#09 もうすぐ切れる糸
☆月島琥珀
ピクリと背中が震えて目を覚ますと、パイプ椅子の上だった。よだれを拭って前を向くと、舞台に設置されたマイクが目にはいる。
───私の番?
何度もまぶたをパチクリさせて、私はもうあの舞台に上がらなくていいんだって思い出した。
‥‥‥上がらなくていいんだ。
視界が広がっていき、思考が働き始める。私は教師になっていて、今日はこえしば部の顧問としてここにいる。
隣にはぐったりと体を背もたれに預けた中田紀子がいた。私は紀子のおでこにそっと手を当てる。熱は下がっているようだ。
私は息を吐き捨てて、周囲を見渡した。松野こあらは不機嫌な顔してタブレットで野球中継を見ている。真田芹奈は課題アニメを見つめ耳に装着したイヤホンに頷きながら集中している。月華はタブレットをかじるように睨みつけていた。
「先生、もう終わりましたよ」
後ろから声がして振り返ると、肩にかかるぐらいの髪を揺らした平村優乃がいた。
「そっか。優乃、お疲れさま。とりあえずファミレスでも行くか? ランチなら奢ってやる」
吹っ切れた優乃の表情には後悔など残っていなかった。私がこえしば部を引退したあの日、どんな顔していたんだっけかな。
「お昼はここで済ませた方がいいと思います」
優乃がキョトンと首をかしげる。
「あー、弁当持ってきてるもんな。じゃあ、打ち上げは日を改めて‥‥‥」
「先生、わたしたち午後の決勝があるんで、お昼食べながらアドバイスしてくださいよ」
優乃が困り眉で訴えてくる。
「え!? 勝っちゃったの?」
「はい! 先生が顔をしわくちゃにして寝てるあいだに我ら白真弓商業高校は二回戦も僅差で勝ちました」
「てっきり一回戦で負けるもんだと‥‥‥」
「月島さんがすごいんですよ! 一人で五勝してしまうんじゃないかって感じで! 芹奈ちゃんも二試合とも満票獲得! のりちゃんとこあらちゃんは‥‥‥まあ、あれですけど。わたしも調子いいんですから! 大将戦で二勝ですよ、二勝!」
優乃が興奮気味に試合結果を教えてくれた。私は優乃の頭にポンポンと手を置き、パイプ椅子から立ち上がる。風邪はすっかり良くなっているようだ。
「決勝はやっぱ羽鳥川?」
「羽鳥川高校のレギュラーは全員三年生。一回戦も二回戦も全勝でした」
優乃が「最後に羽鳥川とあたるなんてなあ」と自信なさげにこぼした。
羽鳥川高校は県大会決勝の常連で、練習試合をした伊吹山高校のライバル校とも呼べる強豪だ。
顧問担当がおらず生徒が自主的に部活動をしていることでも有名だった。
「自主性だったらうちも負けてないよな」
私が再び周囲に目を向けて言った。
「放置してるだけでは‥‥‥まあ、月島さんたちは勝手に練習してますけど、野球を」
ばつを悪くした私は不機嫌にタブレットを眺めているこあらに口にする。
「こあら、決勝の台本は覚えてきたんだろうな?」
こあらは野球中継を見つめたまま首を横に振った。
「教わってないんご」
「え?」
「なんか、あれやろ。決勝はルールが違うって言うてたやんか。やから、わいにはまだ早いから覚えやんでいいって」
優乃が「あっ!」と驚きの声をあげる。
「こあらちゃんにソロ課題しか教えてないですよ!」
決勝まで残るなんて思ってもいなかったから、こあらにソロ課題だけ覚えればいいと教えたのは何を隠そうこの私の采配である。
「こあら、対話形式って分かるか?」
私はこあらの肩を掴んで言った。
「二人で同時にやるやつやん」
「他には?」
「知らん」
私はこあらからタブレットを取り上げて体を揺らす。
「今から覚えるぞ! とにかく、ボールドタイミングに合わせてセリフを読み上げればいいから」
「んごぉ〜」
「声優は芝居をすることが仕事じゃない。作品を作ることが仕事なんだ。とにかく、最後までやり切ればいいから」
私は冷めた頭を振り払い、さらなる一手を口にする。
「優乃、ちょっとでも時間が欲しい。こあらに大将、代わってもらえるか?」
「いいですけど」
優乃が大きく頷いて「わたしも手伝います」って言ってくれる。すると、隣で気を失っていた紀子がぐったりと立ち上がってこう口にする。
「あの、わたしも後ろにずらしてもらっていいですか‥‥‥ちょっとでも回復に時間をあてたくて」
頭をぐわんぐわんと揺らしながら紀子は焦点の定まらない目をして言った。
「じゃあ、優乃が中堅で、紀子が副将で、こあらが大将な」
私がそう言うと、紀子は一度頷いてからまたパイプ椅子に体を預けて気を失った。
月華と芹奈は‥‥‥まあ、ほっといても大丈夫だろう。
どんな理由があろうとも声優のせいで作品が完成しないなんてことあってはならない。
☆庵条陽子
総合体育館の観客席、嗚咽を漏らして手を握る彼女が「庵条さん、絶対に全国行って。応援してるから」と涙をこぼす。わたしは「うん、約束する」と返事をした。彼女は手を離し、「最後が庵条さんでよかった」と言い残し荷物を片手に去っていった。
まだ夏は始まったばかりなのに、わたしの二回戦の対戦相手の夏はこうして終わった。
わたしは重く苦しい余韻を感じながら観客席の割り当てられた席に戻る。
羽鳥川高校こえしば部の面々がわたしの言葉を待っていた。
「とりあえず、お昼にしましょうか」
一寸の狂いもない「はいっ!」が返ってくる。
試合に出られない二年、一年も緊張感を持って今日の試合に望んでいた。
わたしは通学バックから弁当を取り出し蓋を開けた。その時、ハンサムショートヘアーで目つきの悪い宇春がわたしの目の前に立つ。
「部長、相談がある」
中国で生まれ、親の都合で日本にやってきた宇春は角のついた日本語で口にする。
「わたしを先鋒にして欲しい。そのほうが、チームの勝率も上がるはず」
月島月華と誰が戦うのか? このことは試合前からわたしたちを悩ませていた。団体戦、チームが勝ったとしても、月島月華と対戦する者は自分の芝居を崩すかも知れない。彼女の芝居はそんな危険性を秘めていた。
わたしは宇春の瞳を見つめた。彼女の提案は決して自己犠牲からくるものではないと理解する。
「やりたいんだね、月島さんと」
「うん、あんな奴はじめてだ」
わたしは副部長の牧本沙織にアイコンタクトを送った。寝癖そのままのボブヘアーの沙織は「わたしは問題なしです」と手をひらひらさせる。
続いて、縦ロールのブロンド色の髪をしたグレース•ロックベルが「肉が裂け叫び響き渡る戦場を求めるわたしこと一振りの刀も悪くはない」と透き通った声色で言った。
立川希実は観客席の椅子の座面に半紙を敷いて、洗練された所作で筆を走らせる。書き終え、半紙に書かれた『冷静』のふた文字をわたしに見せつける。
「‥‥‥冷静に、いつも通りやれば相手じゃない。月島月華に惑わされなければいいだけ」
七三分けの丸メガネの希実がそう宣言すると、緊張感が少しだけ和らいだ。
「じゃあ、宇春が先鋒、わたしが大将で決勝は戦います。ご飯を済ませたら、二年と一年はレギュラーをサポートしてあげてね」
「はいっ!」
大丈夫、ってわたしは自分に言い聞かせる。いつも通りやれば絶対に勝てる相手だ。全国大会出場がわたしたちの目標だ。こんなところでつまづいて良いわけがない。
わたしは手のつけていない弁当の蓋を閉めた。
☆宇春
小学生の時、わたしのあだ名は『カタコト』だった。
親の都合で日本で暮らすことになったわたしは日本語が下手で馬鹿にされた。これが、わたしの『こえしば』をはじめた理由。
日本語を上手く話せるようになったら馬鹿にされないだろう。そんな後ろ向きな理由ではじめたこえしばだったが、いつの間に特別な競技になっていた。
特に羽鳥川高校こえしば部で過ごした二年半は死ぬまで忘れられない思い出になるだろう。まだまだ、日常会話に拙さの残るわたしの声の芝居を認めてくれて、レギュラーに抜擢してくれた仲間たちに恩返しがしたい。
総合体育館アリーナの舞台袖に立ち、わたしは柄にもない郷愁に胸が満たされていた。
「先鋒、羽鳥川高校宇春さん、白真弓商業高校月島月華さん舞台へ」
わたしは「はいっ!」と自分の限界を超えた大きな声で返事をした。月島月華に呑まれたらその時点で負ける。とにかく、不安を振り払うため声をあげる。
一歩、一歩、慎重に舞台へ上がっていく。向こう側にいる月島月華が視界に入る。月島月華はわたしに目もくれず、ウェブ配信用のカメラを見つめて自らの前髪に触れた。
ファンサービスのつもりか! わたしは苛立ちを覚える。スカした態度も、整った顔たちも、圧倒的な芝居も、どれも全部気に喰わない。
舞台のセンターに二本設置されたマイクの前に立つ。舞台下に簡易的に設置された空きのない観客席が異様な熱気を帯びていた。
観衆は月島月華の芝居を今か今かと待ち望んでいた。わたしはそんな観衆が醜悪に思えてままならない。
───勝つのはわたしだ!
「二十秒のマイクテストをします。月島さん準備はいいですか?」
主審の女性が月島月華に問いかける。
「いらない」
「分かりました。続いて、宇春さん」
「わたしも必要ありません」
「‥‥‥そうですか。それでは、地区予選決勝先鋒戦を開始します。演目『悪霊とエクゾシスト』お願いします」
主審の女性がノートPCを操作する。わたしはタブレットを目の高さに構えて、鼻から大きく息を吸う。
月島月華に目をやる。彼女はタブレットを持っていなかった。手を後ろに組んで、やはり配信用のカメラのレンズばかり気にしてる。馬鹿にしやがって!
目の前に設けられた小型モニターがカウントダウンムービーを映す。アニメが始まる。
「お前は自分が何をやっているのか理解しているのか? 存在そのものが悪ということも時にはある!」
わたしの演じるエクゾシストが十字架を片手に悪霊と対峙する。
「正義にも悪にもまるで興味がない! オレ様が欲しいのは人間の不幸だけさ」
小馬鹿にしたように揺らぐ悪霊に月島月華の声があたる。アニメの中の悪霊が何十倍も存在を巨大化させて、エクゾシストのわたしに襲いかかってきた。
わたしは悪霊に向かって必死に問いかける。
「何故、人間の不幸を望む? お前もかつて幸せを求めたただの人間だっただろう?」
わたしは演じながら日本語のアクセントを、文法を、漢字の意味を、成り立ちを必死に反芻する。日本語が下手くそな奴は論外だ。それは、わたしは身を持って理解していた。
───アニメは日本語で出来ている
日本語という言語で作られたアニメを日本語を蔑ろにする奴が作れるはずないのだから!
「フッ‥‥フフッ‥‥アーハハハッ! オレ様が幸せを求めただって? 笑わせてくれる! オレ様が生まれ死に悪霊になった今まで、普通を望んだことなどないわ!」
視界の端に映る月島月華はマイクの前から一切動いていない。にもかかわらず、躍動する日本語がわたしの鼻先にかすれて炸裂する!
「だったら私が教えてやろう。悪霊に堕ちたお前に人間の美しさを!」
「面白いことを抜かしおるわ‥‥だったら、逆にオレ様が人間の愚かさを教えてやろう、対魔師よ!」
次のセリフを備えて息を吸うと、何故か嫌な記憶が鮮明に蘇ってわたしの脳裏に浮かぶ。
───カタコトの話してることは分かりませーん
キャハハと手を叩く子供たち。わたしは言い返したくてたまらない。でも、また日本語を使えば馬鹿にされてしまう。わたしはスカートの裾を握って歯を喰いしばっていた。
悪霊がやってくる。端正に整った顔をした悪霊がわたしの肩を叩き、「ねえ、ねえ、殴っちゃおうよ」とそそのかしてくる。
暴力はダメだよ、どうして、だってダメだもん、言葉の暴力はいいの、よくない‥‥けど、じゃあ言葉で殴り返してやろう、汚い言葉は使っちゃダメだ、いいよ、え、いいんだよ、え、だってこれは‥‥‥
───ただの声の芝居だもの
「おのれ、悪霊! 私をたぶらかすつもりか!」
「失礼な! オレ様はお前を束縛から解き放ってやろうというのに!」
わたし自分の胸を力いっぱい掴んでいた。恨みが湧いてくる。かつてわたしを馬鹿にした奴らの顔が浮かんできて嘲笑いが聞こえてくる。
「誰が悪霊の言うことなんか聞くもんか! ええい、もうよい! お前なぞ、円環の理から追い払い───」
わたしはわたしを馬鹿にした奴らを日本語で思い切りぶん殴る。
───地獄へ送ってやろう!
「キャハ、キャハハッ! ドス黒い心が踊っておるわ! それでこそ人間よ!」
☆ ☆ ☆
「羽鳥川高校宇春さん0票、白真弓商業高校月島月華さん五票、月島さんの勝利です」
わたしは呼吸を乱して、ただただ結果を受け入れた。心がざわついている。こんな気持ち初めてだった。
「月島さん」
わたしは思わず口にしていた。
「‥‥‥なにか」
さっきの芝居なんてなかったかのように落ち着いている月島月華がこちらをのぞきこむ。
「あの‥‥‥わたし、どうだった?」
「日本人じゃないでしょ?」
「うん、中国人」
「中国語だったらいい勝負だったかも。わたし、中国語話せないし」
「中国語か‥‥‥しばらく使ってないなあ」
舞台から降りると、次鋒の希実が半紙に書かれた『冷静』のふた文字を見せつけてくる。希実は普段と変わらない淡々とした口調でこう口にする。
「わたしは書道をやっているから、この程度じゃあ心が乱されない」
「あぁ、あとは頼むわ」
わたしと希実は手のひらを交わした。
パイプ椅子に戻ってくると、みんなが拍手で迎えてくれる。わたしは適当に相槌をうって、椅子に座りうなだれた。誰にも顔を見られないようにして、口元を両手で覆い隠す。
グレースの声が聞こえる。
「勝利の女神が微笑んだら究極神滅形態で全てのフロイデを表現しましょう」
部長の陽子がすかさずツッコむ声が聞こえる。
「その心は?」
「希実が勝ったら全力で喜びましょう。声を出して、全力で」
「うん、すごくいいと思う。みんな、絶対に勝つからね」
「はいっ!」
わたしは仲間に申し訳なさを覚えていた。わたしが負けてしまったせいで、流れが、空気が悪くなってしまったのだ。しかし、わたしは顔を上げることも、謝罪を口にすることもできない。
何故なら、両手で隠したわたしの口角は釣りあがっていて、笑いを堪えるのに精一杯だったから。
月島月華とやった声の芝居はめちゃくちゃ楽しかった。
☆中田紀子
わあっ! とわたしの耳に歓声が届き、目を覚ますと平村部長が「負けちゃった」と後ろ髪に手を当てながら戻ってくるところでした。
わたしは周りを見渡し、状況を把握することに努めます。隣の席に月華さんがいました。
「月華さん、どういう状況ですか?」
かじりつくようにタブレットを睨みつけている月華さんにたずねます。
「あ、紀子。柿本さんが全然、わたしの話してくれないんだけど」
「え? 配信見てるんですか」
「そう。司会の三流声優ばっか喋って、柿本さんに話振らないんだけど。どういうこと?」
「それは番組の都合としか‥‥‥」
「のりちゃんの番だよ!」
舞台下にいる平村部長がおいでのジェスチャーでわたしを促しました。
「え? あ、はい」
わたしはパイプ椅子から立ち上がりました。午前のような立ちくらみはありません。もちろん、本調子から程遠いですけど。
わたしはゆっくりと歩みを進めて、平村部長の元へ辿り着きました。
「もう大将戦が終わったんですか?」
「ううん、月島さんが勝って、芹奈ちゃんが負けて、わたしも負けて、一勝二敗」
「え? 部長が中堅なんですか?」
「覚えていないの? のりちゃんが副将でこあらちゃんが大将に変更したよ」
「‥‥‥そうですか」
わたしはタブレットを取り出し、副将戦の課題アニメを確認しました。台本は頭に入っています。役作りは‥‥‥まあ、なんとかするしかありません。
わたしは月島先生の方へ目をやりました。
「先生、わたしどうすればいいですかね」
月島先生はこあらさんの耳元で呪詛のように課題アニメのセリフを囁いていました。反対側から真田さんも同じように念じています。月島先生はわたしに気付くと、素っ頓狂な顔をしてこう口にします。
「あー、マイクの立ち位置一歩前な。紀子はいつも遠いぞ」
「それだけですか?」
「ふぁいと」
わたしは頼りにならない顧問の先生に失望を覚えながら一息つきました。
「副将、羽鳥川高校グレース•ロックベルさん、白真弓商業高校中田紀子さん舞台へ」
どうやら本当にわたしの番がまわってきたようです。なんで誰も起こしてくれなかったのでしょうか。
‥‥‥というか、グレースさんってあのグレースさんですか?
昨年の県大会個人戦準優勝にして全国大会でも三回戦まで進出したグレース・ロックベルさん。声優雑誌のこえしばの特集ページにも掲載されていた有名人です。
わたしは戸惑いを覚えながら舞台へと上がり、マイクの前に立ちました。
恐るおそる隣のマイクへ視線を向けると、異国の女の子が立っていました。グレースさんはわたしと目が合うとニコリと微笑みかけてきます。
本当にあのグレースさんじゃないですか!
日本のアニメが好きすぎて親の反対を押し切り単身留学して、こえしばをやっているグレースさん。ブロンドの縦ロールに抜群のスタイル。こえしばで見た目は採点対象外ですが、コスプレや露出を禁止している時点で、見た目も採点に少なからず影響があると言えます。
わたしは彼女の隣に立って理解しました。グレース・ロックベルさんは勝つためなら自分の見た目すら平気で利用できる猛者であるということを。
わたしがわなわなと震えていると、グレースさんが語りかけてきます。
「ルビカンテのように振る舞いましょう、漆黒の少女よ」
「は、はいっ! よろしくお願いします」
ハリウッド女優のように前髪をかき上げて、グレースさんはタブレットを手にしました。ちょっとした仕草でさえ観衆を魅せる洗練さを感じます。
主審がマイクテストをグレースさんに伝えました。グレースさんは「お願いします」と返事をし、大きな胸を揺らして、観衆にウィンクを飛ばします。
「この世に禁じられたアカシックコードへアクセスし『シン』の守護者ら。今宵、終わりの始まりを暗黒のレコードに刻み、クリスタルの導きに我ら未来を託しましょう」
場内から拍手が湧きました。マイクテストは原則、自由に使っていいことになっています。とはいえ、マイクテストという名の通り、本来はミキサーさんへ「このぐらいの声量で芝居しますよ」という確認だったり、スピーカーの跳ね返り具合などを確かめる作業です。
グレースさんのように観衆を湧かせるようなマイクテストは褒められたものではありません。月華さんみたくマイクテストしないというのもミキサーさん泣かせではありますが。
わたしはそつなくマイクテストをこなしました。観客席が退屈そうな息を漏らしましたが、競うのはマイクテストではなく声のお芝居です。わたしはマイクテスト屋さんになりたいのではありません。声優になりたいのです。
「地区予選決勝副将戦を開始します。演目『十二時と十八時の拳闘士』お願いします」
主審がそう宣言すると、わたしの目の前の小型モニターがカウントダウンムービーを流します。
わたしは肩の力を抜いて、頭を空っぽにすることに集中します。結局、声の芝居は本番で考えることなんてほとんどありません。本番までにどれだけ演技について考えたか、どれだけ練習したか、どれだけ悩んだかです。
───考えるまでもなく口から出た芝居が面白い演技です
と理解はしていますが、なんせわたしは副将をやると思ってもみなかったので、今は考えて声のお芝居をしなくてはなりません。
わたしの演じる十二時の拳闘士は真面目で勤勉な少女です。紙吹雪が舞うコロッセオ、十二時の拳闘士は拳を突き上げて自らを鼓舞します。
「努力に勝るものはなし!」
わたしは咽せそうになってしまいます。月島先生の風邪はなかなか厄介です。
グレースさんの演じる十八時の拳闘士は派手で目立ちたがり屋な少女です。腰をくねらせながら舞を披露します。
「全ては才能がものを云う!」
闘技場の中心で十二時と十八時が対峙します。隣のグレースさんが目配せを送ってきました。観衆がざわつきます。わたしもグレースさんの魅力に惚れてしまいそうになりますが、これはこえしば。パフォーマンスを競うわけではありません。
しかし、十八時の拳闘士とグレースさんの一体感がアニメを面白くしているのも確かです。わたしは彼女の魅力をもっと引きだしたらアニメがどうなるか気になってしまいました。
「(怯えながら)十八時の拳闘士、なぜ鍛錬を怠る? (悔しい)貴様ほどの実力があれば、(歯を喰いしばって)英雄にもなれたであろう」
わたしは一歩引下がりました。こえしばの課題アニメは登場人物の会話が対等になるように緻密に計算されて作れていますが、こうして感情を刻むことで駆け引きを生みます。
グレースさんは腰に手を当てて自信満々にセリフを口にします。
「(ニヤリと微笑み)わたしほど才能に恵まれた拳士に努力など必要ない! 十二時の拳闘士、(哀れみを浮かべ)無駄な努力に勤しみ悲しくならないか?」
───わあ、この人上手い
わたしは素直にそう思いました。『十二時と十八時の拳闘士』は真面目で勤勉な少女と派手で目立ちたがり屋の少女が相手を負かすために張り合うように演技をするのがセオリーと言えます。
わたしの刻んだ感情はセオリーから外れた『相手を敬う』というものでした。
それに対してグレースさんは『さらに前に出てくる』芝居で返してきました。
これは役作りができていないと絶対にできない演技の切り返しです。セリフとボールドの位置を覚るだけでは、相手の予期せぬ芝居に合わせることはできません。
プロのアニメの収録現場でもベテラン声優さんに混ざった一人の新人声優が突拍子のない変な芝居をして、アフレコが荒れるのは珍しいことではありません。
そういう時、台本に正解は載っていないものです。
台本から目を離し、マイクの一点を見つめて、何も考えずに生まれた芝居を演じることが『役作り』だと、わたしは師匠から教わりました。
「(グレースさんすごいです!)努力は‥‥‥裏切らない! 今日こそ貴様に(勉強させていただきます)引導を渡してやろう」
「(ありがとう!)返り討ちにしてやる! (さあ、楽しいアニメの時間よ!)十二時よ、かかってこい!」
「(たわわな胸お借りします)行くぞっ、十八時!」
十二時と十八時の拳闘士は闘技場で拳を交わします。時の罵り合い、時に讃え合い、わたしとグレースさんはアニメを作ります。
芝居の終盤、わたしはふと月島先生のアドバイスを思い出しました。
『マイクの立ち位置一歩前な』
わたしは自分の足元を確認しました。確かにマイクスタンドから少し離れているような気がします。
十二時の拳闘士が拳を振り抜く動きに合わせて、わたしは一歩前へと踏み出しました。
「ずっとお前のようになりたかった!」
会場の視線が集まるのを感じました。
───わたし、なにかしちゃいましたか?
☆ ☆ ☆
「羽鳥川高校グレース・ロックベルさん二票、白真弓商業高校中田紀子さん三票。中田さんの勝利です」
観衆のざわめきはゆっくりと伝播していき、行き場のない戸惑いは誰かのまばらな拍手を生み、それがまた伝播してアリーナは中途半端に手を叩く音で満たされました。
その拍手はわたしに向けられた称賛というより、グレースさんに向けられた哀れみでした。
結果を聞き、両目を閉じていたグレースさんがゆっくりと顔を上げてわたしを見つめこう口にします。
「絶望なまでのこの悲しみ‥‥‥勝利に酔いしれたかった」
わたしは幼い微熱を感じながら丁寧な口調で返事をします。
「遥かなる彼方において神より与えられし加護が良かった」
「あ、それって」
「はい、わたしもノムリッシュ語録使いです。グレースさん、ありがとうございました」
「ありがとう、ございました」
舞台から降りると月島先生と真田さんと平村部長がこあらさんを囲んでいました。
わたしは見慣れた光景にホッと肩の力が抜けると、あのグレース・ロックベルさんに勝ってしまったという実感が湧いてきました。
「えっと、みなさん‥‥‥わたし、勝ちましたよ」
わたしはこの瞬間が現実かどうかの判断がつきません。
「あーっ、紀子あとにしてくれ」月島先生がこあらさんの耳を塞ぎます。「もう一回頭から入れとく?」真田さんがタブレットを振り回します。「こあらちゃん、リラックスだからね」平村部長が大きく頷きます。
「んごぉ〜」
こあらさんはそう言い残して、舞台へと上がっていきました。
わたしはなんだか疲れてしまい、月華さんの隣に腰を落ち着かせました。そしたら、いきなし月華さんに手の甲をつねられてしまいました。しかも、けっこう強めです、赤くなるぐらい!
「痛いですって! どうしたんですか?」
月華さんが切れ長の瞳で睨みつけてきます‥‥‥え、なんか本気で怒っているんですが。
「柿本さんが紀子のこと褒めてた。どういうこと?」
やたらと柿本監督を話題にあげる月華さんの真意なんてわたしにわかるはずもありません。
わたしは波風立たぬようにこう答えます。
「番組の都合ですよ‥‥‥たぶん」
つねられた手の甲の痛みだけが夢じゃないって教えてくれました。
☆庵条陽子
上唇を噛み、ボロボロと涙を流すグレースにかける言葉はなかった。
「勝ちたかったぁ‥‥‥うぅ‥‥」
すれ違いざま、グレースの弱々しい声を耳にしてわたしの足の感覚がなくなっていく。
名前が呼ばれ舞台に上がる準備をする。すがるように仲間へと目を向ける。奮い立たせるつもりだったのに、仲間たちの「もしかしてこのまま負けてしまうんじゃ」という絶望の表情は、わたしの心臓を掴むには十分過ぎた。
グレース・ロックベルは間違いなく羽鳥川高校のエースだった。だから、あえて副将に配置することでチームの勝率を上げようと算段立てた。それが、まさか逆効果になるとは‥‥‥。地区予選のトーナメント表が配布された時から月島月華の白真弓商業高校と決勝であたることは予測していた。
誰が月島月華に負けるのか。問題はこれだけだった‥‥‥はずだった。しかし、グレースが敗れたことで、団体戦のスコアは二対二。大将戦までもつれ込んでしまった。
感覚のない足を引きづりながら舞台へと上がる。マイクの前に立つと、野球部のユニホームに学校指定のジャージを羽織ったヘンテコな女の子が唇を尖らせてやってくる。
松野こあらさん。一回戦、二回戦、リテイクにより途中降板させられた野球部(?)の女の子は変な女の子が集まるこえしば部の大会の中でもダントツで変な女の子だった。
月島月華もグレース・ロックベルも変な女の子だが、松野こあらの変具合は群を抜いている。格好や言動だけじゃなく、存在感というか醸し出す雰囲気というか。グレースが声優になるために必死で作ったキャラクターはしょせん養殖で、松野こあらは完全な天然なのであった。
今でも、いきなり野球ボールを取り出し、リンゴみたいに噛んで主審から「ボールを持ち込まない。リテイクにするよ?」と怒られている。
全く意味が分からない。わたしはそんな女の子とこれから声の芝居で戦い、絶対に勝たなくてはならない。
───勝たなくてはならない
声優に憧れて声の芝居をはじめた時、わたしは芝居に勝ち負けをつけられることがすごく嫌だった。
わたしは声優さんが好きで、お芝居がしたいだけなのに、なんで競わないといけないのか。
みんな好きな芝居をして、みんな声優になって、みんな演じたいキャラクターをやって、お金をもらってチヤホヤされたらいいのに。
わたしが声優になれないことなんて十分理解している。もう高校三年生‥‥十八歳。夢見る少女じゃいられない。グレースの応援で行った全国大会では、見た目も演技も才能も‥‥‥そして、ふるいにかけられる覚悟を持った少女たちが何百人といて、その中でプロの声優になれる子は十人もいない。
昔、芝居を評価をすると声優さんが可哀そうだから優劣をつけるのをやめた時代があったらしい。声優暗黒期と呼ばれ、グラビアアイドルや芸人崩れやYouTuberがこぞって声優になって、何百というアニメが殺された。
イベントで集められる客の数が声優の評価で、芝居を本気でやっているのは年寄りだけだった。
そんなあったかどうかも分からない暗黒時代。こえしば時代の今では想像もできないけど、声優さんが好きだからこそ堂々とこう言える。
───勝たないといけないんだ
マイクテストで乾いた唇をリップロールで震わせる。強烈な視線を感じてそっちをチラ見すると、わたしのリップロールを松野こあらが目を見開いてのぞき込んでいた。
この生き物にとってリップロールは珍しいことらしい。わたしは発声と早口を手短に済ませて、最後にアゴ関節を大きく動かした。
心臓が爆発するぐらい鳴いている。これで負けたら引退‥‥‥わたしだけの引退ではない。レギュラーメンバー全員の引退だ。絶対に勝たなくてはならない。
わたしがマイクから一歩下がると、今度は松野こあらがマイクテストを始める。
プルルルルルルルルルルルルルル‥‥‥‥
ほんとっ何を考えているのか。松野こあらはマイクテストの二十秒間、途切れることなくリップロールだけをやった。主審に制止されるまで続けたので、三十秒ぐらいやっていた。
観衆から呆れ笑いがこぼれる。わたしも観客席から松野こあらを眺めていたら、どれだけ気楽だっただろうか。きっと、くすくすと笑って、眠る前に思い出し笑いをしたことだろう。
松野こあらがわたしにドヤ顔を向けてくる。グレースのようにマイクテストから仕掛けてくる子はいるが、リップロールで戦いを挑んでくる子は初めてだ。
嫉妬するぐらい変な奴。
「地区予選決勝大将戦を開始します。演目『擬音くん』お願いします」
『擬音くん』は効果音を声セリフで表現した特殊なアニメだった。歩き足音だったら「てくてく」走り足音だったら「タタタ」手をあげる時は「さー」頭を下げる時は「ぺこり」
慣れ親しんだセリフのタイミングボールドと違って、効果音にもボールドが表示されるため、タイミングが非常にとりづらいアニメだ。
絵本に出てくるような二等身キャラクターが画面フレームの外からやってくる。松野こあらが唇を尖らせてセリフを口にする。
「ポテポテポテ」
えっ!? 何その足音!? これだから素人は‥‥‥。
「ムービー止めてください」
主審の女性が手を交錯させるとムービーが停止する。わたしは呼吸を整えながら、このまま松野こあらが三回リテイクで降板してくれることを祈った。
「庵条さん、セリフ飛ばし。リテイク一回ね。モニターに集中して」
「はあ? なんでわた‥‥‥しのリテイクなんで‥‥‥‥すか! 松野さんの変な足音がリテ‥‥‥イク対象じゃなくて?」
主審は目を細めて、台本の表示されたタブレットをわたしに向けた。
擬音くんA「(かわいい足音でやってくる)」
「これが‥‥‥どうしたん‥‥‥ですか?」
わたしが問いかけると、主審は平然と答える。
「松野さんのセリフはかわいい足音でしたよ。その後にやってきた擬音くんBのセリフを飛ばしたことに対してのリテイクです。いいですか?」
「いや、普‥‥‥通『ポテポテ』なん‥‥‥て足音あり‥‥‥えないじゃ‥‥‥ないですか!」
「アニメは普通ありえないんですよ。庵条さん、リラックスして。もう一度、頭からスタートしますから」
わたしは苛立ちを覚えながらモニターに振り返った。視界の隅に映る松野こあらが不安そうな顔でわたしを見つめていた。不安なのはわたしだ! 素人のとんでもない演技に合わせるのはプロだって難しい。
またアニメがスタートする。擬音くんがフレームの外からやってくる。
擬音くんA「ダバダバダバ」
さすがにこんな足音が許されるはずない!
アニメが停止される。主審がわたしの近くにやってくる。早く、松野こあらにリテイクをだしてよ。
「庵条さん、落ち着いて。しっかりと息を吸って」
「はあ? なんで‥‥‥わたしが‥‥‥落ち着かないと‥‥‥」
手からタブレットが落ちる。板の上で滑っていく。わたしは拾おうとして膝を曲げる。足の感覚がない。何故か地面が迫ってくる。痛い、痛い。
「庵条さん、大きく息を吸って」
主審の声が遠くなっていく。
「なんで‥‥‥わたしが‥‥‥わたしが‥‥‥」
主審の叫び声が聞こえる。
「過呼吸起こしてます! 救急車を手配してください」
「違う‥‥‥わたしは‥‥‥本当はこんなんじゃあ‥‥‥」
意識が消失に近づく霞がかった向こう側で松野こあらが心配そうにわたしを見つめていた。
「あぁ‥‥‥ごめんなさい‥‥‥アニメ作らないといけなかったのに‥‥‥自分勝手にやめちゃって‥‥‥」
「もう話さなくていいから。ゆっくり息を吸って」
「‥‥‥ごめんなさい」
意識の消失とともに羽鳥川高校の夏は終わった。
☆月島月華
「ただいま」
玄関で靴を脱ぎ捨て、リビングのソファに体を投げ捨てる。
すぐにエプロンで手を拭きながらお母さんがやってくる。
「どうだった?」
「別に普通」
「普通って‥‥‥お母さん、会場にいたの気付いた?」
「へえ、いたんだ」
お母さんはムッと頬を膨らませてからソファに腰かけて、わたしの髪の毛に触れた。
「中田さんとこあらさん、本当に残念な女の子でお母さん驚いちゃった」
「でしょ? あいつらわたしがいないと何もできないんだから」
「琥珀って先生やれてるの? なんか、ずっと寝てたように見えたんだけど」
「さあ? 公務員だから寝ててもいいんじゃない」
「そっか。先生っていっても公務員だもんね」
「公務員は仕事しなくても決まったお金もらえるから、お姉ちゃんに合ってる」
「公務員は琥珀の天職だったんだね。すぐ晩ご飯にするから」
お母さんはそう言って立ち上がり、キッチンへと戻っていった。
「県大会出場おめでとう」
キッチンから声が聞こえて、わたしは「別にー」と言い返した。
柿本さんは県大会でもわたしの芝居を見てくれるだろうか。
わたしは財布の一番奥に大事にしまった柿本虫可の名刺を取りだした。
名刺を眺めるだけで、心臓が早くなってしまう。
わたしはいろんな角度から名刺を眺めて、自分の心音のリズムを楽しんでいた。そしたら、名前の裏側にQRコードが記載されていることに気付いた。
『連絡はこちらから』
わたしは勢いよく体を起こしてスマホにQRコードを読み込ませた。柿本さんのメールアドレスが表示される。わたしはフリックを繰り返して、メールの本文を打ち込んだ。
『今日、助けてもらった月島月華という者です。直接お礼したいのですが会ってくれませんか?』
送信ボタンをクリックする。十秒もしないうちに返事がかえってくる。
『いいよ』
二人以上で声の芝居をする時、相手がとんでもない演技をすることがあります。さあ、声優の腕の見せ所です。相手にのっかてとんでもない演技で返して、一緒に監督さんに怒られてみましょう。ボールドに合わせて台本を読み上げているだけの声優には絶対できない高度な声の芝居の技術です。演技をするより、演技を聞いて合わせることのほうが難しいのです。僕は他人の話を聞きません。