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超越者が紡ぐ物語  作者: あるき
イリヤ・イワノビッチ・イワノ「越えてはならぬ領域」(全8話)
39/44

3闇に踏み入る一歩

 イワノフが「人間と猿の交雑」を真剣に検討し始めたのは、ロシア革命後の混乱期に入ってからだといわれる。政局が不安定になり、国際的にもロシアは孤立傾向にあったが、その一方で国内には「ソビエトの新時代には、科学の力で人類を改造できる」という理想論もささやかれていた。この空気感は、イワノフの研究にとってある種の追い風となったのかもしれない。


 彼は、当初は内密に計画を進めていた。あまりにショッキングな内容であるため、迂闊に公にすれば激しい批判を浴びることは目に見えていたからだ。研究費や設備、人員を確保するため、畜産研究所の延長としてプロジェクトを偽装しつつ、その実、メス猿に対する人間の精子注入実験を行おうと準備を進めていたという。科学者としての彼は、実験によって得られるデータに強い魅力を感じていたのだ。もしかしたら、本当に“ヒューマンジー”が誕生するかもしれない――そんな禁断の夢想が彼を突き動かしていた。


 しかし、道は容易ではなかった。そもそも国内では類人猿を大規模に飼育する環境が乏しかったため、彼は海外での実験を模索するようになる。その結果、1920年代に入るとイワノフはアフリカへ渡り、本格的な実験計画を始動させた。現地ではチンパンジーをはじめとする類人猿が比較的容易に入手でき、観察環境もある程度整っていたからだ。一方で、現地政府や研究機関との交渉では、「動物研究」という名目で承認を得ていた可能性が高い。実際に猿と人間を混ぜ合わせる研究など、到底許されるものではなかっただろう。


 イワノフはメスのチンパンジーに人間の精子を注入するという試みに着手する。協力者として複数の研究員や助手がいたが、そのなかには彼の目的を完全には把握していない者もいたとされる。猿たちの管理や人工授精の手技そのものは、彼の専門分野であるためスムーズに進められた。だが、いざ結果を確認しようとしても、思うように成功は得られなかった。妊娠の兆候は見られず、ある個体はストレスによって体調を崩し、実験はたびたび中断を余儀なくされたという。


 当時の科学技術や衛生環境を考えれば、いきなり種間交雑を成立させるなど到底実現し得ない話だった。にもかかわらず、イワノフは失敗を重ねるごとに闘志を燃やした。その姿は正気というよりも狂気に近かったかもしれない。失敗の原因を「準備不足」や「標本数の不足」に求め、さらに多くの個体を集め、より大規模な実験へと踏み切ろうとする。私はその執念深さを俯瞰しながら、彼が深みにはまっていく様を手に取るように感じ取っていた。


 やがてアフリカでの研究が思うように進まなくなると、彼は別のアプローチとして「人間の卵子に猿の精子を注入する計画」まで温め始めた。ここに至っては、もはや科学者としての冷静な判断など期待できるはずもない。人間の身体を道具のように扱うその発想は、生物学者である前に一人の人間として超えてはならない一線を踏み越えていたのである。

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