十一月の煙
家を飛び出した夜、吐く息は白く、指先がかじかんでいた。
ポケットは空。行き先もない。
そんな俺を、街灯の下から見つめる女がいた。
ベンチに腰掛けた彼女は、手の中でライターを弄んで
いる。
「……寒くないの?」
「寒い」
「吸う?」
差し出された銀色の箱から一本を抜くと、彼女が火を点けてくれた。
煙が喉を刺し、咳き込む俺を見て小さく笑う。
「初心者だね。でも似合ってる」
温い缶コーヒーを渡され、指先の温度が缶越しに伝わった。
「帰らないの?」
「帰る場所、ない」
「……そっか。同じだね」
その夜から、俺は毎晩その公園に通うようになった。
未成年だとか、タバコや酒がどうとか、そんなことはどうでもよかった。
ともえと過ごす時間だけが、俺の居場所になった。
初夏のある日、ともえが言った。
「今日、うち来ない?」
案内された二階建ての家は、やけに静かだった。
玄関を開けると、エプロン姿の母親が顔を出す。
「あら、あなたが……いらっしゃい」
笑みを浮かべ、「ご飯できてるから、座ってね」と促した。
肉じゃがの匂いと炊きたての白米。
ともえの母は、俺の茶碗に山盛りのご飯をよそいながら言った。
「この子、最近よく笑うようになったの。あなたのおかげね」
その視線は温かく、胸の奥が少し苦しくなった。
食後、ともえが冷蔵庫から缶ビールを二本取り出す。
「ほら」
「いや、母さん見てるだろ」
「平気だって」
台所で洗い物をしていた母は、こちらを一度だけ見て、何も言わなかった。
その沈黙が、妙に優しかった。
その夜、ともえの部屋に泊まった。
窓から夏の風が入り、カーテンが揺れている。
二人で並んで星空を見ながらタバコを吸った。
「このまま、ずっと一緒にいられたらいいのに」
ともえのつぶやきは、夜の闇に溶けた。
翌日も、翌々日も、俺はその家に居座った。
昼は近所を散歩し、コンビニでアイスを買い、
夜は母も交えて食卓を囲み、ビールを飲み、
食後はベランダでこっそりタバコを分け合った。
あの数日は、小さな家族のようだった。
その温もりに、俺は甘えてしまった。
ずっと続くと、何の根拠もなく信じた。
11月のある夜、公園のベンチでともえが煙を吐いていた。
冷たい風が落ち葉を転がす。
「……また明日ね」
「おう」
軽く手を振って、ともえは暗がりへ消えていった。
その後ろ姿を、俺は最後まで見送らなかった。
明日も会えると信じていた。
次の日の放課後。
薄曇りの空の下、学校の門を出た瞬間、ポケットが震えた。
画面には「ともえ」。
思わず通話ボタンを押す。
「……あの……○○くん?」
ともえの声じゃない。少し掠れた、年上の女の声。
「……母です」
胸の奥がざわつく。
「……どうしたんですか」
数秒の沈黙のあと、母は震える声で言った。
「……ともえが、今朝……事故で……」
世界の音が遠ざかっていく。
「飲酒運転の車に……ひかれて……。あの子、すぐ……」
呼吸が詰まり、足が勝手に止まる。
昨日の「また明日」が、心臓を針で刺すように響いた。
数日後、墓地に来た。
まだ新しい花の香りが漂っている。
ともえの名前が刻まれた石の前にしゃがみ、ポケットからタバコを取り出す。
火を点け、一口吸う。
煙を吐くたびに、胸の奥の空洞が広がっていく。
最後まで吸い切ったタバコを墓石の脇に置き、低く呟いた。
「……またな」
風が吹き、煙は空に消えた。
それが、俺の初恋だった。
そして、一生消えない呪いになった。