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超越者が紡ぐ物語  作者: あるき
アレクサンダー・ボグダーノフ「越えざる境界の果てに——鮮血に刻まれた逆説」(全8話)
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8終焉の瞬間と永遠なる問い(了)

 病室の窓から差し込む弱々しい朝の光が、ボグダーノフの衰弱しきった顔を照らしていた。まだ雪解けきらないロシアの大地から吹き込む冷たい風が、彼の頬をかすめる。壁際には彼の論文や書き付けが無造作に積まれているが、それを整理する者の姿はない。誰もが彼の容体を気遣い、ただ見守ることしかできなかった。

 私は超越的な存在として、その最期の瞬間を見つめていた。微かに開いた彼の瞳には、どこか遠くを見据えるような光が宿っている。かつて彼は“若返り”という言葉に、革命にも匹敵する大いなる希望を託していた。だが今、その希望は自らが作り出した実験によって死に追いやられようとしている。

 血液交換の実験を終えた彼の身体は、もはや修復できないほどのダメージを負っていた。肝臓機能は限界に達し、溶血反応なのか重篤な感染症なのか、あるいはその両方か——医学的な原因を正確に突き止める術は、当時の医療では到底及ばない。看病にあたる医師も、なすすべがなく足元で立ち尽くすしかなかった。

 一度は力強く脈打っていた彼の心臓も、脈拍は乱れ、呼吸は浅く乱れる。意識は混濁し、熱に浮かされたようにうわ言を呟く。そこには「革命」「若さ」「血液」「未来」といった言葉が断片的に混ざり合い、まるでこれまでの人生を総括するようにも聞こえた。

 人々が集まり、誰かが彼の名を呼ぶ。「ボグダーノフ同志」「あなたの信念を最後まで聞かせて欲しい」と。しかし、その呼びかけにも応えることはない。ただ、薄れゆく意識の中で唇がかすかに動き、誰にも理解できない微かな声を発する。

 その姿は、あまりに悲しく、そして皮肉でもあった。彼が血液に込めた理想——それは人間がその器官をコントロールし、改良し、限界を超えることで、新しい未来を切り開こうという壮大な夢だったのだ。もし十分な技術が追いついていれば、歴史に名を刻む大発明となっていたのかもしれない。だが現実は、制御不能な科学技術が引き起こす悲劇をまざまざと突きつける。

 最後の瞬間、ボグダーノフの目に映ったのは、天井の汚れた白い壁だったのか、それともはるか未来に続く革命の光だったのか——それを知ることはできない。彼の胸が大きく上下し、そして徐々にその動きが静まっていく。傍らにいた医師は、脈拍が完全に停止したことを確認すると、小さく首を振る。

 こうして全ては終わった。偉大なる理想を抱いた男が、自らの実験によって命を落とすという結末。病室に沈んだ静寂の中、外では革命後のソ連社会が依然として大きく動いていた。誰もがそれぞれの役割を果たし、生き抜くのに必死だった時代だ。程なくして人々はこの死を悼みながらも、それぞれの現実へと戻っていく。

 だが、私は知っている。彼の死が投じる問いは、決してそこで終わるものではない、と。やがて科学技術は飛躍的に進歩し、輸血は安全に行われるようになり、臓器移植や遺伝子操作といった次元にまで踏み込む時代が訪れる。それでもなお、人間がどこまで身体を改変し、どこまで技術を使って生命をコントロールすべきかという問題は、解決することなく尾を引き続ける。

 人間には越えてはならない一線があるのか。それとも、いずれは全てを克服し、“神の領域”さえも意のままにできるのか。ボグダーノフの最期を眺めつつ、私は黙して思う。それは人類の進歩の歴史において、常に繰り返される試行錯誤にほかならない。

 かくして彼の物語は幕を閉じるが、その死をもってしても人々は学ばないかもしれない。いずれまた、誰かがテクノロジーを新たな段階へと進め、制御不能に陥る——歴史はそうやって回り続けるのだ。それでも、ボグダーノフという男の情熱と信念が人類史の片隅で赤々と燃えていた事実は、決して消え去りはしない。

 彼の死によって私たちは学ぶだろうか。それとも同じ過ちを繰り返すだろうか。答えは簡単には出ない。しかし、彼が残した問いかけは、いまも医療や科学、そして哲学の世界に微かな振動を伝えている。その響きはやがて未来を照らし出すかもしれないし、あるいはさらなる悲劇を呼び込むかもしれない。

 それが人間という存在の業なのだろう。理想を追う情熱と、未知を恐れず踏み出す胆力、そして自らの欲望に打ち勝てない弱さ。全てが一つになって、歴史は紡がれていく。

 ボグダーノフが越えようとした一線——それは医学的にも倫理的にも危うく、結局は悲劇的な終焉を迎えた。だが、彼の挑戦が完全に無意味だったとは言えない。彼が命を賭して指し示した先には、人類が未来に向かううえで避けては通れない問題が横たわっているからだ。 (了)


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