第一話 植栽
空は目を覚ました。長いこと眠っていたのか、乾いた目ヤニがまつ毛に絡みついている。朦朧とした意識の回復によりそうように視界をゆっくりと広げ始めた。
嫌な夢だったな。
初めてではなかった。誰にも認知されない思いにもがき苦しむ感覚。現実ではあれほど露骨に苦しんではいなくて、次々に降り掛かる理不尽な言葉に振り回されているうちに一日が終わっている。それでもこの夢は、この目に映る世界を再確認させる為には十分だった。
どうせみるなら、もっと良いものを見たかったな。
心にかかった靄を吹き払うように大きな鼻息を出した。
眼瞼の皮膚をすり抜けて入ってくる太陽の光の加減で、天気が良いことを理解する。
今日も学校か。あーあ。学校ね。
色褪せた我が家の愛しの白色の天井板が、瞳に半分かぶさった上まぶたの内に妄想のように見えていた。
しかし、徐々に鮮明になっていく現実の景色が、この妄想とは全く別物であることに気づいた肉体は、反射的に瞼を押し上げる。
「へ!? どこ! 」
声が飛び出ると同時に、とっさに上半身を起こした。この場所の情報を早急に取り入れなければと、無意識に視線を散らす。
部屋だ。いや、家だろうか。床は畳十二畳程の広さのよくあるフローリング。正方形の立方体空間で、壁はスギの羽目板。基本白っぽいが、所々淡褐色から紅褐色へナチュラルにグラデーションを遂げている。天井は吹き抜けになっており、高いところで床から最大五メートルくらいで、そこから少し下に、黒褐色の太い二本の木の梁が十文字に部屋の中心で交差。その中心と床までを同じ材質の大黒柱が支えている。
自分の状況に驚くべきなのだろう。しかしあまりにもゆかしく、木々の温もりを体現しているこの部屋から湧き出てくる優しさに、思わず美しさを感じずにはいられなかった。
それは緊張の糸を容易く緩め、黒く沈んだ瞳に少しだけ燈を与えた。。
正面の壁には玄関ドアらしきものがあり、その手前に段差があるようだ。それ以外の三つの壁の中心にはそれぞれ勉強机二つ分の横長の窓がある。そこから入り込んで空の目を照らした斜陽が、生まれたばかりの命を包むように暖かく気持ちの良い空間をつくっている。
暑すぎず、寒すぎない。白すぎず、赤くない。大体四時頃の陽の色。また眠ろうかと思ったが、昼寝というには少し遅い。というか流石にこの状況を理解出来ないまま眠れるほど、呑気な性格では無かったので、熱感のある床に手をつき、いつもより重く感じる体で立ち上がった。
左手側の壁を指でなぞり、段差であろう所まで歩いた。
段差の下は土間になっていて、玄関面に沿って左の壁から右の壁まで続いている。ちょうど真ん中に玄関ドアがあり、土間幅は一メートル程だ。
段差を降りると、裸足の足の裏にひんやりと冷たさが伝わる。コンクリートにしてはゴツゴツしていた。平なの岩のようだ。床の高さは膝あたりで、年寄りなら少し怖い高さだろう。
ドアの方を向いて歩いた。
あまり恐怖は無かった。危険ではないと言う直感と、先を見たいと、未知に対する好奇心が、ドアへの足取りを軽くした。
木製のドアノブに手を掛ける。回らないただの取っ手。
無意識に知識欲は、身勝手に背中を押し、ドアを開いた。
大量の光が空を迎える。
一瞬真っ白になった世界は、徐々に淡い世界を描き出した。
森だ。木はポツポツとある程度だが、草が生い茂り、花が咲いている。鳥たちの囀りが、髪を撫でる風と共に左から右へと流れていく。その大きな流れに目に映る全ての緑がたゆたう。まるで生きているように。
空は気づいた。
本当に生きているのだと。
別々ではなく、大きな大きな一つの生き物のであって、縮んで膨らんで、呼吸をしていることを。まるで誰かのお腹の中にいて、自分まで育まれるように。
木々の喜悦が心地よく聴こえてきた時、また別の声がある事に気がつく。密度の低いこの森の先に見える、白い地面の上に雲一つない澄んだ青い空が自分を呼んでいる気がした。
空は迷う事なく向う。足裏で確かめるように触る土と草は、意外にも硬い。時折チクっと刺すような痛みは少しだけ体をビクつかせるが、すぐに忘れるほど無我夢中になり、ただあの青い空だけを見て颯爽と歩き続ける。
空にとって始めてといってもよかった。現代、特に都市部において大自然の中に身を置くなどもうほとんどない事である。隙間なくコンクリートで塗り潰された自然環境は、人間の為のみに改良改造を重ね、硬く滑らかな無機質の冷たい世界を造った。何かしらのタイヤのゴムの消耗を減らす事を目的とされた地面。自動運転の電気自動車での通勤通学。電車も毛細血管のように張り巡らされた線路によって、細かな場所への移動も短時間で可能だ。事故も人工知能によって確立された交通整備により極端に減った。
木、なんて一本二本、歩道に埋まっているもので、触ることすらほとんど無かった。ましてや裸足で土を踏むなど、その必要性すら考えることもない。
しかしこの新たな世界への興味が、これまでの退屈で窮屈な場所に反発するように湧き上がり、冷静さを麻痺させる。
空の歩みも加速し、自然に走るという動作に変速した。
次々に木々を追い越し、風を切る音が耳を支配する。しかし別の声が、心に確かに聴こえていた
誰かが呼んでいる。名前を呼んでいる。何かわからないけれど、行かなきゃいけない。
そんな思いを両の手に握りしめて交互に振り、もっと前にと体を運ぶ。
空気の匂いと景色が一変した。少し湿ったような空気が肌に張りついて、木が一本も見当たらない。土は砂へと変わり、体を押すように働いていた運動エネルギーが地面に吸い取られ、スピードは落ちたが脚を回し続ける。
青空の中心に、視界に映る世界の端から端までを繋ぐ一本の境界線が輝いた時、正面からぶつかって来た巨大な突風が空の脚を止めた。その一振りの風により、まるでオーケストラの指揮者が腕を回し、頭上でグッと手を握って音を消すように真空にした。
海。揺れる波に反射する光の大群は、大きな生き物の鱗のよう。遅れて鼓膜を包み込んだ水の戯れる癒しの歌は、息切れを忘れさせる。海を見たのは初めてではないが、世界の全てが海と空に覆われたこの光景は、思考を掻っ攫った。
力抜けるように尻餅ついて座り込んだ。頬を伝い顎から落ちた汗が、ポツポツと白色の半袖シャツの色を濃くしていく。力強く押し寄せる海波は、楽にして伸ばした足を飲み込んで、膝下まで丈のある色あせた黒色の大きい半ズボンの裾に砂を連れて入り込んでくる。くすぐったいが、嬉しく感じた。海が自分と戯れてくれているようで。
空は時間を忘れて、気の済むまで人生で一番綺麗な青色に溶けた。あの夢が教えてくれたもう消えるはずのない創痕は、今この瞬間だけは、揺れる世界の呼吸と共に確かに払拭した。
そろそろ戻るか。
空は立ち上がり、尻についた砂をパパッと払う。海と太陽に背を向け、森に向かい歩き出した。大体五百メートルくらいだろうか、体力の消耗の経験から推測した距離を頭に敷いて、ポツポツ歩いた。赤く染まり始めた空間は少し肌をヒヤリとさせる。それと裏腹に夕陽の光線は背中を温める。
少し歩いてやっと砂浜エリアを抜け森に入る。
こんなに遠かっただろうか。家がまだ見えない。だんだんと重くなる足取りが、思考を現実的な謎へと向かわせた。
どうやってここへきたのか。
ここで目覚める前の最後の記憶は、学校の帰り道だ。校門を出ていつもの地下鉄に乗り、三つ目の駅で降りる。改札を出て地上へ登り、家までの路地を歩いていた。ここから先を思い出せない。
「なんで思い出せないんだろ」
頭を傾げながら、見えてきた家に疑問を移した。
誰の家なんだ。誰かが漂流した俺を連れてきてくれたんだろうか。それにしては生活感のない部屋だった。健康そのもので起きたし、服も寝巻きに使うオーバーサイズの半袖半ズボンだ。
ん? 覚えている最後の服が制服だということは俺は一度家に帰っている? それとも着替えさせてくれた人がいる?
「ダメだ。何にもわからない」
顔を両手で包み上下に擦った。家の正面に立って外装を見回した。謎が深まっただけにすこし不気味に見える。
誘拐。だとしたら自由にさせすぎているし、ましてや何を利益に換算するのか見当もつかない。
回らない取手を引いて玄関ドアを開けた。目立つのはやはり中心にある大黒柱。足元には土間の段差。
それ以外は特に何にもない。物が無い。三つの窓がある大きな部屋だ。土間スペースの左側には、腰の高さの石の台があり、意味有りげに足元に大きな横穴が二つ空いていて、それは台の上面まで続いている。どこかで見たことがあるような。
足の裏についた砂や草を払うと、血が何箇所からも出ていた。チクっとした痛みが今になって伝わってきた。
「相当無我夢中だったんだな俺」
少し微笑んでそう言いうと、床へ登った。部屋の中心で交差している梁。やはり木の力強さに目を引かれる。
そうっと触ってみる。ゴツゴツしていてすごく固そうだ。膝の高さまで視線を下ろし、そのまま木をなぞった。そこに何やら木目の流れをぶち壊している何十本もの線状の傷を発見した。
「なんだこれ」
片膝をついて、空はそれをまじまじと見つめる。不自然な凸凹具合に、それがなにか動物の引っ掻いたものであると推測。
「猫? 」
あたりを見回してもそのような生き物はいそうにない。
しかし一点だけ、壁の色に溶け込んでいないものを見つける。壁際の梁の上から垂れている白色の紐のようだ。その先端には、白い炎が下向きに燃えている。
特になにも考えることなく、それを無造作に掴み、思いきり下へ引っ張った。
「いてぇっ! 」
自分ではない誰かの声が聞こえた。空は掴んだ瞬間理解した。これが物ではない事を。
「えっ!」
しかし勢いづいて振り下ろした腕を止めるには遅かった。
「ドンッ! 」
なにやら白い毛の生えた生き物が落ちてきた。
「うわっ! 」
空は、動くものだと知った瞬間に、とりあえず二歩分高速でバックステップし距離をとった。
熊? 犬? 猫?
白いそれは、手足をドタバタさせてひょこっと起き上がり、空の顔を見上げた。
「何をするんだ! 」
少し怯えた表情でそれは言った。
空はその顔を知っていた。図鑑でよく見たことのある丸い耳。瞳の大きな目。特に特徴的なのは尻尾の先端に炎を連想させる爆発した毛。
「お前って・・・もしかして」
空いたままのドアから飛び込んできた風が二人の間を抜ける。そこにある透明な壁を取っ払い、窓の隙間を抜け、天高く舞い上がった。
それは心を巡る旅の始まりを告げた。




