6社会からの断罪
1930年代のソビエト連邦は、スターリンの独裁体制が確立し、粛清が横行していた。政治家や軍人、学者や芸術家に至るまで、少しでも疑いを抱かれれば即座に“国家の敵”として処分される時代だった。イワノフも例外ではなく、当局の厳しい監視下に置かれた末、ついに「反社会的研究」を行ったとして罪を被せられた。
逮捕後、彼は苛酷な取り調べを受けたと伝えられる。彼の書類や手記、実験ノートは没収され、周囲の研究者たちも証言を求められた。かつての同僚や弟子たちは、粛清を恐れてイワノフとの関係を必死に否定する。中には真摯に彼の功績を弁護しようと試みる者もいたが、時代の潮流に逆らうのは容易ではなかった。「禁忌に触れた男」という烙印を押された以上、彼の運命はほぼ決まったも同然だった。
同時期、科学界でもイワノフの実験に関する噂は広まり、一部の海外研究者からは「狂気」「悪魔的行為」との声が上がった。特にヒトと類人猿との交雑というテーマは、彼が死後数十年経ってもなお、“非道徳な研究の象徴”として語られることになる。どれだけ研究の大義を語ろうとも、社会道徳の境界を踏みにじれば、ときにその代償は命を賭すほどのものとなるのだ。
イワノフ本人は、拘束された当初こそ「国家のために研究をしている」「この成果が世界を変える」と訴えたともいわれる。しかし当局はまったく聞く耳を持たなかった。革命政権にとって大切なのは“今すぐ有益”な科学技術であり、イワノフの種間交雑研究はあまりに危険すぎるうえ、社会的にも反発を招きかねない。もはや彼を保護する理由はどこにもなかったのである。
そうして政治的思惑と世論の非難が重なり合い、イワノフは「国家の名誉を汚す行為を行った科学者」として強い糾弾を受ける。彼は外部との連絡を絶たれ、遠隔地へ送られる形で“追放”同然の扱いを受けた。家族や知己もその余波を被り、周囲からの信用を失う。種間交雑という恐るべき野望を抱いた彼の実験が、こうして社会から完全に断罪される結末へと至ったのだ。
私から見れば、イワノフは自業自得ともいえるが、同時に時代に翻弄された犠牲者でもある。もし、より進んだ倫理規範や研究基盤があったなら、あるいは社会全体が落ち着いていれば、イワノフは別の形でその好奇心を活かせていたかもしれない。しかし、歴史に“もし”はあり得ない。彼が選び取った道は禁忌であり、しかもソビエト政権下という苛烈な環境にあっては取り返しのつかない結果を招くしかなかったのだ。興味本位の好奇心と、社会の厳しい裁きが衝突したとき、弱いのはいつの時代も個人である。それがたとえ先駆的研究者であろうと、この逃れられぬ構図に巻き込まれていく運命からは逃げられなかったと言えるだろう。




