第十話 発芽
「うわあああああああ! 」
乱暴に振り回す空の手足は、少なからず何頭かのハイエナにとどいていた。しかし圧倒的な数の差は、徐々にその有利を示す。
そしてまた飛び込んできたハイエナに隙を突かれる。一口喰らわれることを覚悟した。
しかしそのハイエナのお尻に、アンガーは飛び掛かりしがみついた。
焦ったハイエナは、飛び跳ねて振り払い、アンガーは転がりながら空のとなりに倒れこんだ。
「アンガー! 」
「はぁはぁ、もう十分・・・」
弱々しいアンガーの声は、もう消えてしまいそうだった。
「まじで粘るな! しつこ!」
勝平の観客のような台詞も声も、空の勘に触った。はみ出る怒りを静かに言葉にした。
「黙れ。戦ってもねぇ奴が、入ってくんな」
空はギラリと勝平を睨んで言った。
「せっかく教えてやったのに。上等だコラ! 」
勝平は大きく腕を振りかぶり空に向かって走ってきた。しかし木の根につまずいて、勝平はすぐに大胆に転んだ。
隙あり!
アンガーは俊足でそこまで飛び、勝平の顔を引っ掻いた。
「ぐああ! 」
すぐにハイエナ達は勝平をかばうように群がる。
「ははっ。いいぞアンガー! 」
戻ってきたアンガーに言う。
「痛いだろ。子供でもライオンだ。猫や犬に引っ掻かれるのとはわけが違うぞ」
「目があああああ! 」
悶絶する勝平。こちらの攻撃に警戒を強めるハイエナ達。
勝機がないわけじゃ無い!
これなら!
「アンガー? 」
アンガーは力抜けるように倒れた。
限界だったんだ。
「アンガー! 大丈夫か? まだ立てるか? 」
アンガーのそばに寄り、膝をついて言う。
「はぁはぁ・・・ 」
息をするので精一杯みたいだ。きつく集まる鼻のしわが、大きく動く肩の呼吸が、アンガーの苦しさを伝える。
「やっとくたばったか、クソ猫が! 痛てて、ひでぇことしやがって! 」
顔を抑えて勝平は気怠そうに立ちがった。
「アンガー! 頑張れ! もう少しだ! 」
立ち上がった勝平に急かされるようにアンガーに声をかけた。
「後はテメェだけだ。ボコボコにしてやるよ」
ゆっくり近づいてくるハイエナと勝平。
空はアンガーを抱いて走り出した。
「逃げんのかよ! 追え! 」
勝平の指示に突発的に反射してハイエナは動くも、疲労とダメージ、なかなか倒れない相手への恐怖のせいで、なかなか近づこうとはしなかった。
もう勝つなんてどうでもいい。生きよう。今日死ぬのだけはやめよう。
不恰好に足を動かす中で、それだけを考えていた。
「空・・・ もういいんだ。オイラを置いて行け」
かすかに目を開いて言った。
「何言ってんだよ! 大丈夫! お前小さいから。それにまだ可能性はあるって! 」
「一緒に死んでやるって言ってくれた時、本当に嬉しかったんだ。」
「そうか」
「それで十分なんだ。オイラを置いていけば空はもっと早く走れ・・・ 」
「分かったから黙ってろよ! 」
前だけを見て走った。前しか見たくなかった。アンガーの顔を見てしまったら、何もかもが崩れてしまいそうで。
「やっとオイラのすべき事が終わるんだ。あの時やらなきゃいけなかったことが、今日になっただけだよ」
「終わらせてたまるか! 終われるかよ」
「どうして? 」
「分かんねぇよ! うわっ! 」
声を荒げると同時に石につまずいて大きく転んだ。何周かアンガーと前転して倒れて止まった。立ち上がろうと手をつくと、地面が砂浜に変わっていた。
森を抜けてすぐのひらけた砂浜だった。少し浜が続いて海がある。
振り返ると、森の草陰からハイエナの頭がポツポツと出てきていた。
それを見て空はまたアンガーを抱えようと手を伸ばす。
「もういいって空。」
「良くねぇよ! 」
「なんで・・・ オイラなんかにそこまでするんだ・・・ もう置いていけよ! 」
アンガーは、力を振り絞って声を出した。本気で突き飛ばそうとする思いに、空は手を止めた。
「お前は、生きなきゃダメだろ・・・ 」
優しくも力強く口にした。アンガーは何も言わず、空の必死な顔を見つめた。
「ムカつくんだよ。なんであんなクソ野郎に殺されなきゃいけないんだ。なんで俺の命もお前の人生も、勝手に奪われなきゃいけないんだ! 」
程なくしてハイエナ達は浜に集まり終え近づいてくる。その後ろにはよろめきながら木にもたれて歩く勝平の姿が見える。
息を整え、ハイエナの方を向いて座り、空は続けた。
「悔しく、ないのか? 」
空の背中。引っ掻き傷が多く目立つ、服がボロボロに裂けた背中。
まじまじとそれを見つめるアンガーは家族の最期を、ページをめくるように思い出していた。
「悔しいさ・・・ 悔しいさ! 」
強く叫ぶアンガーは、どうにか立ち上がろうと足を動かす。
「立て。アンガー」
空は背を向けたまま言う。
「た、たてないよ! 」
「立てよ! 」
「立てないって! 」
体を起こし、足に力を入れるが、持ち上がらず倒れ込む。
「くそ! なんで・・・ 」
体が横に倒れ、動かない手足に怒りをぶつける。
「これがオイラなんだ空。結局なにも出来なくて妹すら守れなくて・・・弱くて臆病でダメな奴なんだよ・・・ 」
溢れそうな涙を光らせてアンガーは言う。
少し黙って考えた。
何にも出来ない、か
空はなにかを悟ったように、体の力を抜いて両手を砂につけ楽に座り直した。
「アンガー。お前は、俺の大切な家族だ。お前程優しいやつはいない」
どれだけもがいても、ピクリとも動かない現実は確かにある。俺もアンガーもそんな世界で生きてきたんじゃないかな。
「なんで、こんなにも無力なんだオイラは・・・父ちゃんとの約束、守りたかったな」
力抜けた声でアンガーはつぶやいた。
「でも願いは、守ってきたじゃないか。だから一人になっても、寂しくても、苦しくても、生きてきたんだろ?」
だからこそ、こんな俺だからこそ言える事がある。
思う事があるんだ。
「死のうなんて思わなかっただけだ! 」
「違う。繋がれた命を背負って生きていかなきゃいけないって。心の何処かで知ってたはずだ。『オイラは間違ってない』って」
「そんなこと思ってな・・・ 」
「もう嘘をつくな! 」
空が怒鳴る声が純白な青空と海に響く。ハイエナは一斉に立ち止まった。
「あきらめる言い訳を探すのはもう、うんざりだ」
肩の奥に見える俯いた空の顔から、ポツリポツリと落ちる雫を見た。
「誰もお前を責めたりしない。そんなこと、誰も望んでない! もうお前を独りにはしないから。お前に知ってほしいんだ。本当のお前を」
「本当のオイラ・・・ 」
「お前は優しくて、愛情深くて可愛くて、無邪気で、楽しくて、強い奴だよ」
溢れる涙をそのままに、空は微笑んで言う。
「俺は、人間の中じゃ情けない奴だった。誰にも認められなくて、誰にも理解されなかった。
でもね、それでも俺は、本当に自分が間違ってるなんてクソ程も思わなかった。俺はお前みたいに取り返しのつかない犠牲の上に立った事はないけれど、どれだけ自分を責めても、いつもどこか納得できなかった。間違いを認めなきゃって思った。でも違った。納得できてないのは世界にじゃない。自分自身にだった。
他とは違う自分を、認めていなかったんだよ。
だから俺が言われたい事、お前が言われたい事はきっと同じだと思うんだ。
こんなに何にもできやしなかった、何もない俺たちでも、それでも、」
鮮やかに鼓膜を擦る優しい波の音が、世界を空とアンガーだけにした。空の悲しみの中にある小さな愛は、深く暗い海底に輝き、アンガーの心を照らした。
「自分を、愛してあげてよ」
偉大な父の横顔。
優しい母の愛。
迫ってくるウーラノスのいたずらな顔。
横目に見るニエーバの微笑み。
真っ正面からぶつかってくる円満の笑顔のラニ。
思い返すと湧き出る大量の陽のエネルギーが、アンガーの心に溢れかえった。
こんなでも、こんなオイラでも。
こんな自分を・・・
涙ながらに心の中で訴えた。
小さく萎れた手で、アンガーは砂に爪を刺す。
「いけよお前ら! 」
勝平の乱暴な命令がハイエナ達にかかると、ゆっくりとハイエナは近づいて来た。
「立て。アンガー」
空は膝に手をつき立ち上がりながら言った。
「生きるんだ。悔しさも愛も、全部喰らって生きていくんだ」
空の言葉に答えようと、必死で足に力を入れるアンガー。
「襲ってくる理不尽全てを憎め。噛みつけ! 嫌な事全部、絶対忘れんな! 」
アンガーを洗脳するように空は続ける。
「自分の為の、自分の都合を押し通す為に、今は怒るんだ」
体を持ち上げようとする中で、ニエーバの言葉を思い出していた。
時には怒らなきゃいけない時がある。
アンガーは黙って足に集中する。
「戦え! 生き抜く為に! 」
そう言って空は立ち上がり、踏ん張り続けるアンガーを待った。
ラニの言葉を思い出す。
生き抜く為には、逃げる事。
違うよラニ。他にもあったんだ。
血が滲む白い毛が、ゆっくりと波打つように逆立つ。軋む骨の痛みをこらえ、歯を食いしばった。
「お前は勝つ。負ける訳がないんだ! 思い出せ! 自分が何なのかを! 」
体の内にある様々な感情が、限界を超えて燃え上がる。
「お前は、何者なんだ! 」
心の奥の奥の芯まで響いた空の言葉が、アンガーを一瞬真っ白な感情にした。
なにも難しい事は何もない。簡単な事だった。
そう。オイラは。
百獣の—
大きく見開いた瞳の色が、曇りない白に変わった。中心にある小さな一点の深淵なる瞳孔に、倒すべき敵の姿だけが映る。
ここにいる全ての生き物が感じたはずだ。なにやらとんでもない威圧感と、身がすくむような空気のふるえを。
木々も葉も、波も、風も激しく騒ぎ始める。王が怒ったと。
優しさと自虐に似た自制心が閉じ込めていた本性。背中と心にズサズサと刺さる王の覇気に若干の恐怖を感じながら、空は真っ直ぐ敵を睨んだ。
反撃。
大きく踏み込んだ一歩に、一切の迷いはない。
たとえそれが、命を奪う道でも。




