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超越者が紡ぐ物語  作者: あるき
イリヤ・イワノビッチ・イワノ「越えてはならぬ領域」(全8話)
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5越えてはならない一線

 イワノフが最後の賭けのように考えていたのが、「人間の卵子と猿の精子を掛け合わせる」という実験だった。これは、動物である猿側に人間の遺伝子を注入するのではなく、その逆を行う形であり、人間の身体を直接的に実験台として扱うことを意味していた。もしそんな試みが実行されれば、当人の女性にとっても取り返しのつかない事態となる。しかし、イワノフにはそうした倫理や人道的な視点は、もはや見えなくなっていたといっていい。


 その背景には、彼が積み上げてきた研究者としてのプライドと名誉心が大きく作用していた。人工授精の分野で先駆者として称えられた彼は、さらに大きな“世界的発見”を渇望していた。種間交雑が実証できれば、進化論や人間理解に革命的なインパクトを与えられるだろう――その誘惑は、一度捕らえられたら抜け出せないほどの力を持っていたのだ。周囲が彼をどんなに諫めようと、あるいは距離を置こうと、彼の執念は衰えなかった。


 しかし、スターリン体制下のソビエトは次第に締め付けを強めていく。政治思想に合わない学問研究は簡単に「反革命的行為」と見なされるようになり、粛清の嵐が吹き荒れた。イワノフもまた、その嵐の前に為す術を失っていく。彼の研究が「反社会的で不道徳な行い」として断罪されるのに時間はかからなかった。国家にとって無価値なばかりか、有害とさえ判断されれば、もはや何の後ろ盾も得られない。


 イワノフは孤立した。研究仲間やかつての支援者も彼の危険思想から離れていき、当局は彼の研究施設を事実上の閉鎖に追い込んだ。さらに悪いことには、内部告発のような形で「人間の女性に猿の精子を注入しようとしている」との情報が流れ、当局の目は一層厳しくなった。人間を実験台にする行為は、さすがに時代背景を考慮しても許されるはずがない。こうしてイワノフの運命は、破滅への道を一気に下り始めることになる。


 当局からすれば、彼の研究が「革命の理想」には不適合であるとわかった時点で、冷酷に処分するしかなかった。かつて畜産学の英雄とまで呼ばれた男が、一転して国家の敵となり、あらゆる研究データは押収され、彼の周辺は一斉に厳しい取り調べを受ける。イワノフ自身も、それに抗う力をもはや持ち合わせていなかった。彼はひそかに国外逃亡を考えたともいわれるが、その道も早々に絶たれ、ついに官憲の手によって拘束される運命を迎える。


 大義名分は「反社会的行為」「反人間的研究」――すなわち、人間の尊厳を踏みにじる悪魔の所業であるという糾弾だ。実際に、イワノフの“越えてはならない一線”への執着が生んだ暗い行為を見れば、そうした断罪はある意味やむを得なかったのだろう。いかに彼自身が壮大な科学的夢を抱いていたとしても、人間の倫理を無視しては、その研究がどんなに先進的であろうと社会に受け入れられないのは明白である。

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