周囲に散らばっていく。
「貴方のような人間が不幸になって行くのを、もう何人も見てきたわ! 何も信じきれないくせに、幸せになんてなれるわけないじゃない! 」
胸のペンダントを握りしめて、女の子は訴える。
「神様はいつも見てる! 周りの人を妬んで恨んで、悪いことばかり考えているから、罰が下るのこの愚か者! 」
揺さぶられる頭にあるのは、母の背中だけだった。
落ち着いたポニーテールに、紫のTシャツを着て、深緑のエプロン。使い古したジーパンは左右で丈が違う。
「当たり前に生きていけることだけで幸せなのよ! 普通が幸せなの! それに感謝して、与えらえれた人生を温厚篤実に生きていくことが正しい生き方なの! 」
立ち上る湯気から香る美味しそうな匂いと、炊き上がり寸前の米の風味。
天日干しにした洗濯物からは、母の匂いとも言える柔軟剤の馨香と、優しい太陽と風の香気が、部屋の中を浮遊する。
「貴方は一体・・・ 一体それ以上何を望むというの!?」
「うるせえええええええええ! 」
ボロボロの腕を振り上げ、肘でヒグマの目を思い切り突き潰した。
ヒグマが少し離れると、空は中腰で立ち上がった。
腕力は入らず、ブラブラと揺れる。
「ハァ・・・ ハァ・・・ 」
普通の幸せ?
ああ、そうだな。あーだこうだいったって。
きっと俺たちは、至って普通なんだろ。
障害があるのも普通。
離婚も普通。
老人が死ぬのも普通。
テレビや雑誌に取り上げられた不幸な出来事に比べれば、大したことない事なんだろう。当たり前なんだろう。
だから幸せと、そう呼べと、お前らは言うんだろう。
でも。
頑張った人は、報われて良いはずだ。
報われなきゃ、いけないだろ。
足引きずって、俺を育ててくれた。
いつも俺を守ってくれた。
いつも俺を待っててくれた。
いつも俺を許してくれた。
やっと苦しみから解放されたのに、やりたいことは恩返しだったってほど、善良で、親思いでさ。
いいじゃねえか。なぁ。神さま。
もう少し。
あと少しで良いから・・・
「言ってもわからないようですね。単純なことなのに、」
女の子は、ヒグマの頭をに手をそっと置いた。
「良い人間は幸せになる。悪い人間は不幸になる」
座敷に横たわる冷たいばあちゃんの死体。
化粧でとても綺麗な顔をしていた。
その前で崩れるお母さんの背中に、そっと手を伸ばした。
何を込めることもなく、何か言葉を添えることもできなかった。
熱い目の奥の火種からは、黒い煙が立ち登った。
「・・・けんな・・・ 」
火花が散りそうなほど鋭く、激しい眼光を叩きつける。
さっきからずっと。
ふざけたことばっか、言いやがって・・・
だったら。
だったらなんで・・・
「あの人は幸せになれなかったんだああああああああ! 」
怒りに反応して、空間がねじ曲がり、亀裂が宙を裂いた。
背中に感じていた、己の半身が空の名前を呼ぶ声が聞こえた。
意識は、光になって背中に飛び込んできたアンガーと結合した。
光が昇りながら消えると、白い鬣がなびく、人型の生き物が現われる。
不気味で荒い呼吸が始まると、黄色く無情な瞳孔を開いた。
「プレア! 」
女の子も、焦って発光し出し結合し始める。
化け物二頭の凄惨とも言える唸り声が、曇天に響く。その分厚い雲を突き破りそうな鋭利な二本の角が、大きく捻じれながら鬣から生成される。
教えてやるよ。
神も仏もないと思えるほどの真実を。




